歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

織田信長と上杉謙信の蜜月とすれ違い、愛と哀しみのボレロ。

2023-07-19 | どうする家康

そういえば「どうする家康」には上杉謙信が登場しません。上杉謙信と徳川家康は対信玄で「同盟」して起請文まで交わしていたのに。

でもここは織田信長のお話。
織田信長と上杉謙信は直接会ったことも「直接戦ったことも」ありません(戦ったのは柴田勝家)が、共通の友人(足利義輝)を持ち、桶狭間の戦いの4年後にはすでに「交友関係」を持っています。交友関係どころか、実現はしないものの、信長の息子の一人を謙信の養子にするという話すらありました。信長上洛の4年も前の話です。

そして謙信の死のたった2年前まで、信長と謙信は「大の仲良し」だったのです。

謙信は「義の人」であり、「不義の人」である信長を嫌っていた。大河「天地人」などではそう描かれましたが、史実は違います。謙信は信長を親しいメル友(手紙友)と思っていたはずです。そもそも信長は自分から人を裏切ったことはほとんどなく、むしろ裏切られてばかりで、不義の人とはとても言えません。柴田勝家は若い頃信長の弟を担いで謀反を起こしましたが、許しています。前田利家は信長の近衆を殺して出奔しましたが、許しています。晩年の林や佐久間の追放にしても、殺してはいないのです。松永久秀が明確に裏切った時も、一回は許しています。息子の織田信雄が勝手に伊賀を攻めて、しかも負けた時も、許しています。信長が戦争において多くを殺したことは事実ですが、それなら他の大名も変わりません。どっから信長が「不義の人」という間違ったイメージが生まれたのか、実はそこには興味はあります。間違ったイメージが流布する理由です。まあ比叡山焼き討ちと一向一揆の根切りのせいでしょうが、それには「それぞれの理由」があるのです。特に一向一揆では信長は大切な親族を何人か殺されています。だから殺していいとは言いませんが、信長にとって「最大最強の敵」が一向一揆であることを考えれば、大名に対するより過酷な戦いとならざるえない理由は分かります。一向一揆との戦いは大名との戦いより一段上の「真剣勝負」だったのです。信長自身が手傷を負ったのも一向一揆との戦いの場面だけです。おそらく戦国最強は一向一揆であり、それとの戦いや殺人をもって不義とするのは、違うように私は思います。信長が「いいことをした」とはとても思いませんが、、、というか、私は信長に歴史的興味をもっていますが、別に好きなわけではない。英雄とも偉人とも思わない。むしろ残虐な殺人者というのが私にとっての信長です。

一向一揆との戦いに比べれば、謙信との関係など、まるでおとぎ話のように穏やかであり、手紙のやり取りは頻繁で、実に仲が良かったのです。謙信が49歳で亡くなったのは天正6年、1578年ですが、二人が「破局」に至ったのはその2年前、1576年、もしくは1577年のことです。その前の10年以上、二人は蜜月と言えるほど仲が良かったことは現存する手紙から明らかです。

理由は信玄という共通の敵がいたせい、ではありません。信玄と信長は同盟しており、信玄の死の直前まで、つまり信玄が信長を裏切って徳川を攻める直前まで、信長は幕府を代表して信玄と謙信の関係を「調停」していました。武田が「共通の敵」となったのは信玄の裏切りの後であり、裏切りとほぼ同時に信玄は死んでいるので、武田勝頼の時代です。

そのあたりから、武田討伐を優先する謙信と、武田、つまり関東ばかりに気を使ってはいられない信長との齟齬が少しづつ生じてきます。具体的には信長は武田討伐を何回か口約束しますが、信長には京都、義昭問題があったり、越前の統治がうまくいかない問題があったり、なにより本願寺問題があり、なかなか約束を守れません。その上、武田勝頼はかなり好戦的で「強き武将」であり、山を越えて東美濃に侵攻したり、徳川の高天神城を狙ったりと、勢いがありました。信長は武田に関しては相当な用意が必要と思っていたわけです。しかし謙信は「攻めよう」の一点張りです。動かない信長に謙信のイライラが募っていきました。

1574年、天正2年はじめ、謙信は武田に出兵します。そして同盟している家康・信長に協力を求めます。信玄が死んだ時は、すぐにでも武田を攻めようと言っていたのは信長の方だったのですが、この時になると信長は口で協力を約束するだけで動きません。そして上洛して「蘭奢待」(ランジャタイ)を切りとらせたりしています。謙信は当然腹を立てます。そこで信長が贈ったのが有名な「洛中洛外図」でした。高価なモノを贈ればなんとかなるだろうと思っているあたり、信長は人の心理が本当に読めないのだなと思います。実際、謙信の心は信長から離れていくのです。

天正2年、信長の目標は長島の一向一揆でした。最大最強の敵です。武田はあと回しです。長島のせん滅が終わると、やっと武田に対して動きます。翌年、1575年、天正3年が「長篠の戦い」です。ここで武田勝頼を撃破した信長は謙信に共同での武田攻めを提案します。しかし謙信にしてみればいつまでも信長の自己都合に振り回される気持ちはなかった上に、義昭からも信長と手を切れという手紙もきています。ここで謙信は信長の「一応の支配下」(実際はうまく統治できていなかった)である越前の隣の越中に兵を向けるのです。

越前の朝倉を滅ぼした後、信長は直接統治を目指さず、あまり能力もない旧朝倉の家臣に統治を任せ、結局は失敗し、一時越前は一向一揆の国となります。このことが私は不思議だったのですが、越前を支配することによって「謙信と隣国関係になる」ことを忌避したのかも知れません。謙信が越中を支配するとそうなります。でも越前支配の失敗により、信長は天正3年、越前の一向一揆を皆殺しにし、統治を柴田勝家に任せます。同時に謙信は越中を支配下に置くのです。結局は「隣国になってしまった」(中間に加賀はあるものの)わけです。

そして謙信の最晩年である天正5年9月、柴田勝家と謙信の戦いが生じます。有名な「手取川の戦い」です。戦いと言っても柴田勝家は守ろうとした七尾城の陥落を知って兵を引き上げ、その柴田軍を謙信が追撃したというのが実態です。その途中に手取川があり、地の利のない柴田軍は川に足をとられ、多くの死者を出します。織田信長は陣中にいませんから、正確には上杉謙信と織田信長が直接戦ったことはありません。

これがたった一度の「織田対上杉」ですが、この戦いのインパクトが強すぎ、しかも現代になってからもこの場面ばかりが映像化されるので、まるで「信長と謙信はずっと敵対していた」かのような誤解を与えるのです。謙信の意図が信長を打倒するための上洛であったかは、直後に謙信が死んでしまったので分かりません。ウィキペディアを読んだら「完全に上洛前提」で書かれていますが、歴史学者の本ではあまりそんな意見を見たことはありません。ちなみに司馬さんの小説、たしか「新史太閤記」でも、秀吉は「上洛ではない」と考え、「上洛だ」とする信長に対し「これが上様の限界だ」と考えたりするシーンがでてきます。司馬さんは信長をあまり高く評価していませんでした。「国盗り物語信長編」は編集者に拝み倒されて書いたもので、司馬さん自身の自発的意思ではありません。

話戻して。
手取川の戦いのクローズアップによって、敵対関係が続いていたと誤解されている信長と謙信ですが、実際は謙信と信長はずっと同盟者であり、しかもその仲は良好で、いろいろな齟齬から戦うはめになりましたが、それは謙信の死のわずか2年前のことです。ほとんどの期間、10年以上の長い月日、信長と謙信は持ちつ持たれつでやってきたのです。

ちなみに謙信の死の後、上杉は後継者をめぐって混乱し御館の乱が起きます。謙信の姉の子である上杉景勝が後継者となりますが、謙信時代の力は上杉にはもはやありません。武田は滅亡し、信長は上杉に兵を向けます。景勝は滅亡を覚悟し、遺書めいた手紙まで書いています。しかし幸運にも本能寺の変が起き、織田(柴田勝家)が引き上げたことで、上杉は九死に一生を得ます。豊臣政権に服属し、会津への転封(越後から引き離されての鉢植え大名化)を受け入れたことで120万石。関ケ原で減封され30万石。江戸初期に後継者がなく、お取り潰しのところを、徳川秀忠の隠し子である将軍後見の保科正之(会津松平の祖)に救ってもらって15万石。「忠臣蔵」(五代、徳川綱吉時代)では、上杉当主が吉良上野介の息子だったため、上杉米沢藩と赤穂浪士・大石内蔵助は「物語上」しばしば暗闘を繰り広げます、あの時の上杉は15万石の大名でした。江戸中期には財政危機。上杉鷹山がなんとかこれを乗り切ります。江戸末期には佐幕派となって石高も19万石まで回復。明治維新後は長岡藩とともに戦った北越戦争の敗北を経て、中立または官軍寄りの立場に転身しますが、幕府に協力した責任を問われ、15万石に逆戻り。そして版籍奉還です。

「どうする家康」の歴史学・史料からみる織田信長・徳川家康と武田信玄の本当の関係

2023-07-17 | どうする家康
「どうする家康」はドラマであって史実ではありません。それは当然のことでもあります。しかしこの番組を通じて「本当の歴史を学ぶ」ことは可能です。つまり「では史実はどうだったのか」ということです。史実ではないと批判しても意味はないでしょうが、「史実はどうだったか」を調べることには意味があると、私は考えます。

