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老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1469;死に寄り添う(中)~母の見送り 中勘助~

2020-03-25 18:28:16 | 生老病死
死に寄り添う(中)~母の見送り 中勘助~



「臨死のまなざし」から教えられたこと(4)

妹を見送った中勘助は、23年後の昭和9年(数え50歳)に母(86歳)の死にあう。
「妹の死から二十幾年を経て・・・・私は母を失う悲しみに
くずれおれてしまいそう」になりながら、最後の息をつく母に語りかける勘助。(『脳のまなざし』60頁)

「夜。冷っこくなった母はこの世につくべき息の残りをしずかについている」(前掲書60頁)
臨終の前日「冷たい手を自分の温い手のあいだに挟んでたらなにかいいたい様子なので
耳をよせる。あした というだけがやっとききとれた。あした死ぬというのかもしれない」
ーのであった。(前掲書60頁)

勘助は、母の最後の言葉を聴き取るだけでなく
母の最後の「ひと息」を引き取るさまをしっかりとみつめていた。

勘助自身、「生まれつき虚弱」で「病身者」であったからこそ、
妹そして母の死に寄り添い、弱い生き物をひたすらみつめてきた。

母は老衰して命を終え、「母を失う悲しみくずれおれてしまいそう」と表現する
彼の言葉は胸に迫り、死に寄り添う姿に涙腺が緩んでしまった。

1468; 「臨死のまなざし」から教えられたこと(3)

2020-03-25 05:09:33 | 生老病死
「臨死のまなざし」から教えられたこと(3)



死に寄り添う(上)

最近書店で、中勘助の『銀の匙』が積本にされ
静かなブームをよんでいる。

中勘助が生まれたのは明治18(1885)年
彼は生まれつき虚弱で、病身者であった。
腎臓病、神経症、脚気、胆石症などを患っていた。

病身者でありながら彼は80年の生涯において、
親しい人たちの死に寄り添ってきた(介護、看取りをしてきた)。

最初に死に寄り添ったのは、5つ違いの妹だった。
妹は22歳、勘助は27歳のとき

{幼い子を残して死んでいった妹の最期を、『妹の死』のなかで勘助は書き留めている。
 妹はは目をとじたままでそのせつない、頼りない・・・・・
「いくら息をしようと思ってもできなくなってしまう。・・・・・」
 そういううちに幾度も息がとまりかける、・・・・。
「誰か息をこしらえてちょうだい」といった。}『臨死のまなざし』57頁~58頁

息することも本当に苦しく「誰か息をこしらえてちょうだい」の言葉がせつなく胸に詰まる。

妹の最後の息は「それでもなにかいうらしく唇をうごかして
自分の顔のまえにかきさぐるような手つきをした。が、間もなく
息をひきとった。最後の息というものはいくたび見ても最後らし
く、そしてよそ目にはせつなそうなものである。」『臨死のまなざし』58頁

妹は病院のベッドで、肺結核で亡くなった。
大正元年の頃の病院は、こんにちのような医療機器はなく延命処置が施されるような
ことはなかった。

本当に勘助の妹のように最後家族の人たちに見送られ、「息をひきとる」さまは、
こんにちの病室で見られることは稀である。

自分も含め、大切な家族とどのような死に方(息をひきとるさま)をしてゆくのか
勘助の妹の死を通し、あらためて考えさせられた。