∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

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C-1 >村木砦址(水野金吾篇)≪考証≫

2005-12-27 17:28:16 | C-1 >小河氏系水野




村木砦址(水野金吾篇)≪考証≫

  愛知県知多郡東浦町大字森岡字取手30 (八剣神社境内)  Visit :2005-12-14 15:30


 この記事では、現在参照できる『信長公記』関連資料から、登場人物が不確かな「水野金吾」について、色々と考察してみることにする。

◎「村木砦の戦い」の概要
天文二十二年(1553)四月、織田信長は、清須の織田家との対立を深めていたことや、駿河の今川と対抗するために、尾張富田の聖徳寺(現在移転 名古屋市守山区白山3丁目101)で、舅の斎藤道三と会見し連携を強めることに成功した。その後今川勢は、織田と刈谷および小河の水野との往来を断ち切るため、刈谷城東3.5Kmにある鴫原(知立市上重原町本郷)の山岡構え(砦)を攻めて乗っ取り、さらには小河城北2Kmに位置する村木に砦を構えて盾籠もった。これに対し水野信元の要請により、織田信長は居城である那古野城の守りを斎藤道三に頼み、天正二十三年(1554)正月二十二日、自らが軍を率い熱田を出発し、二十三日、小河で信元に会い、様子を詳しく聞き一泊した。翌二十四日払暁から村木砦を攻めた。信長は砦の狭間を、鉄砲を取っ替え引っ替え撃たせ援護した。織田・水野連合軍の必死の攻めにより、今川勢は降参し、二十五日には信長は那古野へ帰った。
 このように村木砦の戦いは、水野信元と織田信長との最初の共同の戦いであり、この戦いを通して、より水野・織田同盟は堅くなり、後の桶狭間での勝利へと繋がっていくことになる。反面、この時に受けた傷手や悔しさが、後の信元誅殺にどのように影響していったのか、今となっては信長の胸中は計り知れない。


◎「村木砦の戦いの参考資料」4点

A.『信長公記』戦国史料叢書2校注者 桑田忠親  発行所 人物往来社
               1965年4月30日
   「村木の取手せめられしの事」――
 一、さる程に、駿河衆岡崎に在陣候て、鴫原の山岡構へ攻め干し、乗取り、岡崎より持ちつゞけ、是を根城にして、'''山河の水野金吾(a-1)''' 構へ差し向かひ、村木と云ふ所、駿河より丈夫に取手を相構へ、駿河衆盾籠り候。並びに、寺本の城も人質だし、駿河へ荷担仕り、御敵に罷りなり、小河(a-2)の通路を切取り候。[中略]道三かたより、[天文二十三年]正月十八日、那古野留守居として……[中略][信長公は]其の日は野陣を懸けさせられ、直ちに小川へ御出で、水野下野守に御参会候(a-3)て、爰許の様子、態態きかせられ、小川に御泊り。
 一、[前略]東大手の方は水野金吾(a-4)攻め口なり。城中の者働く事、比類なき働きなり。然りと雖も、透をあせらず攻めさせられ、城内も手負死人、次第次第に無人になる様に、降参申し候。尤攻め干さるべき事に候へども、手負死人塚を築き、其の上、既に薄暮に及び候の間、詫言の旨にまかせ、水野金吾に仰せつけ(a-5)られ、信長御小姓衆歴々、其の員を知らざる手負死人、目も当てられぬ有様なり。辰の刻に取り寄せ、申の下刻まで攻めさせられ、御存分に落去候ひ訖んぬ。ご本陣へ御座候て、それもそれもと御諚なされ、感涙を流させ候なり。[後略]