1.織田信長と武田信玄は強い「同盟関係」にあった。

「どうする家康」では、初めから信長と信玄が敵対関係にあるように描かれています。信玄は偉大な人物として描かれます。さらに信長は「京都に巣くう魔物」だと信玄は言います。これは信玄が信長の「手切れ」段階でのセリフですので、この段階1572年には信玄が「巣くう魔物」と考えていた可能性はなるほどあります。しかし問題なのは「裏切ったのは信玄のほう」だと言うことです。

信長の「上洛」1568年は、信玄の「了解」のもとに行われました。信長の領国である美濃と信玄の甲斐は隣国です。また謙信の越後も近い国です。信玄と謙信の「承諾なし」では、信長は上洛はできません。特に信玄との関係は同盟であり、強いものでした。武田勝頼、信玄の二代目ですが、この勝頼の妻は「信長の養女、信長の妹が遠山氏との間にもうけた女性)でした。つまり信長は勝頼の「義父」なのです。この婚姻が成ったのは上洛の3年前です。この女性は1571年(信玄の裏切りの前年)に死亡しますが、武田信勝(勝頼の嫡男)を生んでいます。また信長の嫡男信忠と信玄の娘との間にも縁組が一応は成立していました。ただしこの信玄の娘、松姫は1561年の生まれですから上洛時にはまだ6歳です。実際に嫁いだわけではありません。勝頼の妻の死を受けて、実際に嫁ぐ動きが起こりますが、信玄と信長の手切れによって破談状態となります。1572年、松姫が11歳の時です。松姫は後年、徳川家康の庇護下で生き抜き、保科正之(会津松平の祖)を異母姉と共に育てます。

このように「縁組」関係を見ただけでも、信玄と信長の関係が深い同盟であったことが分かります。信玄の西上行動はこの同盟を破棄することなく、突然行われました。信長が最後まで武田に対して憎悪を燃やしたのはその為です。「お人好しの信長が老獪で悪賢い信玄に裏切られた」とまで言っていいか分かりませんが、ざっくり言えばそういうことになります。

2,信玄は信長と同盟を結んでおきながら、信長の同盟者である徳川家康を挑発し続けた。

さらに軍事的に見れば、、、武田信玄は信長の上洛を認める見返りに「今川侵略」を信長に認めさせます。結果、旧今川領は分割され、西が徳川家康のもの、東が武田信玄のものとなりました。なお、この今川攻めに際し、今川義元の娘を妻にしていた信玄嫡男の義信は異議を唱え、結局、信玄はこの嫡男を殺しています。信長は多くいる息子を一人も殺していませんが、信玄、家康は嫡男を殺しています。武田を継げるわけもなかった諏訪勝頼(武田勝頼)が武田家を継いだのはその為です。武田勝頼が「ほとんどの家臣の裏切り」にあって死ぬのも、正当性に大きな問題があったから、とも解釈できます。

さて「偉大なる」信玄ですが、信玄は家康との境界であった「遠江」(とおとうみ)に手を出します。同盟者が同盟している相手である家康に手を出したわけです。当時であっても禁じ手と言ってよいでしょう。今川分割時には「遠江に出兵してくれてありがとう」という手紙すら信玄は書いているにもかかわらず、です。(恵林寺所蔵文書)

もっとも実際に「手を出した」のは、信玄の国人(国衆ともいう)である秋山虎繁ら信濃下伊那衆です。信玄が積極的だったとまでは言えません。統制がとれていなかったという解釈も可能です。

しかし徳川家康は信濃下伊那衆の行動を「偉大な信玄の許可を得たもの」とみなしました。信玄が国人たちをコントロールできないとは考えなかったのです。

そこで徳川家康は信玄に対し協定違反であると抗議を行い、もちろんそのことを信長にチクり(報告)します。

3,焦った信玄はあちこちに弁明した・家康には起請文すら書いた

「どうする家康」は信玄賛美が過剰ですので「信玄を怒らすな」というサブタイトルすらつけていますが、史実としてはこの段階1569年に武田信玄が思っていたのは「織田信長を怒らすな」ということです。家康に弁明するとともに、信長に対してもわざわざ弁明の手紙を送っています。(古典籍展観大入札会目録文書)
さらに家康には起請文すら書いて家康の「誤解」を解こうとしています。(武徳編年集成)

信玄がこのように「へりくだる」のには理由がありました。信長上洛の4年後、信玄は信長との同盟を破棄する通達もせず、一方的に遠江を侵略しますが、「同盟一方的破棄」は信玄の習慣であって、この今川分割にあたっても実に「信義を欠いた行動」を信玄という男はとっているのです。それは今川、北条、武田の三国同盟の一方的破棄です。

怒ったのはむろん関東の雄、北条です。信玄の裏切りに対し、当然大きな不信感を抱きます。この北条の脅威があったため、信玄は家康・信長に対して「へりくだる」しかなかったのです。3年後、突然遠江を侵略した時(つまり三方ヶ原の戦い時)、信玄は「3年間のモヤモヤを散じた」と言っています。3年間とは、家康に「へりくだった時」からの日時です。

4,上杉謙信との関係で織田信長を頼り切っていた武田信玄

信玄と家康の関係はこの後もずっと「ぎくしゃく」です。「北条や今川氏真と仲良くしないように信長殿から家康に言ってくれ」とも信長に手紙を送っています。(神田孝平氏旧蔵文書)

しかし一方、「天下静謐」を掲げ、幕府とともに各大名の紛争の「調停」に乗り出した信長には大きな信頼と期待を寄せていました。「織田信長は上洛時点で既に侵略者ではなく調停者」ということも見逃されがちです。信長の越前侵略のイメージが強すぎるからでしょう。越前はなるほど侵略っぽいですが、形式上は「官軍、朝廷軍、幕府軍」として行動していました。上洛とともに「あっちこっちに喧嘩を売った」というのは間違いです。そもそも上洛してすぐに岐阜に引き上げてしまっているのですから、喧嘩の売りようもないのです。上洛時点では毛利とも武田とも上杉とも敵対していません。

信長は上杉謙信とも良好な関係を築いていましたから、武田と上杉の紛争を「真面目に」調停していました。1569年、つまり信長上洛、信玄・家康の今川侵略の翌年、北条には不信感を抱かれ、謙信とは対立し、家康にも「信じられないやつ」とされた武田信玄はその徳のなさから関東随一の嫌われ者となっていました。

この時、信玄は外交役であった家臣の市川十郎に対し「信玄のことは、ただいま信長をたのむの他、又味方なく候」と手紙を送っています。(武家事紀)

関東には全く味方がいないから、信長を頼るしかない。そのことを外交官であるお前は十分に理解して行動しろ、ということです。家臣に送った政治的な手紙ですから、嘘をつく理由がありません。

5,徳川家康と武田信玄は本当に仲が悪く、家康が信長を信玄との抗争に巻き込んだ

信玄は「信長に見限られたらおれは終わりだ」とまで外交官に命じているのですから、積極的に信長を裏切るわけがありません。しかし火種は存在します。それが家康です。家康・北条・謙信が善人で、信玄のみが悪人などということは全くありませんが、それにしても以上見てきたように信玄のやり口はいかにも「悪らつ」です。戦国時代にあっても「そりゃひどいだろ」というところです。むろん信玄の側に立つなら「山梨は塩がとれないからどうしても海が欲しい」とか「今川の国衆たちに今川に代わって武田が守ってくれと頼まれた」とか理由はあるでしょう。ただ私はドラマで描かれたような偉人ではないという前提で書いているため、信玄にはキツイ評価をあえて行っているのです。そういう文飾(オーバーな表現)があることを前提にしてお読みください。

信玄は信長に頼っていました。世に信長以外の味方がいないからです。上杉が挑発してきても「信長と幕府が反対している」という理由で上杉との戦闘を避けます。浅井長政が信長と敵対した時は、信長を心配する手紙を送り、姉川の戦いで信長が一定の勝利をつかんだ時は、祝電を送っています。(徳川美術館所蔵文書)

一方、家康は信玄を全く信用していませんでした。尊敬していたとしたら「よくあそこまで悪らつになれるものだ」と尊敬していたのかも知れません。家康が信玄の旧臣を多く採用したため、徳川史観では信玄を尊敬していたことになっていますが、私としては全く尊敬などなかったと考えます。ちなみに1988年の大河中井貴一主演の「武田信玄」では、この信玄の「悪らつぶり」はかなり正確に描かれています。それでもこの作品は大ヒットし、40パーセントという異常な視聴率を獲得し、大河屈指の名作とされました。北条義時の「悪らつぶり」を描いて大河屈指の名作となった「鎌倉殿の13人」を考えてみても、「悪らつ」であることを描くことが、大河にとってマイナスになることはないのです。むしろ悪らつであることを改ざんし、あたかも偉人であるかの如く描くことが、大河にとってはマイナスとなるようにも思えます。

