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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

演劇「再びこの地を踏まず」(文学座)

2019-09-17 17:37:28 | その他
 今日は演劇鑑賞の日である。「再びこの地を踏まず 異説野口英世物語」。

 小学生の頃、伝記物をたくさん読んだ。小学校の図書室には、ずらりと伝記が並んでいた。私は片っ端からそれらを読んでいった。そのなかに野口英世もあった。もちろん偉人としての野口英世である。

 しかしこの劇の前半は、野口英世はひたすら勉学に励みながら、その一方で放蕩を繰り返し、浪費し、借金しまくるという姿が描かれていた。小学生の時に読んだ伝記には、そんなことは一行も書かれていなかった。何ということだ。前半、私の野口英世認識は音を立てて崩れていった。

 その放蕩ぶりが演じられる中で、歯科医師の血脇守之助が、放蕩をくり返す英世に、人間は誰もが誰かの世話になる、世話された人が後に誰かの世話をするようになる、というようなことを語っていた。

 後半は、その姿が描かれていく。病や伝染病に苦しむ人びとのために、ひたすら研究に勤しむ姿がステージの上で繰り広げられる。

 英世の学業への打ち込み、また研究に対する頑張りの背後に、母親の姿が浮かび上がる。文字のない世界に生きてきた母は、息子に手紙を書きたいがために字を覚える。しかし息子を束縛しようとはしない。しないが故に、余計に英世の心の中には、いつも母親がいた、そんな気がする。

 台詞のいくつかが、みずからに関わる人びとのことを考えさせた。英世と結婚したメリーの、英世がもし亡くなってしまったら・・・を語る場面は、ぐっときた。

 劇中、血脇と激しくケンカした弁護士の小川平吉。この名を私は知っている。彼は悪人である。弁護士ではあるが衆議院議員となり、1925年には司法大臣となる。1925年は、治安維持法が制定された年であり、彼はその成立に尽力した国粋主義者である。当時の議事録を読むと、彼の国粋ぶりが如実に示されている。血脇は、もっと激しく彼をやっつけるべきであった。

 文学座は、やはりうまい。「異説」としながら、野口英世の「偉人」ぶりを浮き彫りにしていく。年齢を重ねるということは、人間的に成長するということでもある。

 ついでに記しておけば、残念ながら、日本の政界には、年齢を重ねるほど「悪」の度合いが強くなる者が多い。

 演劇鑑賞の人口が減っているそうだ。惜しいことだ。

 来年の上演作品に、加藤健一事務所のものがあった。これだけは見たくもない。毒にも薬にもならない劇であろう、いつもそうであるから。


 

 

人権問題としての「慰安婦」

2019-09-13 11:09:02 | 政治
 思い込みの激しい人びとの下劣な攻撃によって、「慰安婦」問題は、あたかもなかったかのようになっているが、しかし事実として日本軍「慰安婦」は存在し、多くの女性の人権を奪った。

 この記事は必読。

「安倍謝罪するまで死ねない」最後の西洋人慰安婦

 なお、このオハーンさんのことは、最新の『週刊金曜日』にも記されている。

新内閣

2019-09-12 20:20:57 | 政治
 新内閣が発足したようだ。私はまったく関心がない。安倍政権であるから、良いことは一切しない政権である。誰が大臣になろうと、悪は悪である。

 しかしなぜメディアは、小泉進次郎を過剰に報じているのだろうか。日本のメディアは、もう死に体である。何の期待もしていない。『東京新聞』とて、相対的によい、というだけだ。カネを払ってネットで『朝日新聞』を読んでいるが、政治的な記事には関心がない。

 私は、虚偽やデマが勢いを増しているこの時代、ひたすら事実を語るしかない、と思っている。あまりに人は事実を知らない。思い込みで生きている人が多く、また「空気」(私はこれを「時流」と呼んでいるが)に流される。

 『朝日』の記事に、高知県の小さな製紙会社が製造するトイレットペーパーの売れゆきが大幅に伸びている、というものがあった。テレビのバラエティ番組でそれが紹介されたのだそうだ。ひっきりなしに問い合わせがあり、生産が追いつかないという。

 テレビに出ていたから・・・?

