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ヨシュア記19章 彼らは割り当てを終えた

2022年04月20日 07時51分58秒 | ヨシュア記
ヨシュア記19章 各部族の相続地
1.シメオン、ゼブルン、イッサカル、ナフタリの相続
イスラエルそれぞれの相続地が確認されています。シメオンの相続地は、ユダの相続地の中に割り当ての地を持ったとされます(8節)。かつてヤコブは、祈りました。「シメオンとレビとは兄弟。・・・私はヤコブの中で彼らを引き裂き、イスラエルの中に散らそう」(創世記49:5-7)ヤコブの祈りのとおりに、レビは相続地を持たず、シメオンはユダの相続地の中に自分達の相続地を持つように散らされました。しかしゼブルンについては「海辺に、船の着く岸辺に住む、その境はシドンにまで至る」(創世記49:13)と祈られましたが、実際に海辺に住んだのはアシェルで、その北の境界も、シドンの手前ツロを超えることはありませんでした。神のみこころにかなう祈りのみが、実際にそのとおりになったと理解すべきところかもしれません。人は祈ったことが聞かれた、聞かれなかったと一喜一憂するものですが、実際のところ、神のご計画が進んでいるだけで、神のみこころにかなう祈りがなされるならば、それは、あたかも「祈りが聞かれた」と思えるように実現したに過ぎないのです。祈りにおいては、「神が本当に私の祈りを聞いてくださった」と自分の業を謳歌、喧伝するのではなくて、「神のご計画がなっている、この先神はどのようになさるのか」と神の業を見守り、さらなる従順の歩みをするのが本当なのでしょう。
 イッサカルについて、ヤコブは「イッサカルはたくましいろば、二つの鞍袋の間に身を伏せる」(創世記49:14)と祈りました。これは、難解なことばとされてきましたが、創世記49章を、基本的に土地相続をビジョンとする祈りとするなら、イッサカルがマナセの二つの相続地の間に挟まれるような形で、低ガリラヤ東部を相続地として得ることを祈ったもの、となるかもしれません。
 ナフタリについては、「放たれた雌鹿、美しい子鹿を産む」(創世記49:21)と祈られています。文語訳では、「彼よきことばをいだすなり」とされ、可能な訳ですが、文脈には合わないとされてきました。しかし、「よきことば」をイエスと考えれば、ナフタリの相続地(ガリラヤ地方)から、つまりナザレからイエスが現れるという預言的な祈りになっています。大切なのは神の御心を求め、祈りの中でみこころに目が開かれ、神のご計画に沿った祈りを重ねていくことなのでしょう。
2.ヨシュアの相続
 イスラエルがすべての相続地の割り当てを終えた後、そこで解散とはなりませんでした。彼らは指導者ヌンの子ヨシュアに、ティムナテ・セラフの町を与えたと言います。彼は割り当ての権利を控えて来たのです。確かに指導者は、最後まで神に従い、指導の任を果たす必要があり、自分の取り分を主張する権利があっても、それは最後となるものです。ただ興味深いことは、残り物に福があるというわけではないでしょうが、ティムナテ・セラフは、「ありあまるほどの部分」という意味を持つ町だったということです。
 ともあれ、約束の地カナンを征服するため、先頭を切って戦い労したヨシュアに対して、イスラエルの人々は、しっかり礼を尽くす心をもって対応しました。当たり前と言えば当たり前ですが、実際世の中では、礼を尽くすべきこと、配慮すべきことが欠落するということはよくあるものです。10人のツァラアトに冒された人がイエスによって癒された時に、それがわかって帰って来て礼をしたのはたった一人であったように。神の愛を語る教会であれば、しっかり礼を尽くすべきところで礼を尽くす、配慮すべきところで配慮したいものです。
50節「彼は町を建てて、そこに住んだ」51節「彼らは地の割り当てを終えた」実に、相続の割当が完了したのは、イスラエルの民と指導者が安住の地を得た時でした。そのような意味で、教会全体が、主の満たしを受ける事が大切である。信徒も牧師も一緒に配慮と祝福を受けていく。そのように完成されていく教会でありたいものです。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。会見の幕屋が長く留まり、イスラエルの中心地となったシロを徹底的に破壊し、イスラエルに敗北を与えたのは何人であったでしょうか?答えはペリシテ人でした。ペリシテ人の登場はイスラエルを脅かし、やがてアフェクの決戦で、イスラエルは決定的に敗北し、契約の箱が奪われました(1サムエル4:1-11).この時にシロの神殿も町もともにペリシテ軍によって破壊されたと考えられています(詩篇78:60、エレ7:12、14)。では、今日の聖書クイズを一つ、約束の地において、レビ族と同じように割り当ての地を持たず、ユダ部族の所有地に散らされた部族は何部族でしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨシュア記18章 いつまで延ばしているのか

