歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

鎌倉殿の13人・北条泰時はなぜ後鳥羽上皇の「敗戦の院宣」が読めなかったのか。承久の乱。

2022-12-05 | 鎌倉殿の13人
吾妻鏡にこうあります。概略です。

泰時は5千の兵を率いていた。そこへ後鳥羽上皇の敗戦の院宣がもたらされた。泰時は馬を降りて受け取った。そして「この中に誰か院宣を読めるものはいるか」と言った。
武蔵の国の藤田三郎が読むことができたので、彼が読んだ。
「この度のことは、全て院の意思ではなく、謀臣のしわざである」

以上のことから分かるのは、泰時は院宣を読めなかったこと、5千人の中でも読める人間はほぼおらず「もしかしたら藤田一人だったこと」です。それにしても藤田はなぜ読めたのか。そっちがびっくりです。

吾妻鏡が「とても信用できない、泰時顕彰のための曲筆ばかり」なら、ここは「読めたこと」にしてほしいものですが、ちゃんと「読めなかった」としています。

この院宣は承久記前田本にあって、国会のデジタルコレクションで見ることができます。該当箇所を見てみると、さして難しい漢文ではありません。私の読解力では細かいところまでは訳せませんが、内容を知っているせいもあり、言ってることの概要は分かります。

「泰時に読めないとは思えない」のです。彼は3代目の坊ちゃまですし、そこそこの教養はあったはずです。私より漢文が読めないとは想像できない。でも読めなかった。

「達筆過ぎて読めない」ことは予想はされます。上皇自身が書いたわけではないですが、実際の書き手が達筆過ぎて読めない。その可能性はありますが、別のことも考えてみたいと思います。

さて、すると本当の院宣はもっと「小難しかった」ことが予想されます。昭和天皇の「終戦の詔勅」のようなもの。あれをルビなしで読める人間は、多くはない。内容は事前に分かっているけど、細かい訳となると無理です。負けたというだけですが、一種の美文にしてそれをはぐらかしているし、国民もその方が良かったでしょう。あんまり負けた感じがしない文章です。

京都政権には「文章経国」という悪い癖があります。悪い、というのは「文」(主に漢文、後には和歌)を作るための宴会に多額の費用をかけ、それが「政治だ」と思ってしまっていたからです。
すでに桓武天皇の孫の仁明天皇の時代に「漢文パーティー開きすぎで国家財政が傾く」という現象が起きていたようです。
「文章経国」(もんじょうきょうこく)は古代中国の儒教の思想で、文によって「礼の価値」を高め、「礼によって国家秩序を維持する」という「思想」です。

それは「高度なテクニックを駆使した漢文で、中国の故事がふんだんにちりばめられていた」と言います。(桃崎有一郎氏の著作より)

おそらく後鳥羽院の院宣の本物は、このような美文だったのでしょう。だから泰時には読めなかった。私はそう推測しています。

蛇足
呉座さんが「院宣はなかった。吾妻鏡または承久記の贋作」ということを書いておられるようです。それに対するヤフーのコメントに「重箱の隅突っつき史学はうんざりします」というのがありました。呉座さんうんぬんではなく、「重箱の隅突っつき史学」という言葉は、グランドセオリーなきあとの日本史学の現状の「一端」を表しているように感じました。私は歴史学者ではなく、ど素人の歴史好きに過ぎませんが、80年代までの佐藤進一、黒田俊雄、石井進ら諸先生の「骨太の歴史議論」をもう一度検証することの方に知的興味を感じるのは、やはり今の歴史議論がかつてに比べ相対的に卑小化しているように感じているからのような気がします。なお、吾妻鏡が泰時が「読めなかった」としていることは、美文の院宣が存在したことの、傍証になるようにも感じます。

鎌倉殿の13人関連・「承久の乱」をどう考えたらいいのか。

2022-12-04 | 鎌倉殿の13人
「承久の乱」を「どう評価」すべきでしょうか。社会の混乱という意味では、さほどの戦いではありません。

後醍醐帝と足利尊氏が明確なビジョンもなく「鎌倉幕府を倒してしまって」から、60年の内乱の時代が訪れます。そういう意味では、この2人、とんでもない人たちです。フセインを倒したはいいが、さしたるビジョンもなかったため、イラクを今も混迷の中に沈めているアメリカ、と同じことをやっています。
皇国史観においては「後醍醐帝に逆らった足利尊氏」は「日本最大の悪人」と呼ばれましたが、「皇国史観大嫌い」の私ですら「もっとちゃんとやれよ」とは思います。むろん後醍醐天皇も同罪です。

