老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1467; 「臨死のまなざし」から教えられたこと(2)

2020-03-24 16:53:14 | 生老病死
「臨死のまなざし」から教えられたこと(2)

「老い」と「病い」

筆者(立川昭二さん)は、『臨死のまなざし』39頁に
「老いには本来、病いと違って自覚症状がない。
人はふつう他人の目のなかで老いはじめる」

80歳後半や90歳を過ぎても、「老い」を認めていない人もいる。
法的には65歳の誕生日をむかえると「老人」になり、介護保険被保険者証が届く。
自分は67歳、老人とは思ってはいない。
ブログには自分のことを「老いびと」と表現することはあるが・・・・。

他の人も同じで、65歳を過ぎても、まだ自分はその年齢よりも
「若い年齢」と思い込み、老いを自覚することはない。

齢を嵩ね往き 親族や友人の葬式の機会が増え
従兄弟姉妹や友人の顔をみて、「老けたな」と思ったりし、
自宅に帰り、鏡の前に立ち、自分の顔をみて、老いを知る。

筆者は、{多くの人は、「老人」よりも「病人」になりたがる}(40頁)と述べ、
「病い」は、引き返す見込みのない不安であり
「老い」は進み、その先には「死」がある。

吉田兼好は『徒然草』第93段のなかで
「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし、存命の喜び、日々に楽しまざらんや」(48頁)

世阿弥は『風姿花伝』に
「一方の花を極めたらん人は、萎れたる所をも知る事あるべし。
しかれば、この萎れたのこそ、その萎れたると申すこと、
花よりも猶上の事に申しべつ」

「花の咲かない草木が萎れたところで、何の面白いこともない。
しかし、花の萎れたのこそ、その花の咲いている時よりも面白いのである」(50頁)

萎れた花を捨てることはあっても、
萎れた花のなかに面白みや美しさを楽しむ、というようことを考えもしなかった自分。

老いは、萎れた人であると表現するものではないけれど、
老い嵩ねゆくなかで、「花の咲いている時より」も、
存命していることに喜び、老いを楽しんでいく。

幸福の尺度(価値観)は人それぞれ違うけれども
ささやかな暮らしのなかで老いを楽しでいくことなのかもしれない。
よりよき死を迎えるために老い生きて往く、
そんなことを「臨死のまなざし」から教えられた。