横尾寛と平和の鳩

横尾寛と清水友陽の「平和の鳩」は札幌で演劇を検証し実践。
清水はいろいろと忙しそうだなあ。

歯並びのきれいな女の子

2010-05-24 | 観劇した
5月21日(金) 19:30 コンカリーニョ

冒頭、古くさい新劇を見てるような気になり、戸惑う。設定を全力で説明しようとする芝居に疲れる。その時点での心情とか人となりが、全て説明されている気がして、疲れる。

あの不条理な出来事に対処する人々が、ひどく薄っぺらに見える。

そして思う。イトウワカナが描こうとしたのは、そうではないはずだと。いや、本としてまだちゃんと描けてはいないんだけど。俳優として、もう少しあるんじゃないだろか。もうちょっと、人のいろいろなすがた(心情も含めて)が現れるべきだと。観ながら、もったいないなあと思う。思うだけじゃくてほとんど呟いていたりする。

だから、途中で“歯並びのきれいな女の子”が自分と父のことをわーわーわーと話す瞬間、芝居として上手いとか下手とかじゃなくて、それぞれの思いを飲込んで、ばらばらの思いでそこにいる人々が舞台上に出現して、唯一救われる。

イナダさんが、「いまどき、死んだ父親に隠し子がいたからって、そんなに反応するかね?」ってなことを言っていた。私もそうは思うが、父の隠し子事件に対してああいう反応をとることが、劇として悪いとは決して思わない。どういう反応を取ろうが、自由だ。どういう人物を描こうが作家の自由なのだ。そのことが問題なのではなく、不条理な事象に対する人々が一面的な存在にしか見えてこないことが問題なのだ。

ああいう芝居は、人物造形のリアリティが命だ。それは、作家としてはそごく険しい作業だと想像する。
あと、俳優は、そういう作家がすべきリアリティ造形作業は引き受けることは出来ないのではないか。とか、思う。

飲みながら、以上のような話をした。とても有意義で楽しかったです。

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