老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1477; あぶない親子

2020-03-30 19:36:44 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
あぶない親子

大正15年生まれの絹婆様
十年前に最愛の夫を亡くし
いまはひとり暮らし。
焦がした鍋の数も増え
いま食べたことも忘れてしまう。

一月おきに東京に住む息子松任が帰郷する。
息子が帰って来るので本来ならば安心するのだが
反対に心配・不安の種が増え続け、あぶない親子になってしまう。

どんなあぶない親子なのか。
一昨年の暮れ東京の駅ホームで息子は脳梗塞で倒れ救急搬送された。
左半身は軽い麻痺で済んだものの、認知力・理解力は低下した。
にもかかわらず酒煙草をやり放題。

酒煙草を止めるよう注意しなきゃならない絹婆様なのだが
「私も吸いたい、飲みたい」、と息子に訴える。

親子で煙草スパスパ、モクモクで居間は煙で充満
コタツの上は空の缶ビールやウィスキーの瓶がある。

心不全の持病がある絹婆様
不整脈、息切れ、呼吸苦となり息途絶えがち
救急を呼び市内の総合病院に搬送された。

煙草を吸うと本当に死ぬよ、と話しても
息途絶え、胸が苦しくなるまで吸う
苦しくなった老親の状態を目の当たりにしても
理解できない息子

老親から金をもらい
酒煙草を買いに行く息子

入院をきっかけに今後どうするか
考えねばならないが
絹婆様は家で暮らしたい、と言う。
家は自由気儘にできる。

退院後どうするか
本人以上に悩まなければならない・・・・・・