横尾寛と平和の鳩

横尾寛と清水友陽の「平和の鳩」は札幌で演劇を検証し実践。
清水はいろいろと忙しそうだなあ。

gah 「黄色い果実」

2009-03-11 | 観劇した
gahの「黄色い果実」を観た。

ずいぶんやる。
毎日1回ずつ、20ステージくらいやる。
それはいいことだ。いいなあと思う。
観終わった後、ももちゃんとそのことを話したのだけど、やっぱりこういうことは何回もやったほうがいい。そういう試みだ。そういう、検証の作業だ。

1時間50分という時間が、確かに長いのだけど、
あの戯曲には必要な時間なのかもしれない。

それで、またいろいろ考える。

終わって、ももちゃんたちと数人で飲んでいろいろ話す。
俺も、ついべらべらといろいろ話す。
それでまた後悔したりする。
まあでもしょうがない。


群集は難しい。
俳優が自分に向かいすぎる。
いやそれはつまり自分に引き寄せすぎるということだね。
いやそれはつまりつまり設計図を用意してしまうってことさ。
つまり毎回忘れろってことだ。いやいやその忘れるってことができるかできないかってそれは技術の問題になるんじゃないでしょうか。
ちゃんと会話をしたいんです。うんでもその「会話をする」ってこと自体がそもそも曖昧なんじゃないか。会話と対話は違うのか。相手と向き合うってことかいな。向き合うってなんだ。
などどべらべら話してたら深夜になったからすすきのできつねうどんを食って事務所に帰って寝袋で寝る。

もっといろいろ考えたり思ったりしたから、それはまた書く。

千年王國『愛する人を失うという世界共通の悲しみについての物語』

2009-02-27 | 観劇した
千年王國を観た。コンカリーニョ。


以前、橋口と話をしていたときは、彼女の口から「共同体」という言葉がよく出てきて、僕は、演劇というロジックの中での彼女が意図する”共同体”の意味・定義がわからなかった。今、橋口は”共同体”というものについてどう考えているんだろう。

気になるところといえば、どうしても俳優の体が踊ってしまうことだ。身体が、台詞を説明しそうになる。説明したがっているように見えてしまう。そうすると、”ファンタジーを表現するための身体”というふうに見えてしまう。そのことが、この神話としての劇を進行するのに有効に働いているところもあるんだけど。

でも、役者はこの劇をよく体現していたと思う。
なんだろう、ああ、やっぱりこの人も年齢を重ねたんだなあ、と、あるとき思った。榮田さんと村上さんだけど。ひとりの女性が、確かに見えたりした。独立した、”個”としての女性が。それで、この劇団のこととか、橋口のいう共同体というものを考えたりした。詳しく知らないけど、榮田さんと村上さんって多分30歳前後なんでしょう、違ったらすいません。あ、なんかこの人たちこの先いい芝居すればいいな、できるんじゃないかな、と思った。今、なんというか、役者としての転機なんじゃないかって。ほんとに大変勝手な、余計なお世話なことですが、そのように思いました。

村上さんと赤沼くんペアのありかた、それと重堂くん坂本さんの居かたが、僕がこの劇を考える軸になっている。村上・赤沼は”些細なエピソードの人”、重堂・坂本は、つまり見守る人だ(最後は未来を引き受ける二人なんだけど)。見守るんだよな。見てるんだよな。どうやって、見てるんだろう。どうやって居るのだろう。そういうことに、そのリアルさに、人は敏感だと思う。

ファンタジー。
橋口って、よくこんなこと考えるよな。よく思いつくよな。
で、ファンタジーを語る手口はどうだ。
役者がファンタジーを体現するって、難しいな。
役者にファンタジーを体現させる、言葉と身体で体現させるって、難しいな。

もう一回観たいな。観れるかなあ。

ぐるぐる地獄

2009-02-16 | 観劇した
舞台塾の「ぐるぐる地獄」をみた。

今回のは”リーディング公演”だという。だから、本を手に持って芝居は進む。

リーディング公演というものが一体何であるか、ということはどうでもいいのだが、問題はなぜその形の上演を選んだのか、ということだ。その意図だ。
で、観ながら、面白くないからいろいろ考えた。

①本を読みながら動きもそれなりにつけて上演するというスタイルを新たに確立、模索する。
だとしたら、”人間が文字を声に出して人前で読む”、という行為についてもっと考えたほうがいい。
多分、台詞は既に覚えてしまってるんだろうけど、読む、という行為の見せ方がいかにも雑だ。顔を本に向けて声張り上げりゃいいってもんじゃない。あれは、朗読、というスタイルの下手な模倣でしかない。幼稚だ。他の動きや何やらの要素がいろいろある分、余計に”リーディングをしている人々”ってのを類型的に演じてる人々に見える。幼い。