話がそれましたが、信玄の悪らつさをよく理解していた家康は、信玄と断交して謙信と同盟します。1570年10月のことです。三方ヶ原のちょうど2年前です。つまり2年間、信玄は家康と断交していました。一方で、信玄は信長しか味方がいない、わけですから、信長とは断交していませんし、同盟を続けています。家康との断交の翌年である1571年には、信長にいろいろ調停してもらったお返しなのか、今度は石山本願寺と信長の関係を信玄が調停したりしています。三方ヶ原などは信長から見れば家康と信玄の強情さが招いた私戦です。あんなに止めたのに(これは想像で止めたという史料は存在しません)喧嘩ばかりしているからこうなった。信長は家康に対しそう感じたはずです。たった3000しか兵を送らなかったのも、家康が勝手に始めた戦争と考えていたとすれば理解は可能です。実際、信長は家康とも信玄とも同盟しているのに、この二人は真に憎みあっており、喧嘩ばかりしていたのです。

6,徳川家康と上杉謙信の起請文の過激な内容

1570年に上杉謙信と同盟するにあたり、家康はこのような協定を結んでいます。

1,信玄とは真に断交する
2,家康は謙信と信長の関係をとりもつ
3,家康は信玄と信長の縁組が破談となるよう信長に進言する。(縁談とは織田信忠と松姫の婚約のこと、上記)

「3」は過激です。このころ、つまり1570年、信玄は北条との同盟を復活させていました。そうなると敵は謙信と家康です。家康としては、信玄など全く信用していませんから、謙信と結ぶことによって自国を守ろうとします。家康は信長の助けも信じてはいなかったでしょう。「信長は人が良すぎる。信玄など信用して」と考えていたかも知れません。

7、突如、信長を裏切った信玄

信長が家康と信玄の関係を調停しようとした事実はあまりないようです。喧嘩はしても戦闘までには至らないだろうと思っていたのでしょう。信長が調停したのは「謙信と信玄の仲」でした。

それは信玄裏切り、1572年10月の直前まで続いていました。信玄が遠江に「西上」するとは信長は考えもしなかったのです。

・信長は信玄の上杉への戦闘行動の抑制について、それに感謝する手紙を1572年の10月に送っている。(酒井利孝氏所蔵文書)

つまり信玄が既に徳川に向けて出兵をした時点ですら、信長は気が付かず、「上杉と武田との調停に協力して、上杉との戦闘を我慢してくれてありがとう」という手紙を信玄に送っているのです。信長が武田を助けて調停してやっているにもかかわらず「我慢してくれてありがたい」とか「お目出たいこと」を書き送っているのです。信玄からすれば「なんという善良でバカなやつだろう」ということになります。

8,信玄の行動をあわれむ上杉謙信

信玄が「信長以外に味方はいない」と家臣に手紙を送ったのは1569年でした。その3年後以内に信玄は上杉との「調停」に腐心している信長を裏切り、西上の軍を進めます。理由は上杉との調停がそれなりにうまくいき、北条との関係は改善し、家康以外に敵がいなくなったからです。

なんのことはない、信長は自らが同盟する家康と自分自身に危機を招くため、信玄と謙信の仲を調停していたようなものです。信長ほどの「お人好しはいない」と、信玄も家康も思ったでしょう。

しかし謙信の反応は違っていました。「信玄の運はきわまった」「蜂の巣に手を入れたようなものだ」と信玄の行動を半ばあざ笑っています。散々非道を繰り返し、信を失い、信長によってやっと生き延びた信玄が、ここにきて「恩人」である信長すら「利」によって裏切るとすると、もはや信玄を信じる者などこの世から誰もいなくなります。

北条も「次は我が身」と思うでしょう。また「信長と敵対する武将」ですら信玄を信じません。実際、信長と死闘を繰り返していた朝倉義景は、この信玄の行動を無視して、越前に引き上げてしまいます。信玄は「絶好の好機なのになぜ帰る」と手紙を送りますが、朝倉義景にしてみれば「到底信玄を信じることなどできない。ともに行動はできない」ということでしょう。

上杉謙信が特に「義の人」だとは思えませんが、それでもここまで「義を踏みにじれ」ば、「もはや誰も信玄など信用しない」ということぐらいは当然の理として判断できるでしょう。謙信はこの信玄の行動に武田家の衰退を的確に感じ取りました。

謙信を義の人だと思わないのは、「謙信の戦争は敵地のコメを奪うことが目的」という藤木久志さんの本を「読んでしまった」からですが、深く調べてはいないので、「義の人のはずない」とまで強くは言えません。謙信がどれほどの倫理心を持っていたのか分かりませんが、仮に多少なりとも「義の人」だとすると、その「義の人」は織田信長という武将を「不義の人」などとは思っていないことが、上記の「信玄運のきわみ」からも分かります。実は謙信と信長は10年以上親密な文通をしており、同盟関係は信玄が死んだ後も続きます。謙信が信長と決裂するのは互いの領土拡張によって越前・越中で領地が接してしまった時、つまり謙信の死(49歳)のわずか1年半前です。「義の人」であるかも知れない謙信は、信長とずっと同盟していました。信長は幕府を代表してせっせと紛争調停をやってましたから、誠実な人間とすら思ったでしょう。本願寺や浅井・朝倉、(もしかすると足利義昭)の「いわゆる信長包囲網」が成功するとも思っていなかったこと、それが正しいとも思っていなかったことは、「信玄運のきわみ」という言葉からも十分読み取れます。

9,戦国一の悪党「武田信玄」と戦国一のお人好し「織田信長」

上記の題名はかなりデフォルメしていますが、おおざっぱに言えばそんなイメージを私は持ちます。

信玄の「西上」と言えば「正義の行動」と思う向きもあるでしょうし、「どうする家康」でもそう描かれました。しかしそれは史実とはあまりに乖離しています。

それは信長の悪行(特に比叡山焼き討ち)がクローズアップされた結果です。幕府に関して言えば、義昭は不公平な政治を行い、腐敗していましたから「義昭を助ける」などというのは、形式上は正義でも、実際には正義でもなんでもありません。信長は理想主義的な側面が強く、幕府にも朝廷にも「公平」を迫りました。正親町天皇などもその都度その都度で縁故に合わせた適当な判断をするので、何度か信長に𠮟りつけられ、息子を通じて詫びを入れています。義昭がいつも信長に叱られていたことは周知の通りです。信長は天下を担う一人として公平を重視しました。むろん信長なりの公平であって、信長が無私で公平な人だなどという気はありません。信長は天下静謐や公平という綺麗ごとを武器にして、幕府や朝廷と対峙したという言い方のほうが正確かも知れません。(対峙です。対立でも対決でもありません。信長が朝廷と対立していなかったという説は、そこそこ知っています。ただし学説は多数決では決まらないので、私は少数意見も大事にします)

ところが信玄は違います。綺麗ごとが武器になるとは考えなかったようです。信玄は遠江を狙い、家康への怒りを散じようとしました。信玄が天下国家や「公平な政治のため」動いたという確実な証拠はありません。それがないから西上は上洛なのか遠江侵攻なのかが分からず、確定した説も存在しないのです。

家康を狙えば、いずれ信長と衝突する。しかし信長は、本願寺、浅井、朝倉との戦争で弱っている。大丈夫だろう。お人好しの信長の調停のおかげで、北条、上杉とはなんかとうまくやれそうだ、ならあの憎き家康を潰し、遠江を手に入れてやろう。理想主義的な信長に対し、信玄は現実的動機から動き、そのために「信と義と恩」を軽視しました。「信長包囲網」と言っても各自が各自の理由で動いていただけで、団結行動ではありませんが、とにかく各自であっても信長は義昭とはうまくいかず、本願寺、浅井、朝倉とは戦闘状態にあった。信長が弱っているとみた信玄は、勝ち馬に乗ろうとし、でも長い目でみれば「信と義と恩の軽視」によって結局は武田家を滅ぼしました。今川を裏切らなければ、嫡男義信を殺すこともなく、勝頼のような「よそ者」が当主となることもなく、武田は生き残ったかも知れません。信長を裏切らなければ、武田滅亡がなかった確率も高いでしょう。すべては信玄の不徳が招いた結果とも言えそうです。

信玄が信長に対して敵意を持つ理由が皆無とは言いません。信長は善人でなく、信玄にも信長に敵対する大義はあったのでしょう。しかし信玄の第一の狙いはあくまで家康です。信玄がもし死ななければ、岐阜まで疲れた兵を率いて行って、岐阜城の信長5万の兵と対峙し、でも兵站は持ちませんから、にらみ合いになって引き上げ、だったでしょう。川中島の戦いも、ほとんどは「にらみ合い」です。負ける戦いを信玄は積極的にはしなかったと考えられます。もし戦えば、かなりの確率で負けていた、疲れた3万弱の武田軍と5万で地の利を持つ織田軍では、勝負にすらならなかったと思われます。信長が大軍を岐阜に集結できると私(というより多くの歴史学者)が考えるのは、朝倉義景が信玄の西上に同調せず、信玄を信用することなく越前に引き上げたからで、これも信玄の不徳が招いた結果です。(勝負にすらならない、の部分は高名な信長研究家、谷口克広氏の意見を参照しました。)

信玄がドラマで過剰に偉大視されることを批判しても何の意味もありませんが、史実を調べてみると「ドラマと史実はやはり違う」とまあ「当然のこと」を感じます。ドラマはドラマと割り切って考えるべきなのでしょう。あまり史実にこだわると、ドラマが楽しめない、と日々自らの「こだわり」を反省しています。
参考・金子拓「裏切られ信長・不器用すぎた天下人」

