歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

鎌倉殿の13人関連・「承久の乱」をどう考えたらいいのか。

2022-12-04 | 鎌倉殿の13人
「承久の乱」を「どう評価」すべきでしょうか。社会の混乱という意味では、さほどの戦いではありません。

後醍醐帝と足利尊氏が明確なビジョンもなく「鎌倉幕府を倒してしまって」から、60年の内乱の時代が訪れます。そういう意味では、この2人、とんでもない人たちです。フセインを倒したはいいが、さしたるビジョンもなかったため、イラクを今も混迷の中に沈めているアメリカ、と同じことをやっています。
皇国史観においては「後醍醐帝に逆らった足利尊氏」は「日本最大の悪人」と呼ばれましたが、「皇国史観大嫌い」の私ですら「もっとちゃんとやれよ」とは思います。むろん後醍醐天皇も同罪です。

この南北朝時代の戦いや、その一部でもある「観応の擾乱」(じょうらん、意味なく難しい言葉ので、この言葉は変えた方がいい)に比べれば、あっという間に決着がつきます。数か月、60年に比べれば超短いわけです。

承久の乱の後も、幕府は公家、武家の経済的基盤である荘園制に手をつけたわけではない。その意味では「革命」とは言いがたい。

「優等生の回答」ならこれで十分ですが、私はあまり興味はありません。もっとも「荘園制」には興味があります。「革命か否か」に意味はないということです。

別の優等生的回答もあります。「承久の乱によって朝廷や天皇・上皇は武力を捨て、今日の皇室の原型ができあがった。一方、幕府は国家の警察・防衛軍・外交を担う組織となった」

これも、私にとってはつまらない回答です。史実と違うと思うし。

武士は「荘園」を経済的基盤としていた。それは本所をはじめとする公家・寺家も同様である。従って武家は「荘園システム・治天の君システム」を破壊することはできなかった。しかし武家が大事にしたのは「国家体制システムであって個々の天皇・上皇」ではなかった。「体制を武力や天皇権威によって変更しようとする試み」をした天皇や上皇は、忖度なく幕府(鎌倉、室町、江戸)そしてなにより身内の公家・寺家によっても圧迫された。当時の言葉で言えば「帝ご謀反」。そのシステムは現在「権門体制」と呼ばれ、院政期から応仁の乱までは続いたとされている。
承久の乱は「帝ご謀反」の典型例で、その場合、武家は「体制に対する謀反者」として天皇・上皇も追放する。さらに公家内部からも批判される(乱後の後鳥羽上皇の評価は公家内部において低い)。
日本を支配しているのは権門が作る「相互補完体制」であって、上皇ではなく、「公家権門のみで支配しているわけでもなく」、武士が守っているのは朝廷や上皇個人ではなく「体制」である、そのことが「はっきり」したのが承久の乱。

いい線いってますが、まだまだ「つっこみどころ」は満載(上記は私の文章なので自分に突っ込んでいます)で、納得できるものではありません。それは本当に権門体制なのか。寺家は政治にどう関わったのか。公家権門の「長」を武家が決めているように見えるが、これは武家権門の優越性を表していないと言い切れるのか。各権門が相互補完をしていた、については東の研究者を中心に「ありえない」という声もあるが、東西の学者でよくよく考えた方が良くはないか。そもそも相互補完って曖昧過ぎはしないか。また、それは荘園システムなのか、治天システムなのか、天皇システムなのか。つっこみどころは山ほどあります。

権門体制の提唱者黒田俊雄さんは「二つの権門の対立、それは幕府の基盤の中核である在地領地制の発展を背景とした政治的対立の爆発」と書いています。1964年、「鎌倉幕府論覚書」

私見ですが、承久の乱に関する論点の多くは、1960年代、70年代の「黒田・石井進」という良きライバルの学説論争の中で出たものであり、「最新研究」を追うより、そこまで遡及して考える方が、たぶん有益であろう。そんな予見を持っています。

承久の乱には、日本史を考える上で大切な問題が山の如く詰まっていますから、簡単に回答を出しては「もったいない」気もします。

天下概念の歴史的変容・「信長・家康がおったらそこが天下や」説

2022-12-04 | 麒麟がくる
織田信長の時代、天下とは畿内を指した。したがって「天下布武」とは「畿内を」、布武(武とは徳であり、徳によって徳治)することだ。

誰が考えた「言葉遊び」かは分かりませんが、ちょっと前にはこういう「言葉遊び」にこだわる人がいました。今は最新の研究によって「乗り越えられて」、、、、いません。

私は素人ですがちょっと考えて「奇妙な詐術」であることは分かります。そもそも「印鑑の意味」などいくら探っても、その武将の「実体」には迫れません。豊臣秀吉の印鑑の中にはいまだに「読めない」ものもあるのです。「印」なんてその程度のものです。

それでもこだわるとすると

・お釈迦様の「天上天下唯我独尊」、、、この天下も畿内なのか。お釈迦様は日本の畿内で独尊なのか。中世にもこの言葉はある。
・源頼朝の「天下草創」、、、頼朝は畿内を「草創」したのか。中世の言葉である。
・言葉には「広義と狭義」がある。
・言葉が「新しい意味を獲得」したとしても、「古い意味」(古義)は残る。ヤバイは今でも「危険」という意味を持っている。「危険なほど素晴らしい」と両立する形で意味を保っている。

2014年あたりからの「信長は普通の人だブーム」の中で「天下布武」の「解釈変更」が行われましたが、定説にはほど遠い現状です。素人が考えても「言葉遊び、ただの解釈変更」に過ぎないことは歴然としているからです。

織田信長の発行文章を読むと、なるほど「天下を畿内の意味で使っている用法」は多くあります。特に上洛以前、直後ですね。信長だって上洛以前から「日本全土を統治してやるぜ」なんて考えていません。
その意味では「天下布武」はただのスローガンであり、「あれは看板に過ぎないから」と信長に聞けばそう答えるでしょう。

ただ信長も後期になると「天下を自らの支配地域の意味、または将来自分が統治すべき支配地域の意味」として使っていきます。「天下の概念が変化する」というより、狭義に重きを置いていたものが、広義に重きを置くようになります。もともと畿内、日本という両義性を持った言葉です。

信長の支配地域は日本の半分程度ですが、将来支配しようと頭で思っている領土には「九州、東北、四国」が加わります。となると晩年における信長の「天下」とは「初期の畿内ではなく、日本全土」ということになるのです。

江戸時代、天下はいうまでもなく「日本全土」でした。もし仮に、信長以前においてそれが畿内だったとしても、30年の間に意味は「広義」に重点が徐々に移行し、「日本全土を指すようになった」、その変化を推進したのは信長、秀吉、家康ということになるでしょう。「天下は天下の天下なり」、家康の言葉かどうか分かりませんが、江戸期には存在した言葉のようです。「畿内は畿内の畿内なり」ではありません。天下の意味は信長の時代から「天下人の支配領域の拡大に伴ってだんだんと広義で使われるように変化していった」。そう考えるのが合理的です。

信長は「自分の支配領域を全て天下と呼び、将来支配を狙っている領域も天下と呼び」ました。と私は思っているのですが、最近、信長を考えていないので、なんとか検証してみたいと思っています。

芸人の永野の「クワバタオハラがおったらそこは大阪や」というギャグをご存じでしょうか。あれに着想を得て書きました。「信長が支配していたらそこが天下や」「徳川が支配していたらそこが天下や」ということになります。