ひからびん通信

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中岡慎太郎と坂本龍馬の連鎖と相反

2010年03月27日 | 歴史
 中岡慎太郎は,龍馬とともに慶応3年11月15日(1867年12月10日),京の近江屋において密談中,京都見廻組の佐々木只三郎らの襲撃を受けて斬殺されているが,中岡と龍馬は同じ土佐の脱藩志士であり,薩長同盟に尽力するなど共通する側面を有しながら,その革命家としての資質は中岡が激情的かつ刹那的な武力討幕派の思想家であったのに対し,龍馬は利害対立を交渉で解決しようとする実利型の平和主義者であった点で大きく相違していた。
(中岡の軌跡)
 龍馬についてはすでに多くの人により語られているので,まず中岡がどんな人物で何をしてきたのかを振り返ってみる。
 中岡は天保9年(1834年)4月,高知県安芸群北川村柏木(北川郷柏木村)に大庄屋の中岡小伝次の長男として生まれた。中岡は幼少のころから学問に親しんで四書を学び書道にも才を顕していた。龍馬よりは3つ年下であった。
 
 ペリーが来航した安政元年(1854年)の翌年,高知城下にしかなかった藩校が初めて群でも設置されるようになると,中岡も田野学館に入学し,清岡道之助ら多くの勇士と交遊するようになる。しかし清岡は,その後勤皇志士として苛烈な思想に傾倒し,元治元年(1864年)7月,配下の門弟ら23名を従え岩佐番所を本陣にして挙兵する(野根山二十三士殉節)が,鎮圧されて斬首されている。

 中岡は20歳のとき,父小伝次の死去に伴い北川郷大庄屋見習いとなり,安政元年と2年の大地震や風水害の際には村の復興に奔走し,文久元年(1861年)8月,24歳のとき,武市半平太の土佐勤皇党に加盟し,10月には,五十人組(三条実美が勅使として江戸に下る際の警護部隊)に参加,さらに11月には江戸で久坂玄瑞や佐久間象山とも交流した。
 そのころ中岡は久坂との交流を通じて吉田松陰の影響を強く受けるようになり,亡き松陰を終生尊敬し,その教えを行動の指針とした。



 しかし文久3年(1863年)京で「八月十八日の政変」が起き,土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する弾圧が始まると,土佐藩を脱藩して長州藩に亡命し,長州の三田尻(現防府市)に逃れていた三条実美の隋臣となって各藩の志士との連絡役を務め,脱藩志士らの指導的役割を担った。
 その後中岡は元治元年(1864年)上京して長州藩邸に入り高杉晋作,久坂玄瑞らとともに活動し,薩摩の島津久光の暗殺を画策するなどした。さらに同年6月京を追放された長州が失地回復のため京で武力行使に及ぶが敗走するに至る禁門の変にも参加し,8月には四国連合艦隊の下関攻撃に対しても忠勇隊として出陣している。

(尊王攘夷からの飛躍,薩長同盟)
 このようにそのころの中岡の活動は,教条主義的な尊王攘夷の武闘派そのものであったが,幕府や薩摩による長州への弾圧や無益な主導権争いを目の当たりにし,次第に尊王攘夷論から雄藩連合による武力討伐論に傾斜していく。
 そしていち早く雄藩である薩摩と長州の協力関係の必要性を悟り,薩長同盟締結のための活動を竜馬とともに始めるようになるが,これが中岡の革命家としての真骨頂と評価できる。
 まず中岡は,同年11月馬関に筑前(福岡藩)の早川養敬を訪ねて薩長同盟の必要を説き,12月には幕府による長州征伐に伴い三条実美ら公卿が太宰府に移されることになると,小倉で西郷と会見して公卿の移転条件などを交渉した(これが実質的な薩長同盟の開始であると考えられている)。
 さらに下関で西郷と高杉晋作との会談を実現させ,翌慶応元年(1865年)1月には,長府で高杉や山縣有朋と会談し,2月には長州藩勇士に対する薩長和解の必要性を説き,京の薩摩藩邸にも出入りし,4月,下関で村田蔵六(大村益次郎),伊藤俊輔(伊藤博文),桂小五郎らと面談し,さらに強く薩長和解の必要性を説いた。

 また中岡は5月薩摩に入ると西郷に下関で桂と会談することを了解させ,西郷と共に胡蝶丸に乗船して薩摩から上京の途中,長州に立ち寄り桂と会談させることとした(しかし西郷は,これをドタキャンしてしまい桂との会談には至らなかった)。

 しかし中岡は諦めず,6月龍馬と共に京の薩摩藩邸に滞在して薩長和解の策を練ったり,後に陸援隊に加入する土佐藩士田中顕助とともに京より長州に向かい改めて諸隊に薩長和解の利害を説き,その後も京,長州,太宰府などを拠点に奔走した。

 そして龍馬との連携の下,薩摩には長州から兵糧を提供し,長州には薩摩名義で購入した武器を調達させるなどの交渉を重ね,翌慶応2年(1866年)1月,中岡,龍馬の尽力により京の薩摩藩邸において悲願の薩長同盟を実現させた。

