花夢

うたうつぶやく

040:道のうた

2007年01月14日 | 題詠2006感想
かなり・・・遅ればせながら、
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくおねがいいたします。

しばらく更新をしていなかったので、なんだかずいぶん戸惑っています。

この「道」のお題。
気づいたらなにかするどい道ばかり選んでいました。
この道はなんなのだろう。(迷子)


憎しみも愛もよく似たものだからこの感情の道なりにゆく
五十嵐きよみ

捨ててしまえぬほどの憎しみは、愛がゆえに生み出されることも多い。
愛ゆえの憎しみ。憎しみというかたちを成す愛。
とてもパワーのいるその感情は、自分自身がもてあましてしまうほど暴力的。
その感情の濃さを見ると、愛も憎しみも本質は同じもので、ただ色を変えただけのものではないだろうか。と思ってしまう。

この作品のその濃密な感情の色は、憎しみの色をしているように思います。
「憎しみも愛もよく似たものだから」というのは、真理でありながらも、まるで正当化するように、自分に言い聞かせているかのようにも見えるのです。
抑えることを放棄したのか、それとも、覚悟を決めたのか。
諦めにしろ、覚悟にしろ、どっしりと重い想いがにじみ出ています。

その濃密な感情を道なりに行けば、いったいなにが見えるのだろう。
いったいどこへ辿り着くのだろう。



歩道橋から手をふるね(よく見えるようにねじれの位置にいさせて)
西宮えり

ねじれの位置。
ねじれの位置(ねじれのいち)とは、空間内の2本の直線が平行でなく、かつ、交わっていないとき、つまり同一平面に乗れないときの、2直線の位置関係のことである。これは、例えば立体交差に見られる。
ウィキペディア(Wikipedia)より。

歩道橋から手をふる作中主体。
おそらく相手は、歩道橋の下を通る道の上にいるのでしょう。
お互いの顔がよく見えるねじれの位置。
けれど、決して交わることのないねじれの位置。

作中主体は、交わるつもりはないようです。
歩道橋から降りて駆けていくこともなく、さらりと笑顔で手をふるだけ。
けれども、見守っていられる位置で。

私はこの感覚がすごくわかる気がします。
近づきすぎてしまうと、見えなくなるものって、ある気がするので。
(近づかないと見えないこともあるけれど)

でもそれは、見たくないってことじゃなくて。
私は、もっと見たいのだ。



この道をまっすぐ行くと夏空に繋がってそう 右折しなさい
佐原みつる

時々、こんな感じの坂道がありますね。
とても急な坂道で、その坂の下から見ると道の先がぷっつり切れてて、空に繋がってる。
そんな坂道を想像しました。夏空に繋がってそうな道。

けれど、この作品では、その夏空に繋がってそうな道を「右折しなさい」と、逸らしてしまう。
その命令口調が有無を言わせない。
ある種、強さのような、芯のあるものを感じさせます。

夏空へと思いを馳せながら、それを逸らし、地を走る。
ふわふわっとした気持ちが、そこで一気に冷静にさせるような。
その対比がくっきりと心に残ります。



ずり落ちたズボンが道に音たてていっせいに世界から狙われる
我妻俊樹

視覚的にバババっと浮かんで、えぇ!?これなんなの!?と思わせられました。
理屈など抜きで、目が離せなくなるような。

一瞬の映画みたいに感じました。
この作者さんはその一瞬を切り取る映画監督のような存在。
魅させる力を持った人なのだな。と思いました。



向日葵の声なき叫び、道という道を遮り続く骸の
ひぐらしひなつ

枯れた向日葵の延々と続く道を思い浮かべました。
枯れた向日葵は、骸と呼ばれるにふさわしく、茶色にやせこけ、頭を垂れています。
あれだけ太陽のように誇らしげに咲く花だからこそ、その後の姿は息をのむものがあります。
その姿が延々と続く道は、声なき叫びも聞こえるのかもしれません。
とても静かな夏の終わりのなかに。



<振り返り>
36~39で行った春夏秋冬を詠みこむ試みは、半ば遊び半分。
40から、また気持ちの仕切りなおしをして再スタート。