∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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E-1>水野左内源為長

2009-10-04 12:23:12 | E-1 >系統不確定水野氏
●水野左内源為長
 号梅里、また苟且堂
 ――『宇下人言・修行録』松平定信/著 松平定光/校訂 岩波文庫
 本文および「[註]【宇下人言】28頁」から引用、ほか『三百藩家臣人名事典』などを参照し編集した。『宇下人言(うげのひとこと(*1))・修行録』は、定信(号 楽翁)の自叙伝であり、子孫に対し後世再び老中の職に就く者のために、彼の老中在職中に実施した庶政の記録を遺してその参考とし、また指針ともなさんと意図するものである。
この外、水野為長著「よしの冊子」も参照した。


【水野為長】
 左内と称した。萩原宗固(*2)の二男。寶暦元(1751)生れ。後、水野家の養子となるが、当家の出自は未詳。白河藩田安家の附人である。
十七歳の時、将軍徳川吉宗の子、徳川(田安)宗武の八男(七男とも)で當時十歳であった田安賢丸(まさまる、後の定信)の側近となる。

 安永三年(1774)、定信が、家康の実母で水野忠政の娘於大の方の再婚先である久松家のゆかりの白河藩(十一万石)二代藩主松平(久松)定邦へ十七歳で養子に出され、翌年従五位下上総介に任ぜられる。定信が、松平家に引き移る時、為長はその近習として付き従った。

 天明三年(1783)、松平越中守定信が二十六歳で三代藩主となり、老中在任期間中の天明七年(1787)から寛政五年(1793)に主導して行われた寛政の改革では、為長が徒目付らの隠密とともに江戸市中の世評などを収集して定信に報告したとされており、その記録は隠密情報『よしの冊子(ぞうし)』として残されている。これは「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性からなされたもので、また極端な倹約・思想統制令は、庶民や大奥から嫌われ、定信の政権下では改革が思ったほどの成果をあげる事は無かったといわれている。

 また定信は『宇下人言』の中で、十四歳の頃の短気であったことを懐古し「大塚孝綽(たかすえ)殊によくいさめたり。水野為長常に諌めて日々のよしあしをいひたり。き(聞)けばいと感じけれど、ふづくみ(憤み、立腹)の情に堪えがたきに至る。[中略]このくせ(癖)も十八のとし(歳)より、あら(洗)ひそゝ(注)ぎしやうになりたるぞけう(希有)なれ。全く左右(近習)の直言ありし故なるべし。」と記し、師の大塚孝綽や水野為長が、ともに遠慮なく自分の考えをはっきり言って諫めてくれたと謝意を記している。

 為長は、こうして後、七十五歳におよぶまで、一日も怠ることなく幼年から老年まで始終主君とともにあった。為長は定信より八歳ばかり年上ではあったが、日毎に勤仕し、薄暮に退出しようとする時は、必ず御前に進み出て、その日その日の御言行の可否を詳しく言上した後に退出した。その誠実の程は、この一事をもって、推して知るべしであり、従って主君の覚えも目出度く、年ごとに白銀・衣服の賜物も他の人より異なっていたと伝えられる。

 為長の実父は、江戸の武家歌人として名声高い萩原宗固であったことから、為長も自ずから和歌をよく詠み、また書もよくした。




『随筆百花苑』中央公論社 第8(上)巻1--11、第9(下)巻11--19に収録
水野為長の『よしの冊子』
本書序言を要約すると、松平定信が、田沼意次の秕政(悪政)とされる、その後を承けて、幕政の立て直しを計った、いわゆる「寛政改革」の進行中に、定信公近侍水野為長が、日々幕政、世情についての見聞、幕府の各部署を担当する人物の性格、善悪などを、見聞に任せて書き留めて、主君に呈覧した雑記である。この雑記百七十冊ばかりは、定信公の没後、公の側近田内親輔(月堂)が、公の遺品の中から発見して抄録した。この各項が「よし」の語を以て終わるところから書名とした。
 水野為長が隠密を使って集めさせた隠密情報『よしの冊子』は、寛政の改革を裏面から見た、纏まった記述の文献として、今後大いに活用されるであろうとしている。

 親輔は、冒頭に「此巻猥(みだり)に他へ出すべからず」と掲げていることから、本書は秘記であったと判る。続けて「梅里雑記としてもよろしからん、一段落ごとに よしよしとあれば、よしの冊子と名づけぬ。」と記している。一例として「一 丸毛和泉守京都より召之節、道中六日めにて参着せしよし。」と最後は「よし」で終わることが多い。「よし」とは、漢字で書くと「由」、つまり「そのようだ」という意味で、確実な情報とは言い難いものであった。



[註]
*1=『宇下人言』は定信の字をいじって付けた名前として知られている(定⇒宇下、信⇒人言)。
*2=萩原宗固(はぎわら・そうこ)生年:元禄16(1703) 没年:天明4.5.2(1784.6.19)
江戸中期の歌人。名貞辰,号百花庵。幕府の先手組に所属する幕臣。烏丸光栄,武者小路実岳,冷泉為村らに師事して和歌・歌学を学ぶ。江戸の武家歌人として名声高く,また内山賀邸と共に「明和十五番狂歌合」の判者をも勤めて天明狂歌の原点に位置したことでも知られる。家集『志野乃葉草』,ほかに『一葉抄』『もずのくさぐき』などの歌学随筆が伝わる。『塙氏雑著』(静嘉堂文庫蔵)も宗固自筆の雑抄。為村との問答である『冷泉宗匠家伺書』には宗固の苦悩もほの見えて興味深い。<参考文献>安藤菊二『江戸の和学者』 (久保田啓一) 出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版


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