本郷和人論・リスペクトを込めて

2023-04-26 | 権門体制論
1,本郷氏の本当の偉大さは、こういう文章を書いても怒らないだろうことである。

他の「生きている歴史学者」だと、そうはいきません。本人が許しても、お弟子さんたちが許しません。介護のために早期リタイアして、そもそも非史学科で、2年半前から学者の本を趣味で読み始めた僕みたいな人間が、「論」とか言いだしたら嘲笑されます。または単純に怒られます。

でもそうすると、コミュニケーションは遮断されてしまうわけです。私は教育学をやってきて、コミュニケーションが教育の基盤であることは明確だと思っているわけです。そういう「教師論」を勉強した人間からすると、一番いけないのが「教祖のように構えている学者」というか簡単に言うと「とっつきにくいやつ」なんですね。対話が成立しない。「黙っておれの言うことを聞いていればいい」というタイプ。これは教師としては失格です。学者としては分かりません。とにかく教師論の立場からすると、「対話になる」という点で本郷氏は実に偉いな、と考えます。

2,先生は間違ったほうがいい時もある

中学ぐらいになると、先生の説明がおかしいと思うことがあるのですね。で私が指摘すると、譲らない。で、色々調べて「どうだ」と見せると、やっと「うーん」って考える。その間私は猛勉強するわけです。つまり先生は間違っていいのです。実際、私は本郷さんの本を多く読んでますが、「本当かな」と思うことが時々あるわけです。これは本郷さんだけでなく、すべての学者の説がそうです。一応全部疑ってます。で、ほとんどは私の誤解です。
で調べてみるとこうです。この「自分で調べ考える」という時間が本当の勉強の時間です。で、こう思う。「厳密に言うと間違いである可能性は少し残るが、本質的部分だけ考えるなら、本郷さんの説明は間違っていない。学術論文じゃないのだから、分かりやすさ優先でかまわない」となります。分かりやすい言葉で書けるならそうすべきです。私のような素人は、重箱の隅をつつくような「細かい史実に関する」学術議論をいきなりふっかけられても困ります。本郷さんは言ってます。「恐ろしいほど日本史に興味がない学生が多い。竜馬が何をしたかも知らないし、興味もない。そういう学生へ、歴史の面白さを伝えたい。細かな議論は学者が専門誌でしていればいい」と。
これは蛇足ですが、そもそも私の関心は次に述べる国家論に向いているので、「細かい学術論争」はあまり興味が持てない。歴史学者じゃないし、歴史学者になりたいとも思わない。歴史学における国家論が主要な興味です。数学論にも宇宙論にも興味がある。歴史は興味分野の一つに過ぎません。

3,権門体制論と東国国家論を考える機会を与える

私、そこそこ黒田俊雄氏を読んでいて、素人にしては権門体制論に詳しいのです。その勉強のきっかけが本郷さんです。偉大ですよね。
で本郷さんはこう言うわけです。「東国国家論と権門体制論、どっちが正しいでしょう。学会では権門が多数派、僕は東国で少数派。歴史学って多数決でしょうか。どう思います」ってね。
で私が今出している答えが「ふたつは同じもの」ということなんです。最近、立命館大学教授の東島誠さんがそう書いているので驚きました。でも「現代文読み」の立場から解読すると、同じものなんです。

東島さんは本郷さんの権門体制論の説明は違うと書いてます。厳密に言うとそうです。でも「正しい」のです。これは東島さんも十分わかっています。東島さんのいう「亜流権門体制論」のほうの説明になっているのです。本郷さんのは。、、、そして「今は亜流が主流」なんです。だから「今の権門体制論」の説明としては「正しい」のです。

まあ以上です。色々詳しく書く学者はいくらでもいます。でも本郷氏みたいな「問いかけ型」は珍しい。これこそ教師のあるべき姿なんです。先生は「どうだろうね」という態度が大切。こうである、まで言わない自制心があってもいい。先生が強すぎると、生徒は思考しなくなります。

最後に権門体制論について、ですますを使わず。自説です。間違いは多々あっても、今の段階ではこれが限界です。論理の強引さ、おかしさがちょこちょこ見えます。まあ「殴り書き」ということで大目に見てください。

戦後史学は皇国史観への深い反省から始まった。しかしそれは「天皇を無視する歴史」という形で表れてくる傾向にあった。天皇の時代は桓武あたりで終わり、あとは摂関政治になり、院政と同時に武士が登場し、それからずーと武士の歴史が日本の歴史である。天皇は重要ではない。、、、武士(鎌倉幕府)が天皇に勝ったということで、皇国史観の否定になると考える学者もいたようだ。
それに対して黒田俊雄は異論を唱えた。それが皇国史観の完全な否定と言えるのか。もっと科学的に天皇権力システムの実相(具体的にはそのシステムを支えている公家・王家・寺社・武家)を解明しないといけない。幕府が強いか朝廷が強いか、どちらが上か下かは、一応論じる必要はあるとしても、本質的には問題ではない。武士は新時代のヒーローだろうか。彼らは所詮支配階級。権力者。天皇と同じ権力者で天皇を支えた。皇国史観を乗り越えるなら、肝心の天皇、その本当の姿、権力構造を明らかにしないと意味はない。武士は所詮最高権力機関・天皇システムの一員である。天皇・上皇・公家・武家・寺社、これらは「荘園を基盤にしているという意味で仲間」であろう。武士は「所詮は天皇の侍大将」だが、天皇も上皇も「武家と変わらない」のだ。みんな同じ基盤をもつ同質の者なのだ。これら全体が天皇システムを形成するが、この天皇システムにつき、極めて非科学的な観点からそれを絶対視したのが皇国史観であり、それは多くの人命を奪う凶器となった。歴史学はその犯罪に加担した。二度とそのような犯罪行為を犯さないためには、天皇システムの実態を、史料に基づき、科学的に研究し、タブーなき形で「ありのまま」を明らかにしなくてはならない。これが黒田の考えと私は思っている。彼の本質はヒューマニズムである。

さて、ここで一つ注を加えておきたい。それは黒田が戦後歴史学の天皇制研究に関する課題について「皇国史観と戦うことのみを念頭においていては」と書いていることである。「天皇制研究の新しい課題」という文章。「皇国史観のみ批判するのでなく」とはどういうことか。実は黒田は象徴天皇制さえ射程に入れていたのである。天皇制打破ということではない、昭和の天皇制も歴史学は冷静で科学的な分析の対象としなくてはいけないと考えていたようだ。皇国史観はなるほど「みかけ上は」戦後否定されたように見えた。だが、それに代わって「古代からずっと象徴であった。天皇はずっと日本の中心で、権力はないが、権威はあった」といういわば「隠れ皇国史観」と呼ぶべきものが現れた。私は、今後も黒田が否定したかったのは「皇国史観」と書くが、それは当然、黒田の言う隠れた皇国史観のような認識も指していることはご了解いただきたい。

黒田は、公家や天皇・上皇が鎌倉時代においてまだ強い力を持っていることを強調した。また天皇を宗教的に補佐(補完)する「旧仏教」が強い力を持っていることを強調した。

そうしてできたのが、公家・寺社・武士を権門という支配層とする権門体制論および旧仏教を重んじる顕密体制論である。黒田はその中心に天皇を据えた。要するに黒田は天皇を歴史の舞台に再登場させ、その「ありのまま」を「史料分析を通じて科学的に」かつタブーなく描けと言ったのである。

これはなにも個々の天皇の伝記を書けというのではない。個々の生身の天皇は黒田の書き方だと「形式的存在」である。その実体は権門に支えられた天皇システムである。それが権門体制。権門体制を明らかにすることで、具体的にはその権力がどのような機関によって権力を行使できたかを実証することで、天皇システムの権力構造の「ありのまま」が明らかになると考えたのである。「朝廷の権威」なる曖昧なる概念が、どのような権力システムであるかが、明らかにできると考えたのである。そうすれば天皇権力システムの相対化が可能となる。

武家研究一辺倒の歴史学はやめよ。公家天皇・寺社を研究の対象にせよ。天皇中心主義とは真逆の位置にいる彼がこれを唱えたことの意味を考えることが重要である。彼は「科学的方法によって、タブーなく、天皇・公家・寺社の実態を明らかにし、もって非科学的歴史学である皇国史観とその「亜流」(戦後においてはこの亜流の方が重要と黒田は考えた)、いわば「隠れ皇国史観」を歴史科学から放逐しようとしたのである。むろん、それによって得られる「史実の解明」が重要であることは、いうまでもないことである。

