ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

コルベ神父に救われた命

2013-10-05 23:55:50 | 2013年6月のクラクフ

アウシュヴィッツで餓死刑に選ばれた囚人の身代わりになり、命を落としたマキシミリアン・コルベ神父(1894-1941年)。

恥ずかしながら私、このように偉大な人物のことを、クラクフに、アウシュヴィッツに行くことを決めて予習を始めるまで、まったく知りませんでした。

それにコルベ神父はなんと、1930年から1936年までの約6年間、日本の長崎で布教活動されていたのだそうです!

 

  コルベ神父の写真と、1998年7月にロンドン・ウエストミンスター寺院の西側玄関の上に『20世紀の聖人』の一人として設置されたコルベ神父の像。

    

 

帰国後ポーランドがドイツに占領されると、コルベ神父は仲間の聖職者とともに、家を追われて辛苦にあえぐ人々を励まし、乏しい食料を公平に分け与え、苦境の中で神の教えを説きました。彼等が保護した約3000人のポーランド人のうち約2000人がユダヤ系でした。ポーランド人の知識層・指導層も迫害の対象としていたナチスが、ユダヤ人までかくまったコルベ神父たちを放っておくわけがありません。

1941年2月17日に、ユダヤ人とポーランド人の抵抗組織を援助した容疑で逮捕されたコルベ神父たちは、まずワルシャワのパヴィアク監獄に送られました。目撃証言によると、3月のある日、ナチス親衛隊員の看守が、修道士服を着てロザリオを腰に巻いたコルベ神父を見て「神を信じるか」と尋ねました。コルベ神父が「信じます」と答えると、看守は彼を殴りつけ、同じ質問を何度も繰り返しました。穏やかな表情を浮かべたコルベ神父から返ってくる答えはいつも同じで、そのたびに看守はコルベ神父を無慈悲に殴り続けました。とうとうコルベ神父が意識を失うと、看守は彼から修道士服とロザリオを奪い取り、代わりに囚人服を投げ捨てていきました。

コルベ神父が他の4人の聖職者とともにアウシュヴィッツに送られたのは、同年5月28日のこと。イエス・キリストを嫌悪していたヒットラーにとって、カトリック教徒も迫害されるべき存在でした。収容所副所長のカール・フリッツ(Karl Fritzsch)は、「ここではユダヤ人は2週間、ローマ・カトリックの神父は1ヶ月だけ生きていい」と明言していました。また、「ここから出る道は、火葬場の煙突からだけだ」とも。

コルベ神父は縞模様の囚人服を着せられ、16670という認識番号を刺青されました。フリッツは、“残忍”クロットという仇名のある前科者の看守に「こいつら(聖職者たち)は怠け者の寄生虫だ。しっかり働かせてやれ」と指示し、コルベ神父たちは連日、特別に苛酷な労働を課されました。火葬場建設のための重い石を運び、大きな木の幹を運び・・・労働は休みなく一日中続き、監督役からは殴打や足蹴りが容赦なく飛んできました。しかしコルベ神父は驚くべき沈着さをもってこれを受け入れ、見かねた仲間が彼を助けようとしても、仲間の安全のため「大丈夫だ。マリア様が私に強さを下さる。すべて良くなる。」と言って断りました。

ある日特別に重そうな板を見つけた“残忍”クロットは、コルベ神父にそれを負わせ、走るよう命じました。コルベ神父が倒れると、クロットは彼の顔を腹を蹴り、部下に彼を50回鞭打つよう命じました。コルベ神父が失神すると、クロットは彼を泥の中に投げ入れ、死んだものとみなしてその場を去りました。コルベ神父の仲間たちは彼をこっそり病院棟まで運ぶことに成功し、彼の命をとりとめました。

アウシュヴィッツの囚人たちは、ゆっくりと計画的に、飢えさせられていきました。そのため食料が配給されると、誰もが自分の分を確保しようと奪い合いになりました。しかしコルベ神父は、ひどい飢えに苛まれていたにもかかわらず皆から離れて立ち、それゆえ大抵の場合、彼のための食料は残っていませんでした。食料が手に入ったときでさえ、コルベ神父は乏しいその食料を、他の囚人と分け合いました。夜になってさえ、皆のように横になって身体を休めるかわりに同室の囚人たちに、「私はカトリックの神父です。何か私にできることがありますか?」と訊いてまわり、告白や懺悔に耳を傾け、共に神に祈りました。病院棟で医師の手当を受ける際も、自分は最後にして他の囚人たちの手当が済むまで待ちました。ある日誰かが「生き延びるために皆が必死になっているこのような場所でそんな風に己を犠牲にするのは愚かなことではないですか?」と彼に尋ねると、彼はこう答えたそうです。「誰もが生き延びることの目的を持っています。多くの男たちにとって、それは家に、妻や家族のもとに帰ることです。しかし私の場合、目的は、自分の命を他の皆のために使うことなのです。」