B.『新訂 信長公記』校注者 桑田忠親  発行所 新人物往来社
             1997年5月15日 第一刷発行
   「村木の取手攻めらるゝの事」――
 一、さる程に、駿河衆岡崎に在陣候て、鴫原の山岡構へ攻め干し、乗取り、岡崎より持ちつゞけ、是を根城にして、'''小河'''の水野金吾(b-1)構へ差し向かひ、村木と云ふ所、駿河より丈夫に取手を相構へ、駿河衆盾籠り候。並びに、寺本の城も人質だし、駿河へ荷担仕り、御敵に罷りなり、小河(b-2)の通路を切取り候。[中略]道三かたより、[天文二十三年]正月十八日、那古野留守居として……[中略][信長公は]其の日は野陣を懸けさせられ、直ちに小川へ御出で、水野下野守に御参会候(b-3)て、爰許の様子、態態きかせられ、小川に御泊り。
 一、[前略]東大手の方は水野金吾(b-4)攻め口なり。城中の者働く事、比類なき働きなり。然りと雖も、透をあせらず攻めさせられ、城内も手負死人、次第次第に無人になる様に、降参申し候。尤攻め干さるべき事に候へども、手負死人塚を築き、其の上、既に薄暮に及び候の間、詫言の旨にまかせ、水野金吾に仰せつけ(b-5)られる。信長御小姓衆歴々、其の員を知らざる手負死人、目も当てられぬ有様なり。辰の刻に取り寄せ、申の下刻まで攻めさせられ、御存分に落去候ひ訖んぬ。'''御''' 本陣へ御座候て、それもそれもと御諚なされ、感涙を流させ候なり。[後略]


C.『現代語訳 信長公記(下)』訳者 中川太古 発行所 新人物往来者
       1992年4月30日 第一刷発行
   「(14)村木城を攻撃」――
 その頃、駿河勢は岡崎に在陣して、鴫原の山岡伝五郎の城を攻め滅ぼし乗っ取った。岡崎から援護を続け、鴫原城を根城にして、'''小河の水野忠政''' (c-1)の城を次の目標にした。駿河勢は、村木と云う所に堅固な城を築き、立て籠もった。近くの寺本の城も人質を出して駿河勢に味方し、信長に敵対して、小河城(c-2)への道路を遮断した。[中略]道三方からは、天文二十三年(1554)一月十八日(c-3)、那古野の留守居部隊として……[中略]その日は、野営をさせ信長自身はただちに小河へ行って、水野忠政の子信元(c-4)に会い、当地の状況を詳しく聴いて、小河に宿泊した。
[前略]東、大手の方は、水野忠政(c-5)の攻め口である。城内、駿河勢の働きも比類ないものであった。しかし、隙を与えず攻めたので、城内にも負傷者・死人が出て、次第に兵が少なくなり、遂に[駿河勢は]降参した。当然攻め滅ぼすはずであったが、こちらにも負傷者・死人が山ほど出ているし、その上暮れ方になったので、謝罪を聞き届けて許し、後の始末を水野忠政に命じた(c-5)。信長のお小姓衆の歴々も数知れず負傷・討ち死にし、目も当てられぬ有様だった。辰の刻[午前八時]に攻撃を始め、申の刻[申の下刻は午後五時ごろ]まで攻め続けて、思い通りの決着となった。しかし、信長は、本陣に帰ってから、部下の働きや負傷者・使者のこと、あれこれとなく言って、涙を流したのであった。[後略]