この南北朝時代の戦いや、その一部でもある「観応の擾乱」(じょうらん、意味なく難しい言葉ので、この言葉は変えた方がいい)に比べれば、あっという間に決着がつきます。数か月、60年に比べれば超短いわけです。

承久の乱の後も、幕府は公家、武家の経済的基盤である荘園制に手をつけたわけではない。その意味では「革命」とは言いがたい。

「優等生の回答」ならこれで十分ですが、私はあまり興味はありません。もっとも「荘園制」には興味があります。「革命か否か」に意味はないということです。

別の優等生的回答もあります。「承久の乱によって朝廷や天皇・上皇は武力を捨て、今日の皇室の原型ができあがった。一方、幕府は国家の警察・防衛軍・外交を担う組織となった」

これも、私にとってはつまらない回答です。史実と違うと思うし。

武士は「荘園」を経済的基盤としていた。それは本所をはじめとする公家・寺家も同様である。従って武家は「荘園システム・治天の君システム」を破壊することはできなかった。しかし武家が大事にしたのは「国家体制システムであって個々の天皇・上皇」ではなかった。「体制を武力や天皇権威によって変更しようとする試み」をした天皇や上皇は、忖度なく幕府(鎌倉、室町、江戸)そしてなにより身内の公家・寺家によっても圧迫された。当時の言葉で言えば「帝ご謀反」。そのシステムは現在「権門体制」と呼ばれ、院政期から応仁の乱までは続いたとされている。
承久の乱は「帝ご謀反」の典型例で、その場合、武家は「体制に対する謀反者」として天皇・上皇も追放する。さらに公家内部からも批判される(乱後の後鳥羽上皇の評価は公家内部において低い)。
日本を支配しているのは権門が作る「相互補完体制」であって、上皇ではなく、「公家権門のみで支配しているわけでもなく」、武士が守っているのは朝廷や上皇個人ではなく「体制」である、そのことが「はっきり」したのが承久の乱。

いい線いってますが、まだまだ「つっこみどころ」は満載(上記は私の文章なので自分に突っ込んでいます)で、納得できるものではありません。それは本当に権門体制なのか。寺家は政治にどう関わったのか。公家権門の「長」を武家が決めているように見えるが、これは武家権門の優越性を表していないと言い切れるのか。各権門が相互補完をしていた、については東の研究者を中心に「ありえない」という声もあるが、東西の学者でよくよく考えた方が良くはないか。そもそも相互補完って曖昧過ぎはしないか。また、それは荘園システムなのか、治天システムなのか、天皇システムなのか。つっこみどころは山ほどあります。

権門体制の提唱者黒田俊雄さんは「二つの権門の対立、それは幕府の基盤の中核である在地領地制の発展を背景とした政治的対立の爆発」と書いています。1964年、「鎌倉幕府論覚書」

私見ですが、承久の乱に関する論点の多くは、1960年代、70年代の「黒田・石井進」という良きライバルの学説論争の中で出たものであり、「最新研究」を追うより、そこまで遡及して考える方が、たぶん有益であろう。そんな予見を持っています。

承久の乱には、日本史を考える上で大切な問題が山の如く詰まっていますから、簡単に回答を出しては「もったいない」気もします。

天下概念の歴史的変容・「信長・家康がおったらそこが天下や」説

2022-12-04 | 麒麟がくる
織田信長の時代、天下とは畿内を指した。したがって「天下布武」とは「畿内を」、布武(武とは徳であり、徳によって徳治)することだ。

誰が考えた「言葉遊び」かは分かりませんが、ちょっと前にはこういう「言葉遊び」にこだわる人がいました。今は最新の研究によって「乗り越えられて」、、、、いません。

私は素人ですがちょっと考えて「奇妙な詐術」であることは分かります。そもそも「印鑑の意味」などいくら探っても、その武将の「実体」には迫れません。豊臣秀吉の印鑑の中にはいまだに「読めない」ものもあるのです。「印」なんてその程度のものです。

