緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

旧内之浦臨時要塞加農砲掩体壕跡から見えるもの

2010年01月12日 18時00分03秒 | 歴史
1月12日(火) 

 沖縄旅行の感想を書こうと思い現地で頂いた資料をめくっておりますと大晦日に見学しました旧海軍司令部壕案内パンフレットが出てきました。那覇空港から一番近い戦跡地(空港から車で約十五分)とあります。お問い合せ先として
旧海軍司令部壕事業所
沖縄県豊見城市字豊見城236番地
TEL098-850-4055 FAX098-850-9342 が表記されております。


現在は見学コース出口側に使われている沖縄県豊見城市旧海軍司令部壕跡入口

この資料を調べていますと驚く数字が出てきます。
沖縄戦による戦没者数・全戦没者数200,656名(日本側188,136名+米軍側12,520名)、この死者数は何回か耳にしました。しかし、米軍の使用砲弾数は改めて驚きの一言です。


当時、壕内は多くの兵士で立錐の余地も無く立ったまま仮眠を取ったと説明にあります

☆(日本側188,136名)
・他都道府県出身軍人軍属65,908名
・沖縄県出身軍人軍属28,228名
・沖縄県出身戦闘参加者56,861名
・一般沖縄県民推計37,139名


兵士で満員の壕の中で発電機用エンジンの排煙はどうしたのか気になります

☆(米軍側12,520名)
・米軍が使用した砲弾(1945年4月1日~6月30日)2,716,691発
・米軍第10砲兵師団の砲弾使用数(1945年4月1日~6月30日)2,116,691発
・沖縄県内不発弾処理実績1,178,869発
・旧海軍壕遺骨収集作業状況約2,400人


こうして壕を見学しますと誇り高き旧日本海軍が惨めな戦をしたものだと嘆きます

十日の日曜日に旧内之浦臨時要塞十五糎加農砲の掩体壕跡を再度カメラに納めようと確認に出向きました。冬場は雑草も綺麗に掃除されており、六五年前に十五糎加農砲が格納された掩体壕がハッキリと確認出来ました。内部の様子もある程度輪郭が分かり十五糎加農砲の大きさが推定出来ます。当時、この地に上部と下部で計七門設置されたと言いますから、米軍が沖縄戦に使用した砲弾数と比較しても戦の結末が見えてため息がでます。三ヶ月間で二百万発も砲弾を使用する米軍にどう立ち向かうのか、それと更に米軍側ではガス弾使用も計画にあったと聞き及びます。


鹿児島県肝付町旧内之浦臨時要塞十五糎加農砲の掩体壕跡

沖縄戦、次の南九州上陸オリンピック作戦と続く米軍戦力も考慮されたかどうか、八月の広島・長崎原爆投下と戦争終結の為に手段を選ばなくなっていたのでしょうか。太平洋戦争時、日本の最高責任者とは果たして誰であったのか?その昔に豪州航路貨物船に乗船勤務しておりましたが当時感じた事が浮かび上がります。昭和十七年初期に豪州ダーウイン港を海軍爆撃機が攻撃した頃に日本軍は停戦は出来なかったのか? こうして戦争というものを振り返って見ますと国家の欠陥部分を見る思いでもあります。

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