看守の情け容赦ない嫌悪と残忍さにさらされても、コルベ神父は常に従順で柔和で寛容でした。彼は他の囚人たちに「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えました。多くの目撃者の証言によると、コルベ神父に関して真に驚異的だったのは、彼が『嫌悪』をまったく知らなかったことでした。彼は死刑執行者と犠牲者の双方を、まったく同じ澄んだ瞳で見つめました。彼に見つめられると、最もサディスティックだった看守でさえ、「そんな風に見るな」と言って目を逸らしたそうです。ラスチャク神父は回想します:「中庭のコルベ神父を見るたび、彼の並ならぬ善性が浸透してくるような気がしました。彼も我々と同様ぼろを身にまとい、腰には粗末なブリキ缶をぶら下げていましたが、そんな外観はすぐに忘れ去られ、魅了するような顔貌と内部から滲み出る神聖さしか意識しなくなるのです。」

 

下左はコルベ神父の長崎時代の想像図のようですが、「日本の子供、もっとかわいいですよ~っ!」と言いたいです。

                                             下右は、ハンガリーのフランシスコ修道会の教会にある、コルベ神父を描いたステンドグラス。

  

 

『逃亡を図った囚人が出た場合は、同棟の囚人から10人が選び出されて窓のない地下室で餓死刑に処せられる』。

これが収容所の掟でした。1941年7月末のある日、コルベ神父が収容されていた14号棟の囚人の一人が脱走し、それが発覚すると14号棟の600人の囚人は皆、焼けつくような日差しの下に水も食料も与えられないまま一日中立たされました。ナチス親衛隊員が探し回ったものの、脱走した囚人はとうとう見つかりませんでした。夜になって、副所長フリッツの命令で10名が餓死刑に処せられることになり、並んだ囚人の中から一人また一人と、受刑者が任意に選ばれていきました。選ばれた者の一人は、フランツィシェック・ガヨヴニーチェックという39歳のポーランド人軍曹でした。絶望に震える声で、彼は思わず叫んでいました。「私の妻と、子供たち、・・・もう二度と会えない・・・!」

その時一人の男が後列から前に進み出、帽子を取って収容棟長の前に立ち、ガヨヴニーチェックの代わりとなることをドイツ語で申し出ました。囚人16670号のコルベ神父でした。地下牢に送る10人さえ決まればそれが誰であろうと関係なかったので、驚いたものの収容棟長はコルベ神父の申し出をうなずいて受け入れ、訊きました。「お前は誰だ?」 「私はカトリックの神父です。あの人の代わりに死ぬことを望みます。私は年寄りですが、彼には妻と子供たちがあります。」 コルベ神父と他の9人は、18号牢へと連れて行かれました。皮肉なことに、逃亡した囚人は、後になって収容所の便所で溺死しているのが見つかりました。つまりコルベ神父たちは、逃亡者の発見がもう少し早ければ、餓死刑に処せられずに済んでいたのです。

 

    コルベ神父が身代わりになったポーランド人軍曹フランツィシェック・ガヨヴニーチェックの、アウシュヴィッツの囚人記録の写真(下左)と、家族との写真。

        

 

    コルベ神父が身代わりを申し出た場面の想像図と、“死のブロック”11号棟の地下通路。 (今回の記事の写真は、すべてネットから借りた資料画像です。)

       

 

 “死のブロック”11号棟の地下の見取図。薄茶色の横棒が付いているのが餓死牢で、赤い横棒入りの18号牢が、コルベ神父他9名が餓死刑に処せられた牢です。右下隅、小さい牢が縦に4つ並ぶ22号牢が、“立ち牢”。

 

 

地下牢の門番手伝いで通訳も務めていたポーランド人のブルーノ・ボルゴヴィツ(1947年没)は、その後に続いた悲しい出来事を目撃し、のちに教会で神父にその模様を話しました。

