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昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

殉国 「愛児とともに是非お連れ下さい」

2021年08月15日 15時37分20秒 | 9 昭和の聖代


東宝映画
「 日本で一番ながい日 」
三船敏郎演じる阿南惟幾陸軍大臣
「 一死ヲ以テ 大罪ヲ謝シ奉ル 」
敗戦の責任をとって自決する場面である。

時代劇での割腹シーンは、吾々の世代は馴染み深い

「 武士が責任をとる 」 ・・・とは、切腹するもの。
吾々は、子供の頃から そう認識していたのである。

明治維新なりて
国民は天皇に忠誠を誓った。
『 七生報国 』
「 殉死する覚悟をもつ者、憂国の至誠と認む 」 

国に殉じることは、天皇陛下への忠義であったのだ。

 神風特攻隊

殉国
親泊朝省

いよいよ降伏と決定
大日本帝国は有史以来初めて敗北を喫した。
親泊が精神の拠り処と仰いだ大元帥陛下は敵の軍門に降られ、皇軍は消滅する。
その上、故郷の沖縄は敵手に落ち、同胞の軍官民 数千人が戦死したという。
 

「 帰りなん、いざ、魂は南溟の果てに 」
敗戦と決定して以来、親泊の心中を去来したのは
この思いではなかったか。

彼の動かぬ決意を知った妻の英子は、
「 愛児とともに是非お連れ下さい 」
と、同行を願った。


長文の遺書 「 草莽の文 」 をしたため

この命断つも残すも大君の
勅命 (マケ) のままに益荒男達よ

九月二日の夜
「 ガ島で死すべかりし命を今断ちます、諸兄皇国の前途よろしく頼む 」
と、同期の井本、種村、杉田宛にしたため
妻子とともに 四十三年の清冽な生涯を終えた。

敗戦時は大本営陸軍報道部員として、
民間の報道機関に戦況を報知する任務についていた。

しかし、この任務は正直な親泊にとっては、辛い、耐え難い職務であったらしい。
「 軍の機密保持のため、実際の戦況を国民に報道することが出来ないのは残念だ。
心の中では申し訳ないと詫びつづけている。 ほんとうに辛い職務だ 」
と、うつむいていたという。

「 その時は大佐殿はもう四十をすぎておられたが、青年時代そのままの純真で清潔な、
心中一点の曇りもないようなお人柄であった。

終戦の前後はたいむが忙しくてお会いする機会はなかったが、
その悲痛な御心中はよくお察しすることができる。

大佐殿が御家族もろ共自決されたことは、九月上旬たしかに騎兵学校内で開いた。
ああ、やっぱり誤りの報道をしていた ( それはたとえ軍の命令であったにしても ) ことを、
自決して国民にお詫びなされたのだと思った。

大佐殿の平素の御性格、御心中を知る私には、
乃木大将と同じく立派な御最期だと、今でも感服し敬慕している」
と・・・岡治男 元機甲大尉

親泊の自決は、親しい人にはうすうす感づかれていたらしい。
形見わけのつもりで持ち物を知人にやっていた。
終戦処理のため、
名古屋東海軍管区司令部に転じていた私は、
憲兵隊の課長をしていた
岡村適三の世話になった。
ある日 東京から帰った岡村は、
「 小山、親泊は死ぬらしい。新聞記者がそういうとる。
何でも持ち物は自分のものは勿論奥さんや子供さんのものも惜し気なく人に呉れるそうだ 」
「 そらいかん、貴様いってとめてくれ 」
「 うん 」
岡村が上京した時は既に後の祭り、
親泊は夫人と共に愛児を道連れに朱にそまっていた。

たしか彼が陸大専科学生の頃だったろう。
夫人は可愛い子供さんをつれて私の家を訪れた。
夫人は妻の兄の教え子
その義兄から 「 妻を娶らばああいう人を 」 とすすめられた人である。
私は うちくつろぐ二人の女を比較して、親泊の幸を羨ましく思った。
それは 私の浮気性ばかりではなく、真に非のうち所のない婦人であった。
その人も共々・・ ( ・・小山公利手記 )

昔から
「 慷慨死に赴くは易く、従容義に就くは難し 」 と、言う。
従容死に赴くのはさらに難しいのではあるまいか。
大日本帝国は降伏し
天皇陛下は 「 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス 」 と仰せられた。
これから平和が来るのだという時に、その平和に背を向け、
祖国の終焉に殉ずる決意は容易なものではあるまい。

額田坦著 「 世紀の自決 」 に五百六十八柱の芳名が載っている。
しかしそれ以外に、民間人でありながら祖国の難に殉じた人も多い。
尊攘同志会の人々の愛宕山上の自決、明朗会 ( 高級船員の団体 ) の人々、大東塾の人々の集団自決がある。
これらの人々はまことに国難に殉じた人であり、日本人の華である。
降伏時陸軍大臣であった阿南惟幾、
東部軍司令官であった田中静壱、
特攻隊の生みの親であり軍司令部次長であった大西滝治郎、
後には杉山元、本庄繁と、いずれも立派な最期を遂げている。
しかし、この人々は軍における枢機に参じ、責任のある地位にいた人々である。
この 五百八十六柱の中には、中少尉から兵士までいわゆる草莽に生きた人々が、
国の内外で祖国の敗北に殉じている。
岡潔は 「 世紀の自決 」 の序文で、この人々の散り際を花吹雪にたとえている。
「 日本人が桜の好きなのは散り際が潔いからである 」 といっている。

親泊朝省もそのうちの一人である。
「 親泊は敗戦と決定した直後から、自決を心中深く決していた、
もっと壮烈な死に方をしたいと思っていたようだ。 いつ死ぬか、その日を選ぶのに苦慮したようだ。
出来れば降伏した八月十五日に死にたかったようであろうが、
大本営の後始末、
書類の焼却などで、自決などできる状態ではなかった 」
と、親泊の親友菅波三郎は語ってゐる。
そこで、九月三日、東京湾上のミズリー号で降伏文書に調印される日の前夜、
降伏を潔しとせぬ皇軍軍人としての誇りを秘めて、妻子ともども皇軍の終焉に殉じたのである。

菅波三郎と親泊朝省(右)

満蒙の風雲がしだいに険しさを増しつつあった昭和五年の春、
鹿児島にいる菅波三郎の下宿へ、ひょっこり親泊朝省が訪ねてきた。
つもる四方山話に興じていた親泊が、急に姿勢を正すと、
菅波の目を見すえながら、
「 菅波、お願いがある。貴様の妹を俺の妻にくれないか、一生大事にする 」
と、言った。
突然のことで 菅波も返事の言葉に窮したが、

「 うむ、英子本人が何と言うか、こういう事は本人次第だ。俺には異存はない 」
と、言うより外はなかった。
その年の秋、東京で式をあげた。
この時 親泊二十五歳、英子十九歳

「 親泊様、御一家一同御自害、相果てられました 」
昭和二十年九月三日の早朝、
小石川大原町の親泊宅の隣家なる米屋さんが、
目黒区碑文谷の拙宅へ駈けつけての報せを受けて、愕然とした。

かねての覚悟の上のことではあったが、かく現実のものとなってみると、
哀痛、万感交 ゝ この胸に迫る。

取るものも取りあえず、現場へ急ぐ。
空襲を免れた古い街並みの一角、シーンと静まる親泊の家、
一瞬ハッと戸締りのしてある二階を見上げた。

「 あそこ、か 」。
玄関の扉を排して階段を上り、八畳の間に行ってみると、
親子四人、枕を並べ、キチンと姿勢を正し、
右から親泊朝省、英子、靖子、朝邦の順に、晴着を着て、立派な最期を遂げていた。