黒田は「中世国家はこうなっている」と説明したわけではない。「中世国家をこういうものだと仮定すれば、天皇システムの解明ができるのだ」と主張したのである。だから石井進の「中世に国家はあったか」という質問は、彼の真意を誤解した結果か、分かっていてわざと誤解したふりをした結果である。石井氏は学究肌で、黒田氏の「政治」に巻き込まれたくなかったのだろう。それがおかしいとは思わない。黒田は政治を仕掛けていたが、歴史学を政治のために利用したともいえないだろう。「こうなっていると仮定すれば皇国史観や現代の皇国史観(天皇は古代より象徴であり、権力はないが権威を持っていた)が相対化できるはずだ」と考えたのである。本郷和人氏がぐちを書いている。「僕の師匠の石井先生が権門体制論ともっと真剣に戦っていれば、佐藤先生の東国国家論は今よりもっと支持者を増やしただろう。石井先生は尊敬するけど、権門体制論との戦いを避けた。中世に国家はないよね、で否定完了としてしまった。」。しかし、黒田には国家があったと主張しなくてはいけない切実な理由があったのである。皇国史観、および戦後の隠れ皇国史観の徹底的な批判と止揚のことを私は言っている。これは思想の問題ではない。黒田には強烈な思想があったが、それを歴史論文に持ち込むことには慎重だった。皇国史観は科学ではない。科学的な歴史学で、皇国史観を乗り越える必要があると論じたのである。彼は天皇制に対する嫌悪を表明したが、「思想で歴史をねじまげよう」としたわけではない。ただし歴史学の政治的中立性という言葉は虚妄である。だからと言って露骨な形で政治信条を歴史に反映していいかとそれも違っていて、要は「科学を目指す」ということに尽きる気がする。

あの長い歴史を持つ強烈な皇国史観(その亜流、天皇は古代から象徴だった、ずっと権力はなかったが、権威はあった、も含む)が、民主国家になったぐらいで消滅するわけない。消滅をしたように見えても、地下でしたたかに生き残っているではないか。隠れ皇国史観がいくらでもあるではないか。しかし権門体制仮説を検証していけば、その仮説の実証の過程で、「天皇・天皇システムの実態がタブーなくありのまま明らかになり」皇国史観およびその亜流は真に相対化されるはずだ。そう黒田は考えたのである。ただ現状の「亜流権門体制論」が、黒田の言う通りになっているかは、難しいところである。黒島誠さんは「なっていない」と書いているが、なっている人もいる気がするのである。また黒田の考えとは真逆に「隠れ皇国史観」になっているのもありそうである。隠れ皇室史観になってしまうのは、権門体制論がもつ危険性である。「理趣経」と同じだろう。解釈を間違えると大変な事態になるのである。では天皇の煩雑な儀礼を分析する仕事をどう評価すべきか。文化史としての意味はある。しかし権門体制論は権力の分析をその主眼とするものであるから、シン権門体制論(黒田俊雄の権門体制論)から見れば、権力論を考えず、ただ儀礼の様子を長々と再現するような研究は、おそらく「興味のらちがい」であろう。それはそれ単独で意味を持つもので、それが「天皇の歴史の解明」かといえば、シン権門体制論の立場のみから見るならば、意味はない。しかし文化史としての意味は多いにある。とでもなるのだろうか。

儀礼の分析ではなく、権力論として分析に「なっている」代表例は東大准教授の金子拓さんである。「天下静謐」を一部の学者が単純素朴に「天皇の平和」としてたのに対し、金子氏は「まあ見方によってはそうだけど、天下静謐って将軍や天皇をはるかにこえた徳目、そう信長は信じていたでしょ」と「やんわりと反論」する。氏などは、「タブーなく天皇の姿を厳密な史料解析によって解明している」から「なっている例」と私は考えている。

金子氏は書く。信長の時代、天皇・朝廷には公平な裁判という観念がなくなっていた。利害や人間関係で判断を下し、しかもそうした姿勢に問題あるとすら思っていなかった。信長は何度か天皇を叱責した。天皇は始め、何を注意されているのか分からなかった。やがて分かるとパニック状態になった。正親町天皇は息子を前に出し、自分は隠れるようにして信長に謝罪した。もちろん厳密な史料分析に基盤をおいています。おそらく金子氏は最も「篤実な」研究者の一人です。(織田信長・天下人の実像)

これは信長が上か正親町が上かという幼稚な問題ではない。信長には天下静謐への強烈な使命感があり、そのためには現実の天皇は先例に対し公平でないといけないと考えたわけである。史料を読み込み、科学的に、タブーなく、天皇の実態をあきらかにする。金子氏は東大准教授で、おそらくバリバリの権門体制論ではないが、黒田や佐藤が目指したことを継承していると私は考えている。

あと桃崎有一郎氏も明らかに分かっているのだが、権門体制論、マルクス史観を「生きる言説にアップデートして継承する意図はない」ように見える。ただこうは言っている。
「天皇は絶対善であり、京都はそのような天皇が、1200年もの間、民のためを思って維持してきた賜物である。というまことしやかな神話に退場してもらわなければならない。」

この神話は思想というより、観光宣伝の「1200年のミヤコ」というイメージ作りを想定しているようだが、いずれにせよ現在の神話である。現在も「神話」があることを明示している。(京都を壊した天皇、護った武士)

さて本題に戻って黒田俊雄の言葉を紹介しよう

全人民を覆っている、全支配階級の、全権力機構を明らかにしろ、、、、これが黒田の主張であった。これがオリジナルの権門体制論である。

朝廷は鎌倉幕府よりエラいぞ、とか、そんな次元の話ではないのだ。なお私が天皇の敵だと考えたら間違いである。私見では平成の上皇こそ伝統的天皇像と戦いつづけたのであり、そのイズムは秋篠宮に継承されている。それに今の日本が共和制=大統領制に耐えられるだろうか。衆愚政治の問題をクリアーできるだろうか。いささか心もとない。私は反天皇主義者などではない。反皇国史観、というより反・非科学的歴史観の徒である。あえて敵というなら、それは「全体主義」である。

東国国家論も皇国史観(おそらく戦後の亜流も含む)への反省とその乗り越えを目指して作られた。東国国家論は、日本の中心は複数あると主張した。しかし複数あるというためには、天皇の具体的政治機構の分析が必要である。だから佐藤進一は「日本の中世国家」を「王朝国家の政治機構の分析」から始めたのである。

権門体制論はそのオリジナルの姿においては、東国国家論と対立するものではなく、同じ問題意識を共有する「兄弟理論」だったのである。私はひそかに「東国・権門体制国家論」と名付けている。

本郷さんに望むこと、ぜひ東島誠さんが「幕府とは何か」で提起した「二つは同じもの問題」を「検討」してください。この二つを融合させた「東国・権門体制国家論」に問題ありというのなら、それでもいい。またご本を読んで勉強します。そんなこんなで、心より、本当に社交辞令ではなく、応援いたしております。

即興小説「信長の涙」・金ケ崎ののちに

2023-04-25 | どうする家康
ある歴史ドラマにリスペクトを込めて。

金ケ崎から逃げ帰った信長は岐阜城に戻った。帰蝶は急いで信長の部屋を訪れた。いつもにもまして、信長は孤独に見えた。
帰蝶の顔を信長は見た。抑えていた感情がはじけたのだろう。信長は泣き崩れた。

「またおれの兵が死んだ。あの権助も死んだ。弥太郎も死んだ。子供のころから親しくしてきた友が死んだ」信長は顔を覆った。
「また、、、まただ、、、また殺してしまった」
帰蝶は涙を堪えた。ここで泣くわけにはいかない。
「信長様のせいではありません。信長様は天下静謐のため尽くしているのです」
信長の涙顔が怒りに変わった。
「帰蝶、よくそんなことを言えるな。おれの為に働いてくれた家臣が死んだのだ。朝倉は、すぐにも降伏すると思っていた。人の死は多くはないはずだった。浅井が裏切った。そして朝倉の兵も死んだ。浅井の兵も死んだのだ。おれは、長政を殺さなくてはならなくなった。また殺さなくてはならないのだ。」
「信長様のせいではございません」
「おれが殺したのだ。そしてこれからも殺さなくてはならぬ。何人殺せば、何人殺せば、この世に静謐が訪れるのだ。」
「信長様のせいではございません」
「己の手を汚したことのない、おのれごときが何を言うか。おれのせいなのだ。おれの兵が死ねば、それはおれのせいなのだ。いや今やおれは天下にいる。天下で起こることは、全ておれのせいだ。花が落ちるのも、子供らが死んでも、それはおれのせいだ。天下を担うとは、そういうことなのだ」
「信長様のせいではございません!」
「まだ言うか」信長は力なく帰蝶にもたれかかり、そして帰蝶の手を握った。その手は温かかった。
帰蝶の目から堪えていた涙がこぼれた。
「帰蝶泣くな。おれの為に泣くな。これは命令だ。おれの為に、、、一滴の涙も流してはならぬ。帰蝶が支えてくれなけばおれは倒れる。お前は揺らぐな。」
帰蝶は信長の手を握り締めた。そして体を抱きしめた。

了。

織田信長が足利義昭に送った「17カ条の異見書」。短くて超かんたんな訳。

2023-04-20 | 織田信長
織田信長の17カ条の意見書。超かんたん訳です。むろん原文は「ですます体」。1572年、元亀3年9月です。

1、参内しろよ。義輝さんは参内しないからあの運命なんだ。
2、馬とか欲しいなら用意する。他にねだるな。みっともない。
3、「ひいき」してるよな。
4、宝物をどっかに移すなよ。
5、岩成友通に土地をやるふりして、実際はやってないだろ。
6、オレと親しい人間にわざとパワハラしてるだろ。
7、ブラック企業か!待遇悪いってオレに言ってきてるぞ。
8、若狭の代官の件。早く訴えを処理しろよ。
9、小泉の女房が質屋に預けたものまで没収したろ。夫が喧嘩で死んだだけで。
10、元亀の年号、不吉なんだよ。変えろよ。
11、公家の烏丸。勘当したのに、ワイロもらって許したろ。
12、地方からお礼で貰った金。有効利用しないで隠してるだろ。何の為?
13、明智光秀が集めた税金。なんだかんだ言って「くすねた」だろ。
14、蔵の米売ってるだろ!商人かよ!
15、自分の若い側近に高給の役職を斡旋してるだろ。自腹で金やれよ。
16、将軍が貯金してるのは京を捨てるためだと、みんな言ってるぜ。
17、恥も外聞もない強欲人間なんだよ。悪しき将軍とみんな言ってるぜ。

