Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

音、無音、神音、禅音Sound, Mute, Divine sonic, Phonic-Zen

2019-02-12 | 坐禅

音に規律があると音楽になる。

When a sound has discipline, it becomes music.

規律の無い音を騒音という。

A sound which has no discipline is noise.

音が届かないところは真空、大気圏外にある。

The place where sound cannot reach is near a vacuum,

the outermost atmospheric layer.


音は空気の振動によって波打ち、

人の聴覚に触れて聞こえる状態になる。

Sound waves vibrate in the air,

and we hear it only when it touches

auditory sensor in the body.

波長が体の感覚器官に同調し、

気分と調和し同化すると

人の感覚は動きによって

音で感動できる状態になる。

The wavelength synchronizes to body sensory,

assimilating,  harmonizing with feeling

as our senses become impressed by sounds.



私は絶対的な無音の空間にいたいのだが、

それができない。

I desire to stay in an absolute muteness but cannot.

耳鳴りが激しく、

キーンとする金属的な音が絶えないからだ。

Because my ears have been ringing terribly

and it is like a metallic keen sound.

だから、常に何かを聞いていないと

その鋭い音で気が狂いそうになる。

To avoid being driven crazy

by the sharpen sound,

I always need something to listen.


日本に住んでいた時は、

国道16線沿いにマンションがあったから、

常に車の騒音に悩まされた。

When I lived in Japan,

my house was close to Route 16,

which had constant heavy traffic,

so I was always annoyed by the car noise.

家の全ての窓を遮音カーテンにしても夜中になると、

車のエンジン音が余計に重くなり振動になって響いた。

Even though closed all the windows with sound proof curtains,

at night the car engine sound became excessively heavy,

and it vibrated with echoing.

その苦しい騒音を紛らわすために音楽を聴き始めたのだが、

ピアノ音はなぜか耳鳴りを余計酷くした。

 To shake my mind off from the painful noise,

I began to listen music,

but somehow piano sounds made more terrible ringing in my ear.

私の耳鳴りの波長より高い音域の音楽でないと

効き目が無かったようだ。

It seemed that the wavelength must reach to higher range

than my ear ringing otherwise the music didn’t work.


そのなかで、ヴァイオリンの音は私の脳裏を貫ける感じがして、

聞いている間は耳鳴りを忘れることができた。

Violin sounds enabled calm throughout my mind

so I was able to forget my ear ringing while listening to it.

特に、チェロの音は私の胸辺りまで響き、

私に頭があることを忘れさせてくれた。

Cello, most of all, resonated to my heart

and made me forget brainy thoughts.


仕事関連のストレスがあった時、

チェロは狭く縮まった私の気分を

伸ばせ緩やかにしてくれた。

When I had stresses related with work,

cello smoothly stretched my feeling out

which were tapered and shrink.

私の意志がストレス要因に縛れて解けない時にも、

チェロの音はその縛っている何かを解き放してくれた。

Even when my will could not untie the bond

which were captured by stress factors,

cello sound could unleash something tight.


仕事の精神的なストレスは

想いが作った心の騒音の一種かも知れない。

Work related stress in mind

might be made from noisy thoughts

that seemed to categorize mental noiseness.

その心の騒音は音律のような規律によって音定律になり、

聞くのに易しくなる。

That noisy mind is arrested by the discipline of tune or tempo,

and it becomes easier to hear.



以前、南直哉師から坐禅の指導を受けた時に、

『外部から聞こえる音をただ聞こえている状態にする』と言われて、

音から一気に解放されたような気持ちになったことがあった。

A while ago, I had one-time training for Zazen practice

led by master Minami Jikisai,

who taught me how to deal with a sound.

He said that “Let the outside sound be heard as it sounded”.

When I was told that I felt freed from noise at once.


また彼は『音が耳から入ってそのまま出ていくようにする』とも言った。

He also said that “Let the sound get out from ears as it come in”

彼の教えは長年騒音に苦しんだ私を実際に救った。

His teaching actually saved me from the noise

that made me suffer for long years.


今も耳鳴りは激しいが、

それに苦しむことは無く、

他の音楽で殺そうとしなくても気に病まなくなった。

Even now my ear ringing is still harsh,

it neither annoys me nor makes me feel sick anymore,

regardless of whether I kill the noise or not.

ただ、『聞こえている状態にする』だけなのだが、

それはそう簡単にできることでない。

Of course, the status of “Let it be heard” sounds easy,

but it is hard to make real.


その騒音を気にしないために

意識が向きすぎる時もある。

There are times when I am too conscious

not to mind the noise.

その時は、坐禅の時間を持つようにしている。

At such times I try to do Zazen for the moment.



