Byodoin Temple, Uji City, Kyoto Pref.
さてさて、平等院を訪れたワタクシ達は、改めて鳳凰堂の美しさに感嘆していました。
鳳凰堂を建立したのは言うまでもなく藤原頼通なのですが、この頼通の人生というのもなかなか興味深いんです
。

藤原頼通は、藤原道長の長男として992年に誕生しました。朝廷で圧倒的な権力を持つ父の力によって異例のスピード出世を遂げていき、
わずか26歳で摂政の地位につくのです。ですので、頼道は生涯を通して道長には頭が上がらなかったようですね
。

当時、摂政に就任するのは、天皇の親族や配偶者というのが一般的でした。そのため、藤原道長は66代一条天皇の妃となった藤原彰子を筆頭に、
4人の娘を次々と天皇へ嫁がせています。こうして、藤原道長は娘達に将来の天皇となる男子を産ませ、
自らは天皇の「外戚」となることで摂政の座を手に入れたのです。ちなみに摂政は天皇が幼少時に、関白は天皇が成人した後も
名目は「天皇を補佐して」ですが、実質的には天皇に「とって代わって」政治を行う役職です。
藤原氏が摂政、関白を独占したことから、この時代の政治を「摂関政治」と呼ぶわけですね
。

摂政となった頼通は、その後3人の天皇の関白を務め、実に52年間も関白の地位に就いています。
藤原頼通は道長のように天皇の外戚であり続けるために、一人娘の藤原寛子を後冷泉天皇へ嫁がせました。
しかし期待していた男子には恵まれず、これが摂関政治の終焉につながったとされます。
関白を務めた3人の天皇が亡くなると、自分が影響力を及ぼすことができる天皇がいなくなり、藤原頼通の権力は弱まります
。

そして長年対立してきた、尊仁親王が71代後三条天皇として1068年に即位しました。
後三条天皇は約170年ぶりに誕生した、藤原氏と血縁関係がない天皇でした。
後三条天皇は藤原氏に遠慮することなく政治改革を推進。政治の実権を天皇の手に取り戻していきます
。

一方、藤原頼通の時代には、それまで表面化しなかった問題が次々と噴出します。
1028年、上総国(現在の千葉県)で国司の圧政に不満を持つ平忠常が反乱を起こします。
藤原頼通は討伐軍を送ることを決めますが、縁起の良い日をわざわざを選んだため実際に派遣されたのは約40日後というありさま。
その間に勢いを得た反乱軍との戦いは長引き、鎮圧まで3年を費やしました。
この辺りは「迷信」「陰陽道」などを盲信していた平安貴族らしいと言えば、「らしい」ですね
。

1039年には比叡山延暦寺の内部抗争がもとで、僧兵が藤原頼通の屋敷に火を放つという事件も起きています。
東北地方では、豪族の安倍氏の朝廷への反抗による「前九年の役」が勃発します。1051年から12年間にわたって戦いが続きました。
当時、地方には朝廷の力が及ばず、また朝廷の貴族達は一族の出世ばかりに目が向いていたため、地方が大いに乱れ治安が悪化。
やがて武士の台頭を招くこととなり、世の中は貴族から武士(平氏や源氏)の時代へと変わっていくのですな
。

こう書いていくと、藤原頼道という人が幸せだったのかどうか、ワタクシは疑問に思ってしまいます。
ワタクシなどは父親が出来の悪い人物だったので、父親は反面教師ではありましたが、父親から指図されることが無かったのは
気楽と言えば気楽だったのかもしれません
。
使用したカメラ:4、5、8枚目はFUJIFILM X-T30、他はFUJIFILM X-Pro2
世の中には「権力志向」が強い人と弱い人がいますが、私は全くと言っていいほど権力志向がありません。
ですので職場においても上の人に取り入ることも媚を売ることもなく、派閥的なものにも全く無頓着でした。
そのために損をしたこともあったのでしょうが、それでよかったのだったと思っています。
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さてさて、平等院を訪れたワタクシ達は、改めて鳳凰堂の美しさに感嘆していました。
鳳凰堂を建立したのは言うまでもなく藤原頼通なのですが、この頼通の人生というのもなかなか興味深いんです