2022年04月19日 07時08分34秒 | ヨシュア記
ヨシュア記18章            ベニヤミン族の挑戦
1.占領に手をこまねる部族
 エフライム地方にあるシロの町は、現在のキルベト・セイルンの遺跡のある所とされています。カナン征服後は、ここが本営となり、会見の天幕が立てられています。こうしてシロはエリの時代まで、イスラエルの宗教と政治の中心地となりました。「会見の天幕」が「主の宮」(1サムエル1:9)と呼ばれるようになったのは、そのように、場所が定着したためであったと思われます。
 イスラエルは12の部族がいたものの、すべての部族が同じ力量、同じ動機づけを持っていたわけでありません。カレブのような強いリーダーシップを持って戦略的に領土を占領しようとしたユダ部族、人数的にもパワーがありながら、その方向付けを後押しされる必要のあったマナセやエフライム部族、さらには、この章に出てくるような相続地を自分のものとするため、ヨシュアによって手取り足取り、具体的に行動を促される部族と様々でした。本章から19章までに取り上げられる7つの部族は、実は、そのような意味で、叱咤激励を必要とする部族でした。ベニヤミン族(18:11-28)、シメオン族(19:1-9)、ゼブルン族(19:10-16)、イッサカル族(19:17-23)、アシュル族(19:24-31)、ナフタリ族(19:32-39)、ダン族(19:40-48)がそうです。
ヨシュアは言います。2節「あなたがたの父祖の神、主があなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。」彼らは、まるでかつての不信仰な古い世代の遺伝子を引き継いだかのように、ぐずぐずと手をこまねいている者たちでした。そんな彼らに、ヨシュアは8節、「あなたがたはその地を行き巡り、その地について書き記し、私のところに戻って来なさい」と具体的に、指示を出しています。目標を具体的に定めるように促しているのです。
2.ベニヤミン族
 まず、ベニヤミン族ですが、彼らに割り当てられた領土は、それほど大きくはありません。北の境界線は、ヨセフ族の領土の南側に接し(12、13節)、南の境界線はユダ族の領土の北側に接します(15-19節)、また、西の境界線は、ベテ・ホロンからキルヤテ・エアリムまでの短い距離で(14節)、東の境界線はヨルダン川に接します(20節)。これらには、全部で26の町が含まれていましたが、二つのグループに分けて、記録されています(21-28節)。そこに何か意図があるのかは、わかっていません。ただ記録されている町々は、聖書の歴史の中では注目されるものです。ギブオンにはラケルの墓があり、ミツパは、祈りと礼拝の場所(1サムエル7章)、軍事的、政治的な要衝(1列王15:22)です。ギブアはサウルの出身地です(1サムエル15:34)。
 彼らの占領する土地が、いずれイスラエルの歴史を刻む土地になるなど、当時、誰も予測しなかったことでしょう。初めの一歩は、大変な苦労であっても、それはやがて実り多い結果をもたらす、これが神のご計画です。与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか」この一言に応じて、割当の地を行き巡り、調査するところからすべては始まりました。周囲が神の祝福に与る中で、自分はまだ何も、ということはあるものでしょう。そしてなかなか一歩を踏み出せない。しかし、その最初の一歩を踏み出さずに、神の祝福の実現もないことは確かです。まずは、なすべきことを書き出して見ることでしょう。目標をはっきりさせる。そして、自分の力ではない、神の助けがあると信じて一歩を踏み出すことです。カレブのように大きなことはできないかもしれません。マナセやエフライムのように大きな挑戦もできないかもしれません。しかし、すべては小さな一歩から始まると心得ましょう。では今日もよき一日であるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。イズレエルの平野は、他に、メギドの平地(2歴代誌35:22)とも呼ばれますが、その他に何と呼ばれることがあるでしょうか?答えは、エスドラエロンでした。それは、ヘブル語イズレエルのギリシア名です。ヨルダン峡谷に次ぐ大平原で、カルメル山脈を底辺とし、タボル山を頂点とする一辺およそ33キロの正三角形の平野で、面積は約250平方キロメートル、キション川によって潤される豊かな平野です。では、今日の聖書クイズを一つ、会見の幕屋が長く留まり、イスラエルの中心地となったシロを徹底的に破壊し、イスラエルに敗北を与えたのは何人であったでしょうか?