D.『<原本現代訳>19 信長公記(上)』原著 太田牛一 訳者 榊山 潤
発行所 ニュートンブレス 2004年10月10日 新装代二四刷
   「(一六)村木のとりでを攻める」――
 さて駿河衆(今川勢)は岡崎に在陣して、鴫原の山岡の城(山岡伝五郎の重原城、知立町)を攻め滅ぼし乗っ取って、岡崎から援護し、ここを根城にして信長方の'''小河の水野金吾(忠政)'''(d-1)の城へ向かった。駿河衆は村木という所に堅固なとりでを築き、そこにたてこもった。近くの寺本の城(半田市中島町付近に所在)も人質を出して、今川に荷担、信長公の敵となって小河城(d-2)への道路をふさいでしまった。[中略]道三方より天文二十三年(1554)正月十八日(d-3)、那古野の留守居役として……[中略]その日は野営をされ、ただちに小河へおいでになり、水野下野守(忠政の子、'''信之''')(d-4)にお会いになって、こちらのようすをよくよく尋ねられて、その日は小河へお泊になった。
[前略]東、大手のほうは、水野金吾(d-5)の攻め口である。城中の者の活躍もまた比類ないものであったが、すきまを与えず攻めつけられたので、城内も負傷者・死者が生じ、しだいに軍兵が減って降参申した。当然攻め滅ぼすはずであったが、負傷者・死者が塚を築くほどにも出たうえ、時刻も薄暮に及んだので、謝罪を聞き許して、その始末を水野金吾に仰せ付けになった(d-5)。信長公のお小姓衆の勇士たちも数知らず負傷者・死者が出で、目も当てられないありさまであった。午前八時ごろに攻め始め、午後五時ごろまで攻め続けられ、思いどおりにことは落着した。ご本陣におられ、あれこれ仰せられては、涙を流されたことであった。[後略]


◎「水野金吾の考察」
E.「不明・疑問点」
 これら少ない資料ではあるが、現在のところ外に散見されないことから、これをもとに考察してみることにする。「金吾」については、諸説あり不明な点が多々ある。
e-1.
「A」の資料『信長公記』には「山河の水野金吾」(a-1)と書かれているが、「B」の資料の新訂版では、なぜか「小河の水野忠政」(c-1)と訂正されている。また、 「山河」と「小河」についてこれらの地名が同一のものか、または別のものなのかは不明である。
e-2.
「水野下野守[信元]に御参会候」(a-3)とあるが、これは村木砦攻撃のための重要な戦略会議と思われるが、その会議に信元の父である忠政が何故参画しなかったのであろうか。
e-3.
村木砦の攻撃作戦は「天文二十三年(1554)一月十八日」(c-3)に始まり、「東大手の方は、水野忠政(c-5)の攻め口である」とあるが、忠政は天文十二年(1543)七月十二日に病死(法名 長江院殿大渓堅雄大居士)していると、『乾坤院文書』および『改訂寛政重修諸家譜』にも明記されており、砦攻撃の十一年前には亡くなっていることにある。
e-4.
「水野金吾に仰せつけ」(a-5、b-5)、「後の始末を水野忠政に命じた」(c-5)、「水野金吾に仰せ付けになった」(d-5)とあり、どれもが明らかに「下知」つまり「目下の者に指図をすること」「命令」であることにある。当時小河水野家は信長方に属する同盟者であったが、臣下の関係にはなかったことから、もし忠政が存命であったとしても、その水野一族の宗家主に対して、このような下知が下せたものか甚だ疑問であるし、また忠政の子信元に対する態度の方がむしろ同等の扱いであることに矛盾を感じる。
e-5.
「水野忠政の子信元(c-4)に会い」と「水野下野守(忠政の子、'''信之''')(d-4)にお会いになって」と口語訳に諱が違っているが、一般的には「元」の字の草書体は「之」と近似しており誤記されたものと解されているようだが、2004年10月10日発行とこれらの内最も近年に発行されたものになぜ敢えて'''信之'''との訳があるのか。