藤原頼通は、藤原道長の長男として992年に誕生しました。朝廷で圧倒的な権力を持つ父の力によって異例のスピード出世を遂げていき、
わずか26歳で摂政の地位につくのです。ですので、頼道は生涯を通して道長には頭が上がらなかったようですね



当時、摂政に就任するのは、天皇の親族や配偶者というのが一般的でした。そのため、藤原道長は66代一条天皇の妃となった藤原彰子を筆頭に、
4人の娘を次々と天皇へ嫁がせています。こうして、藤原道長は娘達に将来の天皇となる男子を産ませ、
自らは天皇の「外戚」となることで摂政の座を手に入れたのです。ちなみに摂政は天皇が幼少時に、関白は天皇が成人した後も
名目は「天皇を補佐して」ですが、実質的には天皇に「とって代わって」政治を行う役職です。
藤原氏が摂政、関白を独占したことから、この時代の政治を「摂関政治」と呼ぶわけですね



摂政となった頼通は、その後3人の天皇の関白を務め、実に52年間も関白の地位に就いています。
藤原頼通は道長のように天皇の外戚であり続けるために、一人娘の藤原寛子を後冷泉天皇へ嫁がせました。
しかし期待していた男子には恵まれず、これが摂関政治の終焉につながったとされます。
関白を務めた3人の天皇が亡くなると、自分が影響力を及ぼすことができる天皇がいなくなり、藤原頼通の権力は弱まります



そして長年対立してきた、尊仁親王が71代後三条天皇として1068年に即位しました。
後三条天皇は約170年ぶりに誕生した、藤原氏と血縁関係がない天皇でした。
後三条天皇は藤原氏に遠慮することなく政治改革を推進。政治の実権を天皇の手に取り戻していきます



一方、藤原頼通の時代には、それまで表面化しなかった問題が次々と噴出します。
1028年、上総国(現在の千葉県)で国司の圧政に不満を持つ平忠常が反乱を起こします。
藤原頼通は討伐軍を送ることを決めますが、縁起の良い日をわざわざを選んだため実際に派遣されたのは約40日後というありさま。
その間に勢いを得た反乱軍との戦いは長引き、鎮圧まで3年を費やしました。
この辺りは「迷信」「陰陽道」などを盲信していた平安貴族らしいと言えば、「らしい」ですね



1039年には比叡山延暦寺の内部抗争がもとで、僧兵が藤原頼通の屋敷に火を放つという事件も起きています。
東北地方では、豪族の安倍氏の朝廷への反抗による「前九年の役」が勃発します。1051年から12年間にわたって戦いが続きました。
当時、地方には朝廷の力が及ばず、また朝廷の貴族達は一族の出世ばかりに目が向いていたため、地方が大いに乱れ治安が悪化。
やがて武士の台頭を招くこととなり、世の中は貴族から武士(平氏や源氏)の時代へと変わっていくのですな



こう書いていくと、藤原頼道という人が幸せだったのかどうか、ワタクシは疑問に思ってしまいます。
ワタクシなどは父親が出来の悪い人物だったので、父親は反面教師ではありましたが、父親から指図されることが無かったのは
気楽と言えば気楽だったのかもしれません