それでもこだわるとすると

・お釈迦様の「天上天下唯我独尊」、、、この天下も畿内なのか。お釈迦様は日本の畿内で独尊なのか。中世にもこの言葉はある。
・源頼朝の「天下草創」、、、頼朝は畿内を「草創」したのか。中世の言葉である。
・言葉には「広義と狭義」がある。
・言葉が「新しい意味を獲得」したとしても、「古い意味」(古義)は残る。ヤバイは今でも「危険」という意味を持っている。「危険なほど素晴らしい」と両立する形で意味を保っている。

2014年あたりからの「信長は普通の人だブーム」の中で「天下布武」の「解釈変更」が行われましたが、定説にはほど遠い現状です。素人が考えても「言葉遊び、ただの解釈変更」に過ぎないことは歴然としているからです。

織田信長の発行文章を読むと、なるほど「天下を畿内の意味で使っている用法」は多くあります。特に上洛以前、直後ですね。信長だって上洛以前から「日本全土を統治してやるぜ」なんて考えていません。
その意味では「天下布武」はただのスローガンであり、「あれは看板に過ぎないから」と信長に聞けばそう答えるでしょう。

ただ信長も後期になると「天下を自らの支配地域の意味、または将来自分が統治すべき支配地域の意味」として使っていきます。「天下の概念が変化する」というより、狭義に重きを置いていたものが、広義に重きを置くようになります。もともと畿内、日本という両義性を持った言葉です。

信長の支配地域は日本の半分程度ですが、将来支配しようと頭で思っている領土には「九州、東北、四国」が加わります。となると晩年における信長の「天下」とは「初期の畿内ではなく、日本全土」ということになるのです。

江戸時代、天下はいうまでもなく「日本全土」でした。もし仮に、信長以前においてそれが畿内だったとしても、30年の間に意味は「広義」に重点が徐々に移行し、「日本全土を指すようになった」、その変化を推進したのは信長、秀吉、家康ということになるでしょう。「天下は天下の天下なり」、家康の言葉かどうか分かりませんが、江戸期には存在した言葉のようです。「畿内は畿内の畿内なり」ではありません。天下の意味は信長の時代から「天下人の支配領域の拡大に伴ってだんだんと広義で使われるように変化していった」。そう考えるのが合理的です。

信長は「自分の支配領域を全て天下と呼び、将来支配を狙っている領域も天下と呼び」ました。と私は思っているのですが、最近、信長を考えていないので、なんとか検証してみたいと思っています。

芸人の永野の「クワバタオハラがおったらそこは大阪や」というギャグをご存じでしょうか。あれに着想を得て書きました。「信長が支配していたらそこが天下や」「徳川が支配していたらそこが天下や」ということになります。

鎌倉殿の13人・スピンオフ小説「比奈の乱」・「承久の乱前夜」

2022-12-01 | 鎌倉殿の13人
後鳥羽上皇の願いを受けて、比奈は鎌倉に下向した。

義時とは直接文を交わしたことはないものの、比企の乱から18年、義時は京の比奈に、定期的に莫大な金銭を送ってきてくれていた。途中からは泰時の名で送られてきたが、義時の意向であることは間違いない。比奈はまずその礼を述べた。