凛々しい軍服の朝省と、盛装して薄化粧の英子は、拳銃でコメカミを射ち抜き、
十歳の靖子と五歳の朝邦は、青酸加里で眠るが如く、一家もろとも息絶えていた。
件 (クダン) の拳銃は、私が満州事変で使ったもので、
二・二六事件後出所してから、出征する朝省に贈ったブローニング二号であった。

通夜、翌日納棺、荼毘に付す。
いよいよ出棺の間際、
「 お別れを 」 と 係の者が蓋を開けると、
大勢の近所の仲よしだった子供たちが中をのぞき見て、
「 ワーッ 」  と  一斉に声をあげて泣き出した。

無理もない。
きのうまで無邪気に睦み戯れた二人の顔が土色になって横たわる姿を、
まのあたりにして、ああ。

・・・・・・
終戦の日から、ミズリー艦上の降伏調印の日までの間に、
一度だけ朝省が拙宅に来た。

「 千年の後、明治天皇と大西郷が出現する。
その日まで待つのだ。祖国日本恢興の日まで」
と 語った。

「上に戴くわが皇室、上御一人の周辺から崩れ去った。
だらしなさ、国民の下部から壊れたのではない」
とも。

また別の日、
妹英子が子供を連れてそれとなく、お別れに来た、

帰る時、五歳の朝邦が、私の長男隆(四歳)の手を握り、
「 うちに行こう、一緒に行こう 」
と 言って泣き出した。

虫が知らせたのかと、あとで思った。・・・・」
・・・菅波三郎談


親泊朝省時に四十三歳、
妻英子三十七歳、
十歳の長女、
五歳の長男と共に逝いた。
英子は菅波三郎の妹である

・・・二・二六事件 青春群像 須山幸雄著から

嗚呼
敗戦が為、殉死したと
嘆に想うな
哀しいことと想うな

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敗戦の日

2021年08月15日 06時01分24秒 | 9 昭和の聖代

815 

 

 

 

 

 

 


昭和20年8月15日
アメリカに降伏した日である

朕 深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ
非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ
ここ ニ忠良ナル爾なんじ臣民ニ告ク
朕 ハ帝國政府ヲシテ 米英支蘇四國ニ對シ
其ノ共同宣言ヲ 受諾スル旨 通告セシメタリ
抑々そもそも帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ
萬邦共榮ノ 樂たのしみ ヲ偕もと ニスルハ
皇祖皇宗ノ遺範ニシテ 朕 ノ擧々措カサル所 
さき ニ 米英二國ニ宣戰セル所以モ亦
實ニ帝國ノ自存ト 東亜ノ安定トヲ 庶幾しょき スルニ出テ
他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ侵スか如キハ固ヨリ 朕 カ志ニアラス
然ルニ 交戰 已すで ニ四歳しさいを閲くみ
朕 カ陸海將兵ノ勇戰  
朕 カ百僚有司ノ励精れいせい
朕 カ一億衆庶ノ奉公
各々最善ヲ盡セルニ拘ラス
戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之しかしのみならず 敵ハ 新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ
しきり ニ無辜むこ ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚 交戰ヲ繼續セムカ
つい ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス
延テ 人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ 朕 何ヲ以テカ
億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ
是レ 朕 カ帝國政府ニシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕 ハ帝國ト共に終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ
遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ
戰陣ニ死シ
職域ニ殉シ
非命ニ斃レタル者
及 其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且 戰場傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ
朕 ノ深ク軫念しんねん スル所ナリ
おも フニ 今後帝國ノ受クベキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ  朕 善ク之ヲ知ル然レトモ
朕 ハ時運ノ趨オモム ク所
堪へ難キヲ堪へ
忍ヒ難キヲ忍ヒテ
以テ 萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕 ハ 茲ニ國體ヲ護持シ得テ
忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚しんいシ 常ニ爾臣民ト共ニ存リ
若シ夫レ情ノ激スル所 濫みだり ニ事端ヲ滋しげ クシ
或ハ同胞排擠はいせい互ニ時局ヲ亂リ
爲にニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ
朕 最モ之ヲ戒ム宜シク 擧國一家子孫相傳ヘ確かたク神州ノ不滅ヲ信シ
任重クシテ 道遠キヲ念ヒ 總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ
道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏かた クシ
ちかつ テ 國體ノ精華ヲ發揚シ
世界ノ進軍ニ後おくレサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克 ク 朕 カ意ヲ體セヨ

・・・玉音放送原文

 
開戦の詔書

  

   
爾 臣民

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妻と共に消え去った、幼き命がいとおしい

2021年08月14日 05時49分16秒 | 9 昭和の聖代

冷え十二月の風の吹き荒む日
荒川の河原の露と消し命
母と共に 殉国の血に燃ゆる父の意志に添って
一足先に父と殉じた哀れにも悲しい

然も 笑っている如く
喜んで母と共に
消え去った幼い命がいとおしい

父も近く御前達の後を追って行けることだろう
厭がらずに 今度は父の膝に懐でだっこして寝んねしようね
千恵子ちゃんが泣いたらよく御守しなさい
では暫らく左様なら
父ちゃんは戦地で立派な手柄をたてゝ御土産にして参ります
では
一子ちゃんも、千恵子ちゃんもそれまで待ってゝ頂戴
井 一 陸軍中尉 (29才) の遺書である

陸軍飛行学校で少年飛行兵に精神教育を担当していた
次々と特攻隊として飛び立ってゆく、教え子を見送る
「 必ずオレも後に続くぞ 」・・・と 

然し、特攻を志願すれどすれど、パイロットでない中尉の願いは叶わない
彼の妻は死なないで欲しいとひたすらこいねがうも
夫の決意の固きを悟った妻は覚悟し
「 私たちが居たのでは後顧の憂い・・思う存分の活躍ができないでしょう
・・一足先に逝って待っています 」

と、遺書を残し 
三才と一才の女の子を連れて入水自殺をする

引上げられる妻子の遺体のそばで号泣した中尉
血書の嘆願書を以て決死の再志願、
遂に特攻の願いは認められ
昭和20年5月28日戦死、
藤井一中尉は家族の許へ

・・・是の
何処を どう捉えるかは、
人それぞれの想いに依るだらう
然し
祖国の為
かけがえのない命を挺した先達
その歴史の上に今の吾々の命は存在する
此の事
忘れてはならぬ
そして
此を
戦争がもたらす悲愴と言うな

とはいえども
情を以てすれば


妻と共に、消え去った
幼き命がいとおしい
もうすぐ、会いにゆくからね
お父さんの膝で抱っこして寝んねしようね
それまで、泣かずにまっていてね
・・・

嗚呼
誰が此を
泣かずに居られよか
・・・
絶句

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万斛の恨み

2020年08月15日 09時30分12秒 | 9 昭和の聖代


画像は第3回大阪大空襲 昭和20年(1945年)6月7日 都島区高倉町鐘紡淀川工場附近
 ←画像をクリック
昭和20年 ( 1945 年 )
都島区中野町から眺めた都島工業高校
鉄筋コンクリート造の堅固な建物は、
あの大阪大空襲にもビクともするものか
然し、B 29 の爆撃で地階の食堂へ避難した人々が
爆撃後、一階玄関 ( 本館中央入口) に 立ちての眺めは、地獄の光景だった
人々は只 呆然と佇んだと謂う
 
     

大阪大空襲
8回を数えた
昭和20年 ( 1945年 ) 3月13日、14日・・第1回
昭和20年 ( 1945年 ) 6月01日         ・・第2回
昭和20年 ( 1945年 ) 6月07日         ・・第3回
昭和20年 ( 1945年 ) 6月15日         ・・第4回
昭和20年 ( 1945年 ) 6月26日         ・・第5回
昭和20年 ( 1945年 )
7月10日         ・・第6回
昭和20年 ( 1945年 ) 7
月24
日         ・・第7回
昭和20年 ( 1945年 ) 8月14日         ・・第8回
なんと、
終戦の前日まで空襲されている、
もう、アメリカの為すが儘である

