∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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A-1 >平 良兼と縁の地(3)

2005-07-01 16:48:11 | A-1 >桓武平氏高望王流
(*3)常陸国水守(茨城県つくば市水守)Visit :2005-06-08 09:30  この水守の地は、『将門記 (5)将門、伯父良兼を見のがす』には、 ◆「同国の水守(みもり=茨城県つくば市水守 *3)の営所(やどりどころ、たち= 豪族の本拠地。軍事施設を持つ館)に着く。」 . . . 本文を読む

A-1 >平 良兼と縁の地(2)

2005-07-01 15:22:12 | A-1 >桓武平氏高望王流
『将門記 (5)将門、伯父良兼を見のがす』に、 ◆「承平六年(936)六月廿六日を以て、常陸国を指して、雲の如く湧き、上下の国(上総国と下総国)を出ず。」とある。  また、将門との合戦に向けて、平 良兼が上総国から出陣する際には、 ◆「所々の関に就かず(避けて)して、上総国武射郡の少道(千葉県山武郡の間道)より、下総国香取郡の神前(千葉県香取郡神崎町 *1)に到り着く。」とある。 . . . 本文を読む

A-1 >平 良兼と縁の地(1)

2005-07-01 13:48:20 | A-1 >桓武平氏高望王流
(5)将門、伯父良兼を見のがす  而る間に介良兼は兵を調え陣を張る。承平六年(936)六月廿六日を以て、常陸国を指して、雲の如く湧き、上下の国(上総国と下総国)を出ず。禁遏(きんあつ)を加ふ(良兼らが武装して上総・下総国を通過することを国司が阻止した)と雖も、因縁を問ふ(縁者を訪ねる)と称して、遁れ跳ぶが如し(跳ぶように駆け抜けた)、てへり。 . . . 本文を読む

A-1 >平 良兼(序章)

2005-07-01 08:50:05 | A-1 >桓武平氏高望王流
西暦八百年代、桓武天皇の第7皇子葛原(かつらはら)親王は、「朝敵を平らげる」に因み「平(たいら)」の姓を賜り臣下に降った。また第二子高見王の次男高望王(たかもちのおほきみ)も平姓を賜り(桓武平氏租、板東平氏)、上総介(かずさのすけ)として自ら関東に下向した。そして任期満了後も経済的に豊かな生活ができる関東に留まり、高望王一族は当地において繁栄するものの、『将門記』に書かれているように、高望王の子で下総介である平良兼(たいらのよしかね)等とその甥である平将門(たいらのまさかど)との同族間での勢力争いは絶えなかった . . . 本文を読む