∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

     本ブログの記事、画像等の無断複製および転載を禁じます。

A-4>水野次右衛門勝正≪考証≫

2008-02-12 18:42:11 | A-4>影俊系水野氏
●水野次右衛門勝正≪考証≫

 柴田勝家の義臣として有名な者の中に、水野次右衛門勝正がおり、さらには勝正と祖先は同じくするが、別系統で水野近仁の孫にあたる、姓を毛受(めんじょう)と改めた勝助家照(しょうすけ・いえてる)がいる。今日ではこの家照が、天正十二年(1583)四月二十一日の賤ヶ岳の戦いで華々しく散ったことから勇名となってはいるが、それに先立つ元亀二年(1571)の長島の合戦(第一次長島攻め)における、毛受家照の金の御幣奪還説については疑義があり、管見によれば書誌の記述から、毛受家照ではなく水野次右衛門勝正ではなかったかと推察される。このことから、この「金の御幣奪還説」について考察してみることにする。



◎水野次右衛門勝正および毛受勝助家照に関する参考資料
1-1.『尾張志』「水野次右衛門」の項には――
 「信長記の長島合戦の條に何とかしたりけん勝家の馬驗の五幣を一掻の奴原奪取時を噇とそ作りけるあはやと見る處に勝家が小姓水野次右衛門尉といひしものいまだ十六歳にて有りけるが面もふらす敵の中へつと懸入五幣を取返して勝家にこそ捧けけれ其恩賞に過分の領地を遣はし猶あきたらすやありけん耀衣(ホロ)をも預け申たり斯る希代のふるまひして後代までも名を残しける手柄の程こそ勇勇しけれ」――
つまり、「『信長記』の長島合戦の条に、勝家の馬印の五幣を敵奴ら(一向衆)が奪い取り、あわやというとき、勝家の小姓水野次右衛門尉という未だ十六歳の者ではあるが、脇目も振らず(よそ見もしないで)敵の中へと掛け入り、五幣を取り返して勝家に捧げた。勝家は次右衛門尉に恩賞として過分の領地を与え、まだ足らないと母衣(旗指物の一種)を預けるという名目により、これを授けた。このような世にも稀な振る舞いにより後世まで名を残す手柄をたて、たいそう立派である。」というような意のことを記している。

1-2.『尾張志』の「毛受勝助家照」の項には――
 「太閤記に毛受勝助ハ尾張春日井郡稲葉村(愛知県尾張旭市)の人なり柴田修理亮勝家に十二歳の頃より事へ後は小姓頭に任し一万石の地を領し素姓信篤く古風を事とし母に孝あり勝家敗北の折節(その時)舎兄茂左衛門尉もろとも忠死を心よくし其名尤(もっとも、いかにも)かうがし(神々しい)云々と見えたり」――
とあり、馬印の件については一言も触れていない。

2.『瀬戸市史』通史編 上 第一章尾張藩の支配と瀬戸市域 第二節林方支配
(一)水野氏 23 文化九年正月書上 水野家系譜下書 (表題)「系譜 水野久四郎」
致正の三男勝正の項には――
「 勝正
  柴田修理亮勝家に仕
 一 元亀二(1571)未年長嶋合戦之節に勇名を著し、其後水野ニ引籠リ有之
 一 病死年月等相知不申   」――
とあり、長嶋合戦では勇名を馳せたが、勝正はその後水野村に引き籠もったと記されている。 

3.『尾張群書系図部集(下)』水野氏 尾張春日井郡下水野村(瀬戸市水野)
  入尾城主、平姓水野氏
致正の次男として
「 勝正 次右衛門
・ 致正には久次郎
    春日井郡水野村に住す。織田信長に仕う。慶長元年(1596)七月二十日卒。」

4.「水野氏系譜」(平氏系にて水野権平家に伝わるものなり)
致正の三男勝正の細目には――
「 勝正 治右衛門
  柴田修理亮勝家ニ仕
   一 元亀二(1571)未早長島合戦之節勇名有之) 」

5.『東春日井群誌』東春日井群役所/編 名著出版/発行
  緒言
   本書は郡制廃止の記念事業として、大正十一年(1922)三月九日郡會の決議を経て、 同年五月編纂事業に着手し、大正十二年(1923)一月を以て完成の期とせり、[後略]
  毛受輝家
「家照元の名は照景、字は荘介稲葉村の人、新居城主水野又太郎良春四世の孫照昌の子なり、照昌始め稲葉村を開拓し之れに居り、姓を毛受と改む、家照素姓篤信にして古風を好み、又母に事へて至孝(この上ない孝行)なり、十二歳の頃より、柴田勝家に仕へ、後小姓頭に任ぜられ一萬石を食む、長島の戦に家照年十七、勝家に従ひ軍にあり、寇兵進撃勝家の騎標を奪ふ、勝家之を見て奮激し將に突入して之れに死せんとす、家照之れを諫止し、自ら寇中に混入して、騎標を奪い之れを勝家に送り、再び進撃敵中に入る、勝家精兵を遣はし之れを救ふ、事平ぎ偏諱(御一字)を與へ字を勝介となし、以て幕中の爪牙(主君を守る家来)と為せり、[後略]」

