ひからびん通信

日頃思ったことなどについてコメントします。

秋山真之の勉強法

2011年12月30日 | 歴史
「坂の上の雲」が最終回を迎えた。ラストの連合艦隊とバルチック艦隊との日本海海戦の死闘は見応え十分でした。
 このドラマの登場人物の一人秋山真之は,日本海軍史上,傑出した戦略家・戦術家として海上作戦の天才とも称せられるが,真之の勉強方法も実は,現在と同じ過去問研究によるものが中心だったようだ。

真之は,明治元年(1868年3月20日),家禄わずか10石取りの松山藩士の父平五郎と母貞の5男として生まれ,極貧とも言える家庭に育ちながら,勉学に励み立志した人物であり,日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古は,真之の実兄である。

 その後,真之は,政治家を志して上京し,東京帝大の受験準備のために共立学校(現在の開成高校)に入学して東京帝大進学を目指すが,進路を変更し,兄と同じく軍人となるため,海軍兵学校に進んだ。
 
 海軍兵学校を首席で卒業した後は,米国にも留学し,軍事思想家のマハン大佐に師事し,米西戦争では観戦武官も務めた。
 なお,米西戦争では,アメリカ艦隊がスペイン艦隊をキューバのサンチアゴ港に封じ込める作戦を行ったが,これを見分したことが後の日露戦争におけるロシア太平洋艦隊に対する旅順港閉塞作戦の元になったことは有名である。

 真之は,帰国後,海軍大学校の教官になり,その後連合艦隊参謀として,日露海戦の作戦主任に抜擢される。

 そして真之は,上記の旅順港に停泊するロシア太平洋艦隊を港内に封じ込める作戦のほか,日本海海戦におけるバルチック艦隊に対する大回頭(東郷ユーターン),丁字戦法,7段構えの3段からの攻撃計画などと提起し,これを東郷が採用することにより,日本海軍を圧倒的な勝利を導いた。

 連合艦隊の参謀長で,真之の上司で逢った島村速雄も,「日露戦争の海上作戦はすべて真之の発案によるものであり,錯綜する状況をその都度総合統一して解釈する才能には驚くべきものがあった。」などと述懐している。

 真之は,目で見たり,耳で聞いたり,万巻の書を読んで得た知識を,それを蓄えるというより不要なものを洗い落とし,必要なものだけを蓄積して,事あればそれが縦横無尽に駆使できるという能力を備えていた。

 また,史記を始め,戦国武将の信玄や謙信の戦術,さらに瀬戸内の海賊村上水軍に至るまで可能な限りの戦術研究を行った。

 ところで,このように天才と呼ばれる真之の勉強方法は一言で言うと要点主義と過去問研究に尽きるといえるだろう。
 要点の発掘方法は,過去のあらゆる型を調べることだった。海軍兵学校時代の試験対策も,授業で教えられる事項の重要度に順序をつけ,出題教官の癖を加味して,重要度の低い事項を大胆に切り捨てる方法を取っていた。

 真之が,同郷の後輩に,過去5年間の海軍兵学校の試験問題集を譲り渡し,その際,「人間の頭に上下などない。要点をつかむ能力と不要不急のものは切り捨てる大胆さが重要であり,したがって物事ができるできないというのは頭ではなく性格だ。」と語ったことは,「坂の上の雲」の中でも取り上げられている。

 このように,真之は,妙案が泉のようにわき出てくる頭脳を持っているというより,過去の事例や先人の知恵を知り尽くし,その要点を条件反射のごとく現場の事例に当てはめて応用できる能力に傑出していたと言えるのだろう。

 「ひらめく」ということはそういうことなのだろう。

 現在の高校,大学の受験勉強,資格取得試験,司法試験等すべての勉強方法は,重要事項の要点把握と過去問研究が重要であることは広く知られるところだが,真之は,遠く昔の時代にすでにそれを体得していた受験の神様であったとも言える。

 現在のエリート教育の原型を見るようだ。

 なお,真之は,いわゆるエリート型の天才と言えるが,一方,明治期には無学の天才も多く登場し,日本の存亡の危機を救った。
 その一人が児玉源太郎だが,児玉については,日を改め紹介することとする。

