「坂の上の雲」が最終回を迎えた。ラストの連合艦隊とバルチック艦隊との日本海海戦の死闘は見応え十分でした。
このドラマの登場人物の一人秋山真之は,日本海軍史上,傑出した戦略家・戦術家として海上作戦の天才とも称せられるが,真之の勉強方法も実は,現在と同じ過去問研究によるものが中心だったようだ。
真之は,明治元年(1868年3月20日),家禄わずか10石取りの松山藩士の父平五郎と母貞の5男として生まれ,極貧とも言える家庭に育ちながら,勉学に励み立志した人物であり,日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古は,真之の実兄である。
その後,真之は,政治家を志して上京し,東京帝大の受験準備のために共立学校(現在の開成高校)に入学して東京帝大進学を目指すが,進路を変更し,兄と同じく軍人となるため,海軍兵学校に進んだ。
海軍兵学校を首席で卒業した後は,米国にも留学し,軍事思想家のマハン大佐に師事し,米西戦争では観戦武官も務めた。
なお,米西戦争では,アメリカ艦隊がスペイン艦隊をキューバのサンチアゴ港に封じ込める作戦を行ったが,これを見分したことが後の日露戦争におけるロシア太平洋艦隊に対する旅順港閉塞作戦の元になったことは有名である。
真之は,帰国後,海軍大学校の教官になり,その後連合艦隊参謀として,日露海戦の作戦主任に抜擢される。
そして真之は,上記の旅順港に停泊するロシア太平洋艦隊を港内に封じ込める作戦のほか,日本海海戦におけるバルチック艦隊に対する大回頭(東郷ユーターン),丁字戦法,7段構えの3段からの攻撃計画などと提起し,これを東郷が採用することにより,日本海軍を圧倒的な勝利を導いた。
連合艦隊の参謀長で,真之の上司で逢った島村速雄も,「日露戦争の海上作戦はすべて真之の発案によるものであり,錯綜する状況をその都度総合統一して解釈する才能には驚くべきものがあった。」などと述懐している。
真之は,目で見たり,耳で聞いたり,万巻の書を読んで得た知識を,それを蓄えるというより不要なものを洗い落とし,必要なものだけを蓄積して,事あればそれが縦横無尽に駆使できるという能力を備えていた。
また,史記を始め,戦国武将の信玄や謙信の戦術,さらに瀬戸内の海賊村上水軍に至るまで可能な限りの戦術研究を行った。
ところで,このように天才と呼ばれる真之の勉強方法は一言で言うと要点主義と過去問研究に尽きるといえるだろう。
要点の発掘方法は,過去のあらゆる型を調べることだった。海軍兵学校時代の試験対策も,授業で教えられる事項の重要度に順序をつけ,出題教官の癖を加味して,重要度の低い事項を大胆に切り捨てる方法を取っていた。
真之が,同郷の後輩に,過去5年間の海軍兵学校の試験問題集を譲り渡し,その際,「人間の頭に上下などない。要点をつかむ能力と不要不急のものは切り捨てる大胆さが重要であり,したがって物事ができるできないというのは頭ではなく性格だ。」と語ったことは,「坂の上の雲」の中でも取り上げられている。
このように,真之は,妙案が泉のようにわき出てくる頭脳を持っているというより,過去の事例や先人の知恵を知り尽くし,その要点を条件反射のごとく現場の事例に当てはめて応用できる能力に傑出していたと言えるのだろう。
「ひらめく」ということはそういうことなのだろう。
現在の高校,大学の受験勉強,資格取得試験,司法試験等すべての勉強方法は,重要事項の要点把握と過去問研究が重要であることは広く知られるところだが,真之は,遠く昔の時代にすでにそれを体得していた受験の神様であったとも言える。
現在のエリート教育の原型を見るようだ。
なお,真之は,いわゆるエリート型の天才と言えるが,一方,明治期には無学の天才も多く登場し,日本の存亡の危機を救った。
その一人が児玉源太郎だが,児玉については,日を改め紹介することとする。