“あの気の毒な人々の牢からは、毎日のように祈りと賛美歌の歌声が聞こえ、近くの牢の囚人たちもそれに加わりました。私は近くに親衛隊員がいないときを見計らっては彼等の所に話しに行き、彼等を慰めました。熱情のこもった祈りと歌声が地下通路にこだまし、それはまるで、あたかも教会にいるかのようでした。コルベ神父の先導で、囚人たちが斉唱しました。祈りに夢中だったあまり、囚人たちがナチス親衛隊員の足音に気づかないこともありました。親衛隊員が大声で叫んではじめて、沈黙が降りました。牢が開けられると、囚人たちは一切れのパン、あるいは水を乞いましたが、もちろんもらえませんでした。まだ体力が残っていた者が扉に近づくと、親衛隊員はその者を思い切り蹴飛ばしました。蹴られた囚人は、セメントの床に仰向けに叩きつけられて即死するか、その場で銃殺されました。コルベ神父は食べ物を乞うことも泣き言を言うこともせず、他の者の精神を高揚し続けました。

 囚人たちが弱くなるにつれ、祈り声も囁きのみになりました。親衛隊員が息絶えた者を運び出すため見回りに来るたび、他の者たちのほとんどが床に横たわっていた中で、コルベ神父だけは膝まずき、あるいは牢の中央に立って、穏やかな表情を浮かべて彼等を迎えました。そうして一人、また一人と死んでいき、2週間後には、まだ完全に意識のあったコルベ神父を含む4人しか残っていませんでした。 [注:その時まで生きていたのはコルベ神父のみだったとする情報源もあります。] 親衛隊員たちは、これは長すぎると感じました。その牢は、次の犠牲者のために必要だったのです。そこで上層部は4人をフェノール注射で殺害することにし、病人棟付だった元犯罪者のボックを送り込んできました。ボックが近づくと、コルベ神父は祈りの言葉をつぶやきながら、ボックに左腕を差し出しました。それ以上見ていられず、私は仕事を口実に、その場を離れました。親衛隊員たちが引き上げるやいなや、私は牢に戻りました。コルベ神父は後部の壁に座った格好で寄りかかっていました。頭は横に傾き、目は開いたままでした。彼の表情は穏やかで、輝いていました。”

コルベ神父が殺害されたのは、8月14日。その遺体は翌日、他の何万という遺体と同様火葬場に運ばれ、焼却されました。その日8月15日は偶然、カトリック教の大祝日である聖母被昇天の日でした。そしてコルベ神父は生前「聖母の祝日に灰になり、後に何も残らないよう風に運ばれて世界の隅々にまで散りたい」と語っていたということです。

コルベ神父が救ったのは、ガヨヴニーチェックの命だけではありませんでした。コルベ神父と共に餓死刑に処せられた他の9人と、同時期に地下牢にいた他の囚人たちの全員が、コルベ神父の導きで祈りと賛美歌に包まれ、尊厳ある死を迎えることができたのです。 「自分の命を、他の皆のために使いたい」と願っていたコルベ神父。 おそらく身代わりを申し出たとき、他の囚人たちの魂を救うことも、すでに目的に入れていたのでしょう。

 

                            聖堂とみなされるようになった18号牢には、蝋燭や花がつねに飾られるようになりました。

                       

 

それでは、コルベ神父が自分の命と引き換えに救ったフランツィシェック・ガヨヴニーチェックFranciszek Gajowniczek、敬称略)はどうなったのでしょう? 気になったので、彼についても調べてみました。

兵士だったガヨヴニーチェックはゲシュタポに捕えられ、1940年9月8日にアウシュヴィッツに送られました。コルベ神父に命を救われ、1944年10月25にザクセンハウゼン強制収容所に移され、そこで連合軍に解放され、終戦を迎えました。ナチスの収容所での5年5ヶ月と9日を生き延びた彼は、半年後に妻へレナと再会することができました。しかし悲しいことに二人の息子は、ドイツ占領下にあったポーランドへのソ連軍の砲撃により1945年に亡くなっていました。

ガヨヴニーチェックは、コルベ神父への恩を決して忘れませんでした。コルベ神父の命日である8月14日には毎年アウシュヴィッツを訪れ、またコルベ神父の行為を広く世に知らしめるためヨーロッパやアメリカを回るようになりました。彼の熱心な活動に後押しされ、コルベ神父は1971年にローマ教皇パウロ6世によって列福、1982年にはヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。いずれの機会にも、ガヨヴニーチェックはヴァチカンに招待されました。

    

      元囚人たちとアウシュヴィッツを訪れたガヨヴニーチェック。                        ガヨヴニーチェックと妻。

    

 

