かなり・・・遅ればせながら、
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくおねがいいたします。
しばらく更新をしていなかったので、なんだかずいぶん戸惑っています。
この「道」のお題。
気づいたらなにかするどい道ばかり選んでいました。
この道はなんなのだろう。(迷子)
<振り返り>
36~39で行った春夏秋冬を詠みこむ試みは、半ば遊び半分。
40から、また気持ちの仕切りなおしをして再スタート。
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくおねがいいたします。
しばらく更新をしていなかったので、なんだかずいぶん戸惑っています。
この「道」のお題。
気づいたらなにかするどい道ばかり選んでいました。
この道はなんなのだろう。(迷子)
憎しみも愛もよく似たものだからこの感情の道なりにゆく 五十嵐きよみ 捨ててしまえぬほどの憎しみは、愛がゆえに生み出されることも多い。 愛ゆえの憎しみ。憎しみというかたちを成す愛。 とてもパワーのいるその感情は、自分自身がもてあましてしまうほど暴力的。 その感情の濃さを見ると、愛も憎しみも本質は同じもので、ただ色を変えただけのものではないだろうか。と思ってしまう。 この作品のその濃密な感情の色は、憎しみの色をしているように思います。 「憎しみも愛もよく似たものだから」というのは、真理でありながらも、まるで正当化するように、自分に言い聞かせているかのようにも見えるのです。 抑えることを放棄したのか、それとも、覚悟を決めたのか。 諦めにしろ、覚悟にしろ、どっしりと重い想いがにじみ出ています。 その濃密な感情を道なりに行けば、いったいなにが見えるのだろう。 いったいどこへ辿り着くのだろう。 |
歩道橋から手をふるね(よく見えるようにねじれの位置にいさせて) 西宮えり ねじれの位置。 ねじれの位置(ねじれのいち)とは、空間内の2本の直線が平行でなく、かつ、交わっていないとき、つまり同一平面に乗れないときの、2直線の位置関係のことである。これは、例えば立体交差に見られる。 ウィキペディア(Wikipedia)より。 歩道橋から手をふる作中主体。 おそらく相手は、歩道橋の下を通る道の上にいるのでしょう。 お互いの顔がよく見えるねじれの位置。 けれど、決して交わることのないねじれの位置。 作中主体は、交わるつもりはないようです。 歩道橋から降りて駆けていくこともなく、さらりと笑顔で手をふるだけ。 けれども、見守っていられる位置で。 私はこの感覚がすごくわかる気がします。 近づきすぎてしまうと、見えなくなるものって、ある気がするので。 (近づかないと見えないこともあるけれど) でもそれは、見たくないってことじゃなくて。 私は、もっと見たいのだ。 |
この道をまっすぐ行くと夏空に繋がってそう 右折しなさい 佐原みつる 時々、こんな感じの坂道がありますね。 とても急な坂道で、その坂の下から見ると道の先がぷっつり切れてて、空に繋がってる。 そんな坂道を想像しました。夏空に繋がってそうな道。 けれど、この作品では、その夏空に繋がってそうな道を「右折しなさい」と、逸らしてしまう。 その命令口調が有無を言わせない。 ある種、強さのような、芯のあるものを感じさせます。 夏空へと思いを馳せながら、それを逸らし、地を走る。 ふわふわっとした気持ちが、そこで一気に冷静にさせるような。 その対比がくっきりと心に残ります。 |
ずり落ちたズボンが道に音たてていっせいに世界から狙われる 我妻俊樹 視覚的にバババっと浮かんで、えぇ!?これなんなの!?と思わせられました。 理屈など抜きで、目が離せなくなるような。 一瞬の映画みたいに感じました。 この作者さんはその一瞬を切り取る映画監督のような存在。 魅させる力を持った人なのだな。と思いました。 |
向日葵の声なき叫び、道という道を遮り続く骸の ひぐらしひなつ 枯れた向日葵の延々と続く道を思い浮かべました。 枯れた向日葵は、骸と呼ばれるにふさわしく、茶色にやせこけ、頭を垂れています。 あれだけ太陽のように誇らしげに咲く花だからこそ、その後の姿は息をのむものがあります。 その姿が延々と続く道は、声なき叫びも聞こえるのかもしれません。 とても静かな夏の終わりのなかに。 |
<振り返り>
36~39で行った春夏秋冬を詠みこむ試みは、半ば遊び半分。
40から、また気持ちの仕切りなおしをして再スタート。