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このドラマの登場人物の一人秋山真之は,日本海軍史上,傑出した戦略家・戦術家として海上作戦の天才とも称せられるが,真之の勉強方法も実は,現在と同じ過去問研究によるものが中心だったようだ。
真之は,明治元年(1868年3月20日),家禄わずか10石取りの松山藩士の父平五郎と母貞の5男として生まれ,極貧とも言える家庭に育ちながら,勉学に励み立志した人物であり,日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古は,真之の実兄である。
その後,真之は,政治家を志して上京し,東京帝大の受験準備のために共立学校(現在の開成高校)に入学して東京帝大進学を目指すが,進路を変更し,兄と同じく軍人となるため,海軍兵学校に進んだ。
海軍兵学校を首席で卒業した後は,米国にも留学し,軍事思想家のマハン大佐に師事し,米西戦争では観戦武官も務めた。
なお,米西戦争では,アメリカ艦隊がスペイン艦隊をキューバのサンチアゴ港に封じ込める作戦を行ったが,これを見分したことが後の日露戦争におけるロシア太平洋艦隊に対する旅順港閉塞作戦の元になったことは有名である。
真之は,帰国後,海軍大学校の教官になり,その後連合艦隊参謀として,日露海戦の作戦主任に抜擢される。
そして真之は,上記の旅順港に停泊するロシア太平洋艦隊を港内に封じ込める作戦のほか,日本海海戦におけるバルチック艦隊に対する大回頭(東郷ユーターン),丁字戦法,7段構えの3段からの攻撃計画などと提起し,これを東郷が採用することにより,日本海軍を圧倒的な勝利を導いた。
連合艦隊の参謀長で,真之の上司で逢った島村速雄も,「日露戦争の海上作戦はすべて真之の発案によるものであり,錯綜する状況をその都度総合統一して解釈する才能には驚くべきものがあった。」などと述懐している。
真之は,目で見たり,耳で聞いたり,万巻の書を読んで得た知識を,それを蓄えるというより不要なものを洗い落とし,必要なものだけを蓄積して,事あればそれが縦横無尽に駆使できるという能力を備えていた。
また,史記を始め,戦国武将の信玄や謙信の戦術,さらに瀬戸内の海賊村上水軍に至るまで可能な限りの戦術研究を行った。
ところで,このように天才と呼ばれる真之の勉強方法は一言で言うと要点主義と過去問研究に尽きるといえるだろう。
要点の発掘方法は,過去のあらゆる型を調べることだった。海軍兵学校時代の試験対策も,授業で教えられる事項の重要度に順序をつけ,出題教官の癖を加味して,重要度の低い事項を大胆に切り捨てる方法を取っていた。
真之が,同郷の後輩に,過去5年間の海軍兵学校の試験問題集を譲り渡し,その際,「人間の頭に上下などない。要点をつかむ能力と不要不急のものは切り捨てる大胆さが重要であり,したがって物事ができるできないというのは頭ではなく性格だ。」と語ったことは,「坂の上の雲」の中でも取り上げられている。
このように,真之は,妙案が泉のようにわき出てくる頭脳を持っているというより,過去の事例や先人の知恵を知り尽くし,その要点を条件反射のごとく現場の事例に当てはめて応用できる能力に傑出していたと言えるのだろう。
「ひらめく」ということはそういうことなのだろう。
現在の高校,大学の受験勉強,資格取得試験,司法試験等すべての勉強方法は,重要事項の要点把握と過去問研究が重要であることは広く知られるところだが,真之は,遠く昔の時代にすでにそれを体得していた受験の神様であったとも言える。
現在のエリート教育の原型を見るようだ。
なお,真之は,いわゆるエリート型の天才と言えるが,一方,明治期には無学の天才も多く登場し,日本の存亡の危機を救った。
その一人が児玉源太郎だが,児玉については,日を改め紹介することとする。
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