「少しもお変わりになりませんね、小四郎殿」
「そうか、人には別人になったと言われるが」
「同じです。あなたはいつも鎌倉のことばかり考えて、そして疲れていらした」
「そうか」
「さて、今日は上皇様のお言葉を伝えに参りました」
京で比奈と後鳥羽上皇が懇意であることは、義時はよく知っている。
「文を託すまでの仲とはな。比奈、つらくはないのか」
比奈にとってはマツリゴトに関わることが苦痛であると義時は思っている。
「比企の一族のことは、すべて昔のことです」と言って比奈は笑った。そして一通の文を差し出した。
義時はそれを見た。「すべては比奈殿に聞いてほしい。尊成。」とのみある。
「随分と信頼が厚いようだな」
「私は鎌倉では天下無双の女房でございましたよ。さて上皇様のお言葉です。上皇様は窮しておられます。大内惟信殿と三浦胤義殿を首魁とする京都鎌倉党が、上皇に挙兵を迫っております」
義時は何も言わない。
「上皇様としては、北条義時追討の院宣は出したくない。鎌倉党は朝廷が西国地頭の任免権を持つことを望んでいる。ここはぜひ妥協してほしい、とのこと」
「比奈、知っておろう。地頭職は鎌倉の根本。それだけは叶わぬ」
「上皇様は、小四郎殿が思うようなお方ではありません。上皇様なりに民のことも考えておられる。戦は、民を疲弊させるだけだ。なんとしても避けたいと」
「お前に言われなくとも、上皇様がどんな方かは分かっておる。私も民のことは考えている。大内と胤義を斬れと伝えよ。それだけの覚悟がなくして、為政者といえようか」
「斬っても、西国守護の北条に対する不信感は消えません。大内様はかの平賀朝雅殿の叔父で、源氏の門葉、上皇様のもと、京にもう一つの幕府を建てようとしております」
「なるほどな、それでは上皇もなかなか扱いにくかろう。よし分かった。上皇様に伝えよ。大内ら謀反の輩はこの鎌倉が討つ。その上で、京の六波羅に探題を作り、上皇様と協力して西国を治める。鎌倉の武力の後ろ盾があれば、上皇様も思うように政治ができよう。ただし、地頭の件だけは絶対に譲らぬ。」
と言ったあとで
「とはいうものの、相談があればよくよく考えよう。」と笑った。
「分かりました。ありがとうございます。早速京に上って、上皇様にお伝えしましょう」
「もう帰るのか。つもる話もある。今宵だけでも泊まっていかんか」
「上皇様のお考えを聞いたら、すぐに鎌倉に下向しますゆえ、その時に。わたくしもつもる話はございます。では上皇様のもう一つ文をお渡しいたします」

小四郎殿、よくぞ妥協してくださった。これで民は救われる。これからは手を携えて日の本を治めていきましょう。院宣が出れば、あなたの命を奪うことになる。しかし鎌倉は混乱の極みに達し、やがてまた戦となるかも知れません。それは私の本意ではない。

「勝つ気でいるのか」義時は珍しく大声で笑った。「比奈、今の件は火急を要する。お前が京に戻るのを待ってはいられぬ。文をしたため、京に早馬を送る。長い旅だった。今夜だけでも泊まっていけ」
比奈はうなずき、にこりと笑った。

しかしその頃、京では、大内惟信、三浦胤義ら鎌倉党が、後鳥羽上皇に決断を強く迫っていた。後鳥羽上皇の煮え切らない態度を見た鎌倉党は、主戦派の順徳上皇とともに、北条義時追討の院宣を御家人たちに送ってしまう。
「なんということをしたのだ、守成」後鳥羽は順徳を殴りつけた。
「殴りましたね。生まれて初めてです。親にも殴られたことがないのに」
「しれ者が、われがお前の親ではないか」
後鳥羽は泣きくずれた。
「すまん、比奈。かくあいなった。もはや止められぬ。止められぬなら戦う。そしてわしは勝つ。鎌倉は焼け落ちるだろう。早く京に戻ってくるのだ」

比奈は京に上る途中で、後鳥羽の知らせを受け取った。急ぎ鎌倉に引き返し、太郎泰時邸に向かった。
「母上、母上の努力も、この太郎の努力もすべて灰燼に帰しました。もはや鎌倉は戦うしかない」
「太郎。私も心を決めました。こうなれば太郎が戦功を立て、時局を握る以外ありません。たった一人でも京に向かうのです。ためらっていては、御家人が動揺しましょう」
「分かりました。では私は評定では、強く箱根の関での迎撃を主張します」
「なるほど、そうなれば小四郎殿や大江殿は太郎に反発して、京出撃を主張するでしょう」
比奈は遠い京にいる上皇を思った。さぞ無念であることだろう。しかも上皇は負ける。なんとか命だけは救わなくてはならない。
「太郎、圧倒的な兵力を集結できるよう小四郎殿と図るのです。民を疲弊させてはなりません。ひと月で決着がつくよう、官軍を圧倒する兵力を持つのです」
「今、一人で京にいけと、、、しかし分かっております。鎌倉の大将が出撃すれば、諸国の御家人はそこに集結しましょう。迷っていることが一番まずい。」
比奈と太郎は、それから共に悲しげな顔で空を見つめた。泰時としてみれば、官軍に勝つ、そのことにほとんど高揚感はなかった。勝利のあとのマツリゴトをどうなすか。上皇をどう処遇するか。泰時の頭は、すでにそこに向かっている。
つづく。