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ヨシュア記14章 主に従い通したからである

2022年04月15日 07時12分12秒 | ヨシュア記
ヨシュア記14章 カレブの相続地
 カナンの地での相続地の割り当てが進められています。9部族と、一部族の片割れ、半部族がまだ自分たちの相続地を確認していませんでした。彼らは籤でその割り当てを決めていきます(3節)。そういうわけで6節から、ユダ族から初め、順番に相続地が定められていく経緯が記録されています。
1.カレブの相続地
まず、ユダ族については、カレブのエピソードが挙げられます。カレブは、かつて約束の地カナンを攻め取るように、ヨシュアと共に他の部族を説得した、第一世代の生き残りでした。その当時の様子は、民数記13-14章に詳しく書かれています。しかし、その時以来、カレブはイスラエルの荒野の歴史の中ですっかり埋もれてしまって、その存在すら忘れられていた人物です。しかし彼は、決して変わることのない神の約束が実現して自分たちのものとなるまで、45年も忍耐深く待ち続け、ここでもう一度皆の先頭を切って土地を獲得するための戦いに出ていく者として再登場するのです。
彼は語りました。8節、かつて彼と共に上って行った者たちは「民の心をくじきました」と。しかし「私は、私の神、主に従い通しました」と。確かに、彼の思いは、不信仰なイスラエルの民のために踏みにじられ、彼が神のしもべとして、その夢を果たす時は45年も延期されました。しかし、45年延期され、踏みにじられたとしても、その思いは全く変わらない。神が自分を生かし、自分にこのチャレンジの機会を今与えようとされているなら、今即座に神に従ってチャレンジしたい、ということでしょう。神のことばを愛し続けたカレブの姿が印象的なところです。
そもそも、カレブという名は、「犬」を意味しました。あまり人につけるような名前ではなかったのです。もしかしたらカレブは、その誕生が望まれない子であったのかもしれません。かつてラケルがひどい陣痛で苦しみ、死に臨んだ際に、生まれた息子に「ベン・オニ」(私の苦しみの子)と名付け、ヤコブがこれを「ベニヤミン」(右手の子)と改名しましたが、そんな改名すら配慮されなかった子どもだったのかもしれません。そのような人生の中で、カレブは、神を見出し、神に結びついて生きていた人だったのでしょう。彼は生きていくために神を必要としました。ただ神の助けを必要としました。そして、神以外に彼を助ける者はありえなかったのです。そのような人生の積み重ねの中で、彼は、皆が「できない」と考えるような時に、たとえ現実はそうであっても神が共におられるならできないことはない、と考えるようになっていったのではないでしょうか。
カレブは、85歳になっていました。カレブは言います。11節「今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです。」と。85歳は85歳であって、45歳とは違うものでしょう。ですからその意味は、85歳の下り坂にあっても、年齢相応に壮健であるということでしょう。つまり、「戦争にも」というのは、若者と同様、自分を取り囲む敵を相手に刀を振るい百人なで斬りが出来るということではなく、むしろ、部族の長として、戦場に赴いて、陣頭指揮を執りうる程度に頭ははっきりとし、自分のこともしっかり自分でできるということです。カレブはユダ族にあって、なおも信仰の賜物を働かせ、リーダーとしての責任を果たしたのです。
カレブは語りました。12節「今、主があの日に語られたこの山地を、私に与えてください。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼を追い払うことができます」ヨシュアは、カレブを祝福し、ヘブロンを相続地とすることを認めました。しかしそれは勝ち取って得た相続地です。著者は、へブロンがカレブの相続地になったのは、「彼がイスラエルの神、主に従い通したからである」と書き加えます。信仰を持って神に近づき、神に従い通す、そこに、私たちの祝福も備えられるのです。大切なのは信じない者にならないで信じる者になる。信じて神のみことばに積極的に生きるということでしょう。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ヨルダン川東側に占領地を設けた部族の内、最も北側のバシャンとギルアデを占有地としたのはどの部族でしょうか?答えはマナセの半部族でした。では、今日の聖書クイズを一つ。ヨシュアの時代、ヘブロンにはアナク人が住んでいたと言いますが、その前のアブラハムの時代に住んでいたのは何人でしたでしょうか?
答えはまた明日。では今日もよき一日であるように祈ります。

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ヨシュア記13章 イスラエルの神主が、彼らへのゆずりである