ガヨヴニーチェックの回想です。

“副所長のフリッツの命令で、収容棟長が餓死刑にする囚人を任意に選び始めました。彼に指差された私は、絶望のあまり叫んだのです。もう一度妻に、子供に会いたいと・・・。すると別の囚人が一歩前に進み出てきて、私の代わりになることを申し出ました。コルベ神父のことを、私はほとんど知りませんでしたし、彼がドイツ語で話したのもあって、その時起こっていたことをすぐには理解できませんでした。私が生きて、代わりに誰かが自発的に、私という他人のために、自分の命を差し出すなんて――これは夢かと思いました。私はコルベ神父に何を言う間もなく、自分の立っていた場所に戻されましたので、コルベ神父に目で感謝を伝えることしかできませんでした。ニュースはまたたく間に収容所中に広まりました。私は救われたのです。彼の犠牲のおかげで、私は彼がしたことをこうして伝えることができます。

 その後の長い間、コルベ神父のことを思うたびに、自責の念に駆られました。私は自分の命を救うために、彼の死の宣告書にサインしたのです。しかし今は、彼のことを思うとき、私には彼のような人には、ああする以外に道はなかったのだと理解できます。おそらく彼は、僧侶である自分の居場所は、死にゆく者と共にあると考えたのでしょう。実際彼は、最期の最期まで彼等と一緒だったのですから。”

 

        パウロ6世と(1976年)。                                      18号牢に膝まずくヨハネ・パウロ2世(1979年)。

               

 

1994年12月にヒューストンにある聖マキシミリアン・コルベ・カトリック教会を訪れたガヨヴニーチェックは、通訳を務めた聖職者にこう言いました。

「私に息がある限り、マキシミリアン・コルベ神父の偉大な英雄的行為を人々に伝えるのが私の義務と考えます。」 

 

     1982年10月10日の、コルベ神父の列聖の日のガヨヴニーチェック。

  

 

1977年に最初の妻へレナを亡くしたガヨヴニーチェックは、のちに二番目の妻ヤニーナと再婚。1995年3月13日にポーランド南西部の Brzeg で、94歳の天寿を全うしました。 コルベ神父に命を救われてから、じつに53年と7ヶ月が経っていました。

未亡人となったヤニーナ・ガヨヴニーチェックはこう語ったそうです。 「夫は常にコルベ神父の存在を感じていて、適切な時が来たらコルベ神父が迎えに来てくださると信じていました。そしてとうとう夫は、コルベ神父の元に旅立ったのです。」

 

     ヨハネ・パウロ2世と(1995年)。                                                   ガヨヴニーチェックの墓。

             

 

ライムンド・コルベ少年は、子供の頃は、どこにでもいるようなやんちゃで腕白な少年でした。彼が10歳の頃、あまりの腕白ぶりを嘆いた母親が沈痛な面持ちで彼にこう言いました。「まったくお前ときたら・・・一体将来はどうなることかしら?」 母親の言葉の何かが少年の心に響きました。 

その日を境に少年の行動は落ち着き、信心深い両親が祀った祭壇で、彼も長い時間を費やすようになりました。祈りながら泣く彼を見て、心配した母親は彼に一体どうしたのかと尋ねました。最初は話したがらなかった少年がようやく口を開いたところによると: 母親に「一体お前は将来どうなることか」と嘆かれた日、自分も心配になった彼は夜、聖母マリアに自ら尋ねました。「マリア様、僕は将来いったいどうなるのですか?」 すると二つの冠を携えた聖母マリアが現れました。白い冠は純潔を、赤い冠は殉教を象徴すると聖母は言い、彼にどちらを受け入れるかと訊きました。意気込んだ彼が「両方を受け入れます」と熱心に答えると、マリア様は微笑んで姿を消しました。 ・・・

 

こうして聖母マリアが、コルベ神父の信仰の中心となったそうです。情報源には「コルベ少年の前に聖母マリアが現れたのは夢の中でだった」とするものもあり、現実的で無宗教の私には『夢の中で』説の方が信じ易いです。でも一方で、アウシュヴィッツという『地獄』にあってさえコルベ神父は人間愛に満ち、残酷なナチスのためにすら祈ったと知ると、彼は限りなく神に近い存在だったのだから、そういう人には奇跡が起こっても不思議はないな。とも思えてしまいます。

それにしても、そんな幼いうちに『殉教』という概念を受け入れてしまうのがすごい。信仰のために命を失うって・・・まだほんの、つい先ほどまで母親を嘆かせるほどやんちゃだった男の子がですよ。『殉教』を常に意識していたコルベ神父には、ガヨヴニーチェックの身代わりになることも、ごく自然なことだったのでしょう。幼い頃からずっと待っていた『殉教』の機会が、ついにやって来たのですから。ここまで個人を強くできる信仰の力って、本当にすごい・・・ 無宗教で無神論者で俗人の私は、完全に脱帽です。 コルベ神父のご冥福を祈ります。・・・・・ 