斯の空襲で、犠牲者は大阪市内で一万人を超えた
 
昭和20年 ( 1945年 ) 6月7日 
第3回大空襲では、柴島の浄水場が破壊された

アメリカ戦闘機・P51ムスタングの機銃掃射による攻撃は、
特に淀川両岸に集中して行われ

こともあらうに、焼夷弾による爆撃から避難してきた人々をねらって射ち殺したのである
是を、城北公園・長柄橋の悲劇 と謂う
大阪旭区城北公園の河川敷では、
千人以上の身元不明の遺体が荼毘に付され、埋葬された

荼毘に因り、立ちのぼりたる煙は三日三晩続いたと謂う
( 2000年頃までは、河川敷 ( 城北ワンド3番池 ) に慰霊碑を見たが、
現在は淀川堤・菅原大橋傍の、千人つか にて慰霊されている )


「空襲でなあ、淀川に避難した人らが戦闘機に射たれてなあ
・・・城北公園で ようけ殺されたんやで」

昭和39年(1964年)
少年の私は、大人たちからそう聞かされた
是はまさに、地獄の鬼の仕打ちである
なんと惨
むごたらしい話であらう・・か
十才の少年の私
胸が詰まる想いで以てその話を聞いていた
死んだ人を哀れに想った、
悲しかった
そして くやし かった


   四ツ橋~心斎橋、焼け残っている建物は、大丸百貨店、そごう百貨店

戦後75年 ( 2020年 ) の 今年
アメリカに対して 「くやしい」・・との、少年の時の素直な想い
今も尚、忘れないで持っている
犠牲になった先達に、
「 悔悟の念 」 なぞ、あらう筈もなからう
・・・と 

リンク
城北公園の千人つか

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「 日本は負けたんだ」

2016年07月12日 14時24分08秒 | 9 昭和の聖代

昭和二十年の十一月、
もう中頃になっていたであろうか、
肌寒い夕暮時であった。
私は急ぎの用で、県庁の焼跡を近道しようと、自転車をおしながら濠端の道をいそいでいた。
「 おい、きみ 」
小さい声で呼びとめる者がいる。
ふり返ると 松の木陰に一人の巡査が立っていた。
「 ここから先へ行ってはいかん、進駐軍がいる 」
と、押し殺した声でいう。
この年の夏、決意を叫ぶ青年たちによって焼き打ちされた島根県庁の焼跡は、
瓦礫の山で、まだ片づけられていない。
焼けただれた築地松のすき間から、アメリカ兵の帽子が二つ見える。
かすかに女の悲鳴が聞こえる。
女が強姦されている。
「 あんたは警官じゃないか、なぜ救わないんだ 」
私は噛みつくように叫んだ。
巡査の顔は醜くゆがんだ。
つぶやくように答えた。
「 奴らはピストルを持っている。殺され損だ、とにかく日本は負けたんだ 」
私は血が逆流するような憤怒に、わななく足をふみしめたが、私も前にすすめなかった。
わずか半年前の名古屋では、連日B二九の猛爆にさらされながら、
少しも命が惜しいとは思わなかったのに、敗けたとたんに臆病風におそわれたのか、
私はすごすごと引き返さざるを得なかった。
止め度なく流れる涙をふきもしないで、私はむやみに自転車のペダルを踏んだ。

敗戦の日
八月十五日の玉音放送には、私も口惜し涙にむせんだ。
 
八月三十日 厚木飛行場に、悠然と降りたったマッカーサーの写真にも、
九月二十七日 マッカーサーを訪問された天皇陛下の写真にも ひどい衝撃をうけはしたが、
それはあくまで観念としての敗戦であって、体験ではない。

この夕ぐれ時の白日夢のような出来事は、
戦争に敗れた国の、
国に見捨てられた国民の悲惨な運命を、
冷厳な事実をもって私は体験させられた。
 
娘か人妻かは知らないが、
彼女も恐らく三ケ月前までは、
「 鬼畜米英 」 を叫んで、
勇ましく竹槍訓練をした けなげな女性の一人であったろうに、
白日堂々とかつての敵国の兵士に輪姦されている。
それを国民を保護すべき警官が、
人を近づけないように護衛している姿は、
全くやり場のない憤激となって、私の体内にくすぶりつづけた。
・・・須山幸雄著  二・二六事件 青春群像 から

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「 挙国の士以て自立するなくば即ちその国倒る 」

2016年07月10日 12時54分14秒 | 9 昭和の聖代


事件は失敗に終わり、人事異動は彼が思ったのと逆に動いた。
歴史に対し 「 もしも 」 ということが許されて、
あの事件が成功したならばと仮定すれば、日本はどのような進路を辿ったであろうか。

各種の要因が動き、思わざることが起きるのが世の常であり、
クーデター後のそれはさらに振幅の大きいものがあろう。
したがってなんとも断定できぬが、少なくとも支那事変は起きぬだろうし、
起きても早く収拾されたのではなかろうか?
なぜならば、彼らの特に磯部は対外戦は考えておらず、ただ国内革新の一途であり、
磯部の尊敬する北一輝は日支同盟と日米経済同盟を主張する人物だから。
失敗に終わっても、あのように 所謂 「 皇道派 」 と目された人物を陸軍から一掃せずに、
虚心に軍が反省したならば どうなっていたであろうか。
やはり支那事変は起らずに、起きても早期に収拾されたのではあるまいか。
なぜならば、皇道派の人々は国防国策としては対ソを考え、支那とは事を構えぬ方針だったから。
支那事変、大東亜戦争、敗戦に至るまでのその人々の思想行動がそれを証明している。
このように考えると、支那事変がなければ大東亜戦争も あの時点には起こらない。
したがって敗戦もなく、日本は異なった道を歩んでいたと思われる。
その意味で二・二六事件は昭和史の決定的瞬間であった。

北一輝に心服した磯部は、
改造法案を全面的に支持し、武力による革命を私に説いた。
私はそれに反対した。
革命史はことごとく武力によって決着がついたことはみとめるが、
だからといって現代もそうあらねばならぬことはない。
国民の知的水準の高まった現在は、
ものの考え方を正すことによって、その目的は達せられる。
否、そうせねばならぬと思ったからだ。
このことは磯部に不満を与えたようだった。
リンク→佐々木、芸妓にも料理を出せよ
事件後粛軍が行われた。
反面、何を仕出かすかも知れぬと思う政財界の恐怖心に乗じて、軍は政治権力を確実につかんだ。
軍というものの、実際は省部の幕僚たちのことである。
権力は魔性が潜んでいる。
かつての政治家がそうであったように、その魔性に踊らされたことは軍人もまた例外ではなかった。
権力の座、および その周辺の者は謙虚でなくてはならぬのに、
参謀とは 無謀、横暴、乱暴 の三謀といわれたのではその資格がない。
また、仲間意識の強い彼らは隊附将校たちの非は厳に追及するが、
同じ仲間のそれに対してはお互い様だという寛恕かんじょさがある。
三月事件、十月事件、士官学校事件、ノモンハン、インパール作戦などの場合の処理を見れば明瞭である。
すなわち無責任の一語につきる。
この無責任は最後まで尾を引いている。
この幕僚の恣意、横暴を制しきらぬまま支那事変の泥沼に陥り、ついに敗戦を迎えた。
軍としては将帥不在であり、国家としては宰相不在であった。
支那事変、大東亜戦争とこの経過のなかで、
末端の一隊附将校として私はただ一筋に日本のためと戦ってきた。
そしてこれでよいのだと自分にも言い聞かせてきた。
結果は敗戦、敵国軍隊の軍靴の下に祖国は蹂躙された。
「 だから あの時 武装蜂起すべきだったのだ。 なんという ふがいなさ 」
と、磯部の声が聞こえるような気がする。
 