F.「解明」
f-1.
「e-1」で、「A」の『信長公記』では「山河の水野金吾」と書かれ、その後に続く記述では、「小河」(a-2)と書かれ、「山河の……」とは明確に分記されていることから、校注者である桑田忠親氏の単なる錯誤や印刷時の誤植ではないものと考えられるが、「B」の改訂版では、単純に「小河」と書き換えられている。改訂版の翻刻について校注者の桑田忠親氏は「かつて小生が編集校注した『戦国史料叢書』のうちの『信長公記』は、町田家本(町田家伝来の古写本全十六巻の完本)をもととし、前田元侯爵家本『永禄十一年記』と、内閣文庫本『原本信長記』を参酌し、交合をかさねたものである。」とあり「なるべく原文の体裁を重んじ、古記録のムードを保存するように、旧漢字、宛字、原文通りの仮名づかいを生かすよう努めた。本書(改訂版)は右の本にさらに“厳密”な校閲を加えて、新たに『戦国史料叢書』の一巻として刊行するものである。」とあることから、この場合は「A」に誤植があったものと解釈されよう。
f-2.
「e-3」に記述の通り、砦の戦時には、忠政は十一年前に他界しており、小河(小川)は、水野信元が父忠政から嗣いだ領地であることから、ここに登場する「山河の水野金吾」は、口語訳にある「“小河の水野忠政”(c-1)の城」および「“小河の水野金吾(忠政)(d-1)”の城」でもあり得ないことになる。忠政の死後間もなくのことであれば名残で呼ばれていたとも考えられるが、十年一昔であり、相当年数も経っていることから、
「忠政の城」と称するのはいかにも不自然と推察される。となれば実質の領主である「信元の城」と解すると「金吾」は「信元」ということとなる。しかしながら、「水野金吾(b-1)」「水野下野守に御参会候(b-3)」「水野金吾(b-4)攻め口なり」水野金吾に仰せつけ(b-5)」とあり、同じの信元のことを「金吾」と書いたり、また「水野下野守」と書き分けているのか。「参会」とは「会合」のことであり、同一身分かそれに近いもの達の集まりであるから、命令を下せる主従の集まりとは解しがたい。ましてや君主が臣下に状況を聴取しに訪れることはあり得ず、信元が信長が野営する場所に赴いてご報告せねばならないことになる。となれば、「水野金吾」は「水野忠政」でも「信元」でもなく、必然的に「もう一人の人物」が存在したということになる。しかもその人物は織田信長に下知される身分で、宗家小川水野家の血縁者であり、また信元の支配下にもあった者ということである。
f-3.
前述のように「金吾」は、信元の目下となるから、忠政の兄弟ではなく信元の兄弟筋と考えるのが妥当のようである。忠政の子については諸説あり、果たして何人の子をもうけたのかも判然としない状況にはあるが、嫡子信元のほかには、近守・信近・忠守・近信・忠勝・忠分・忠重などが居るが、和泉守近守は大高城主であり、この二年後の弘治二年(1556)に没している。近守の嫡男は大膳を名乗っている。信近は藤四郎・籐九郎と名乗り刈谷城を守っており、刈谷城東3.5Kmにある鴫原(刈谷市重原)の山岡構え(砦)が今川勢に攻め取られていることから刈谷を離れることはないと考えられる。忠守は織部と称し、近信は傳兵衛、また忠勝は今川に属しており、忠重はこの時僅か十三歳であり早くから兄信元と折り合いが悪かったと伝えられており、永禄四年(1561)の織田・徳川同盟の直後から家康に属し、天正八年(1580)に信長から兄信元の旧領刈谷を与えられている。
 これら兄弟の内『新訂 寛政重修諸家譜』の系図に「織田内府(信長)に属し……」と明記されているのは、忠政の八男で信元の異母弟に当たる「水野忠分(ただちか)」ただ一人である。忠分は、「天文二十三年(1554)」には信長に仕えており、当時は十八歳の若さであったことから、村木砦の東大手の攻略者であったことに矛盾は感じられない。
さらには、信元の弟で、永禄三年(1560)四月十九日、桶狭間の戦い直後、刈谷城で今川勢と戦い討死した水野籐九郎信近の息子であった信政(初忠高 元茂 藤四郎)があげられるが、その後信元の養子となり、嫡子となったが、果たして村木砦の攻撃時に何歳であったかは不明であり、東大手の戦闘を指揮できたとは考えにくい。