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北朝鮮情勢の行方を占う

2011年12月19日 | 時事ニュース
金正日総書記が死去=正恩氏に権力継承へ―北朝鮮情勢、不透明に(時事通信) - goo ニュース

 金正日総書記の死去が伝えられたが,今後の北朝鮮情勢の変化を占ってみよう。

 軍部を支持基盤とするものの,3男の金正恩氏には,正統性もカリスマ性もないので,父親の権力基盤をスムーズに継承できるかについては,はなはだ疑問であるという論調が多い。
 しかし,果たしてそうなのだろうか。

 ただ,軍の力に依存しなければならない正恩氏が,北朝鮮の民衆および解放・改革勢力と手を結び,大胆な改革を断行することはありえない。

 これまでも中国サイドから,繰り返し解放・改革路線を取るよう現体制に圧力が加えられているようだが,それに受け入れられなかったことには理由があり,今更,路線変更するとは思えない。
 
 都合の悪い情報の流入を遮断する情報統制を行い,頑なに政治の民主化や経済の解放を拒否してきた現体制が,手のひらを返して民主化・開放化に方向転換することは,自分たちの自滅,死を意味することになるからだ。
 
 正恩氏の権力継承が混乱なく行われ,かろうじて生き残りができたとしても,それは限定期限付きのものになることが予想できる。

 一方,軍内部の対立グループや外務省を中心とする文人グループがまとまり,中国政府の援助の下,開放路線に舵を切れるかと言っても,軍事基盤のない勢力には困難なことだ。

 北朝鮮の場合は,リビアやエジプトとは事情が異なる。長期間に及ぶ経済の縮小,食糧不足,情報隔離等より民衆は疲弊の極にあり,組織的な暴動を起こす能力を喪失してしまっている。
 江戸時代に起こった百姓一揆の域を出ず,体制の転覆は困難である。

 このように見ると,劇的な北朝鮮情勢の変化はないと見るのが合理的である。

 体制を批判する勢力は極めて弱体化しているのだから,国民が圧制に耐えかねて暴動に発展するまえに,軍による締め付けが有効に機能してしまう。

 結局,金正恩体制の継承は当面スムーズに行われ,その変化の兆候は,早くても,金正日の死の喪が明ける来年以降になるだろう。

 経済的な困窮がさらに極まり,中国の北朝鮮に対する影響力が増大し,米中の何らかの合意形成ができた時,北朝鮮の金正恩体制の変化の始まりとその崩壊過程が顕在化すす。

 そして,結果的に,金正恩体制の軍事的な暴発は回避され,急激ではない体制の変質とともに崩壊の足音が大きくなるのだろう。

 
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検事ひからびんの取調室(1)

2011年12月18日 | 物語
地下鉄霞ヶ関駅を出て足早にそれぞれの庁舎に出勤する通行人たちの中にひからびんもいた。今日,取調べなければならない被疑者は4名いる。

 いずれも勾留満期が迫っている手持ち事件で,その内3件が否認事件だった。
だから,あまり取調べに時間は取れない。
 手際良くこなして,被疑者に事実を認めさせる自白調書を捲き,起訴状等を作成して上司の決済を受け,起訴手続きの準備をしなければならなかった。

 このように検事の仕事もある意味流れ作業である。
 汚物を吐き出すように社会の仕組みとして次々生みだされる犯罪の処理に追われ,それらを迅速、適正に処理できなければ,当然のこと検事としての評価に影響が出てくるのだ。

 うんざりするような捜査の日々が続くなか,ひからびんもその河に流されるしかなかった。

 取調室のはめ殺しの窓からは,法務省の煉瓦作りの旧庁舎や桜田門の堀に植栽された樹木の頭越しに皇居の佇まいが見える。皇居を外周する道路を走行する車は,綺麗に並べられたミニカーが,電子制御されたように走るのが見えた。
 そんな風景を眺めるだけでも少しは疲れが取れるのが助かった。
 
 あらゆる犯罪には動機があり,因果の必然として発生した犯罪は,人を傷つけるだけでなく,その周りの多くの人の人生まで狂わせてしまう。そして,それが次の犯罪の連鎖の温床となっていく。

 検事としてできることは何なのだろうか。
 間違った人間の所業の結末を見届けてやるということなのだろうか。
 瞳の奥に映る風景の歪みを洞察し,それを理解し得なければ,単に事件を処理したというだけに終わり,犯罪の連鎖を食い止めることはできない。
 ただ流されるだけでは駄目であり,次の犯罪の発生の芽を摘んでおくことが重要なのではないかとふと考えた。