「公平公正じゃない、ひいきしている」「金に汚い」「恥も外聞もない」の3つを主に指摘しています。特に多いのが「金、財産」ですね。

13の明智光秀。正確な訳を考えている最中ですが、うまく話が繋がりません。

「 明智地子銭を納め置き、買物のかはりに渡し遣はし侯を、山門領の由仰せ懸げられ、預ケ置き侯者の御押への事。」

明智が税金として徴収した金を、買い物の代金として誰かに渡しましたところ、山門領からの税収だとおっしゃって、受け取った者の金を差し押さえられましたね。

一応こうなりますが、これだけでは意味が分かりません。「なんだかんだ言って、くすねた」と訳しました。正確な訳も作成中ですが、今は以上です。

即興小説「金ケ崎の家康」(1分で読めます)

2023-04-19 | どうする家康
浅井が敵に回る。この一報が信長軍を震撼させた時、前線にいた家康は、朝倉総攻撃に備え、信長本陣での軍議に参加するため、戻ってきていた。

軍議は短かった。柴田勝家が静かな声で、「両面と戦うという選択もありますな」と信長に進言した。信長連合軍は3万、朝倉浅井軍は2万5千程度と勝家は言った。
「勝てぬ戦でもありますまい」

信長は彼の癖で小さく首をかしげ、それから「いや、やめておこう。俺は逃げる」と言った。言った時には既に立ち上がり、重い甲冑を長乗馬のために脱ごうとしていた。
「しんがりは、藤吉郎と十兵衛光秀」と信長は平然と言った。藤吉郎も光秀もちらと信長の顔を見ただけで何も言わない。

なんだ、織田家という家は、、、。

家康は腹が立ってならなかった。自分は浅井長政の従軍を主張した。しかし信長は奇襲だからという妙な理由でそれを退けた。
信長は、すでに立ち去ろうとしている。自分など眼中にもないようだ。

この態度だ、、、この態度が長政を怒らせたのだ。われらは国人領主から成りあがった小大名に過ぎぬ。信長はこの傲慢な態度で長政にも接していた。
人の心が読めぬ大将。これが信長の限界だ、、、そう家康は思った。

「織田殿、待ってもらおう」家康がそう発すると、信長は体を半分ほど家康に向けた。

「織田殿、謝ってもらいたい。こんな遠地までわれらを呼び寄せて、その態度はなんだ。その傲慢な態度が長政を怒らせたのだ。」

信長は不思議な表情で家康の言葉を聞いていた。それからふっと笑った。

「竹千代、長政はそちほど心が細くはないわ。やつはやつなりに損得を考えたのだ。あいつは俺に似ている。俺を倒して、俺にとって代わろうとしているのよ。あいつはそういう大きな男だ」

「信長、貴様」、小さな男と言われた家康は激高した。信長は赤子をあやすような声で、「竹千代、今は謝っている暇もない。さあ、逃げよう。死ぬなよ、竹千代」と言った。

家康一人が激高している。さすがに恥ずかしくなった。信長はそのまま速足で去った。

織田家の諸将も去り、秀吉、光秀、家康だけが残った。家康には確かめたいことがあった。なぜ秀吉と光秀は平然としているのだ。それが知りたい。
そんな家康とは関わりなく、二人はもういかに退くかを早口で話しあっている。秀吉が家康に気が付き「何をしておられる。家康殿もはよう逃げられよ」と言った。

家康は早口で、死命を受けても平然としている秀吉と光秀が理解できないからだと言った。

「まあもともとですから」と秀吉は答える。光秀はそれにうなづいている。信長に拾われなければ、とっくにどこかでのたれ死にしていた。死んでも「もともと」なのだ。そういうことを秀吉は特に気負い込むでもなく、平然と言った。

忠義とは違った心持ちだろう。無常観とも少し違う。自分はいつ死んでも当然な人間。家康は見たこともない人間に出会った気がした。

「私も十兵衛もそういう地獄のような若き時を生きてきたのだ。さっ、分かったならもう逃げろ」

家康は思わず震えた。この二人の静かに湧き出てくる凄みはどうであろう。その「地獄」とやらを家康は知らない。今は聞く時でもない。しかし家康が想像する以上に悲惨な日々だったに違いない。

自分は人質だった。しかし今川では大事に育てられた。食べるものに困ったこともない。

この時家康は、この小男と切れ者顔の男には一生勝てないような気がした。そしてこの男たちを家来にしている信長とは何者かと考えた。途方もない怪物ではあるまいか。おれは、この男たちを越えていかねばならないのか。おれに、それができようか。この凄みが自分の身につく時がくるだろうか。

いや違う、人には持って生まれた性質がある。おれは彼らとは違う。おれにも生きるための武器があるはずだ。

おれは人を裏切らない、いや氏真を裏切ったのか。いやあれは氏真が松平に助力をしなかったせいだ。助力しない大大名など国人領主に必要ない。

おれは律義者だ。そうだそれしかない。この律儀な性格で諸将の信頼を買うしかないのだ。信長には信長の、光秀には光秀の、秀吉には秀吉の道がある。

おれはおれの道を行くほかない。

それからふいに「藤吉郎殿、光秀殿、わしもしんがりに加えてくれ」と言った。言ったあとですぐ後悔した。でもこれでいい。命をかけても、人々の信頼をかうのだ。家康はそう思った。
 了。

「中学時代のあまり有名ではない芸能人の女子」のお話

2023-04-18 | 日記
高校に行くと、成績のレベルというのはだいたい一緒なのですが、中学には「全国3位」とかいう化け物のようなやつがいて、体育もできるので本当にオール5なのです。実物を見ました。しかも相対評価ですから、「5」は学年の10パーセントという時代です。私がいくら頑張っても、5は体育と社会科ぐらいだったと思います。一方でとんでもなく学業が苦手な子もいて、先生がオール5の生徒に「学校内家庭教師」を頼んでいました。これも今では考えられない話かも知れません。

何が言いたいかとうと「いろんなやつがいたな」ということです。「あまり有名ではない芸能人の女子」もいました。子役で民放の時代劇に一度だけでました。当時AKBがあったら、その下ぐらいのグループに入っていたと思いますが、当時は個人アイドルの時代なので、彼女は有名でないまま高校時代には芸能活動をやめたようです。

その子とは同じクラスで、理科の実験グループが同じで、実験の時だけ仲良しでした。恒常的に仲良しだった記憶はありません。理科の実験の前と後ろの休み時間にだけ集中的に話していた記憶があります。何を話していたかは思い出せません。信長の話をした記憶だけはあります。彼女は興味なさそうに「不思議な生物を見るような目」で私を見ていたと「たぶん」思います。

これもたまたまなのですが「ジャニーズジュニアの男子」が学年にいました。実は私には超有名な女優さんと「知り合いだった時期」があるのですが、それは仕事上のちょっとした付き合いなので、芸能人で「かつまあまあ友人だった」のは上記の女子とこのジャニーズジュニアだけです。ただしジャニーズジュニアは親しい友人ではなかったので、話したのも一回きりです。彼は上記の彼女の「カレ」でした。

ある時下校中。その「カレ」がいきなり話しかけてきました。話したこともなかったのでわけわからなかったのですが、要するに「君は彼女が好きなのか」が聞きたかったようです。形式上の言い訳としては「一人で帰ると女の子が付きまとってうるさいから一緒に歩いていいかな」でした。今なら「自信過剰かよ。」と三村流の「ツッコミ」を入れますが、当時は「そんなものかな」と思いました。

彼女と話していると私の話がしばしば出てくると言うのです。「理科の実験の時だけの友達」ですから、にわかに信じられませんでしたが、「彼女でもないし好きでもない」と丁重に話して、ジャニーズジュニアにはお引き取り願いました。きれいな子で気も合ったので友人としては好きだったのですが、「友人としては好き」とか言うとややこしくなる。中学生でもそのぐらいの計算はできたようです。

上記の女子がTVに出たのは二回で、一つが時代劇、もう一つがバラエティの水着コンテスト。当時はアナログのだぶったような画面で「くっきり細部までは見えない」ので良かったのですが、同級生がいきなり水着でTVに出てくるのは結構衝撃的です。その画面は今も覚えています。

そう言えば、クラスの女子と男子でプールに行った時、ただ一人「大胆なビキニ」の子がいました。例のオール5が「興奮するからそういう格好はやめてくれ」と言ったら、「だってお父さんがこれ着て行けというんだもん」とのこと。男子で集まり「父親、頭がおかしい」と話しあいました。思春期は色々面白い。そのビキニの子は「セクシーでしょ」まで言いましたから、女子も男子も、いかりや流の「だめだこりゃ」であきらめました。