報復の意を含んだ日本弱体化政策が、急所をつかんだ占領軍によって強行された。
封建的、軍国主義、保守反動、簡単なこのような言葉で
日本の風俗、習慣、伝統が破壊され、
政治、経済、教育などあらゆる面で変革は急速に行われた。
一部の人はこれに迎合し、便乗して、自己の地歩を築いた。
祖国を卑下し 日本文化や伝統を軽蔑するのが文化人と思い、
占領時代には米国一辺倒、
占領時代が終わると米国の悪口を言って、
中ソの代弁をするのが進歩的となす一群の人々がいる。
農地解放、その方法には日本の実情にそわぬ多くの難点があるが、
これは数少ない占領軍のよい政策の一つである。
一部の人はこれを無血革命といって随喜の涙をこぼすが、
事実は数百万同胞の流血の上に築かれたものである。
二・二六事件が成功していれば当然農地解放も日程に上ったであろう。
これらの国内改革は日本人自らの手でなすべきものであって、
敵国軍隊の手で行われたことは 甚だ残念であり、
恥ずべきことである。
随喜の涙をこぼすか口惜し涙をこぼすか、
微妙なその一点が人生の妙機であり、人間としての分かれ途である。
頼山陽の言に
「 国の国たる所以は その士あるを以てなり、
士の士たる所以は気あるを以てなり、
士は気ありて後自立す。
挙国の士 以て自立するあれば 即ち国立つ。
挙国の士以て自立するなくば即ちその国倒る 」
と。
気は天地正大の気であり、
活然の気であり、
気概の気であり、
気魄の気である。

佐々木二郎 著
一革新将校の半生と磯部浅一
から

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マッカーサーの行った日本の改革

2016年07月09日 05時11分36秒 | 9 昭和の聖代


マッカーサーの行った日本の改革は、
日本が再び彼等の言う侵略行為の出来ないような体制にする革命的なものであった。
それは西欧の民主主義を根幹にすえた一大変革であり、
日本の議会政治が行うことの出来ない根本的な改革を占領軍の武力によって断行した。
しかし、それはまた、
日本民族の皇室尊崇の心情を尊重し、
且つまた 日本民族が、近世以来庶民感情として抱き続けてきた
階級制度、身分制度からの解放と自由、平等民権の願望を充足せしめるものであった。
日本の家族制度と相容れぬものがあったにせよ、敗戦国としては先づ先づの成果を得たと思った。

この改革はよく考えてみると、
北一輝の 『 日本改造方案大綱 』 と 甚だよく似たものであった。
農地改革、財閥の解体など 議会政治の為し得ないことを断行し、抑圧をとり除き、
今日の自由な繁栄の基礎を作った。
また 皇室は全国民の皇室であるから、
明治の初め、徳川氏より継承した中世の荘園的性格を持つ皇室財産など
悉く国家に下付し、
皇室費はすべて国庫より支出せしめ、
華族制度を廃止し、天皇はこれを取りまく一部藩屏の擁護するものではなく、
全国民のすべてが讃仰する天皇たらしめた。
労働者の権利、婦人の権利の向上、幼年労働の禁止、児童老人の福祉の増進、
一般社会の福祉向上、言論出版の自由などすべて 北一輝の日本改造方案と全く同じである。
さらに北一輝が私有財産の限度を設けたことは、
今日の税法上に於ける
累進課税及相続税に該当するといって良いであろう。

我々の事件当時、
北一輝のこの法案は、我々の裁判の判決においても、
絶対に日本の国体と相容れぬ社会主義思想と否定された。
今日の社会をこの法案と比較して人々はどう思うであろうか。
これで日本の国体は亡びたというのであろうか。
法華経の信者である北一輝が、日本の国体と相容れぬ思想の持主である筈がない。
事件当時、宮廷関係や軍部の大部分の人々が北の改造方案を以て、
我が国体と相容れぬ、断じて許すべからざる思想として排撃したのに反して、
特高警察や憲兵の一部の人々は
これに対して正当な評価をしていたことは戦後の種々の文献によって知ることが出来る。

池田俊彦 著  生きている二・二六  より

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大御心・「合法手続ならば裁可する、其れが立憲国の天皇の執るべき唯一の途である」

2016年07月08日 09時31分36秒 | 9 昭和の聖代


昭和天皇  全国巡幸  昭和21年 ( 1946年 ) 2月19日
昭和二十一年一月下旬、
陛下は戦争につき
次のような意味の ご述懐をお洩しになった。

「 申すまでもないが、戦争はな すさまじきものである。
この戦争についても、どうかして戦争を避けようとして、
わたしはおよそ考えられるだけ考えつくした。
打てる手はことごとく打ってみた。
しかし 、わたしのおよぶかぎりのあらゆる努力も効をみず、
遂に戦争に突入してしまったことは、実に残念なことであった。
このごろ世間には、戦争を終わらせた天皇が、
なぜ開戦前戦争を阻止しなかったかという疑問を抱いているものがあるようだ。
これをもっともと聞く人もあろう。
しかし、それはそういうことにほかならない。
立憲国の天皇は、
憲法の枠の中にその言動を制約せられる。
この枠を勝手に外して、任意の言動にでることは許されない半面、
同じ憲法には国務大臣についての規定があって、
大臣は平素より大なる権限を委ねられ、重い責任を負わされている。
この大臣の憲法による権限、責任の範囲内には、天皇は勝手に容赦し、干渉することは許されない。
それゆえに、内政、外交、軍事のある一事につき、
これを管掌する官庁において、衆智を傾けて慎重に審議した上、
この成果をわたしの前に持ってきて裁可を請うといわれた場合、
合法的の手続きをつくしてここまでとり運んだ場合には、
たとえそのことがわたしとしては甚だ好ましからざることであっても、
裁可するのほかはない。
立憲国の天皇の執るべき唯一の途である。
もし、かかる場合 私がそのときの考えで脚下したとしたら、どういうことになるか。
憲法に立脚して合法的に運んだことでも、
天皇のそのときの考え一つで裁可となるか、脚下せられるか判らないということでは、
責任の位置にいることはできない。
このことは、とりもなおさず天皇が憲法を破壊したということになる。
立憲国の天皇として執るべからざる態度である。
断じて許されないことである。
( これは開戦前の御前会議等のことを抽象的にお述べになったことと想像する )
しかし、終戦のときはまったく事情を異にする。
あのときには、ポツダム宣言の諾否について両論対立して、
いくら論議を重ねても ついに一本に纏まる見込みはない。
しかし、熾烈なる爆撃、あまつさえ原子爆弾も受けて、惨禍は極めて急激に加速増大していた。
ついに御前会議の上、鈴木はわたしに両論のいずれを採るべきやを聞いた。
ここでわたしはいまやなんびとの権限を犯すこともなく、
また なんびとの責任にも触れることなしに、
自由にわたしの意見を発表して差し支えない機会を初めて与えられた。
また この場合 わたしが採決しなければ、事の結末はつかない。
それでわたしは この上 戦争を継続することの無理と、
無理な戦争の強行は、やがて皇国の滅亡を招くとの見地から、
とくに内外の情勢を説いて、国民の混乱困惑、戦死者、戦病死者、その遺家族、
戦災を被ったものの悲惨なる状況には衷心の同情を懐きつつも、
忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐えるのほかなしとして、
胸の張り裂けるの想いをしつつも、ついに戦争を終止すべしとの裁断をくだした。
そして戦争は終わった。
( 二回の御前会議を一括しての仰せと拝す )
しかし、このことは、わたしと肝胆相許した鈴木であったから、このことができたのだった 」

