緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

本庄石仏

2007年11月26日 16時35分17秒 | 健康
11月26日(月)

日本人と仏教と言う大きなテーマを戴いたのが、弥勒祐徳画伯訪問の意義で有ると感じています。日向国国分寺、木喰上人、五智院、百済観音、神楽館と西都市を中心とした仏教の流れに気づきました事で、改めて宮崎県内仏教関係の旧跡に目が向くようになりました。


仏教伝来前の日本には慈悲と言う観念が一般化されておらず、争いは絶えなかったと想像します。磨崖仏は大きなさとりを人々に授けました

まず第一歩として宮崎市近郷国富町「本庄石仏」へ目を向けます。車を走らせて宮崎自動車道都城インターから東九州自動車道を宮崎西インターで降りて国道十号線を高岡町まで下り高岡町から県道二四号線を北上して境野峠を越えて本庄川の手前を左折します。左折地点には大きな表示板・本庄石仏があり表示板に添って行けば山の麓に本庄石仏の駐車場へと着きます。


磨崖仏は意外と大きく高さは背光上端まで五.七mあり幅は一.七m、石質がやや柔らかい感じを受けて、良くここまで保存されたと感心します

現地には案内板が数多くあり、その説明には百済の帰化僧日羅上人がこの地に龍宝山松森寺を開基したとあります。敏達天皇十二年と有りますから西暦五八四年、飛鳥時代と言いますから何とも一千四百年も昔の事、説明が事実ならば驚くほどの年月です。日向国国分寺建立より百五十年前、日向国と仏教の関係はかように古い繋がりが有るという事です。本庄石仏は磨崖仏の薬師如来像で日羅上人の自刻像とも言われております。


本庄石仏へ近づく最後の階段、この荒れた様が石仏の古さを表しているようで、県内には隠れた古跡がまだ数多く存在しているのでしょう

さて今回訪問の目的は、本庄石仏の表情が一番の関心事、仏教はインドから中国に伝わり朝鮮半島百済国経由で大和に伝わり、そして日向国へと伝播しました。その大きな伝道の役割を果たした一つが仏像の表情であると思っています。文字が庶民に普及していない時代に仏陀の教えを説くには様々な宗教行事がなされたと思います。その中でも仏像は大きな役目を果たしました。こうして本庄石仏を現地で眺めますと仏教の「慈悲」と言う教えが時空を超えて伝わるような気持になります。

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