G.「終結」
 ここに登場する「山河の水野金吾」が「水野忠分」であるとは断定できないが、「金吾」については、先日、「佐々木哲学校ブログ版」を開設しておられる佐々木氏に、同ブログのコメント欄でお尋ねしたところ、的確なお答えをいただいたので編集し転載する。
http://blog.sasakitoru.com/200504/article_19.html

<質問>「金吾は衛門の唐名」または「衛門府(えもんふ)の唐名」ということで、清和源氏満政流 (新訂寛政重修諸家譜 第六 巻第三百二十八)の系図にある、水野下野守右衛門大夫忠政は、『信長公記』「村木の取手攻められしの事」の文中に「水野金吾」として登場してくるが、その嫡男、水野下野守四郎右衛門も一説には「金吾」と呼ばれていたとある。またその弟水野藤次郎忠分(ただわけ/ただちか)(同第三百三十五)も「金吾」と呼ばれていたとの説もあるが、こちらは「衛門」を含む名はみられない。当時「衛門」を含む名の人達が全て「金吾」と呼ばれていたのか、または、呼ぶことが可能だったのか。また、「衛門」を含まない名の人達も一部では「金吾」と呼ばれていた可能性があるのか。

<回答>
父祖[父と祖父。また、先祖]が任官していた官職名を、幼名、あるいは通称の一部に使用する場合がある。
 中世までは規則性があったが、江戸時代には規則性がなくなり、自称が多くなる。それは大名や高家、役職にあるもの以外は官職を得られなかったからである。衛門府であれば督・佐・尉・志という四等官にあたる部分を省略すれば、たとえ任官していなくても通称として名乗ることができた。「□左衛門」「□右衛門」「式部」「兵部」「兵庫」「近江」などが四等官に当るところを省略した通称である。逆に官庁名を省いて、四等官にあたる「助」「丞」などを幼名・通称に使用することもできた。つまり江戸時代は、官庁名と四等官が正式なものと完全に一致していなければ、通称として使用できた。唐名もそれに当る。中世までは先祖の官職を名乗っていたが、江戸時代には父祖の官職とは関係ないものもあったと思われる。江戸時代は特別と考えられる。

 以上のやりとりにより、佐々木氏から「父祖が任官していた官職名を、幼名、あるいは通称の一部に使用する場合がある」との裏付けが得られたことで、「水野忠分」が、父の死後、水野下野守右衛門大夫忠政の「衛門の唐名=金吾」を名乗っていた可能性は高いものと思われる。しかし残念ながらこれだけの資料では、村木砦の東大手で戦った「水野金吾」は、「水野忠分」であるとは結論づけ難く、あくまで「一つの仮説」として投稿するものであり、今後の「水野金吾」考察の一助になればまことに幸甚である。

[註釈]
『信長公記』の筆者である「太田和泉守牛一(おおたいずみのかみぎゅういち)」は、織田信長の家臣で、後に豊臣秀吉に仕えており、彼がその体験を通じてつぶさに書き記したものが『信長公記』の大著であり、信長の伝記として最も信頼度の高い資料といわれている。この伝本は諸種あるが、自筆本として伝わっているものは、前田元侯爵家所蔵の『永禄十一年記(1568)』一巻である。内閣文庫所蔵の『原本信長記』は、古写本であり首巻を除く十五巻二冊である。町田家伝来の古写本『信長公記』は、全十六巻の完本として、明治三十四年(1901)、『史籍集覧』第十九冊に収め刊行された。この町田本は、町田久成という人物が秘蔵していた寛永頃(1624--1644)の古写本であり、寛永三年(1750)に牛一自筆本より書写したと称する内閣文庫本『原本信長記』よりも、遙かに古いものである。「A」および「B」の『信長公記』は、町田家伝来の『信長公記』をもととし、『永禄十一年記』と『原本信長記』を参酌し交合を重ねたものである。




小河水野系譜:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95
村木砦址(織田信長篇):http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/65367abc349918370987a21603d6b5c1
村木砦址(海賊篇):http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/a0c605ae53e3c3bd600464fc09a1613f




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