音に人間の意志が及ばない領域を神の音とするならば、

それは何だろうか。

If there is divine range

where human’s will unable to reach,

how we will define the sound?

人間が作り出した音が及ばない空間

There is space where

human made sound can never reach.

宇宙の真空を超える空間音

But the sound of space

which surpasses vacuum of the universe.  


それが神の音

That is the sound of divine.

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16 Comments

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Unknown (ZIP)
2019-02-13 11:44:48
仏教では受け取っても受け入れない、
ということが肝心なわけです。
受け取っても放下するだけです。

でも音楽はそうはいかない。
受け入れてしまいます。
返信する
入れ、容れる (To:Zip)
2019-02-13 13:51:56
心理学のカウンセリング論では
受け入れる
受け容れる
それら二つを分けて使っています。

受け入れることが物質的に交換の意味を持つことに対し、
受け容れることは、受けて取ったことを溶けいることを意味しているようです。

受け入れると
出ていくことに因果しますが、

受け容れると
溶けたものが自然に流れでる感じなので
同じ因果ではありますが、
実りに似た因果につながります。

この教えに接してから
(20年以上の前ですが)
受けることに気を払うことになりました。

音楽は受け入れて、容れてしまわれるものでしょうね。
返信する
Unknown (榮久)
2019-02-14 04:58:12
チューニング

ご承知のように西欧音楽の音会わせ(チューニング)は
オーボエが吹くAの音です

和楽器というのか伝統楽器には「チューニング」はありません
例えば、小鼓、大鼓、小さい音(ドン)、ドンよりやや大きい音(ツ)
強く響く音(チョン)の3つの音が基本。
手首のスナップや打つ力の強弱、打つ指を使い分けて3つの音を出し
調子を見ながら合わせていく「打合せ」です
能管は最初に音取り(ねとり)といって基本的な演奏をし
それぞれの違いを絶妙にアソシエーションしてゆくのが日本の芸能であり
お祭りです

虫の音を聞き分けるのもアジア、なかでも日本
無くなろうとしていますが
返信する
和の音 (桂蓮)
2019-02-14 08:04:43
日本にいた時、
和太鼓の音に魅せられ
コンサートによく出かけてました。

『血が湧く』
和太鼓の音を表現するなら
血に例えるしかないでしょう。

エリックが日本に来た時も
和太鼓コンサートに連れて行ったりしましたね。

和太鼓は
日本の心臓でしょう、きっと。

栄久さんのコメントは
私にインスピレーションを提供してくれますね。

忘れてしまったことや
置き去りにしてきたこと

気がつけなかったこととか
気を配れなかったこととかに

眼を向けることにしてくれます。

その導きに感謝しております。
返信する
Unknown (りひと)
2019-02-14 13:47:41
最新記事も癒されます。
耳鳴りは苦痛ですけど、それに対処している心の動きも表現されていて勉強になります。
日常生活では色々な音、また座禅や瞑想でもいない限り無音は実感出来ませんね。

生活の中にそれを取り入れるときっと音への関心も変わるのでしょう。虫の音や波の音、久々に聞けばうわあ嬉しい発見のようになってしまっています。音にも人間は左右されているのでしょうね、すっかり気付かずでした。

私も弦楽器の音が好きです。家族は太鼓が好きなようです。どちらも波なんですよね。伝わり方は違うのでしょうけど波動なのです。音も言葉も波動、自分が動くきっかけそしてどう動くかも自分を通して大きくなることも小さくなる事もある。

なんか真剣に物事を考える時間ってすっかりなくなってしまっていましたが、それを考える時間はとっても癒されます。文章も音楽のように流れてくるんですね。
波動いっぱい感じましたよ。
大変な事もありますが、出来るだけ心が居心地良い状態を作るきっかりを独自に生み出していきたいですね。
返信する
Unknown (りひと様へ)
2019-02-14 16:09:38
言葉も『波動』でしょうね。
水の結晶体も言葉の波動によって
分子構造が変わるようですね。

山奥の清い水を飲むと
瞬時に爽やかな気分になれるのは
その水の分子構造が水道水と異なるからでしょうね。

清い文章も読むと
よどんだ気持ちが晴れたり
爽やかな気分を感じられるから
言葉も波動であるという見方に同感できます。

りひと様とは
最近、ノボルックさんのブログで
コメント交わせなくなりましたね...