昭和三十年十月十五日の 「 太平 」 第五号に掲載せられた当時の侍従長藤田尚徳海軍大将の一文

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昭和ひとけた に 生まれていたら

2016年03月27日 06時30分30秒 | 9 昭和の聖代

大和魂
私の親の世代である
国家による 思想教育 を、享けた世代である
まだ、天皇が神であった時代
純真な少年達は、軍国主義を叩き込まれ
まだ、武士道が身近な存在である時代に
大和魂を、叩き込まれたのである

海行かば
海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かえりみはせじ

「 君が代 」 よりも、歌われたものである。
私は
この歌を、十歳の頃、
テレビの記録映像の中で覚えた。

写真
昭和19年 ( 1944年 ) 5月25日 

茨城県猿島郡古河男子国民学校で撮影したもの
・・毎日グラフ別冊 「 一億人の昭和50年史 」
写真に写っているのは当時の5年生
  
映っている、軍国少年こそ
私の親父達の少年の頃の姿である
この軍国少年に、拍手を送る・・その気概に

ラジオ体操も性根が違う
正に 「 一丸と 生って 」
これほどまでに
・・・教育の成果 ( 精華 ) だと思う
 


  写真 昭和18年 ( 1943年 )

  
修身
教育勅語
・・爾臣民、
父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ 夫婦相和シ 朋友相信シ 恭倹己レヲ持シ 博愛衆に及ボシ 学ヲ修メ 業ヲ習ヒ
以テ 知能ヲ啓発シ 徳器ヲ成就シ、進て公益ヲ広メ
世務ヲ開キ 常ニ国憲を重シ 国法ニ遵ヒ、一旦緩急アレハ 義勇公に奉シ
以テ 天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ ・・

 
奉安殿に最敬礼
・・・リンク→ 修身

修身の教育、間違っていたと、思わない
自分達が享けた教育は正しかったと信じ、我が子に伝える ・・
それで善いではないか
純粋に国家を信じた事、恥じてはいない はず
自分の思うがまま
堂々と 我が子に伝える 

それで、善い 

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などてすめろぎは ひと となりたまいし

2015年08月15日 22時40分32秒 | 9 昭和の聖代

 
エンジンが入れられる。
爆音が高鳴る。
全速力となる。
掩護隊は敵の戦闘機に備えて隊形を開き、護衛の配備に就く。
敵戦闘機は、一せいに、放たれた羽虫の群れのように上昇してくる。
わが目標は一点のみ。
敵空母のリフトだけだ。

爆弾の信管の安全ピンを抜き、
列機に突撃開始の合図を送る。
あとは一路あるのみだ。
機首を下げ、目標へ向かって突入するだけだ。
狙いをあやまたずに。
そして、
勇気とは、
ただ、
見ることだ
見ることだ
見ることだ

一瞬も目をつぶらずに。
恐ろしい加速度で風を切る翼は、
かがやく鉄の青空を切り裂くような音を立てる。
空母はいっせいに防禦砲火を炸裂させ、
砲煙に包まれ、
寸前まであきらかに見えていたあの学校の放課後の運動場のような、
のどかな上甲板の一枚の板はおぼろに霞む。
しかしそれはひろがることを決して止めない。
一瞬一瞬、はじめ小さなビスケットの大きさであったものが、
皿になり、
盆になり、
俎板になり、
・・・・ほとんど戯れているかのように、ひろがることを決してやめずに、
・・・・テニスコートになり、
放課後の運動場になり、
そうして砲煙に包まれたのだ。
砲煙のなかに、黄いろい牡丹のように砲火が花咲く。
砲煙が薄れる。
空母は正しく、空母以外の何ものでもない空母の実体になる。

見ることだ。
眥を決して、ただ見ることだ。
空母のリフト。
あそこまでもうすぐ達する。
全身は逆様に、機体しわが身は一体になり、耳はみみしい。
痛みもなく、白光に包まれてひたすら遠ざかろうとする意識、
その顫動する白銀の線を、みること一つに引きしぼり、
明晰さのために全力を賭け、
見て、
見て、
見て、
見破るのだ。
空母のリフトは何と遠いことか。
そこまですぐに達する筈の、この加速度は何とのろいことか。

わが生の最後のはての持時間には、
砂金のように重い微粒子が詰まっている。
銃弾が胸を貫き、
血は肩を越えて後方へ飛び去った。
衝撃だけが感じられ、痛みはない。
しかしこの衝撃の感じこそは意識の根拠であり、
今見ているものは決して幻ではないことの確証だ。
そのリフトに人影が見える。
あれが敵だ。
敵は逃げまどう。
大手をひろげて迎える筈の死の姿はどこにもない。
確実にあるのはリフトだけだ。
それは存在する。
それは 見える のだ。

・・・・そして命中の瞬間を、
ついに意識は知ることがなかった。




三島由紀夫 英霊の聲

 

 

 

 

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佐々木二郎大尉の八月十五日

2015年08月15日 14時02分30秒 | 9 昭和の聖代


広島に原爆が投下された。
冷酷無惨なこの兵器の使用に心からの憤りを覚えた。
続いて長崎にも投下、
ソ連の条約を無視しての参戦、
状況は悉く非で最悪の状態となった。
師団では特攻機の準備演習が行われ、私も見学にいった。
演習のやり方は、飛行場からだいぶ離れた林のなかで整備をし、夜間翼を畳んで道路上を飛行場に運搬、
最後の整備点検を終って、黎明れいめい飛び立って敵艦船に体当りするという計画である。
終夜の整備演習が終り、朝、講評を待っていると、「 至急帰隊して待機せよ 」 といわれ、講評もなく帰隊した。
後で思うと、ポツダム宣言受諾決定の日で、動揺を慮ってのことであった。
八月十四日、私は法華経を読み、その従地湧出品第十五の大地震裂して菩薩出現のところが強烈に頭に泌みた。
大都会に対するジュウタン爆撃、その地帯に住む人をことごとく殺そうとする原爆投下、
米国のやり方は畜生道である。
ソ連参戦は条約無視の無頼のやり方である。
われわれは勝った。
人間として勝った。
たとえ戦いには敗れても人間として勝った。
原爆にて大地震裂したのだ。
血湧の菩薩とは草沢に住む名もなき民のことだ。
押し迫る決戦に牢固たる決意を持つよう、明日、兵に話そうと考えを練った。
副官小川兵二中尉は下士官出身で、志操を堅持する気骨ある人物である。
後記するが如く敗戦に伴う混乱のなかで、私は法令規則を超えて、
かくすることが日本および日本人に有利と判断したことをドンドン断行し、
それがために自由に飛び歩いた。
かくのごとき行動がとれたのも、隊務経験の深くかつ一本差している小川副官が、
留守を守ってくれるという信頼があったからだ。