答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨシュア記16章 自分たちの相続地を受け継いだ

2022年04月18日 07時22分31秒 | ヨシュア記
ヨシュア記16章 ヨセフ族の相続地
昨日のユダ族に次いで、ヨセフ族の相続地の境界が示されて行きます。単なる地理的説明ですが、ここから何を読み取るのか。頭の中で聖書地理を整理し、理解しながら、そもそも、マナセとエフライムに対して、どんな祈りがあったか思い起こしたいところです。
1.ヨセフ族の境界線
 つまり、イスラエルの祖、ヤコブは、天に召される前に、ヨセフの子、マナセとエフライムを祝福して祈りました。マナセとエフライムを祝福することはヨセフを祝福することと同じであったわけですが、その時ヤコブは手を交差させ、弟のエフライムが兄のマナセよりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるほどになる、と祈ったのです(創世記48:16-20)。その時のヤコブの祈りは、単純に読めば、部族の繁栄と拡大を祈るものでした。続いて創世記はヤコブが、12人の息子たち、一人一人のために祈った祈りを記録していますが(創世記49章)そこでヨセフについては、マナセとエフライムの区別なく、「上よりの天の祝福、下に横たわる大水の祝福、乳房と胎の祝福があるように」(創世記49:25)と祈っており、これもある種、部族の暮らしが限りなく豊かになっていくことをイメージさせるのです。
2.祝福の意味
その祈りを念頭に、改めて、この16章を読むと、エフライムが受けた相続地の大きさは、17章に描かれるマナセの相続地よりは小さいことがわかります。マナセの領土は、ヨルダン川の東と西に分かれ、エフライムの7、8倍の大きさとなっているのです。祝福を単純に、この世的な繁栄と考えると、なんとヤコブの祈りは聞かれていない、祈ったとおりにはなっていない、ということになるでしょう。
ただ、モーセがシナイの荒野で20歳以上の軍務につくことのできる男子を数え上げた、第一回目の人口調査の時には、エフライム族は4万5百人、マナセ族3万2千2百人で、エフライム族が確かに多かったのです(民数記1:33、35)。しかし第二回目の人口調査、いわゆるカナン征服の戦いに出ていく直前の時には、これが逆転しています。ただそれはあくまでも一時的な現象で、旧約の歴史全体の流れの中では、エフライム族が人数的には勝っていたと考えられています。つまり、受けた相続地は小さいものの、数的には多かったということです。
けれども、こうした土地や、人数がどうのこうのというよりも、ヤコブの祈りには、もっと違う意図、つまり霊的な意味での祝福が祈られていたと考えることがよいのでしょう。というのもヨシュアは、エフライム部族出身で、後に出てくるサムエルもそうです。つまり、信仰の精神を代々引き継がせていく要の部族となっていることに注目しなくてはならないわけです。
そのような意味では、聖書が語る「祝福」は、土地や物を得るというよりも、正統な信仰の精神を受け継いでいく、重要な役割を担うことにあるのであって、それは、ヤコブが、イサクから受け継いだ長子の権利と祝福の祈りに通じるものがあるのです。ヤコブの人生は、エサウに比べたら、波乱万丈であったと思います。彼は、自分の人生にはいろいろなわざわいがあり、先祖の人生に何ら勝るものはない、とファラオの前で告白しています。が、それはこの世の尺度で考えたらそうなるのであって、実際には、そのような人生を生きたとしても、ヤコブは、全能の神と共にそのわざわいに満ちた人生を乗り越え、生き延びる祝福に与っているのです。
3.祝福の根拠 
他人の人生と比べて、私にはこれがない、あれがない、と思うようなことは、あるものでしょう。しかしそのようなことでくさくさするのは止めて、むしろ、神と共に生きる素晴らしさ、喜びというものについて理解を深めたいところではないでしょうか。世の中には、物を持つ喜びもあるのだけれども、神があなたとともにいる。神があなたを救いだされる。神があなたを助けられる、と神を示すことができる祝福、喜びもある、というわけです。物の祝福というのは、いずれ尽きてしまうものでしょう。いや、尽きずとも、それを天国に持っていくということは全くできないことです。しかし、神の存在と恵みを分かち与える祝福は、決して尽きることがない、永遠の祝福なのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ヨルダン川の東側と西側、両方に相続地を持った部族は、何部族であったでしょうか?答えはマナセ族でした。では、今日の聖書クイズを一つ、ユダ族が相続した土地に含まれていない町の名前はどれでしょうか?①ヘブロン、②エン・ゲディ、③ハツォル、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨシュア記17章 切り開くがよい