 ひからびんが,午前の一人目の被疑者の取調べをしている最中だった。
 警視庁捜査1課の高田仁警部補から,事件発生の第一報が入った。
 高田は,早口で話し始めた。
 「この前に検事さんに起訴してもらい,その後保釈になった真行寺紗枝が判決言い渡し期日の前に,またやりました。今度は、殺しのようで,完全否認です。死ぬんだと言って取り乱し手に負えません。」などとまくし立て、戸惑う高田の様子が受話器越しに伝わってきた。

 紗枝は,平成23年2月,覚せい剤の密売とその使用の容疑で逮捕,起訴された。

 その後,紗枝は,保釈になり,4月2日に東京地方裁判所で開かれた第1回公判に出頭し,審理は自白事件であっため、弁護人が取調べに同意した書証はその日のうちに取調べられて,簡単な情状証人の尋問が終わり,公判検事から懲役2年の求刑を打たれ,判決言い渡し期日が,1週間先の4月9日に指定された。

 しかし,紗枝は,その後,突然,裁判所に指定された制限住所地のアパートを飛び出して失踪した。

 そして紗枝は,失踪してから約半年後の平成23年10月12日午前2時18分,新宿駅東口地下プロムナードの男子トイレの中で遺体で発見された初老の男の傍らで呆然と立ちすくしていたところを、警視庁の捜査官により身柄確保された。
 
 紗枝は,両親が小学校の教師として共働きする家庭の3人姉妹の長女として生まれ,小学校は地元の小学校に通ったが,母親の勧めで,中学受験をし,通学が便利な三鷹台の立教女学院中学に入学した。
 面長な顔立ちで,涼しい目をした優しい子で,性格は,どちらかと言えば,控えめだが,大人が聞いても「ギクッ」とするようなことを言ったりすることもあった。

 家族で行った小旅行の帰り,中学生の紗枝は,父親の横に座ったシートの席で言った。
「学校の友達はみんな良い子の振りばかりしてるけど,先生や親の言うことを聞いているだけじゃ不幸せになってしまうのにね。」

 感受性の強い紗枝ではあったが,はた目からは,何の苦労もなく,素直に成長しているように見えた。
 
 そして,紗枝は,大学付属の中学,高校を経て,立教大学文学部英文科に進んだ。
 大学を卒業後は,数年間,商社に勤務したが,本社受付係という仕事が思いのほか忙しい割に給料が安かったことから,さっさと会社を退職し,その後は,荻窪の実家で,両親とまだ大学生の3女と暮らしながら,都心の英会話学校の講師として働いていた。
 
 結婚は,30歳のときだった。
 同じ英会話学校で働くカナダ人の男性と知り合い,短い交際期間を経て結婚することになった。
 紗枝にとって,それが初めての恋愛だった。

 そして2人は,日本を離れてカナダに行き,バンクーバー郊外のアパートでの結婚生活が始まった。

 英語に堪能な紗枝は,すぐに異国の地での生活に溶け込むことができ,男女双子の子宝にも恵まれ,幸せな暮らしが続いた。
 
 夫のヘンリーは,彼が卒業した高校で地理を教える教師として働き,紗枝も,たまに日本人相手のガイドとしてアルバイトをした。

 ところが,2人の結婚生活の歯車が狂い出し始めるのは,紗枝が日本を離れてカナダで暮らすようになって約7年が経った,肌寒い9月の朝だった。

 娘の乗ったスクールバスの側面に薬物中毒者の運転する車が衝突し,窓側の席に乗車していた紗枝の娘が重傷を負った。
 迅速な病院への搬送と医師の懸命な治療により,外傷は,全治1カ月程度の傷害に止まったが,顔に醜状痕が残ってしまった。

 整形外科技術の進歩には目覚ましいものがあるが,娘は左目の視力を失い,眼球が左右に動かなくなり,右目との動きが不自然になってしまい,顔の表情が一変してしまうという後遺症が残った。

 娘の受けた顔の傷は,彼女の素直な性格を変えさせてしまい,喉元に深く刺さった棘のように家族の絆を蝕んでいった。

 そして,紗枝は,離婚し,一人日本に帰り,わずか数年の間に,もがき苦しみ,転落の坂を転げ落ちた。