(薩長同盟後の活動,薩土同盟,陸援隊の組織)
 中岡は薩長同盟の橋渡しに留まらず,板垣退助と西郷を会談させ,薩摩と土佐の密約(薩土密約)を実現し,さらに土佐藩を討幕活動に本格的に取り込ませるための運動を展開し,慶応3年(1867年)6月,京で薩摩の小松帯刀,大久保一蔵(利通),西郷,土佐の後藤象二郎,乾(板垣)退助,土佐藩参政福岡孝弟らとの間で,佐幕・王政復古実現のための薩土盟約を正式に締結させ,7月には土佐藩傘下の陸援隊を組織化した。

 このように中岡の活躍は後世龍馬ほどには注目はされなかったが,目覚ましいものがあり,薩長同盟の真の功労者は中岡であったともいえる。
 ただ中岡の思想と行動は,西郷や桂らと同様,あくまで武力による幕府の打倒を目指すものであり,薩長同盟はそのための手段でしかなかった。


(龍馬と中岡の方向性の相違)
 これに対し龍馬は薩長同盟は,倒幕のための軍事同盟という側面よりも,薩長という強力な藩を結びつけ,この政治勢力を背景にして幕府に権力行使の譲歩を迫ろうとした。
 龍馬が薩長同盟の先に見据えていたものは,アメリカ合衆国型の議会制に類似した民主主義体制を念頭に考えていたのであり,血で血を洗う武力革命により幕府を倒して封建体制を終焉させようとしたのではなく,天皇の下に幕府と他藩の力を均衡させ,諸藩の合議制によって政治決定を行う体制を想定した。
 
 龍馬は,慶応3年(1867)1月13日長崎でそれまで仇敵だった後藤象二郎と手を組み,横井小楠に影響を受けた船中八策(新政府綱領八策)を後藤に説いて,大政奉還を土佐の藩論にさせ,薩摩の穏健派小松帯刀とも連携し,山内容堂をして大政奉還(幕府は政権を朝廷に返上し,その後二院を置くことが記されている)の建白書を老中板倉勝静に上程させたのである。

 しかし中岡は,龍馬が後藤や小松帯刀と連携して穏健な革命を進めようとしていたころ,軍事同盟である薩長同盟をさらに拡大させるため西郷らと連携して薩土同盟の締結に尽力し,大政奉還論には関心を示さず,龍馬と中岡の方向性は相容れないものになっていた。

 龍馬は,結局土佐藩の佐幕的な体質を排除できず,これを受け入れた上で,幕府に大政奉還を決断させ,天皇の下にあって幕府を含めた諸藩が協力体制を維持して政治を行うという平和的な権力移譲方式を選んだのである。

 しかし,このような龍馬の描いたシナリオは理想主義に過ぎるものであったと言える。幕府と薩長を同じ天皇の臣下としても対立が生じることは必然であり,まして船中八策では,雄藩の筆頭に幕府を位置づけるというものであったから,薩長がこれに従うはずもなかった。
 大政奉還後の幕府と薩長の対立を龍馬自ら裁定し,取りまとめようと考えていたのかもしれないが,その実現はとても適わなかっただろう。

(大政奉還の位置づけ) 
 大政奉還が実現し,無血の政権移譲が形の上ではなされたものの,そのころ薩長の画策による倒幕の密勅が密かに下されていたのであり,大政奉還は初めから有名無実化していた。
 そして大政奉還の約1ヶ月後の1867年11月15日,龍馬と中岡は近江屋で暗殺されてしまった。二人が死の直前,大政奉還後の政治プランについてどんな議論をしていたのか知ることはできない。
 なお,大政奉還をめぐる路線対立から,龍馬暗殺の黒幕は西郷でないかという異説が登場するが,討幕派の中岡も暗殺されていることの説明が付かないから,およそ根拠はない。

 結局武力による討幕運動は歴史の必然であったから,大政奉還の持った政治的な意味はそれほど大きくはなかった。大政奉還は,薩長に主導権を取られそうになった佐幕派の土佐藩が,幕府に対する恩顧の念を捨てきれないまま及んだ自らの失地回復のための行動であり,それに助力したのが龍馬の穏健路線だったのである。
 しかし龍馬と中岡の死後,討幕の勢いは鮮明さを増し,土佐藩も,薩長の後追いをするようにして討幕活動に参加を余儀なくされていく。

(龍馬が目指したもの)
 龍馬は新政府内に入ることを拒んでいたとされているが,薩長中心の政治体制の下では政治基盤の弱い土佐出身の龍馬が果たしうる役割の限界を感じていたのかもしれない。

 翻って龍馬は大政奉還による平和的な権力移譲により,その後天皇中心の民主国家が存続できると考えていたのだろうか。
 龍馬はいつも闘争の渦中に身を置かず,人を斬ることもなかった。龍馬は対立を好まず話し合いで問題を解決しようとする協調型の人間であり,それは龍馬の魅力でもあるが,どうしても甘さを感じてしまう。
 龍馬がヨーロッパの市民革命やアメリカの独立運動が凄惨な血の革命を経て成し遂げられたものであることをよく理解していたのかは疑問である。
 むしろ龍馬よりも中岡の行動やそれに影響を与えた吉田松陰の思想の方が明治維新の礎となったものといえるのではないだろうか。
 最後に中岡慎太郎の北川竹次郎宛てた手紙の中には
      志とは目先の貴賎で動かされるようなものではない
      今賤しいと思えるものが明日は貴いかもしれない
      君子となるか小人となるかは家柄の中にない
      君自らの中にあるのだ
という言葉があるが,今でも胸に落ちる名言といえる。