②とりあえず、リーディングというところでとどめておいて、本の内容や可能性をアピールして次につなげる。
だとしたら、なおさらもっとちゃんと読まないと、本がかわいそうだ。
アニメのアテレコじゃねえんだからよう、冗談じゃねえや。
芝居が出来ると思ってる役者にリーディングなんかやらせると、ああなっちまうのは仕方ないのか。
それは、なんでしょう、芸ってやつかね。
芸じゃないと思うぞ、俺は。

客を馬鹿にするな、とは思わない。どんどん馬鹿にすればいいさ。だけど、人前で言葉を発するという行為の怖さくらいは知っていたいと思う。怖れをもって、やりたい。
あと、客は確かに馬鹿だけど自分と同程度にはかしこいかもしれないな、くらいのことは考えておいたほうがいい。俳優も。


リーディング公演がなんであるか、なんてことはどうでもいい。
”リーディング公演です”、そんなエクスキューズは不要だ。
”リーディング公演です”というアピールなら、すればいい。
で、なぜそのスタイルを選んだか、だ。
舞台上にそれを出現させたものの意図だ。その意図に興味がある。

興味は、それを出現させたものの意図にある。

SKグループ『アイドゥーアイドゥー』

2009-02-12 | 観劇した
SKグループ『アイドゥーアイドゥー』観劇。
次の下北沢でのコンクールの参加作なので、1時間の作品。

すがのが描いたクレヨンの絵がいい。美術もよかった。

人物の会話が、もう少し閉じた芝居(演技)だったらいいのにと思った。
どうしても客席に対して開こうとしているように見える芝居になってしまう。
人物同士でもっと完結して欲しい。言葉が、客席に向かって散っている。
後ろめたさとか、エロさなんかが、人となりが、もっと出るはずだ。
それを、いわゆる”キャラクター”として表現しようとするのではなく。
すがのの書いた言葉は、俳優も、演出的にも、もっとやりかたがあるのではないかと思った。

屋根裏だしな。急いで仕込んでるから、水性ペンキの匂いとかするし。
にじみ出てしまった情緒みたいなもの。愛みたいなもの。
この本は、練ればもっと良くなると思う。
面白かった。

エビバイバイ「つむぎブギウギ」

2009-02-06 | 観劇した
ちょっと前だが、エビバイバイの「つむぎブギウギ」を観た。
斎藤麻衣子が作・演出。

本が厳しいなあ。
エビは、第一作からムーブ中心みたいなつくり方をしていて、それはHAPPで一緒にやってたときの細木と麻衣子の興味の方向もやっぱりそうだったし、エビで「踊りに行くぜ」に出たりしてるから、まあ、動きのほうに興味があるんだろ。
で、今回は麻衣子が本を書いたという。
本が厳しい。
少なくとも舞台上で語られるべき言葉ではない。

舞台には天井にストリングがいっぱい張り巡らせてあって、床にも毛糸球の親分みたいのがたくさんころがってて、それがチラシにもあるように「こんがらがって、からまって」のイメージになっているのだが、残念ながら人物と人物が少しも絡まっていない。むしろ、すり抜けている。すり抜けてしまっているように見える。
だからといって、否応なしにすりぬけてしまう人間と人間を描くとか、すり抜けるために企む人物を描くとか、そういうことにもなっていない。言葉がね。

もっと悪い言い方をしてしまえば、言葉が、せりふが、ショウの時間を埋めるためのものになってしまっている。ショウの進行のために奉仕しようとして書かれているように見える。・・・言いすぎかなあ。言い過ぎだな。
動きの部分とかは、作品のなかでの必然性で言えば必然性があるとはいえないのだけど、動きがだめとかそういうことはなかった。

エビは、難しいことをやろうとしている。
でも、動き・ムーブの部分と言葉を合わせて演劇として成立させるには、相当な腕力か技術か知恵、それとビジョンが必要だと思う。

昨年清水のWATERのを見たときに思ったのは、ムーブのときの俳優のありかたと言葉を発するときの俳優のそれの差異というか、意識レベルの開き。「ああ、やっぱりこのひと(俳優)は、台詞をしゃべりたいんだなあ、パリっとしゃべりたいんだなあ」って思ってしまった。
今回のエビで思ったのは、それとは違う。
本のレベルで、言葉と動きが乖離している。