運命の八月十五日が来た。
副官に本部全員の集合を命じた。
小川副官は正午に重大放送がある旨を告げたので、ではその後で皆に話そうと答えた。
重大な放送とは、多分陛下が決意をお示しになるものと思い、その後で私の考えをいうつもりであった。
正午少し前、全員は校庭に集合した。
放送が始まった。
リンク→敗戦の日
よく聞きとれなかったが、ポツダム宣言受諾ということはわかった。
脳天に大鉄槌を喰ったようであった。
しばらく呆然としたが、やがて涙が流れて止まらない。
あちらこちら兵の間から啜り泣きが起きた。
私は泣き濡れたまま兵に対し何かいった。
そして自室に帰り一人で泣いた。
机の上に頬杖ついて、涙に曇る瞼のなかに、血汐を流しながら這って前進する石原の姿、
孫を抱いた老母の顔が浮ぶ。
李家巷の山々が浮ぶ、何か叫ぶ真隅中尉、坂田軍曹の顔が浮ぶ。
何事かを訴えるような顔、顔、顔が浮ぶ。
とめどもなく涙は流れ泣けるだけ泣いた。
シーンと静まりかえっている----この静寂は二・二六の銃殺前のそれと同じようであった----
この静寂を破って流れるような蝉の鳴声が聞えて来た。
泣けるだけ泣くと、不思議に落ちつきが出て来た。
「 大命は謹んで承る 」
「 問題の最後の一点は陛下である。
米軍が万一手を触れるようなことをすれば一撃を加えよう 」
と 決意した。
具体的にどうなるかを考え始めた。
一番最初に上司から来た命令は、 「 書類を焼け 」 であった。
この後にいろいろの書類提出を要求して来たが、肝心の書類焼却後とて いかんともし難い。
このことは他部隊でも同様であって、後に団隊長会議に出席した際、部隊間の話題にもなり、
上司に対する不信を植えつけた大きな原因の一つであった。
《 国体護持の為に 》
軍の一部に混乱動揺が起きた。
宮城と外部との通信を遮断して近衛師団長を殺害する。
首相官邸の焼打ち、上野公園の占拠、比島に行く代表団の乗機を襲撃するといきまく者、
太平洋の防波堤となると叫んで海洋に突入する者、
死して国土を護るといって飛行場に向けて自爆する者 等々、
若き青年の血汐が奔騰する。
ある将校の兄の家に少年航空兵の写真を飾ってあるのを見た。
「 兄は終戦直前に戦死したと思っていますが、
実は直後に、少年航空兵同志が編隊を組んで敵艦隊に突入し、
戦果確認に行った偵察機も、結果を飛行場に打電して 自らも突入、
それを基地で受信した通信兵も自決したのです。
甥もその組の一人です 」
と その将校は語った。
そのような状況の二十日、お茶の水の日仏会館に大岸頼好を訪ねた。
ここは陸軍省の軍事課の分室か何かで、時刻は夕方近くであったと思う。
若い将校連が幕僚の不謹慎な言動を怒りを籠めて語っていた。
帰って来た大岸と対座した。
「 佐々木君、使いの者と会いましたか 」
「 否 」
「 至急貴方と話したいことがあって、学生を使いにやったのです 」
「 ----」
「 貴方は日本の国体をどう思いますか 」
「 ----」
「 万世一系が尊いのですか、天皇が尊いのですか、皇室が尊いのですか 」
真剣な面持ちで大岸は質問を発して来た。
「 今の陛下が大切です 」
と 答えると、彼は私の手を握り、
「 ホントにそう思いますか、実は一部の者が明早宮城を攻撃して陛下を迎え、
抗戦を続けんと謀っているようです。
私は今、首相の宮に、国体護持には方策と自信ありと放送し、国民、特に強硬分子を慰撫する。
聞かないときはお討ちなされといって来た。
最悪の場合、幸い近衛に同志が一名いる。
戦車にて陛下に宮城を脱出していただき、貴方の隊にお伴いしたい。一緒に死のう 」
これは重大問題だ。
承諾必謹が具体的になったのだ。
軍人の習性で直ちに私は決心した。
「 承知しました。道案内に野田中尉を残します 」
大岸は時計を見て、
「 放送が始まります 」
といって、傍らのラジオのスイッチを入れた。
これが首相の
「 臣稔彦不敏なりといえども国体護持については・・・・」
の 放送であった。
野田耕造中尉に注意を与えて大岸の許に残し、急いで帰隊した。
( 東久邇日記には、大岸や明石少佐を、この反乱計画の首謀者と見ているように書かれている )
帰隊してみると学生が一人、私を待っていた。
大岸の話した使いの者であった。
私はそのまま部隊に泊り、信頼する中隊長小川要中尉にも隊に宿泊を命じた。
その夜は万一の場合に備えて
御座所、側近の宿所警戒配備、所要兵力、武器弾薬、食料、燃料等の調査研究で眠れなかった。
しかし 今度は天皇がわが方だという絶対の強味を胸中に抱いた。
幸い事は起らずに済んだが、忘れ難い思い出となった。

和服で腰に一本打ち込み、草履ばきで来た下士官があった。
たしか横浜からだと憶えている。
私の隊は補充隊のようなもので、戦地から帰って来た者の籍があるのだ。
「 部隊長殿、任務を与えて下さい。女房子供は処分して来ました 」
驚いて私が、「 どう処分したのか 」 と 聞くと、
「 栃木の田舎にやりました 」
「 アアそうか、それならよい、まあ一、二日休んでからだ 」
落ちついてから帰宅させた。
忠臣蔵の不破数右衛門を思わするが如き愉快な男であった。
「 部隊長殿、死に場所を与えて下さい 」
これは陸士出の若い大尉。
胸の病で自宅療養中、国家の一大事とばかり駆けつけた。
顔色がよくない。
軍医に診断させ、将校集会所で休ませた。
数日経って帰郷するとき
「 部隊長殿、お仕事が済んだら、田舎の私の家に来て下さい。まだまだ食料はありますから 」
といった。
気質の優しい将校であったが、その後どうしているやら?
士官候補生数名が訪ねて来て
「 蹶起して下さい。われわれも頑張ります 」
と、区隊長か誰かの姓名をいって誘いに来た。
おれの方は心配するなといって返した。
二・二六事件の青年将校は今どうしているのか、蹶起せよという文句のある檄文が町に貼られた。
二十日、大岸を訪ねて行く途中、
京成電車の御茶屋の踏切のところで、馬車挽きが、ボロボロと涙を流しながら天に向って、
「 馬鹿野郎 」
と 怒鳴って行くのを見たが、素直な日本人の心情を吐露しているように思った。

八月二十三日、天皇に対し再び武装せる軍隊が敬礼することはあるまい、
最後のお暇乞いをしようと思い、各中隊より各階級の代表を十台のトラックに乗せ東京に向った。
二重橋前に到り隊形を整え、嚠喨たるラッパの吹奏とともに 「 捧げ銃 」 の敬礼をした。
かつて午前を歩武堂々と行進した幾万幾十万の帝国軍隊も崩壊してゆき、
これが最後の部隊の敬礼かと思うと涙がこぼれた。
敬礼を終って自動車の位置に来ると、
「 もしもし 」 と 憲兵に呼び止められた。
「 御存知の方ではありませんか 」 といいながら、ちかくの松原に連れて行かれた。
見ると十一名の壮絶な集団自決である。
陸海軍各一名、他は民間人で婦人が一人いる。
その陸軍少佐を見たが知らぬ人であった。
「 仁愛ナル陛下 冀こいねがわクハ 国民一億ヲシテ再ビ国体護持ノ征戦ニ立タシメ給ヘ 」
の 遺書を残した日比和一を中心とする明朗会の人々であった。
その見事な最期に心から合掌して冥福を祈った。

部隊を先任者に引率を命じて帰隊させ、お茶の水に大岸を訪ねた。
彼は学生を使って米軍の動きを無線傍受して探査していた。
そして 「 万一のときは新門辰五郎だ 」 といった。
それは私もかねてから考えていたので同意した。
若い連中が蚊帳もなく夜も働いているので、蚊帳と煙草と、万一の場合を考えてトラック一台と燃料を渡した。
若い連中が大いに喜んだ。
後に田村重見中尉が、大岸からといって被服をもらいに来た。
新門辰五郎と思い被服と食料を渡した。
新門辰五郎も動かずに済んだ。