 

  18号牢を訪れたベネディクト16世(2006年)。         今年のコルベ神父の命日に執り行われた、“死のブロック”の外での平和祈念式典。     

    

 

コルベ神父の命日の平和記念式典では、

もう二度とアウシュヴィッツが象徴するような暴力や迫害が起こらないように、

コルベ神父が払ったような犠牲が払われなくて済むように、

暴力が消えた世界が愛で満ちるように、

祈りが捧げられるそうです。

 

・・・ 残念ながら、現在の世界の状況を思うと、コルベ神父に顔向けなど、できたものじゃありませんね ・・・

 

《 2021年8月11日追記 》

ガヨヴニーチェック氏に関する日本語ウィキページができていたのでリンクを貼りました。

またカタカナ表記もグーグル翻訳の発音をもとに変更しました。

 

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5 コメント

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マックスさんへ (ハナママゴン)
2021-08-12 06:05:10
読んでいただいたうえお褒めのコメントまでいただき、ありがとうございます!
なるほど、ガヨヴニーチェック氏のお墓はコルベ神父様が創設した修道院の墓地にあるんですね。
聖テレジア・ベネディクタの情報もありがとうございます。
あと3日で8月14日、コルベ神父様の命日・・・
不穏さが増すばかりの世界情勢にため息をつきつつ、偉大なる故人を偲ぼうと思います。
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感心しました (マックス)
2021-08-10 12:07:14
 ものすごく よく調べられて、且つ、詳細なのに驚きました。ガヨゥイニチェック氏のお墓は、コルベ神父さんが創設したニエポカラノフ修道院の修道院内の墓地にあります。ベネディクト16世教皇が、アウシュビッツービルケナウ収容所を教皇として訪問された時、到着するや否や、誰をもガイドに付けず、淡々とわき目もふらずに14号棟に向かわれた姿を思い出しました。コルベ神父さんが、殺された8月14日が、まもなくやって来ます。また、8月9日は、同じアウシュビッツで殺されたカルメル会修道女の十字架の聖テレジア・ベネディクタ(本名:エディット・シュタイン博士・ユダヤ人哲学者として有名な方でした)が、ガス室で殺された日でもありました。
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感謝 (りこりん)
2016-07-30 01:08:23
私は今日はじめてコルベ神父のことを知りました。プロテスタントの学校で学びながら、涙がとめどなく流れました。カトリックとプロテスタントは違いますが、イエス様もマリア様も神様が私たちのために送ってくださったとてつもない
プレゼントです。8/14私も祈ります。
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偉人・・・というより、超人 (ハナママゴン)
2013-10-09 05:18:05
・・・だと思います。コルベ神父。
残酷なナチスと、彼等にまさに殺されようとする囚人たちの双方を、同じような愛情をこめた眼差しで見つめるって・・・
普通の人間には、できないですよね!
ナチスに対して憎悪と恨みを抱き、囚人には深い同情と哀れみをもつというのが、人間としては自然で、当然。
コルベ神父って、人間の姿を借りて地上に降り立った神だったんじゃないか、とすら思えてきます。

コルベ神父のお名前はおろか、その勇気ある行為のことすら全然知らなかった私は、本当に歴史バカです(恥)。
若い頃は戦争のことなんて興味なかったし知りたくもなかったのですが、中年期が終わりに近づきつつある近年になって、急に興味がわいてきました。
これはやはり、若年期より老年期のほうが身近になり、『最期』を意識するようになったせいでしょうか。

私も!
普段は神も仏も天国も地獄も信じていませんが、ナチスの残虐さをこうして嫌というほど知ってしまうと、すべての犠牲者は天国で永遠に幸せに暮らし、すべての戦争犯罪者は地獄で永遠の苦しみを味わいますように・・・ と祈らざるを得ません。・・・・・
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コルベ神父 (チビまま)
2013-10-08 21:58:39
コルベ神父のことは詳しく知りませんでしたが、何かで家族のいない神父が家族のいる男性の身代わりにになって亡くなったという話をどこかで聞いたことがありました。
殉職とはいえ、この世とは思えないほどの究極の地獄の環境にありながら、自分の信念を貫き、見ず知らずの他人のために自らを犠牲にする・・・本当に神に限りなく近い人だったのでしょうね。
私だったらきっとできないこと・・・頭があがりません。

ずっとハナママゴンさんの取材(?)を読んでいますが、あまりの残酷さに言葉がありません。
せめて、犠牲になった方々ひとり残らず、天国で家族と再会して痛みも恐怖もなく、幸せに暮らしていますように。

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