・・・・人のを観てあれこれ考えるのは、ためになるなあ。




TPS養成所卒業公演「足のある死体」

2009-02-06 | 観劇した
養成所の「足のある死体」(作・別役実)が今日から公演なのだが出張で観れないから、通し稽古を観た。

難しいねえ。
演出が指定した間(ま)が、ああいう形で現れてしまうということは、それは結局言葉による会話の部分も成立していないということになってしまうんじゃないでしょうか。
埋めればいいってもんじゃないけれど。
でも、間として成立していないというのは問題だ。
埋まらない間も、ある。埋まらない時間もある。成立しない会話・対話も、ある。そして演劇は、それを含めて演劇として成立しているべきだ。時間は流れるはずだ。

そうだ。そうなのだ。
演劇は、時間の流れに対して慎重であるべきだ。演劇は時間を扱う芸術だ、などと言えばかっこいいが、でも、そうだと思う。

そーいえば、演劇大学の時に青井さんが「優れた戯曲は加速する」ということを言っていた。

役者が時間をどう扱えるか、ということは、今はわからない。
でも、どの時間の流れ中で存在しているのか、間違った時間の中に存在していないか、そのことの検証は常に続けなくてはいけない。

見てよかった。
時間の流れに慎重になろう。
いやあ、観てよかった。




劇団東京乾電池『秘密の花園』

2009-01-10 | 観劇した
東京で仕事で、夜は下北沢で東京乾電池の『秘密の花園』を観る。
唐十郎作の『秘密の花園』は、本多劇場の杮落としでやった芝居で(もう何十年も昔の話だ)、そのときは柄本明さんが”アキヨシ”という主役をやっていた。俺もビデオで見たことがある。
今回は角替和枝さんが演出。

素晴らしかった。
唐さんの台詞の美しさとか、ぶっ飛んでるところとか、本の凄さがもちろんあるのだが、その本を本当にまっとうに検証して舞台にした和枝さんたちの、本当にまっとうな舞台だった。
ここしばらく東京乾電池と仕事でずっとつきあってきて、その試みというか演劇に対する志はちょと感動的であったりするのだけど、今回の『秘密の花園』では、唐さんの本を一旦リアルな方に引き寄せて正面から検証するという試みが、東京乾電池という劇団の作業としてすごくまっとうになされていたと思う。なんて、ここで書いてもよく分からないと思うが。とにかく、東京行く用事ある人は観たほうがいいです。残りあと8日間くらいかな。

こういう舞台は、劇団でしか作れないものかもしれない。とにかく、今の東京乾電池がそのまま出た舞台だった。
作ること。検証すること。
僕の思い違いだったっらあれだが、演劇を検証すること、それが東京乾電池のやっている、やろうとしていることなのかもしれない。

観たあと、柄本さんと飲みに行くことになったのだが、丁度唐さんも観に来ていたので、唐さんも一緒だった。
唐さんに会うのは初めてだったので俺は緊張してほとんど話せなかったのだが、本物の唐さんの話を聞いているだけで、それは大変劇的な時間だった。酒の味なんか分かりません。
明後日からの演劇大学では唐さんの「少女仮面」も読んでみるのだが、そんなこともあり、なんかうれしかった。

唐さんたちがお帰りになったあと、柄本さんと乾電池の人々と改めて飲む。ほっとしたので、またたくさん飲んでしまった。









TPS『秋のソナチネ』

2008-11-28 | 観劇した
TPS「秋のソナチネ」を観た。
ガンマイクを最前列で狙いながら。撮影の録音をしていたのだ。

面白かった。観て欲しいので詳しくはアレだが、ああなると、やっぱりそこから先は役者の問題になってくるなあ。
こいつのことを想像したい、と思えるかどうかということに。二組の兄妹が出るのだけど、説明はほとんどないから、あとは、その隙間を想像させるしかないのだ。
だから、同じくTPSの「春の夜想曲」の金沢碧さんはやっぱりすごかった。彼女の役に対しての説明はほとんどないのだけど(今回の登場人物同様)、それでもこの人のことを想像してみたいと思わせるものが、やっぱり碧さんにはあった。で、碧さん、体現しちゃうんだよな。すごいな。

役者を観て、想像したい。
それは、役者が観客の願いを引き受ける、背負う、というのとはちょっと違うと思うが。そこら辺を間違えると残念なことになる。

佐藤は、よかった。じょうずだった。芝居がじゃなくて、芝居のなかでやる、ある作業が。あと、木村。うん、木村くんね。

観てみて下さい。