最近、メントを徹底して最小限にしているからでもありますが、
人との関りを極限に少なくしているのが大きな理由です。

ですが、こんなにりひと様から
静かなサポートを頂くと
コメント制度も結構、こころ安らぐものかなとあらためることもできますね。

また、コメント頂けたら
私の沈んだ気分の浮き上がるかなあと思ったり、
兎に角、コメント頂きありがとうございます。

人の縁はふしぎですね。

返信する
Unknown (榮久)
2019-02-16 07:20:48
音楽・詩 ・詞 ・唄・歌

万葉集、古今和歌集・・・
1400年ほど続く短歌、国民の十人に一人が俳句をつくり
百人に一人が短歌をつくる、江戸時代は連歌など言葉で遊ぶ
言葉のボール投げ合っている文化、想像力の遊び
そんな暮らしが他人への想像力「思いやり」を育むのであろう

最近ではTV、スマホ、SNS 機能的≒能率的な言葉
言葉の飽和状態のあとの瓦礫のようにも

たまには氾濫する情報の一切を閉ざしてみるのもよい
洞察のための言葉は自ら発見してこそ
これを身につけるものですから
返信する
?? (栄久さまへ)
2019-02-16 12:38:20
意見をききたいことがあって

『幽霊と枯れ尾花』
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/b34a07f750a282c02f08ebadb9a34356

上記の記事からここの記事へのリンクアクセスがありました。
リンクしてきた人が誰であれ、
私の記事と恐山記事内容に
何か、関連があるのかどうか、
栄久さんの意見を伺いしたいです。

普段はあまり気にしないですが、
記事を書いた時に
言いたいことを決めつけると
誰かの反感を買うのではと気になりましたが、
それを無視して
言葉を決めつけてかきました。

リンク先を残してくれた人は
私のその迷いに眼を向けるよう、促しているように
思えます。

以前は、他のブロガーが私の記事や私を種に書いても、あまり気にとめなかったのでしたが、
なぜか、振っておけないので...

返信する
Unknown (りひと)
2019-02-18 19:46:47
本当心の清い方ですね。こちらが癒されますよ。
みんな自身満々すぎて揺らいだりもしない。
けどhasunohanaさんは人に合わせて揺らいだりして合わせてもくれる。知識のない人間にもとっても温かく優しく教えてくれる。日本語でいうと奥ゆかしいってのがぴったりです。もっと自信持っていいはずですよ。

そう縁って不思議ですよね。
あと何だっけ?大事な事忘れた気がします。
お邪魔かな?

そうそうお水は確かに分子構造変わるらしいですよ。
日本語のことわざで魚心あれば水心って言葉があります。なので嫌いって思っても頑張って好きにこちらからなってアプローチしたらもちろん大抵はそれが伝わりうまくいくはずです。ただね、それでもどうしても心開いてくれない人って多分嫉妬ですよね。例えばツイてるちかツイてないとかの嫉妬。これは本人達の問題で解決出来るもんではないのでそう思うと解決は自分でする必要ないはずですよね。なので私そういう理解で辛い状況も楽しんでいますよ。どんな経験もそう簡単には出来ない物ですから全てが貴重ですもん。

そうお水って波動に敏感なのでしょうね!とっても理解出来ます。そうそれを人工的に作るのは作れますけど、自然の地形や土壌から出来たお水とは波動も分子構造もきっと違うので身体や心への影響は絶対に違いますよね。

私、多分お水の聖地に行ってお水飲むよりもこちらにくると癒されているように思います。善良な波動を分け隔てなく与えるって普通の方は出来ないと思えますので。

お水って本当色々な物を伝えるんですよね。
言葉もまさにそう。英語を勉強しようかな?英語出来たら狭い世界から飛び出せますもんね。日本人ももっと視野広げないと先入観と島国の常識で大事な物なくして命まで危機にならないように、どうぞhasunohanaそちらから見守ってくださいね。
返信する
Unknown (榮久)
2019-02-19 07:14:56
枯れ尾花

リンクした意志は本人だけが持っています

しかし、なんだか卒業アルバムを思い出すような当時の桂蓮さんのコメント

桂蓮さん曰く『サイコロを振ってみて出る数字の確率を見てみたかった遊び心もあったから』という感じが
今回の答えでしょう
先生現役の頃でしたら、きっと『そんな子もいるよ』程の事が
冬景色のなかでマイナス気分になったのではありませんか
トウシューズを履いて身体を動かすと心も解れますよ
哲学に正誤が問題でないのは、誰も詩句に正誤を求めないのと同じです

また、そのブログで『道元禅師の言う「非思量」とは、幽霊でも枯れ尾花でもない、
存在の手前を露わにする行為と言えるでしょう。
「ある」も「ない」も無効となり、ここにおいて「無記」を実践的に担保するわけです。』
が「枯れ尾花」の結論でした。

南さんの文章を再読すると当時とまた違う視点での気づきがありました。
ありがとうございました。
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