6.「稿本毛受勝助」水野瀬市/著/出版  発行1970.08 非売品
6-1.第一部 勝助・勝介・庄助・庄介「勝助の名前については、はつきりとした見解が示されたものは、なに一つ見あたらない。実に雑多な記法がなされ、数えあげたらきりがない。代表的なものだけでも、『勝助・勝介・庄助・庄介』などがある」と書かれている。
6-2.第一部 長島合戦の勲功で「勝」と「家」の二字を賜る
「[前略]勝助という名前は、勲功の恩賞である。名前が歴史を物語り、勝助の生涯を語っているからである。」
6-3.第一部 長島合戦の勲功で「勝」と「家」の二字を賜る
「真書太閤記」は、その時の恩賞として、「勝」と「家」の二字を与え、勝助の勇気を褒め称え……。挿絵(毛受勝助長島の合戦で金幣を取り返す)
6-4.第一部 長島合戦の勲功で「勝」と「家」の二字を賜る
「絵本太閤記」の挿絵に「毛受勝介馬印……」とある。
6-5.第一部 長島合戦の勲功で「勝」と「家」の二字を賜る
「 [中略]「『毛受』の姓も、『勝助』の名も『家照』の諱も、この長島の戦いを契機として一度に改めたものではないか。この仮説を抱き、長島の戦いに残る古記録に、金弊奪還を働いた小姓の名が、次のように挙げられていることからして(「…」以下は引用文から抜粋)
  甫庵信長記  水野治郎右衛門尉……勝家カ小姓水野治郎右衛門尉ト云シ者
  蒲生文武記  水野治郎右衛門……爰ニ勝家小姓水野治郎右衛門トテ
  當代記 水野治郎右衛門……柴田小姓水野治郎右衛門取返
  続武將感状記 水野治郎右衛門勝正……水野勝正、金の馬印
  尾張志 水野治郎右衛門尉……勝家が小姓水野治郎右衛門尉
  尾参宝艦   水野治郎右衛門……小姓水野治郎右衛門一騎適中に
『毛受勝助家照』の名を勝家から恩賞として賜った―とすれば元の名は何か? それは水野治郎右衛門(または水野治郎右衛門尉)であったのではないだろうか。[後略] 」



◎水野次右衛門勝正および毛受勝助家照の考察
7.「5」の『東春日井群誌』(1923)には、「家照元の名は照景」と記載されており、また「6-3」の『真書太閤記』(1849)には「毛受勝助長島の合戦」、「6-4」の『絵本太閤記』武内確斎(1799)では、「毛受勝介馬印……」とあるものの、「6-5」の「稿本毛受勝助」では、甫庵信長記(1626)を始めとする他の五書に「水野治郎右衛門」「水野治郎右衛門尉」「水野治郎右衛門勝正」と記され、「家照」の諱は書かれていない。著者の水野瀬市氏説では、長島合戦の勲功で「勝」と「家」の二字を賜ると書かれているが、「2.3.4」および「続武將感状記」には「水野治郎右衛門勝正」と明記されており、諱は「勝正」である。勝家の偏諱(御一字)の「家」を賜り照景から「家照」に改めたとしたとするのは納得できるが、治郎右衛門勝正の元々の諱に「勝」の一字があるにも関わらず、なぜ敢えて勝家の「勝」の偏諱を恩賞として授与されなければならなかったのであろうか。元々偏諱は文字通り主君の名の一文字を賜るものであり、二字共に賜るというのは如何にも不自然であると考えられる。
 これらのことから、近世に書かれた『絵本太閤記』武内確斎(1799)の頃に、長島の合戦の功労者が、無名な水野治郎右衛門から賤ヶ岳の戦いで高名を成した毛受勝助と混同されたか、又は故意にすり替えられ、さらには『真書太閤記』(1849)、『東春日井群誌』(1923)もまたそれに倣った可能性が高いのではないかと推察される。
「1-1」で、元亀二年(1571)の長島の合戦(第一次長島攻め)の時、「水野治郎右衛門勝正」は十六歳であったと記されていることから、弘治二年(1556)生まれということになる。「2」の『瀬戸市史』から、その後は何故か水野[村]に引き籠もったとあり、柴田勝家には仕えず、帰農したものとみられる。もし仮に賤ヶ岳の戦いに参戦していたとすると二十七歳の時であった。
 一方、毛受勝助は、「1-2」の『尾張志』に、「柴田修理亮勝家に十二歳の頃より仕えて、後は小姓頭に任し一万石の地を領し、……」とあり、順調に出世したことが窺える。しかしながら前述の通り、「勝家の馬印」の件については一言も触れてはいない。
長島の合戦で、柴田勝家の馬印である金の御幣が敵に奪われたのを、見事に取り戻し、その十二年後の天正十二年(1583)四月二十一日、賤ヶ岳の戦いで柴田軍が瓦解したことから、勝家は討死を覚悟し留まろうとした。しかしながら近習の毛受勝助は、主君に面目を保つことを諫め、即刻北ノ庄城へ落ちさせ、自らは勝家の馬印“金弊”を申し請けて、身代わりとなって山峡に盾籠もり、敵秀吉の大軍を欺き、二時間余りもそこに引きつけ死闘したが、ついに力尽きて金幣のもとに討ち死にした。このことから、同じ金弊の馬印にに絡み、「水野治郎右衛門勝正」と「毛受勝助」が同一視されたのではなかろうかと推測される。
 この“金弊”は、現在も柴田勝家の菩提寺である西光寺(福井県福井市左内町8-21)に所蔵されている。
元亀二年(1571)の長島の合戦(第一次長島攻め)から、四百三十余年後の今日において、改めて「水野治郎右衛門勝正」の功績を顕彰することとした。


桓武平氏水野氏簡略系譜

最新の画像もっと見る