佐々木二郎 著
一革新将校の半生と磯部浅一
から

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戦陣訓 「是戦陣訓の本旨とする所なり」

2015年07月31日 17時57分54秒 | 9 昭和の聖代

戰陣訓

夫れ戰陣は、大命に基き、皇軍の神髄を發揮し、攻むれば必ず取り、戰へば必ず勝ち、
遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊嚴を感銘せしむる処なり。
されば戰陣に臨む者は、深く皇國の使命を體し、堅く皇軍の道義を持し、
皇國の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。

惟ふに軍人精神の根本義は、畏くも軍人に賜はりたる勅諭に炳乎として明かなり。
而して戰闘並に訓練等に關し準拠すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。
然るに戰陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象に捉はれて大本を逸し、
時に其の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。
深く愼まざるべけんや。
乃ち既往の經驗に鑑み、常に戰陣に於て勅諭を仰ぎて之が服行の完璧を期せむが爲、
具體的行動の憑拠を示し、以て皇軍道義の昂掲を圖らんとす。

是戰陣訓の本旨とする所なり。
本訓其の一
第一 皇國
大日本は皇國なり。
萬世一系の天皇上に在しまし、肇國の皇謨を紹繼して無窮に君臨し給ふ。
皇恩萬民に遍く、聖徳八紘に光被す。
臣民亦忠孝勇武祖孫相承け、皇國の道義を宣揚して天業を翼賛し奉り、君民一體以て克く國運の隆昌を致せり。

戰陣の將兵、宜しく我が國體の本義を體得し、牢固不抜の信念を堅持し、
誓って皇國守護の大任を完遂せんことを期すべし。

第二 皇軍
軍は天皇統帥の下、神武の精神を體現し、以て皇國の威徳を顯揚し皇運の扶翼に任ず。
常に大御心を奉じ、正にして武、武にして仁、克く世界の大和を現ずるもの是神武の精神なり。
武は嚴なるべし仁は遍きを要す。
苟も皇軍に抗する敵あらば、烈々たる武威を振ひ斷乎之を撃砕すべし。
仮令峻嚴の威克く敵を屈服せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くるあらば、
未だ以て全しとは言ひ難し。
武は驕らず仁は飾らず、自ら溢るるを以て尊しとなす。
皇軍の本領は恩威並び行はれ、遍く御稜威を仰がしむるに在り。

第三 軍紀
皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元師陛下に対し奉る絶對髄順の崇高なる精神に存す。
上下齊しく統帥の尊嚴なる所以を感銘し、上は大權の承行を謹嚴にし、下は謹んで服從の至誠を致すべし。
盡忠の赤誠相結び、脈絡一貫、全軍一令の下に寸毫亂るゝなきは、
是戰勝必須の要件にして、又實に治安確保の要道たり。
特に戰陣は、服従の精神實践の極致を發揮すべき処とす。
死生困苦の間に処し、命令一下欣然として死地に投じ、
黙々として献身服行の實を擧ぐるもの、實に我が軍人精神の精華なり。

第四 團結
軍は、畏くも大元師陛下を頭首と仰ぎ奉る。
渥き聖慮を體し、忠誠の至情に和し、擧軍一心一體の實を致さざるべからず。

軍隊は統率の本義に則り、隊長を核心とし、掌固にして而も和気藹々たる團結を固成すべし。
上下各々其の分を嚴守し、常に隊長の意圖に從ひ、誠心を他の腹中に置き、生死利害を超越して、
全體の爲己を没するの覺悟なかるべからず。

第五 協同
諸兵心を一にし、己の任務に邁進すると共に、全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし。
各隊は互に其の任務を重んじ、名誉を尊び、相信じ相援け、自ら進んで苦難に就き、
戮力協心相携へて目的達成の為力闘せざるべからず。

第六 攻撃精神
凡そ戦闘は勇猛、常に果敢精神を以て一貫すべし。
攻撃に方りては果断積極機先を制し、剛毅不屈、敵を粉砕せずんば已まざるべし。
防禦又克く攻勢の鋭気を包蔵し、必ず主動の地位を確保せよ。
陣地は死すとも敵に委すること勿れ。
追撃は断乎として飽く迄も徹底的なるべし。

勇往邁進百事懼れず、沈着大胆難局に処し、堅忍不抜困苦に克ち、
有ゆる障碍を突破して一意勝利の獲得に邁進すべし。

第七 必勝の信念
信は力なり。自ら信じ毅然として戦ふ者常に克く勝者たり。
必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。
須く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。

勝敗は皇国の隆替に関す。
光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず。
本訓其の二
第一 敬神
神霊上に在りて照覧し給ふ心を正し身を修め篤く敢神の誠を捧げ、
常に忠孝を心に念じ、仰いで神明の加護に恥ぢさるべし。

第二 孝道
忠孝一本は我が国道義の精彩にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子なり。
戦陣深く父母の志を体し、克く尽忠の大義に徹し、以て祖先の遺風を顕彰せんことを期すべし。
第三 敬礼挙措
敬礼は至純なる服従心の発露にして、又上下一致の表現なり。
戦陣の間特に厳正なる敬礼を行はざるべからず。

礼節の精神内に充溢し、挙措謹厳にして端正なるは強き武人たるの証左なり。
第四 戦友道
戦友の道義は、大義の下死生相結び、互に信頼の至情を致し、常に切磋琢磨し、
緩急相救ひ、非違相戒めて、倶に軍人の本分を完うするに在り。

第五 率先躬行
幹部は熱誠以て百行の範たるべし。上正しからざれば下必ず乱る。
戦陣は実行を尚ぶ。躬を以て衆に先んじ毅然として行ふべし。
第六 責任 
任務は神聖なり。責任は極めて重し。
一業一務忽せにせず、心魂を傾注して一切の手段を早くし、之が達成に遺憾なきを期すべし。

第七 死生観
死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。
身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。

第八 名を惜しむ
恥を知るもの強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。
第九 質実剛健
質実以て陣中の起居を律し、剛健なる士風を作興し、旺盛なる志気を振起すべし。
陣中の生活は簡素ならざるべからず。不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし。
奢侈は勇猛の精神を蝕むものなり。

第十 清廉潔白
清廉潔白は、武人気節の由って立つ所なり。
己に克つこと能はずして物欲に捉はるる者、争でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。

身を持するに冷厳なれ。事に処するに公正なれ。行ひて俯仰天地に愧ぢさるべし。
本訓其の三
第一 戦陣の戒
一    一瞬の油断、不測の大事を生ず。
       常に備へ厳に警めざるべからず。
敵及住民を軽侮するを止めよ。
       小成に安んじて労を厭ふこと勿れ。不注意も亦災禍の因と知るべし。

二    軍機を守るに細心なれ。謀者は常に身辺に在り。
三    哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ、一隊の軍紀を代表す。
        宜しく身を以て其の重きに任じ、厳粛に之を服行すべし。
哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。
四    思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。
        皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧するのみならず、進んで皇道の宣布に勉むべし。

五    流言蜚語は信念の弱きに生ず。惑ふこと勿れ、動ずること勿れ。
皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼すべし。

六    敵産、敵資の保護に留意するを要す。
        徴発、押収、物資の燼滅等は総て規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。

七    皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無事の住民を愛護すべし。
八    戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は欲情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、
奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。

九    怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。
        軍法の峻厳なるは時に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。
        常に出征当時の決意と感激とを想起し、遥かに思を父母妻子の真情に馳せ、仮初にも身を罪科に曝すこと勿れ。
第二 戦陣の嗜

一    尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の練磨に勉むべし。「毎時退屈する勿れ」とは古き武将の言葉にも見えたり。
二    後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて死後を清くするの嗜を肝要とす。
        屍を戦野に曝すは固より軍人の覚悟なり。
        縦ひ遺骨の遅らざることあるも、敢て意とせぎる様予て家人に含め置くべし。

三    戦陣病魔に倒るるは遺憾の極なり。
        時に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。