2022年04月14日 07時16分22秒 | ヨシュア記
ヨシュア記13章 残された地と東岸の分配
1.ヨシュアへのねぎらい(13:1)
 ヨシュアもまた年を重ねて老人になっていました。そんなヨシュアに神が語られます。「あなたは年を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている。」(1節)。神は副将のヨシュアに共に戦った日々を振り返り、ねぎらいの言葉をかけると同時に、まだ先がある、とご自身のビジョンを分かち合っています。しかしヨシュアは、神とは違う時間軸に生きていました。いやヨシュアのみならず、人は皆、神とは違う存在です。人間には限界があるのです。年を重ねることで、意欲は明らかに減退し、身体も頭の能力も弱くなり、追いつかなくなっていく、それが人間でしょう。そこで神はヨシュアにもはや戦闘の前面に出るのではなく、戦略的に土地を分割する仕事を割り当てられました。神はさらに叱咤激励して、全力を尽くすようには語らなかったのです。他方、あなたのお役目はもう終わったのだ、と時期早々に肩を叩いて後は背を向けられるような方でもありません。労をねぎらい、共に戦った時の思い出を共有し、その老いに相応しい働きを、加えてくださるのです。神は愛である、というのは、こういうことでしょう。
2.さらなるチャレンジ(13:2-7)
それにしても、神のご計画は、1人の人間が成し遂げられるようなものではありません。6節、神は「わたしは彼らをイスラエルの子らの前から追い払う」と、なおも先があることを示されています。人は老い、その働きを次の世代へと委ねていきます。しかし神は決して老いることも、疲れることもありません。神は永遠に変わらず、綿々と続く神のご計画を様々な時代の人々に託されて、これを進められるお方です。そのような意味では、私たちが行っていることというのは、本当に小さなもの、一時代の一つの出来事であり、神のご計画の一端を成し遂げているに過ぎません。他人の働きを見て、ある者は大きなことをし、ある者は小さなことしか出来なかったと思ったりもするものですが、実際には、それらは皆パズルの一ピースのようなもので、それぞれがなくては人類史も完成できないのです。まるで自分がこの世界を動かしているような思い上がりはもたないことでしょう。
3.征服地の確認(13:8-33)
これまでの流れを振り返れば、第1部の土地の征服(2-12章)の記録があり、大まかにパレスチナが占領され、戦争が終わると第2部の土地の分与(13-22章)の記録に入ります。8節からは、その部族名と地名が長々と羅列された土地相続の記録です。読みにくいカタカナの地名が羅列され、それはどこなのだろうか、とよくわからない感じです。しかし、丁寧に読んでいくと、2から7節が一区切りで、ヨルダン川西側のパレスチナ全土を概観、8から13節は、ヨルダン川東側の土地を南から北へと概観しています。そして15節からは、それらの詳細な記録です。つまり15から23節、ヨルダン川東側の南、ルベン部族の土地から始まり、24から28節は、その北方のガド部族の土地、そして29から31節は、さらに北のマナセの半部族の土地について詳しく語るものです。
思い起こすべきことは、神がアブラハム、イサク、ヤコブに約束されたことでしょう。約束されたとおりのことを神はなさった、と語られているのです。つまりこの箇所は、ある意味で、何かの譲渡契約の際に、その譲渡内容を一つ一つ確認しているようなものです。現代の読者には意味不明のカタカナの羅列に過ぎないとしても、当時の読者には、神は、確かに約束を守られて、アブラハムの子孫に土地を与えられた、と神の誠実さを感慨深く味わい、更に信仰を鼓舞されるところなのです。
最後にレビ人について、彼らに相続地はない、と繰り返されています。それは神ご自身が彼らの相続地だからです(14、33節)。そしてレビ人は、イスラエルの全土に散らされました。しかしそれによって神を礼拝する民としてのイスラエルの一体性が守られていくのです。神は今日も同じように、町ごとに長老(牧師)を任じておられます。それによって神の民としての統一性が守られるのです。キリスト教会には、様々な教派、団体がありながらも、皆同じ神に仕え、本来キリスト教会の一体性を守るものとして任じられているのです。約束を守られる主にあって一つとなる、それがキリスト教会です。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。イスラエルの地理は、地中海沿岸、高原、ヨルダン渓谷、そしてヨルダン川東側の台地と四つのベルト状に並ぶ地域で覚えますが、エルサレムはどの地域に位置するでしょうか?答えは高原地域でした。では、今日の聖書クイズを一つ。ヨルダン川東側に占領地を設けた部族の内、最も北側のバシャンとギルアデを占有地としたのはどの部族でしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日であるように祈ります。