有名でない芸能人の子と水着の話をしたかどうかは全く覚えていません。へたに「水着とかやめてくれ」とか言うと、「ははーん、やっぱ私が好きなんだ」とかいう反応をするタイプの子だったので、意地でもしなかったのでないか。たぶんそんな感じだったと思います。オチもないくだらない話ですが、以上です。

「どうする家康」の歴史学・国衆史観の相対化

2023-01-19 | どうする家康
純粋に歴史学の話である。ドラマの話はほぼない。

「どうする家康」の脚本家についてはほぼ何も知らない。しかし時代考証陣を見るかぎり「国衆史観」をとる学者が多いように見える。

時代考証陣の著作は数冊しか読んだことがない。従ってこれは時代考証陣への批判などではない。純粋に「国衆史観は成立するか」というだけの話である。

国衆とは戦国期にあって、「ある程度の領域を一円的に治めた」存在とされる。「支配」という言葉を使わず「治めた」というべき存在とされる。「国人領主」との違いは、「領域支配」が成立していることである。「国衆」は自立的存在とされる。国衆が治めた領域は「国」とされる。それは基本的には戦国大名と違わない。領域が大きいと大名となるだけである。また大名はいくつかの国衆と連合してその「盟主」というべき立場にあった。

国衆史観によれば、戦国の最小社会単位は「村」であり、人々は「村」に所属することで生存可能であった。「村」も自立的傾向が強い集団である。武装もしていた。決して弱い民などではない。いくつかの村の集合体が「領域」である。国衆と「村」の関係は、互恵的関係とされる。「村」は国衆に税を納める。その代わり国衆は村を守る。村の平和を守る権力こそ「国衆権力」とされる。「村」の敵は「村」である。この村の間の紛争を収めることが国衆の主な義務であった。

国衆は自立的存在だが、近隣に他の戦国大名の「連合体」があった場合、武力的には相対的に弱い立場となる。そこで国衆は他の戦国大名と連合することで「別の連合体」を形成する。それは契約に近い関係で、ここでも互恵的関係が成立していたとされる。つまり国衆は戦国大名の軍事的動員に応じる。その代わり戦国大名は国衆および国衆が治める村の「平和」を守る義務を負った。この義務が果たせない場合、契約は無効となり、国衆が「他の大名連合」に属するのを阻止することはできなかった。

徳川家康は岡崎に入城した時はまだ三河を平定しておらず、国衆だったとされる。彼は国衆として「今川連合」に属して、「織田連合」と戦っていた。今川と織田の境界に位置していたからである。このような境界では「今川連合の村」と「織田連合の村」の紛争が絶えなかった。その背後には飢餓があった。村の紛争を収めるのは国衆の役割であり、松平は織田と戦って「村の平和を守る」義務を負っていた。織田側も「織田連合の村」を守る義務を負っていた。しかし織田という大名との闘いは松平にとっては不利であった。国衆だからである。従ってそれは今川と織田との戦争に直結する「はず」であった。しかし今川は多方面で戦っており、松平に割く余力がなかった。ここで今川と松平の「契約」は無効になる。そして松平は「織田連合」に属することで、領域、「村」の「平和」を守った。

さて、この考えは合理的だろうか。私にはいろいろ疑問がある。まずイメージだけで書くなら「あまりにも調和的」である。「権力とは平和を守るもの」とされる。警官がいれば秩序は守られるから、権力に平和をもたらす側面はあるだろう。しかしそれだけが権力の特性だろうか。「国衆」は「いい権力」であり、「村」との合意に基づいて平和を守っているのだろうか。

唯物史観的歴史学は権力を基本的には「良くないもの」とする「傾向」があった。そして「民」を善とする傾向もあった。しかしそれはあくまで「傾向」であり、権力=悪という単純な二分法をとっていない。唯物史観に対抗して、唯物史観を無効化することに努めた国衆史観は、権力を「基本的に良いもの」と考えている。戦争は「村=民」が起こすとも考えているようである。それは正しいのであろうか。

A・戦国大名が戦を起こして民が巻き込まれた。
B・村と村が紛争を起こして、民が紛争を起こして、国衆や戦国大名が巻き込まれた。

Bが国衆史観の歴史観なのであろうか。だとするとただ民の位置を「入れ替えただけ」の図式的思考に思えて仕方ないのである。

私に答えはない。ただ「権門体制論」(黒田俊雄のオリジナル理論ではなく、現代の亜流権門体制論)と同じ、予定調和的歴史観に見えて仕方ないのである。「鎌倉殿の13人」は武士の本質、権力の本質を「暴力」と考えていた。一般には暴力の対極に「法治国家」があるとされる。しかしそれは正しいであろうか。種を明かせばこれは私の考えではない。村井良介さんが「戦国大名論」で投げかけている「法と暴力は対極にあるのか」「合意の背景に暴力的優位性の差は存在しないのか」「暴力が露わでなくとも。潜在的に暴力(強制力)がない法に実効性はあるのか」という問いをパクっているだけである。しかもちゃんとパクれているかも分からない、しかしパクるとは一種の同意であって、私もまたそう思うのである。

繰り返すが私にまだ回答はない。ただ国衆史観(私の上記のまとめに間違いは多いだろうが、私は上記のように理解した)をそのまま受け入れることは、私個人に関して言えば、保留せざるを得ないのである。

「どうする家康」第1回の歴史学的考察・国衆史観について

2023-01-12 | どうする家康
ドラマの内容というより歴史学の話です。ドラマ批判はしません。それから松潤批判もしません。

1,遊んでいる松潤には学説的裏付けがある?

誰でも気が付くように、語りは「従来説(安定説)」で「人質で苦労」と言いながら、松潤自体は「新説」に基づいて楽しそうに遊んで恋愛までしています。
これは時代考証のおひとりである柴裕之氏の「新説=仮説」を「デフォルメした」ものと考えていいと思います。柴氏には「徳川家康・境界の領主から天下人へ (中世から近世へ)」「織田信長・戦国時代の正義を貫く」「青年家康 松平元康の実像 (角川選書 662)」などの著作があり、一応私は全部読んでいます。

・今川時代の徳川家康は「人質」ではない。なぜなら今川にとって大切な国衆だから。国衆こそ戦国を動かした勢力。今川は大切な国衆の跡継ぎを保護していた。
・今川では一門衆同等の扱いを受けていた。いわば御曹司であった。だから瀬名とも結婚できた。
・戦国期の紛争は基本的には境目紛争であり、戦国大名が目指したのは領域内の「平和」であった。

という説です。うまくまとまっていないかも知れないので、あとは原著で確かめてください。
さらに加えて「徳川(神君)史観の克服」を主張されています。家康が散々苦労したり、太原雪斎から色々ありがたい教えを受けたりするのは「基本的には嘘」という立場だと思います。
今川と後に戦争をしますし、築山殿もああですから、それを合理化するためには、「裏切り」としないためには「今川でいじめられた伝説」が必要だったということになるのでしょう。
徳川史観を克服すると「どうなるのだろう」と思って読んだのですが、おそらく「歴史の真実が分かる」ということだと思います。もしくは徳川家康が「きわめて特別な存在」ではなく、他の戦国大名とさして変わらぬ(戦国大名は優れていたという前提)大名だということが分かるということでしょう。

「青年家康」はちょっと前に読んだのですが、後の二冊は一年前なのでよく覚えていないのです。「織田信長、戦国の正義」では後書きで「革命児信長という像」が「嫌い」または「そりが合わない」と書かれていたように記憶しています。「なるほど、その立場か」と心に残ったのです。もちろん好き嫌いだけで論じておられるわけではありません。

2,信長は普通の戦国武将である

柴さん世代の学者さんがよくこれを言います。黒田基樹さんなんかもそうですね。黒田さんの名前を出したのは昨日読んだばかりだからです。
この場合「普通」というのは、そんなに「けなしているわけでも」なさそうです。戦国大名というのは、自力で領域を支配し、他に頼らず、同質の領主である国衆と契約関係を結び、国力の源泉である百姓にも気を配り、、、とそりゃ大変で能力が高くないとできないお仕事だという前提があります。戦国大名はみんなすごい。だから信長も「普通で凄い」という解釈も可能です。
信長は他の戦国大名に比べて「基盤となるべき村、郷に対する政治」について特に「先進性がない」どころか、劣っているようです。革新性がない。となると、なぜ「勝ったのか」という疑問は当然湧いてきます。劣っている側が勝っている側に勝つ。そのカラクリを探求するのは、とっても楽しそうな感じがしてきます。

2年前の歴史を趣味で勉強しはじめる前の私なら「信長は劣っている」を承諾しなかったと思います。でも今は、信長・秀吉・家康の凄さは突出してなどいない、というのは、一理あると思うのです。理解はできる。でも「納得」はできていません。劣っている側が勝っている側に勝つ「カラクリ」がまだ理解できないからです。

また「ある基準を設定して、その基準からみて同質だ、または劣っている」というような思考は、権門体制論と同じように「平板」になる恐れがあります。所詮は基準次第であり、基準の恣意性を完全に払拭することは原理的に不可能だと思うからです。

これは今のテーマとは直接には関係ありませんが、永原慶二さんは「ともに荘園領主なのだから」という「基準」を設定して「武家・公家・寺家は同質」とする黒田敏雄氏の「権門体制論」(現在、多数派を形成する歴史観)を批判してこう書いています。
「公武の権門が一体として国家権力を掌握し、人民支配を実現しているとするような中世国家像が、究極の関係としては不当でないとしても、基盤をなす中世の社会の特有の構造への配慮を欠く、平面的な理解であることは明らかであろう」(日本中世の社会と国家、1982年)

