ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

オシフィエンチムの町 ③ [ユダヤ人センター]

2013-05-09 21:15:05 | クラクフ (ポーランド)

第二次大戦中ドイツの占領下にあったオシフィエンチムで、ナチスに破壊されずに唯一残ったシナゴーグ

正式名称は、Khevre Loymdei Mishnayos (= Association of Those Who Study Mishna = ミシュナー研究者の協会?)。

現在はかつてのシナゴーグの栄華を取り戻し、町のユダヤ人センターの一部として、町を訪れる人々の黙想と回顧と祈りの場となっている。

下の写真の、向かって左側の建物がシナゴーグ。右はユダヤ人博物館兼教育センターで、ふたつを合わせて“アウシュヴィッツ・ユダヤ人センター”と呼ぶ。

このシナゴーグは、1913年(ちょうど100年前!)頃に建築された。第二次大戦中、町に20以上あったシナゴーグはこれを除いてすべてドイツ軍に破壊された。このシナゴーグは内装を取り壊され、弾薬庫として使われたが、戦後、生き残った少数のユダヤ人によってふたたびシナゴーグとして使えるまでに修復された。しかしその後、ユダヤ人が町を出ていったため管理する者がいなくなり、シナゴーグは本来の機能を失った。その後シナゴーグは共産主義政権下で国有化され、カーペットの倉庫として使われた。

共産主義が崩壊してポーランドに自由が訪れると、シナゴーグは近くの町ビェルスコ=ビャワのユダヤ人コミュニティーに返還された。ビェルスコ=ビャワのユダヤ人たちは、アウシュヴィッツ・ユダヤ人センター財団にシナゴーグを寄付した。ニューヨークに本拠をおく同財団は、寄付で集めた百万ドルの費用をかけてシナゴーグを戦前の状態にまで完全に復元。シナゴーグにくっついて建つ隣の家もアウシュヴィッツ・ユダヤ人センター財団により買い取られ、“アウシュヴィッツ・ユダヤ人博物館(Auschwitz Jewish Museum)”になった。オシフィエンチムのユダヤ人の歴史や戦前の暮らしを展示するこの博物館は、ホロコーストのみならずユダヤ人の歴史・伝統・文化・戦前に存在したコミュニティーなどを紹介する教育センターでもある。シナゴーグと博物館は、アウシュヴィッツ・ユダヤ人センター(Auschwitz Jewish Center)として2000年9月12日にオープンした。同センターは2006年から、ニューヨークにあるユダヤ遺産博物館(Museum of Jewish Heritage)と提携している。

約60年ぶりに再オープンしたシナゴーグは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を訪れる個人やグループの祈りの場所として使われるようになった。内部は男性用と女性用の2部屋に分かれている。

    1940年頃のシナゴーグ。                                    戦時中のシナゴーグ。

        

       共産主義時代のシナゴーグと隣の家。

          

第二次大戦前、シナゴーグにくっついて建つ隣家には、4家族が住んでいた。うち2家族はユダヤ人家庭で、コルネレイフ家、ダットネル家といった。ズヴィ・エリメラッハ・ヒルシュ・コルネレイフ(?Zvi Elimelech Hirsch Kornreich)はこの家で1924年に誕生し、成長し、隣のシナゴーグで1937年にバル・ミツヴァー(ユダヤ教徒の成人式)を祝った。彼は1945年にオシフィエンチムに戻ったが、親類も含めて100人以上いた家族のうち、生還できたのは彼だけだった。その後ヒルシュ・コルネレイフはアメリカに移り、家族をもうけた。

同じ家に住んでいたナトハン・ダットネル(?Nathan Dattner)一家には、5人の子供がいた。末っ子のモスへは、1929年に隣のシナゴーグでバル・ミツヴァーを祝った。シナゴーグの鍵を預かっていた父親のナトハンは、平日には毎朝5時にシナゴーグに入り、礼拝のため内部に暖房を入れたものだった。モスへも父親について行き、ミシュナーを学んだ。ダットネル家の子孫も、現在はアメリカ在住である。

      ほったらかしにされていた頃のシナゴーグ。                        共産政権時代の隣家。

       

    カーペット倉庫だった頃の側壁。                                内部。                               

      

    戦前の状態に復元されたシナゴーグ内部。                     ユダヤ人博物館の展示。

      

 

アウシュヴィッツ・ユダヤ人センターは、以前は“病院広場″と呼ばれた広場に面して建っている。この広場は1941年に、よその町のゲットーに追放されるユダヤ人の集合場所として使われた場所のひとつだ。1992年、広場は戦前のオシフィエンチムにおけるキリスト教信者とユダヤ教信者の共存のシンボルだった神父を記念してヤン・スカルベック広場と改名された。

                            

ヤン・スカルベック(?Jan Skarbek)神父は、1926年にオシフィエンチムに配属された。ユダヤ人コミュニティーにも友好的だった彼は、二度の大戦の間、町のユダヤ系住民と非ユダヤ系住民の平和的共存に大きく貢献した。彼の発案で、住民たちはユダヤ系/非ユダヤ系に関係なく、協力して奉仕・教育・愛国活動に精を出した。彼は1934年に、町議会の満場一致で町の名誉町民に選ばれた。

第二次大戦中、スカルベック神父(1885-1951)は同僚の神父たちとともに、アウシュヴィッツの収容者を助ける手伝いをした。そのため彼等は1942年の年末にゲシュタポに捕えられ、投獄された。1945年にオシフィエンチムに戻ったスカルベック神父は、解放された元収容者たちの世話をした。その後も彼は、オシフィエンチムを離れ外国に移住したユダヤ系の元住人たちと連絡を取り続けたという。

 

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