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ヨシュア記11章 彼らを恐れてはならない

2022年04月12日 07時22分13秒 | ヨシュア記
ヨシュア記11章 北部同盟軍に対する勝利
1.イスラエル北部の占領
 イスラエルのカナン征服の戦いは、いよいよ本格化し、エリコ、アイの攻略に続いて、ヒビ人の事件をきっかけにカナン南部へ出ていく戦いがあり(10章)、本章からは、北部へと向かう戦いが続きました。
 メロムの水(5節)は、「高地の水」を意味し、ガリラヤ(キネレテ)湖の水源となっていたところです。そこは、ガリラヤ湖の北西15キロにある今日のメイロンとされています。既に、10章では、南はカデシュ・バルネアにまで至っているので、イスラエルの征服地は、今日のイスラエルとヨルダン、シリアの一部をカバーする範囲に及んだことになります。もともとこの地は、アブラハムに約束されその孫のヤコブの代まで生活した場所で、イスラエルは、エジプトでの奴隷生活の430年の後にこの地に戻ってきたわけですが、彼らは自分たちの土地を戦って取り戻さなくてはならなかったのです。また、イスラエルと進んで和を講じようとする町は、ギブオンの住民、ヒビ人を除いて一つもありませんでした。カナンの地に住んでいた諸民族は、イスラエルに固く心を閉ざし、これに敵対したわけです。しかし、それは、主が彼らを聖絶するためであり、主がモーセに命じたとおりに彼らを一掃するためであったとします(20節)。
2.人間の心の頑なさと神の公正さ
しかしどんなものでしょうか。出エジプトのファラオの出来事もそうでしたが、神はファラオの心を頑なにし、滅ぼしています。神が定めたことには誰も逆らえないわけですから、人を滅びや聖絶に定めるのは、神の不正であり横暴ではないか、とも思われるところでしょう。新約聖書の中でも同じ問題が使徒パウロによって取り上げられています。「神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか」(ローマ9:18、19)しかしパウロは、たとえそうであっても神に不正はないと言います(9:13、14)。つまり「人の心を頑なにする」というのは、神の主権を語ろうとする修辞的表現であり、神の独立性、自立性を語り、神が何物にも影響されないことを表現しようとするもので、実際には、神はその主権を人の滅びのために用いられるお方ではない、ということです。神は人のように、えこひいきをしたり、生理的に受け付けられない者を排除したりする狭量な存在ではない、ということです。ですから使徒パウロは言います。「もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか」(ローマ9:22)神は、まず人を愛されるお方です。そして豊かな寛容をもって接し続けておられる方です。しかし人はその神の恵みを無にする存在で、逆に自ら滅びを刈り取っていく者なのです。自ら目に見えない神を恐れ、神に降伏し、遜るヒビ人のような存在は稀だということです。
3.神が勝利を与えられる
北部で連合してイスラエルに敵対した者たちの数は海辺の砂のように多く、馬や戦車も非常に多かったとされます。それに対してイスラエルの軍隊は、装備も、兵力も見るからに劣るものでした。これは、力ある者が弱き者を蹂躙する、残酷な戦争ではなく、まさに、弱きイスラエルが自分たちの土地を回復するために、絶望的な戦いに出て、神がそのイスラエルに加勢してくださった、というストーリーなのです。
 そのような意味では、今日の私たちも、「海辺の砂のように大勢の兵で、馬や戦車も非常に多かった」という戦いにやむなく直面させられるような状況に置かれることがあるでしょう。しかし、神は語られるのです「彼らを恐れてはならない。」と。こんな勝ち目のない勝負に押し出されて、どうしたらよいものか、と思うようなことがあっても、それが理に適う戦いであるなら、神の助けを覚えることです。「主が敵を私たちの手に渡される」ことが起こるからです。大切なのは、日々、神のみこころを探り、神のみこころに生きることを願うことでしょう。では今日もよき一日であるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ヨシュア記に引用された聖書外資料のヤシャルの書、これは、他にどこに引用されているでしょうか?2サムエル記1:17-27。イスラエルでよく知られていた詩的文書です。この書は長い間イスラエルの人々の間でよく知られていたもので、サムエル記の著者も、有名な哀歌を引用しています。では、今日の聖書クイズを一つ。ペリシテ人の五大都市と呼ばれたのは、ガザ、ガテ、アシュドデ、アシュケロン、そしてどこでしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日であるように祈ります。