 

静岡・墓前祭

2019-09-12 10:10:40 | その他
 1923年、関東大震災の混乱の中、大杉栄、伊藤野枝、そして大杉の甥である橘宗一のⅢ人が、憲兵隊によって虐殺された。

 静岡市の沓谷霊園には、彼らの墓がある。毎年9月には、大杉らの虐殺を忘れないために、墓前祭が行われている。

 今年は9月14日の土曜日。墓前祭は11時から沓谷霊園で。講演会が、静岡市のあざれあで午後2時から開かれる。

 講師は大和田茂氏。平澤計七の研究者である。

 関東大震災では多くの人が犠牲になったが、流言飛語によって多くの朝鮮人、中国人、そして間違えられて日本人も虐殺された。それだけではない、労働運動を担っていた10人も軍隊によって虐殺されている。

 平澤計七もそのなかのひとり、彼は亀戸で9月3日に検束され、その後習志野騎兵第13聯隊によって虐殺された。

 関東大震災の混乱のさなか、どんなことが起きたのか、大杉事件だけではなく、総合的に捉えようとする企画の一環である。



 

2020オリンピック?

2019-09-12 09:51:33 | 社会
「特定非営利活動法人東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会及び東京都」が提出した東京五輪立候補ファイルの文。

 「この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である。」

 しかし、東京だけではなく、日本は猛暑が続き、外国人選手は苦労することだろう。日本には、猛暑のなか、炎天下で高校野球をやるという無謀な行事も行われているから、日本の夏を「理想的な気候」だという人もいるのかもしれないが、私は真っ平御免だ。

 こういう現実。

「遮熱性舗装」は逆効果? 東京五輪の熱中症対策に専門家が警告

 台風15号も来た。2020年の夏はどうだろうか。







新聞も批判的精神欠如

2019-09-11 09:16:15 | メディア
 新聞社もダメになった。『毎日新聞』記事。

エッジが利いた河野外交、批判への対応が課題に

11日で2年余の在任期間を終える河野太郎外相(56)は、エッジの利いた言動で話題を振りまく一方、14カ国を外相として初訪問するなど地道に日本外交の裾野を広げた。海外要人と渡り合う英語力、ツイッターでの発信力、持論を実行に移す突破力。1年弱取材してみて「首相を目指す」と公言するに見合う魅力を感じたが、一つ残念なのが、批判を受けた際のぞんざいな物言いだった。

 私は『東京新聞』を購読している。『毎日』は読まない。こういう記者がいるのは、毎日新聞にとってよいのか、悪いのか?

 『毎日』の記者には、いい人がたくさんいた。しかしその中には、他社に移ってしまった人もいたが。今は、こういう人ばかりなのかなあ。


ブラック産業=学校

2019-09-11 08:19:08 | 政治
 『教育新聞』に次のような記事があった。

経済協力開発機構(OECD)は9月10日、世界各国の教育を巡るデータを比較した『図表でみる教育2019年版(Education at a Glance 2019)』を発表した。日本は教育機関に対する公的支出の対GDP比が、OECD加盟国の中で最も低かった。同時に、多くの国で学級の規模が縮小され、教員の給与水準が上がっている一方、日本では学級規模は横ばいで、教員の給与水準が下がっていることが分かった。

崩壊するテレビメディア

2019-09-11 07:48:05 | メディア
 ジャーナリズムとは無縁の世界に生きる日本のテレビメディア。わが家はテレビを見ないので、不快になることはない。今は、Amazon Primeで無料のクラシック音楽を流している。テレビを見ない生活は精神の安定にプラスである。

 さて今日のNHKテレビのニュースは、

進次郎氏は育児休暇を取るのか取らないのか…政治部記者が「小泉さんとしては、まずは滝川クリステルさんが無事に出産を迎えられるよう支えたい、というのが今の率直な思いです…大臣という立場を踏まえ、慎重に検討するものとみられます」と大マジメに解説

 だそうだ。

 テレビ朝日系のAmebaTVは、

ブスにヌードのオファーがあったら…いくらで脱いでしまうのか大検証

 という番組を流すらしい。

 テレビ局の社員の低劣さが如実に示されている。

責任をとらない人びと

2019-09-11 07:16:50 | その他
 日本は訴訟社会になり、訴訟が多くなる、すると法曹人口が足りなくなる・・・といって、アメリカ型の法曹養成の仕組みを真似した。

 大学卒業後に学費の高いロースクールで学び、その後司法試験を受験するというシステムを導入し、合格者を増やした。ロースクールは、全国各地の大学に設けられたが、今や地方のそれは消えていっている。そして司法試験に合格したけれども「イソ弁」にもなれなく、生活できない弁護士が増えた。増えすぎて、他の弁護士との競争も激しくなった。食い合いである。
 
 この司法試験改革には、多くの批判があった。しかし法務省は強行した。その改革は、誰の目にも失敗とわかる現実がある。

 昨日、司法試験の合格発表があった。『朝日』の報道によると、

 4466人(前年比772人減)が受験し、1502人(同23人減)が合格。このうち、法科大学院を修了せずに受験資格を得られる「予備試験」を通過した合格者は315人で、合格率は82%、法科大学院を修了した合格者は1187人、合格率は29%。
 政府は2015年、志願者の減少などを受け、司法試験合格者をかつては「年3千人」としていた司法試験合格者の目標を「毎年1500人以上」に引き下げ、法科大学院の修了者の合格率は「おおむね7割以上」を目指す方針を打ち出した。


すでにロースクール=法科大学院を経ての法曹養成制度は失敗した。失敗は、しかし予想されていた。この制度を構想した奴は責任をとらないのか!!