2022年04月18日 07時20分54秒 | ヨシュア記
ヨシュア記17章 ヨセフ族の再挑戦
1.割り当てを自分のものとする(17:1-2)
16章に続いて、マナセとエフライムの相続地が取り上げられます。マナセの相続地はエフライムの北でしたが、最初にヨルダン東部のバシャンとギルアデもまた彼らの相続地となった経緯が説明されます。「マキルは戦士であったので、ギルアデとバシャンが彼のものとなった」(1節)。単純な書き方ですが、実は大切なことを言っています。マキルは割り当てを受けただけです。彼は神の約束の地を自分のものとしているのです。
かつてベテル神学校大学院の卒業式の前夜、教職員、卒業生とその家族合同の聖餐式が持たれたことがあります。卒業生は壇上で、自分がお世話になった教授に挨拶し、聖餐を受けるのですが、その時に、お世話になったウィルバー教授が、私をしっかり抱きしめて耳元でささやいたことを思い出します。「神があなたとともにおられる。未知の世界に踏み出す勇気を持て」と。勇気がないために、神の約束の地を自分のものにできないことがあるのではないでしょうか。つまりマキルが相続地の割り当てを自分のものとしたのは、彼が勇気をもって踏み出す戦士であればこそ、というわけです。
2.勇気を持って踏み出す(17:3-13)
次に3節、ツェロフハデには、息子がなく、生まれるのは娘ばかり5人(民26:33)。娘たちは、父ツェロフハデの死後、割り当ての相続地を削られる危機に置かれた時に、勇気をもって自分たちの相続を訴え、父の相続地を受け継ぐことが認められたのです(民27:1,7)。また、12節、マナセ族にはなかなか占領できない地がありました。彼らが「強くなったときには」カナン人に苦役を課したが、そうでない時もあり、結局完全に追い払うことができなかった、とあります。果敢に成し遂げる勇気を持たねば、達成できないことがある、と心得るべきでしょう。
3.自ら地を切り開く(17:14-18)
さて14節、ヨセフ族は、くじで割り当てられた相続地では満足できなかったようですそこでヨシュアに、さらに多くの土地を求めたところ、ヨシュアは言いました。「上って行きなさい、その地を切り開くがよい」(15節)。「あなたには、くじによる割り当て地が一つだけではいけない。山地もあなたのものとしなければならない。それが森だとしても切り開いて、その隅々まであなたのものとしなさい。強くても、あなたは彼らを追い払わなければならない」(17,18節)。彼らは新たな占領地を拡大し、開拓する挑戦に迫られたのです。
ここでヨセフ族という言い方がされたのは、ヨシュア自身もエフライム族であったため、問題を提起している者たちと自分たちを区別するためであったのでしょう。つまり、彼らは、ヨシュアの家の者とは違って、つぶやくだけで、自分で目標を見つけて、進んで開拓するような者たちではなかったのです。欲は深いが小心者、怠け者と言われるような者たちでした。
しかしそれは、人間の現実の姿であって、他人事と笑えたものではありません。自分が勇気をもって踏み出すだけではないか、というような状況にあって、そのような自覚も意識も持てないでいることはいくらでもあるのです。(開墾の難しい)「森だとしても」(相手が)「強くても」ても、勇気をもって立ち向かっていく。諦めてしまえばそれまでです。しかし、神が共にあって、これを進めてくださると信頼して進んでいく。新約聖書の著者ヤコブは、「自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。」(ヤコブ4:2)「神はさらに豊かな恵みを与えてくださる」(ヤコブ4:6)、と語りました。やはり最大の敵は、小心な自分というべきでしょう。「上って行きなさい。切り開くがよい、一つだけではいけない、森だとしても切り開き、隅々まであなたのものとしなさい」神が励ましてそのように言うのですから、まさに未知の世界そsに踏み出す勇気をもってまいりたいものです。では、今日もよき一日を踏み出すように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ユダ族が相続した土地に含まれていない町の名前はどれでしょうか?①ヘブロン、②エン・ゲディ、③ハツォル、答えは③ハツォルでした。ハツォルは、イスラエルの北方、ナフタリ族の領地内にある町です。では、今日の聖書クイズを一つ、イズレエルの平野は、他に、メギドの平地(2歴代誌35:22)とも呼ばれますが、その他に何と呼ばれることがあるでしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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ヨシュア記15章 私にお祝いをください

2022年04月16日 07時09分37秒 | ヨシュア記
ヨシュア記15章 ユダ族の相続地
1.ユダ族の相続(15:1-16)
