そういえば「どうする家康」には上杉謙信が登場しません。上杉謙信と徳川家康は対信玄で「同盟」して起請文まで交わしていたのに。
でもここは織田信長のお話。
織田信長と上杉謙信は直接会ったことも「直接戦ったことも」ありません(戦ったのは柴田勝家)が、共通の友人(足利義輝)を持ち、桶狭間の戦いの4年後にはすでに「交友関係」を持っています。交友関係どころか、実現はしないものの、信長の息子の一人を謙信の養子にするという話すらありました。信長上洛の4年も前の話です。
そして謙信の死のたった2年前まで、信長と謙信は「大の仲良し」だったのです。
謙信は「義の人」であり、「不義の人」である信長を嫌っていた。大河「天地人」などではそう描かれましたが、史実は違います。謙信は信長を親しいメル友(手紙友)と思っていたはずです。そもそも信長は自分から人を裏切ったことはほとんどなく、むしろ裏切られてばかりで、不義の人とはとても言えません。柴田勝家は若い頃信長の弟を担いで謀反を起こしましたが、許しています。前田利家は信長の近衆を殺して出奔しましたが、許しています。晩年の林や佐久間の追放にしても、殺してはいないのです。松永久秀が明確に裏切った時も、一回は許しています。息子の織田信雄が勝手に伊賀を攻めて、しかも負けた時も、許しています。信長が戦争において多くを殺したことは事実ですが、それなら他の大名も変わりません。どっから信長が「不義の人」という間違ったイメージが生まれたのか、実はそこには興味はあります。間違ったイメージが流布する理由です。まあ比叡山焼き討ちと一向一揆の根切りのせいでしょうが、それには「それぞれの理由」があるのです。特に一向一揆では信長は大切な親族を何人か殺されています。だから殺していいとは言いませんが、信長にとって「最大最強の敵」が一向一揆であることを考えれば、大名に対するより過酷な戦いとならざるえない理由は分かります。一向一揆との戦いは大名との戦いより一段上の「真剣勝負」だったのです。信長自身が手傷を負ったのも一向一揆との戦いの場面だけです。おそらく戦国最強は一向一揆であり、それとの戦いや殺人をもって不義とするのは、違うように私は思います。信長が「いいことをした」とはとても思いませんが、、、というか、私は信長に歴史的興味をもっていますが、別に好きなわけではない。英雄とも偉人とも思わない。むしろ残虐な殺人者というのが私にとっての信長です。
一向一揆との戦いに比べれば、謙信との関係など、まるでおとぎ話のように穏やかであり、手紙のやり取りは頻繁で、実に仲が良かったのです。謙信が49歳で亡くなったのは天正6年、1578年ですが、二人が「破局」に至ったのはその2年前、1576年、もしくは1577年のことです。その前の10年以上、二人は蜜月と言えるほど仲が良かったことは現存する手紙から明らかです。
理由は信玄という共通の敵がいたせい、ではありません。信玄と信長は同盟しており、信玄の死の直前まで、つまり信玄が信長を裏切って徳川を攻める直前まで、信長は幕府を代表して信玄と謙信の関係を「調停」していました。武田が「共通の敵」となったのは信玄の裏切りの後であり、裏切りとほぼ同時に信玄は死んでいるので、武田勝頼の時代です。
そのあたりから、武田討伐を優先する謙信と、武田、つまり関東ばかりに気を使ってはいられない信長との齟齬が少しづつ生じてきます。具体的には信長は武田討伐を何回か口約束しますが、信長には京都、義昭問題があったり、越前の統治がうまくいかない問題があったり、なにより本願寺問題があり、なかなか約束を守れません。その上、武田勝頼はかなり好戦的で「強き武将」であり、山を越えて東美濃に侵攻したり、徳川の高天神城を狙ったりと、勢いがありました。信長は武田に関しては相当な用意が必要と思っていたわけです。しかし謙信は「攻めよう」の一点張りです。動かない信長に謙信のイライラが募っていきました。
1574年、天正2年はじめ、謙信は武田に出兵します。そして同盟している家康・信長に協力を求めます。信玄が死んだ時は、すぐにでも武田を攻めようと言っていたのは信長の方だったのですが、この時になると信長は口で協力を約束するだけで動きません。そして上洛して「蘭奢待」(ランジャタイ)を切りとらせたりしています。謙信は当然腹を立てます。そこで信長が贈ったのが有名な「洛中洛外図」でした。高価なモノを贈ればなんとかなるだろうと思っているあたり、信長は人の心理が本当に読めないのだなと思います。実際、謙信の心は信長から離れていくのです。