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ヨシュア記10章 太陽は動かず、月はとどまった

2022年04月11日 07時16分26秒 | ヨシュア記
ヨシュア記10章 ギブオンの救出
1.損をすることを厭わない
 イスラエルは、ヒビ人に騙されて、不本意な契約を結んでしまいまいした。しかも、今日の箇所を読むと、そのためにイスラエルが、余計な戦争を背負い込む羽目になったことがわかります。彼らは一つの町ではなく、五つの町の連合軍と戦う大いなる脅威にさらされたのです。それは、ヨシュアは、損になっても立てた誓いは変えない、たとえ騙されたものだとしても、神の前で結んだ盟約に忠実であろうとするのです。「ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った」(9節)と言います。本来計画になかった戦争を進んで買って出たというわけです。しかしそれが、神に生きるということなのでしょう。人間というのはいじましいもので、このような時に、常日頃切りたいと思っている関係をうまく切り捨てるチャンスではないか、と考えたりするものでしょう。そのように自然に沸き起こるいじましい根性、それこそ罪というべきものです。しかし普通人間だったらそう考えるというところで、敢えて心のブレーキをかけ、罪の心を認め、悔い改め、神に誓ったことだから、と神の側に立って行動する、これが信仰を持つということ、神に生きるということなのです。そうすれば、神もその生き方に力を貸してくださる。11節、「イスラエルの子らが剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった」とあるように、戦うべきところにおいて、神もまた戦ってくださる、というわけです。
ダビデの詩に「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」という問いがあります。その答えの中に「主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない」(15:4)というものがあります。神の聖なる山に住む人生を生きようと言うのなら、普通だったらここでドロドロしてしまうものだよな、人間だからな、というところで、敢えて神のことばに従っていくのです。
2.神が戦われる
さて、「太陽よ、ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で」(12節)とヨシュアは言いました。東では太陽がギブオンの上で、西では月がアヤロンの谷でとどまれ、という意味で、伝統的には、戦いが終わるまで、太陽と月がそのまま動かず、ギルガルからギブオンまでの夜通しの行軍、その距離約35キロ(当時の大人がおおよそ一日で歩く距離)を神が守られた、と理解する箇所です。おそらく早朝だったと考えられますが、これを日食と考える説もあります。空が暗くなって敵に恐怖がもたらされることを願ったと言うわけです。さらに、月と太陽が同時に見える、当時凶兆と考えられた現象を求めた、とする説もあります。どの解釈も今一つですが、いずれにせよヨシュアにとって有利な状況が続くように願ったと言うことでしょう。14節、「主が人の声を聞き入れられたこのような日は、前にも後にもなかった」とあります。これは、今回限りという意味ではありません。モーセもエリヤも主に聞いてもらっていますので、主がヨシュアの祈りを十分聞いてくださったということでしょう。
その後の、進撃、マケダ、アゼカ、リブナ、ラキシュ、エグロン、デビルと占領地を追っていくと、これはかなり広範囲にわたります。最後のまとめ、「カデシュ・バルネアからガザ」までという表現は、当時12部族に分割された、ユダおよびシメオンの領域全土、つまり、死海の北端から南端の西側全域(パレスチナ南部)を指しています。神がイスラエルに代わって戦ったが故に、それは一挙に素早く征服されたのです。ある意味で、損になっても立てた誓いは変えない、と誠実さを貫いたことが、逆に、イスラエルのカナンの地の征服を一挙に進めたというべきでしょう。損得を考えないからこそ、逆に神の豊かな祝福に与るということがあるものです。ギルガルの守りから始まり、すべてに渡って神の助けによる征服でした。私たちの誠実さの中に、神の業が表されるような生き方をしてまいりたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ギブオンを出身地として登場する旧約の預言者は誰でしょうか?答えはハナンヤ(エレミヤ28:1)でした。ハナンヤは、ギブオン出身の偽りの預言者です。彼はエレミヤの70年の預言(エレ25:11以下)に対抗して、「バビロンのくびき」は2年のうちに砕かれると預言した人です。では、今日の聖書クイズを一つ。ヨシュア記に引用された聖書外資料のヤシャルの書、これは、他にどこに引用されているでしょうか?答えはまた明日。