14章に続いて、ユダ族の相続地の境界(15:1-12)と、境界内にある町々(15:20-62)が記されています。南部の荒野から始まり、西、東、北、それぞれの境界が細かに記されますが、広大な地です。12部族の中では、東ヨルダンと西ヨルダンの二カ所を相続したマナセに次ぐ大きさです。占領した町の数も約110以上です。カレブとカレブの協力者であるユダ族が、主に従い通した結果がこれだ、というわけです。
キルヤテ・セフェルを打つ者には、自分の娘を妻とするというカレブのことばに、カレブの同族の者オテニエルが立ち上がったと言います。カレブのみならず、カレブに協力する者が一丸となって、これらを手にした、その様子が伝わってまいります。
そのような意味では、教会が一丸となって、神の約束を信じ、神の約束に立って宣教を進める気持ちのあるなしは、やはり宣教のパフォーマンスに大きな影響を与えること間違いなしと思われるところがあります。牧師と信徒が心を一つにして、神に与えられた教区の町々に、主の恵みのみことばを告げ知らせていく。そこに神の業もなされるのです。
2.アクサの上の泉、下の泉(15:17-19) 
さてカレブの娘アクサのエピソードが挿入されています。このエピソードは士師記1章に再録されています。そして士師記3章には、オテニエルは、ヨシュアの死後、第一の士師としてイスラエルを救出し、約束の地カナンで40年間の平和を維持した人物として記録されています(8-11節)。
妻となるアクサは、オテニエルに、自分の父に畑を求めるように、しきりに促しました。古代イスラエルにおいては、妻となる女性が持参金を求める習慣があったので、それは当然の権利でした。ただ、カレブの娘アクサは畑地よりも泉を求めたのです。ユダ族が相続した土地は広大でしたが基本的に荒野、その地で生き延び、さらに繁栄するためには泉が必須だったのです。カレブはこの娘の要求に、上の泉と下の泉、つまり倍の持参金を気前よく与えています。これは、主に従う者への象徴的なエピソードです。
というのも信仰者の人生は、しばしば荒野をオアシスにするようなものです。そのように信仰的に生きようとする者に、神は上の泉と下の泉を下さるのです。具体的にイエスご自身がそうです。イエスは「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」(ヨハネ7:38)と言いました。今の、この混とんとした時代において最も宝とされる存在は、命の泉のごとく、活力で満ちた人でしょう。つまり、慰めの人、光の人、愛の人、塩気のある人です。神は、信仰者にそのいのちの源泉を豊かに与えられるのです。
3.ユダの町のリスト(15:20-63)
20節からは、ユダの町のリストになっています。全部で11の地区に分割されています。第一の地区はベエル・シェバを中心とした南部の広い地域で36の町が含まれます(21-32節)。32節では、合計29とされますが、実際は36です。ヘブル語聖書のギリシャ語訳(七十人訳)では、これらの町々の中からハツォル(23節)、ハツォル・ハダタ(25節)、へシュモン(27節)、アイン(32節)が欠落し、23、24節に分かれて記載されているイテナンとジフ(23、24節)をイテナンジフと読み、またビズヨテヤ(28節)を「それらの村々と農地」と読み替え、合計30になっています。七十人訳で読むと合計値が大分近いのですが、この矛盾については、良い解決がありません。
第2から第5地区までは低地の町々と村々で、33-36節が第2、37-41節が第3、42-44節が第4、45-47節が第5地区です。ちなみに第2地区の町の数(15)と合計値(14)も合っていません。七十人訳では、ゲデロタイム(36節)が牧場と訳され合計値が合っています。さて、第6から第10地区までが山地の町々で48-51節が第6、52-54節が第7、55-57節が第8、58-59節が第9、60節が第10地区です。そして最後の61-62節が荒野で、第11地区となります。
ともあれ、このように地区を分けたのは、彼らが、徹底してこれらの土地を自分たちのものにしようとしたためでしょう。今の私たちも同じかもしれませんが、大切なのは、そのように各自散らされた場で、何よりも世の人々の泉として見いだされることです。イエスの恵みを分かち合う者となることです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ヨシュアの時代、ヘブロンにはアナク人が住んでいたと言いますが、その前のアブラハムの時代に住んでいたのは何人でしたでしょうか?答えはヘテ人でした。アブラハムは、妻サラの墓地にするためにヘテ人エフロンから畑を購入しています(創世記23章)。では、今日の聖書クイズを一つ。ヨルダン川の東側と西側、両方に相続地を持った部族は、何部族であったでしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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