天正2年、信長の目標は長島の一向一揆でした。最大最強の敵です。武田はあと回しです。長島のせん滅が終わると、やっと武田に対して動きます。翌年、1575年、天正3年が「長篠の戦い」です。ここで武田勝頼を撃破した信長は謙信に共同での武田攻めを提案します。しかし謙信にしてみればいつまでも信長の自己都合に振り回される気持ちはなかった上に、義昭からも信長と手を切れという手紙もきています。ここで謙信は信長の「一応の支配下」(実際はうまく統治できていなかった)である越前の隣の越中に兵を向けるのです。
越前の朝倉を滅ぼした後、信長は直接統治を目指さず、あまり能力もない旧朝倉の家臣に統治を任せ、結局は失敗し、一時越前は一向一揆の国となります。このことが私は不思議だったのですが、越前を支配することによって「謙信と隣国関係になる」ことを忌避したのかも知れません。謙信が越中を支配するとそうなります。でも越前支配の失敗により、信長は天正3年、越前の一向一揆を皆殺しにし、統治を柴田勝家に任せます。同時に謙信は越中を支配下に置くのです。結局は「隣国になってしまった」(中間に加賀はあるものの)わけです。
そして謙信の最晩年である天正5年9月、柴田勝家と謙信の戦いが生じます。有名な「手取川の戦い」です。戦いと言っても柴田勝家は守ろうとした七尾城の陥落を知って兵を引き上げ、その柴田軍を謙信が追撃したというのが実態です。その途中に手取川があり、地の利のない柴田軍は川に足をとられ、多くの死者を出します。織田信長は陣中にいませんから、正確には上杉謙信と織田信長が直接戦ったことはありません。
これがたった一度の「織田対上杉」ですが、この戦いのインパクトが強すぎ、しかも現代になってからもこの場面ばかりが映像化されるので、まるで「信長と謙信はずっと敵対していた」かのような誤解を与えるのです。謙信の意図が信長を打倒するための上洛であったかは、直後に謙信が死んでしまったので分かりません。ウィキペディアを読んだら「完全に上洛前提」で書かれていますが、歴史学者の本ではあまりそんな意見を見たことはありません。ちなみに司馬さんの小説、たしか「新史太閤記」でも、秀吉は「上洛ではない」と考え、「上洛だ」とする信長に対し「これが上様の限界だ」と考えたりするシーンがでてきます。司馬さんは信長をあまり高く評価していませんでした。「国盗り物語信長編」は編集者に拝み倒されて書いたもので、司馬さん自身の自発的意思ではありません。
話戻して。
手取川の戦いのクローズアップによって、敵対関係が続いていたと誤解されている信長と謙信ですが、実際は謙信と信長はずっと同盟者であり、しかもその仲は良好で、いろいろな齟齬から戦うはめになりましたが、それは謙信の死のわずか2年前のことです。ほとんどの期間、10年以上の長い月日、信長と謙信は持ちつ持たれつでやってきたのです。
ちなみに謙信の死の後、上杉は後継者をめぐって混乱し御館の乱が起きます。謙信の姉の子である上杉景勝が後継者となりますが、謙信時代の力は上杉にはもはやありません。武田は滅亡し、信長は上杉に兵を向けます。景勝は滅亡を覚悟し、遺書めいた手紙まで書いています。しかし幸運にも本能寺の変が起き、織田(柴田勝家)が引き上げたことで、上杉は九死に一生を得ます。豊臣政権に服属し、会津への転封(越後から引き離されての鉢植え大名化)を受け入れたことで120万石。関ケ原で減封され30万石。江戸初期に後継者がなく、お取り潰しのところを、徳川秀忠の隠し子である将軍後見の保科正之(会津松平の祖)に救ってもらって15万石。「忠臣蔵」(五代、徳川綱吉時代)では、上杉当主が吉良上野介の息子だったため、上杉米沢藩と赤穂浪士・大石内蔵助は「物語上」しばしば暗闘を繰り広げます、あの時の上杉は15万石の大名でした。江戸中期には財政危機。上杉鷹山がなんとかこれを乗り切ります。江戸末期には佐幕派となって石高も19万石まで回復。明治維新後は長岡藩とともに戦った北越戦争の敗北を経て、中立または官軍寄りの立場に転身しますが、幕府に協力した責任を問われ、15万石に逆戻り。そして版籍奉還です。