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ヨシュア記9章

2022年04月10日 07時00分55秒 | ヨシュア記

 
ヨシュア記9章 ギブオン人の欺き
1.ヨシュアの失敗
約束の地カナンでの、イスラエルに対する反応は様々でした。神がイスラエルにしてくださったことを聞いて、イスラエルと戦おうとする者がいる一方で、ギブオンの住民たちのように、イスラエルと戦わずして、生き延びる道を模索する者もいました。そして、ギブオンの住民のヒビ人は、一計を案じるのです。つまり、わざわざ遠い国からやってきた者であるかを装い、イスラエルと盟約を結ぼうとしました。彼らが遠い国ではなく、近くに住む住民であったことは、容易に見破られるようなことでしたが(7節)、ヨシュアは、彼らの計略に見事に騙されてしまいます。そしてヒビ人は、律法が定めているとおりに(申命29:11)イスラエルの奴隷になりました(21節)。本来は殺されて終わり、となるはずでしたが、イスラエルの神、主の噂を認め、主の前に遜ったヒビ人は、神が定めたとおりの秩序で生き延びていくわけです。ヒビ人にしてみれば、これは練った策略が成功し救われたということです。そしてヨシュアにしてみれば、完全にヒビ人に騙されてしまった。けれども、神も騙されたというわけではないのです。神の側からすれば、神のみこころに不注意なヨシュアを用いて、ご自身を認める者に恵みを施し、滅ぼされないようにした、ということです。
2.失敗に次ぐ祝福
さて、ヨシュアは、自分が騙され、明らかに失敗したことを理解しています。なぜこんなことになったのか、それは、疑わしき中にあって、イスラエルの民が「主の指示を求めなかった」(14節)ためなのでしょう。アイの敗退による反省も長くは続かなかったということです。いかに人の心が神から離れやすいものであるか。人は神を大事にしようと一瞬燃やされることがあるかと思えば、そんな思いを抱いたことなど、まるでなかったかのように、神不在の暮らしを初めてしまうものなのです。神を覚えて歩むというのは、口先ばかりで、教会の礼拝で神のことばを聞いて感動しながらも、教会を出てしまえば、その感動とは無関係な生活へと向かっていくようなものでしょう。
ただ聖書は、ヨシュアがこれを失敗と認めても、神の前でなされた盟約は盟約として、これを尊重していく姿を描くことに注目したいのです。詩篇には、「主を恐れる者を彼は尊ぶ。損になっても誓ったことは変えない(詩篇15:4)」とあります。失敗によって何か損をしたような思いになっても、それもまた神のみこころ。いたずらに自分の行動を責めたり、人を恨んだりしないことです。潔く、その事実を受け入れ、その失敗を背負いながら、先に進むことです。大切なのは、神は、ヒビ人にすらあわれみ深かったのですから、まして神を信じる者にはそうなのです。ですから、そこで神の憐れみを願い、人間として正しい歩みを進めていくことです。神はそのような人間としての真実な姿を祝されることでしょう。
ヨシュアは、ヒビ人と盟約を結んだ以上、その約束を固く守っていきます。アモリ人の連合軍が来襲した時に、ヨシュアは援軍を率いて彼らを助けました。また、後のサウル王がこの地域で、ギブオンの住民を虐殺した際には、この盟約のゆえに、サウルの子孫のうち、7人が処刑されました(2サムエル記21章)。この盟約は、イスラエルに重い足枷となったかのようでした。けれども、ギブオンの住民は、イスラエルの忠実な民となり、捕囚の運命を一緒にたどり、エルサレム城壁の再建にも協力しています。排除すべきと見なされた民が、最も近き助け手となり、支え手となったのです。
人生のどこかで、思慮もなく愚かな約束事をしてしまった、あるいは選択をしてしまった、と思わされるようなことはあるものでしょう。しかしたとえそのようなことがあっても、失敗は失敗と潔く認め、それを小脇に抱えながら、神の前に正しい歩みをしていくことが大事です。神は、それもまた益としてくださるでしょう。神は祝福の神です。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。聖書の中には、「アラバの海」ということばが出てきますが、それは別名何と呼ばれているでしょうか?答えは死海です(ヨシュア3:16)。アラバという地名は、今日では、死海南方の沼地からアカバ湾に向かって伸びる谷に限定して用いられています。しかし聖書では、北はガリラヤ湖からヨルダン川流域、死海に至る地域も含んでいます(申命3:17、ヨシュア11:2)。では、今日の聖書クイズを一つ。ギブオンを出身地として登場する旧約の預言者は誰でしょうか?答えはまた明日。


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