ある基準(それなりに重要な)を設定して「同質だ」とするのはある意味簡単なのですが、それによって「個別特有の現実」が捨象されてしまうことへ、十分な「配慮」をするべきでしょう。戦国大名はみな「本質的には同質」なのかという疑問が私にはあるのです。疑問がある、とは勉強不足で分からないということ。どんな権威ある先生が言ったとしても、権威信仰のない私は、自分で考えて納得しないうちは「得心」はできない哀しいタイプなのです。

3,とにかく国衆と「村」に着目せよ

黒田基樹さんの「国衆」「戦国大名、政策、統治、戦争」「百姓からみた戦国大名」の三冊を昨日並行して読んでました。まだ熟読してません。だから内容をまとめることはできません。黒田さんは「どうする家康」の時代考証ではありませんが、私の目からは柴さんなどとは同じような方向性を持っているように思います。ただし権門体制論に対する姿勢にはどうやら本質的な違いがあるようにも思えます。ともあれ、信長が普通の大名ということは、徳川家康も「普通の大名」ということになるのだと思います。豊臣秀吉も同じ。検地なんてどの戦国大名も普通にやっている。別に秀吉の特許ではない。どうする家康の歴史学的背景にはそうした新説(仮説)の潮流があると思います。

ただ黒田基樹さんはちと面白いのです。「民衆」や「村」や「百姓」の視点から戦国大名を見ている。これも感想に過ぎないのですが、「下の構造」に注目する点においては、私が好んで読んでいる永原慶二氏の中世社会論に「似ているように」見えます。私は基本新説(仮説)派が苦手なのですが、黒田さんは永原さんと共通性があるので、読みやすいのです。ご本人は藤本久志氏(豊臣平和令、雑兵たちの戦場、のお方)の影響を受けたと書いておられます。黒田基樹さんの戦国大名論は、戦国大名や国衆を徹底して自力による独立的存在と論証している点が特徴で、ある意味痛快です。室町幕府や朝廷との関係など「本質的でない」としているからです。軽々と権門体制論を乗り越えているわけで、権門体制論(黒田俊雄史観)を面白いと思い、高い著作集を買いながらも「これは間違っている」と感じている私としては実に興味深い論考です。黒田基樹さんは、織豊研究は70年代までは「下の構造」に着目したが、80年代以降は停滞して上級権力者を追いかける政治史ばかりだ、と書いていますから、どう考えても永原さんたちを意識しているわけで、だから私にとっては読みやすいのです。ただし実際は黒田さんは永原さんをとことん否定しています。だから権力観においては私と立場が違いますが、そのお仕事の緻密さには敬意を払わざるえません。といって同意はしません。

ちなみに私が永原さんを読んだのは1年ぐらい前ですから、昔勉強したわけではありません。史学科でもなんでもないのです。2年前から趣味で学者さんの本を読んで「あーだこーだ」言ってるだけです。ただ戦国史を考えることも、鎌倉史を考えることも、私にとっては現代史や現代政治を考えることとほぼ同じで、だからこそ興味深いのだと思います。

4,なんで信長はああだったのか。

新説ばかりかというと、信長はあいも変わらぬ感じで、マントをつけて?首まで投げてました。(私は個人的にあの信長が好きですが)。時代考証家はあくまで助言者であって、作品を支配しているわけではないので、あれは脚本家の創作でしょう。「創作」というのなら柴さんの新説をデフォルメして「優雅な今川時代の家康」を描いたのも脚本家です。「みんな大泉のせい」ならぬ「みんな脚本家のせい」なのです。時代考証担当が作品を作っているわけではありません。

戦国時代研究家からは「普通の大名」とめでたく認定された信長ですが、「織豊期研究家」はまだ認めていないみたいです。と黒田さんが解説しています。織豊期研究家とは「どうする家康」の時代考証担当の中では小和田さんということになります。なるほど小和田さんは革新的信長の像を捨てていないし、捨てる必要もないし、「異論があってこその学問」ですから、頑張ってほしいと思います。「新説によって否定されている」という言葉は好ましいとは思えません。そのためにはどうやら織豊研究の若手が「信長の顔ばかり見ずに」「下の構造。村や年貢や公事の実態」を解明しないといけないようです。信長の「家計」はほぼ何も明らかになっていないとのことです。

私は必ずしも「革新的信長像を望んではいません」。しかし「異論」がないと「学問的全体主義」のようになってしまって不健全です。大いに論議をすべきです。80年代半ばまでの学者間の互いをリスペクトしながらの「真剣勝負」にはしびれるものを感じます。

さて、視聴率を要求される娯楽ドラマ(大河ドラマ)では「普通の大名」として描いたのではつまらないし、といって「革命児」にすると新説派から文句がでるし、信長像は大変だろうなと思います。迷走状態。結果、サイコパスというか一種の異常者として描く方向に今の段階ではなっています。「麒麟がくる」がそうでした。また「どうする家康」では家康から「ケダモノ」と言われています。

しばらく信長を考えてなかったので、何とも言えないのですが、サイコパスはサイコパスでまた「違うな」と私は思っています。よくわからない不思議な人です。信長は。そういえば「秀吉の武威、信長の武威」の黒嶋敏さんも「像が結べない」「時期によって全く違う像になる」と書いておられたなと、今思い出しました。同質に昇華されない、個別特有な側面が信長にはある「可能性」は残ります。楽市楽座も関所の廃止も、流通への着目も、なにもかも信長の独自政策とは言えないようで、となるとなんなのでしょうか。あるいは「先進的政策のパクリの天才」だったのかも知れません(笑)。もしくは「境目」を超えて戦争をしかける戦う機械、異常なる侵略者にして武器信奉者、、、、もちろんこれは半ば冗談です。信長の一見異常な行動の基礎に、どんな「下の構造」があったのか。私の関心は信長自体より、信長をそう突き動かした「時代の要請」に移っています。

さて新説の中でも、2014年の東大の金子拓さん「織田信長、天下人の実像」は「死の直前まで天下など狙っていなかった」という部分に私は同意できないにせよ、論証の仕方や資料に基づく論理展開は実に見事なもので、かなりの説得力を持っています。NHKはヒストリアで前にこれを特集していて、その題名が「世にもマジメな覇王」です。この説は「麒麟がくる」の信長に多大な影響を与えたと思います(伝統的秩序を意外なほど大事にするところなど)が、そうは言っても、「麒麟がくる」自体の描き方は、母親の愛情を受けずに育った情緒不安定なサイコパスでした。

ところが「世にもマジメな覇王」、金子さんが描く信長はサイコパスとはほど遠い「割とまともな人間」で、ただ一点「天下静謐原理主義者」である点においてのみ強烈なキャラです。静謐とは一応平和という意味ですが、平和というより「ただ戦争してないだけという状態」を指します。信長の場合特にそうで「平和な民政」への志向が薄いようです。「天下静謐の信長」は「暴走する正義」と言おうか、「天下静謐」のためなら、一向衆を虐殺もするし、京都も焼き尽くすし、延暦寺も焼き、現実の天皇(正親町)でも天下静謐に反していると思えば「容赦なく𠮟りつける、許しはしない」存在として描かれています。もちろん史料の裏付けがあります。というか金子さんは東大准教授で「史料のプロ、プロ中のプロ」です。史料分析が半端なく、論証の仕方が見事なので、私などグーの根もでないのですが、検討するとしたらこの本はとても検討しがいがあると思います。黒田基樹さんの本もお勧めです。「戦国大名」には特に驚かされます。検討(批判)しがいのある書物です。

BS時代劇「まんぞくまんぞく」の感想

2022-12-31 | 感想
NHKBSの時代劇「まんぞくまんぞく」。「時代劇らしい時代劇」というか、「昔よく見た時代劇に、女性剣士+恋愛という新味を加えた」というか、面白い番組でした。
全く文句はありません。まんぞく、です。なにより主演の石橋静河さんが可愛かった。美しいというより、私は可愛く感じました。殺陣は初めてだそうです。でも私には殺陣を鑑定する能力がないので、いい動きをしていたとしか思えません。「殺陣」なんてしばらく見たことがなかったので、昔がどうだったか、もう忘れてしまいました。とにかくいい動きです。調べてみると石橋さんはダンサーだということで、運動能力が高いのでしょう。きっと。

「可愛い」、素敵なお嬢さんです。母親の原田美枝子さんは「鋭い美人」ですが、娘さんはやや「ゆるキャラ」で、とにかく可愛いなと思いました。

というのが素直な感想。あとは歴史的観点から見た「野暮な興味」の話です。

・時代設定が分かりませんでした。でも木刀で練習してました。ということは11代将軍の天保期より前かなと感じました。

・木刀で戦うというのは、「ほぼ殺し合い」だと思うけど、竹刀剣術普及前はどうだったのかと考えました。

・堀家は旗本で七千石。ほとんど大名ですね。

・悪旗本が「旗本のくせに金貸しをしていた」ということで逮捕されました。江戸時代のことは全く分かりませんが、室町期には幕府も金貸ししてたし、どうなのかな、江戸期はそうだったのかなと考えました。今のところあんまり調べる気はありません。