四    刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し馬匹を愛護せよ。
五    陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。
     「立つ鳥跡を濁さず」と言へり。雄々しく床しき皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられたきものなり。

 総じて武勲を誇らず、功を人に譲るは武人の高風とする所なり。
       他の栄達を嫉まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。
七    諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ。
八    常に大国民たるの襟度を持し、正を践み義を貫きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。国際の儀礼亦軽んずべからず。
 万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具に思を護国の英霊に致し、
       言行を悼みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。

以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。
されば之を戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざるべからず。
戦陣の将兵、須く此の趣旨を体し、愈々奉公の至誠を擢んで、
克く軍人の本分を完うして、皇恩の渥きに答え奉れべし。
(陸軍省 昭和16年1月8日)

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現御神 アキツミカミ・・・神と同一の心境、純粋無私の精神で君臨す

2015年01月22日 06時30分53秒 | 9 昭和の聖代

神国の中核となっているのが現人信仰である。
日本民族の祖先神のうち、
もっとも重要視され、
信仰の中心になっているのが、天照大御神。
これは 古代における太陽信仰と
偉大な祖先神と 合体した人格神であるが、
この太陽信仰こそ
農耕民族である日本人の民族性の核心を成すものである。

この太陽神と祖先神の合体した人格者である天照大御神の、
直系の子孫が天皇であるというのが現人神信仰なのである。
天皇を現人神または現御神 アキツミカミ と称するのは、
天皇が神であるという意味でなく、
天照大御神と
それにつづく祖先神の神霊を体現して国民に臨む、
つまり神と同一の心境、
純粋無私の精神で君臨するという意味である。

皇太子が新たに天皇の位をうけつがれることを践祚 センソ と称し、
その実を内外に広く告げ、祖宗の神霊に奉告される儀式を即位の礼という。
この即位の礼で一番大切で神秘的な儀式が大嘗祭 オオニエマツリ である。
これは即位の礼を行われた後、
天皇が天照大御神をはじめ祖先神、天神地祗に新説を供えられ、
自らも諸神とともに食事をなさる儀式で、
これによって天照大御神をはじめ祖宗の神霊を一身に体し、
国民の生活を充ち足らしめる意味をもつ、儀式なのである。
この大嘗祭オオニエマツリを簡素化して、
毎年の秋とり行われるのが新嘗祭ニイナメサイで、
敗戦後は勤労感謝の日として伝統的な意味をなくしてしまったが、
十一月二十三日がその新嘗祭の由緒ある日なのである。

このように
天皇は
自ら生身の人間であるが、
祖宗の神霊を体して
国民の安寧幸福を祈る
という天職を 代々うけつがれ、
国民は
その純粋無私の絶対境を
現人神と仰いで
崇敬してきたのである。
これが
現人神信仰が古代から今日までつづいてきた原因である。

二・二六事件 青春群像 須山幸雄 著から

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亡き戦友の声

2015年01月08日 10時26分43秒 | 9 昭和の聖代


歴日は思い出せないが
戦後はじめて宮中参賀が許されたので、千葉県のいなか町の野田からさっそく上京した。
久し振りに見る宮城前の広場、明朗会の壮烈な集団自決はあそこだった、
武装せる軍隊として最後のお別れの敬礼をしたのはこの附近だったなあと、
懐旧の情に浸りながら 多くの人々のなかに混じって二重橋を渡った。
記帳して広場の後ろの堤防に近いところで陛下のお出ましを待っていると、
近くでキャーキャーと嬌声をあげながら、白黒の米兵とふざけている二人の女性がいる。
見るに耐えなぬ状況に今まで数回会ったことだし、
こんな風景はいなかの街頭でもよく見かけることなんて
なんら異とするにたらないが、時と場所柄をわきまえぬかと苦々しく思った。
やがて陛下がお出ましになり 期せずして万才の声が起こった。
陛下は手を挙げてお答えになる。
「 あら、天ちゃんが手を振っている 」
複雑な感情をこめた声が聞こえた。
見るとすぐ近くに、先刻までふざけていた女が悲しいような、懐かしいような表情で、
目に涙をためてジッと陛下を見つめている。
ハッと閃くものを感じた----遺族だと。
私は戦死した人々の顔が浮び、声が聞こえるように思った。
「 陛下、何百万という多くの人が死にましたが、誰一人東条英機のために死んだのではありません。
その多くは、その日の糧にも困る名もなき民です。これをお忘れ下さいますな 」
と、私は心の中で叫んだ。
君が代が起こった。
私も唱い出した。
目は涙に曇って陛下のお姿は霞んで遥か彼方に拝する。
何かポツンと私一人でいるように覚えた。
万才の声でわれに返って横を見ると、二人の女が涙を流しながら何かつぶやいている。
「 大丈夫だ。日本はまだ大丈夫だ。必ず再興するよ 」
と、戦死せる人々に向って私は叫んだ。
この日に、日本は必ず復興するという自信を深めた。
昭和二十三年 ( 1948年1月8日) 戦後最初の一般参賀
佐々木二郎 著
一革新将校の半生と磯部浅一
から

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伝承する、と 謂うこと

2014年11月26日 16時56分44秒 | 9 昭和の聖代



太平洋の波の上  
昇る朝日に照り映えて
天そそり立つ富士ケ峰の  
永久に揺がぬ大八洲
君の御楯とえらばれて  
集まり学ぶ身の幸よ
・・・陸軍士官学校校歌

陸軍士官学校
明治以後
ここで
武士 が 創られ
ここで
武士道 が 伝承された

日本の伝統は、昭和20年8月15日まで、継いたのである
・・つい、このあいだの
祖父の時代のことである

自尊  責任  自己犠牲
武士道の根幹精神である

武士道と云うものは、
自尊心(セルフ・リスペクト)、自己犠牲
(セルフ・サクリファイス)と、
そして、もうひとつ 自己責任(セルフ・レスポンシビリティ)、
この三つが結びついたものである
若し、自尊心と自己責任だけの結合とならば、
下手をすると、ナチスに使われたアウシュビッツの収容所長の様になるかもしれない
何故なら、彼としても自尊の念を持っていたであらう
己が職務に対する責任を持っていたであらう
しかしながら、上層部の命令するとおり四十万のユダヤ人を焚殺したではないか
日本の武士道の尊いところは、
それに自己犠牲というものがつくことである
この自己犠牲というものがあるからこそ武士道なので、
身を殺して仁となす というのが、武士道の大なる特長である
そして、この三つが相俟った時に、武士道というものが成立する
侵略主義とか軍国主義というものは、武士道とは始めから無縁なのである
武士道は、
自尊心をもった人間が、自分の行動について最終的な責任を持ち、
そして、しかもその責任を持つ場合には、自己を犠牲にすること、
一命を鴻毛の軽きに比するという気持ちが、武士道の権化で、
これがないときには、武士道とは謂えない
・・・三島由紀夫



乃木希典
幼年期、大人達から聞かされた
日露戦争の英雄、「乃木将軍」
先達は、吾々に
「乃木」 を 伝承したのである
大正元年(1912年) 明治天皇の大喪の日
妻静子とともに殉死したこと
今、
日本人の潜在意識の中ですら
消え去ろうとしている

リンク→偉い人 日露戦争・乃木大将
  乃木大将

Photo

 

 

 

 

 

 

 

 



戦艦長戸
日本人の創意である
これを、如何、伝承すべくか
それとも
歴史として意識するのは、私だけなのであらうか
 リンク→日本人の創意

時代は進化する
「自分は日本人である」 と 謂う意識
伝承すべくも、時代が、そうさせないのである
・・過ぎ去りしものになる
時代の進化 と謂う事は、こういうことなのであらうか
過ぎ去りしもの ・・ 
伝承しなければ
歴史に成らない

後顧を憂う

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