使用したカメラ:4、5、8枚目はFUJIFILM X-T30、他はFUJIFILM X-Pro2
世の中には「権力志向」が強い人と弱い人がいますが、私は全くと言っていいほど権力志向がありません。
ですので職場においても上の人に取り入ることも媚を売ることもなく、派閥的なものにも全く無頓着でした。
そのために損をしたこともあったのでしょうが、それでよかったのだったと思っています。
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新緑が綺麗。
青もみじが素敵だな~って
思いました。
もみじは秋の紅葉が一番だと思ってましたが
新緑もなかなか良いです。
日付が変わる前にポチしてあります
新緑が眩しいですねー。
いい季節だわ♪
あたしは藤原鎌足が何故か好きです。
大化の改新が社会で最初に習う大きな出来事だったからかなぁ?
同じ理由で卑弥呼も好きなのかも(笑)
ポチ⭐︎
遅くなったので
とりあえずご挨拶☆
写真見せていただき感服しています。
それに歴史の勉強もしました。
そうなんですね〜凸
こういうブログを書いていいると、さらに勉強になりますねー♪
それにしてもここ平等院鳳凰堂で出会った宝相華の柄がステキでずーっと気に入って諸々持ってしまっています。
応援ポチです。
今日は仕事でさっき帰ってきたばかりなので
ご挨拶のみで失礼します
応援です☆
湿気がないから気持ち良いです(^^)/
嫌ですよねぇ(苦笑)
私も巻き込まれずに過ごしたいです。
海洋堂は本当に凄いのです。
この本は滅茶苦茶
良き本でしたd(゚д゚*)グ
いつの日かそのミュージアムに
行ってみたいです(੭ˊ꒳ˋ)੭✧
今週は仕事がバタバタして失礼ばかりですみません🙇♂️
平等院は何度か行きましたがいつみても素晴らしいですね~もう一度
行ってみたいです(^_^)v
良い週末をお過ごしくださいね😍
よく源氏物語なんて書かれましたよね
私は枕草子のが好きでしたが(*´з`)
なので紫式部より清少納言、
藤原彰子より藤原定子派でした
まー 女子中学生の頃の感想ですが^^;
覘いてみたいですねぇ☆
応援ぽち。
よっちゃんさんのおかげでこの時代の藤原氏の事がよく解り面白いです♪
NHKのドラマも面白く見られそうです♪
とーたんも上司に取り入らない人でした・・・苦労もありましたが今となってはよかったと思ってます
☆!
池に映り込んだ鳳凰堂も
美しいです。
宇治にも何度か行きました。
平等院をはじめ、源氏物語ゆかりの地、宇治陵など結構回りましたよ!
角度構図で いろいろなパターンに なるものいい
日本史の授業でならいましたね。
思いだしました。
何時の時代も人間は権力というものを欲しがる生き者なのですね。
令和になった現代も全く変わっていません。只の名もなき庶民にしかすぎませんので、執着も失う怖さもありません。(笑)
亡き母が「平凡が一番幸せ」と言った言葉を思いだしました。~ー~
藤原氏の説明を読むと、私はどうしても
皇后の父を思い出してしまいます…。
自身のことよりも民の為…という考えにはならないのが常なのですかね。
偉大な父を持つと、ずっと頭が上がらずに過ごしていかなくてはならないですね
鳳凰堂、ホントに美しい造りですね~
今日はご挨拶程度ですみませんm(__)m
凸
日本史で学んだ事が走馬灯のように思い出されます。
内容までは覚えていませんが。
大人になって もう一度興味があれば勉強すると頭に入るのでしょうね。
ランキングup
ですね〜凸
本当によく勉強をされています
毎回なるほど…です
💻先日はコメントや応援ポチを頂き編集や投稿の励みに成り感謝と✌です!
@☺@今日は「懐かしの平等院」を紹介して貰い楽しみました。👍&👏のブログですネ!
☆彡今日の「にほんブログ村」と「😍&👍&👏」ポッチOK!
*👴*今朝もMyBlogはアップしてますので遊びにお越し下さい!<welcome>
🎥を見て頂いた感想コメントも宜しくお願いしますネ。
🔶それではまたお伺いします。👋~!
世も乱れるというもの。
これって我が党の利益ばかり願って‥
と似ていませんか。
藤原頼通の生涯を
平等院のお写真を見るのも忘れて(笑)
面白く読ませて頂きました
全くと言っていいほど(^^;)知りませんでしたが
こんな立派な平等院を残されたのは
凄いです
今日も勉強させて頂きました
緑の時期の鳳凰堂の美しさに 圧倒されるほどです
有難うございました。
よっちんさんの画像には珍しく
人物が映り込んでるのがありますね。
季節の良い京都はどこも観光客で
溢れていたようですから仕方ないですね…💦
パチリに苦労されたのでは…^^
☆
青紅葉も今ならではの色合いできれいですね
また水に写る鳳凰堂も良い雰囲気
どの角度も、美しい。
今日は、歴史の勉強をさせてもらいました。
学校では習わない事も、分かりました。
勉強になります。
凸
改めてそう思いました。
良い勉強になりました。
藤原頼通は父である藤原道長に
生涯を通じて頭が上がらなかった
のですね。
それほど偉大な父だったのですね。
やっぱり、美しいですよね~鳳凰堂。
TVでは外国人観光客の賑わいは、清水寺などは何時もやってますが、平等院は雨りみませんが。
まあ、今は観光客が多くてじっくり回れないのがちょっと残念かも