日本のメディアは死んだ!

2019-09-10 19:10:34 | メディア
 反社会的な存在と化した日本のメディア。とりわけテレビメディアのひどさは驚くべきものだ。

 ヤフーの記事をみると、小泉進次郎が初入閣、をどのメディアも報じている。あの口先男をかくも報じるというのは、メディアは何を報ずるべきかをまったく考えていないということだ。

 そしてこれも。

“日本のタマネギ男”甘利明氏の復権にメディアは完黙なのか

劣情、そして権力

2019-09-10 07:36:04 | 政治
 日本の支配層の中には、朝鮮半島への差別意識がずっと息づいてきた、と私は考えている。秀吉の朝鮮侵略の背後には、日本古代に於ける意識的な朝鮮への蔑視がある。

 しかし民衆には、そういった意識はなかったはずだ。というのも、大陸からの渡来民の方が、縄文時代から生きてきた人びとよりもずっと数が多いからだ。大陸にルーツをもつ人びとは、朝鮮半島への蔑視はなかったはずである。

 秀吉の朝鮮侵略後、家康は朝鮮との国交を回復させた。その証しとして、朝鮮通信使が何度か日本へ来ている。今これが近世における日朝の交流だと評価しているが、一面私も評価しつつ、しかし幕府は朝鮮通信使をたとえば京都の「耳塚」に案内するなど、幕府自体は差別的な対応を行っていた。そしてそのような差別的な意識は民衆の間に流布させるようなこともしていた。

 もちろん、朝鮮への蔑視が民衆の間に広まったのは、近代以降である。維新政府は当初から朝鮮半島を自らの支配下におくべく、1875年の江華島事件、翌年の日朝修好条規をまず結んだ。この条規は、日本が欧米に強いられた不平等条約と同じであった。つまり自らの頬を叩いた者ではなく、自らよりも弱いと思われた者に、今度は日本がその頬を叩いたのである。力あるものにはへりくだり、弱そうな者には尊大にふるまう、悲しき日本の性である。

 現在の安倍政権は、その性を持ち、さらにそれを露骨に示す。

 話は戻って、近代以降、朝鮮への差別意識、蔑視は民衆の間に広まっていった。その端的な現れが1923年9月の関東大震災に於ける朝鮮人の虐殺である。メディアも、根拠もないのに、朝鮮人が集団で襲撃してくるとか、井戸に毒を入れたとか、そういう噂を活字にした。メディアも、朝鮮人虐殺に力を貸したのである。民衆の対朝鮮蔑視と、メディアの扇動とがあいまって、朝鮮人虐殺が行われたのである。

 差別的言動は、権力者が行うと、民衆は権力のお墨付きを得たとばかりに、それを真似する。蔑視は劣情である。その劣情を、権力が増幅させるのだ。

 差別はいけないことだという認識は誰にでもある。だから自制する。だが権力が差別を公然化すると、民衆は自制しなくなる。

 現在の日本は、劣情をもった権力者が、堂々と差別的言動を繰り広げる。本来ならば、メディアがそれを批判するべきなのであるが、日本のメディアは、その権力者と足並みを揃えて民衆の劣情を刺激する。

 劣情は劣情なのだ。理性を持った人びとは、言っていいことと言ってはいけないことが弁別できるがゆえに表に出さない。ところが今の日本の宰相は、理性を持たない。劣情がそのまま吐露されるのである。その宰相の姿を見て、理性なき者たちが一斉に劣情を表面化する。それをメディアが追いかける。

 日本は劣情表出の国となった。それはこの問題だけではなく、カネ儲けのためなら何でもやる。どういう手段でもカネが儲かれば良いのだという風潮。それは日本の経済界が権力者とともに日常的に行っていることだ。民衆も、オレもそうしようと平気で人を騙すようなことをする。それは政府・権力者が行っていることだ。

 かくて日本は劣情丸出しの国となった。劣情国家日本の誕生である。これが「美しい国・日本」なのである。

クラシック音楽

2019-09-09 21:10:21 | その他
 Amazon Prime で韓国ドラマの韓流「のだめカンタービレ」を見ることができる。私は時間の合間を見て、見続けた。面白い。あの映画「新聞記者」の女性記者役を演じたシム・ウンギョンが「のだめ」、ソル・ネイル役である。

 シム・ウンギョンは1994年生まれだから、「のだめカンタービレ」のときは20歳。「新聞記者」は25歳の時だが、もっと年齢が上のように見えた。

 「のだめカンタービレ」は、クラシック音楽への道を歩む若者たちの姿を描いたものだ。当然様々なクラシック音楽が演奏される。「のだめカンタービレ」はクラシック音楽を好きにさせるためのドラマのような気がする。演奏される曲についての解説もまたよかった。Verdiの「運命の力」の背景も教えてもらった。この曲は、Verdiが作曲を再開する契機となった曲だそうだ。じっくりと聴いてみなければ。

 ドラマのなかにはさみこまれるクラシック音楽が、耳に心地よい。

 クラシック音楽も芸術である。聴いてみなければどうしようもない。そして同じ曲を聴いても、人それぞれ受けとるものは異なるし、感想も異なる。それぞれの精神状況により、聞こえてくる音楽に差異をもたらす。

 芸術とはそういうものだ。

 美術も芸術、それぞれの作品をみてどう捉えるか、どういう感想を持つのかなど、それはまず見てみなければならない。

 あいちトリエンナーレの「表現の不自由展ーその後」の中止は、多くの人のそういう「場」を奪ったのだ。

 芸術なしの人生は考えられない。クラシック音楽も、演劇も、そして美術も芸術だ。それらは見る、聴くという「体験」を必須とする。

 芸術の世界で生きていこうと考える若者がいる。芸術に枠を設けること、そんなことをすれば芸術は死んでしまう。


演劇をみること

2019-09-09 10:05:04 | その他
 子どもの頃から演劇を見させられていた。小学生の頃は、地元の劇団「劇団たんぽぽ」がまわってきて、講堂(体育館)で見させられた。

 高校に入ると、浜松市には浜松高等学校演劇教室があって(当時は浜松市内のほとんどの高校が加盟)、毎年一回は演劇を鑑賞していた。演劇との自覚的な出会いは、この演劇教室から始まった。

 この頃浜松には、演劇鑑賞団体である浜松演鑑協(「浜松演劇鑑賞協議会」)があったと思うが、私は入っていなかったように思う。浜松労音というものがあり、そこには入会し毎回いろいろな音楽を聴いていた。クラシックが多かったように思うが・・・高校2年の時、「山城国一揆」というオペラが上演された。ちょうど公演日は試験の真っ只中。私は断念したが、社会科学研究会の上級生たちは皆行った。公演後、その感想を聞き、試験よりそれを見るべきだったと後悔した記憶がある。

 高校を卒業し東京の大学へ進学し、演劇を見るべく「東京労演」の会員となり、都内で上演される演劇をたくさん見た(ネットで東京労演を検索したら、今はもうないという。驚きである。)。大学を卒業し、地元に帰ってから、浜松演鑑協に入会し、誘われて事務局の仕事もした。しかしその後仕事が忙しくなり、また自宅から離れたところに転勤となったり、なかなか行けなくなって退会。とはいえ、仕事の中に演劇鑑賞があったのでその係としていろいろな劇団とつながりを持ち続けた。

 そして退職後に、誘われてまた演劇をみることとなった。

 私は、音楽座のミュージカルが好きで、遠くまで見に行ったりしたこともある。ミュージカルは歌あり、ダンスあり、それでいてきちんとストーリーがあり、最後はハッピーエンドで終わる、というたいへん魅力的なものである。とはいっても、そのミュージカルのよさを知るためには、他の演劇も知らなければならない。深刻な内容のもの、人間の生き方を考えさせるもの、平和を切々と訴えるもの、もちろん喜劇もある。いわゆる新劇というものは、その演劇を見る観客にいろいろな思考の渦巻きを創り出すものが多い。したがって、舞台を見た感想は多種多様である。私はそれが劇の本来の姿であると思う。一つの舞台を見て、その感想がほとんど同じという作品はあまり価値がないと思う。多種多様な感想を生み出す舞台は、それだけ深いものをもっているということなのだ。

 浜松の演劇鑑賞会で、しばしば加藤健一事務所の劇が選ばれるが、私はこの劇団を好まない。外国の翻訳劇がほとんどであるが、中途半端なのである。喜劇的なものが多いが喜劇ではない。
 外国のものには、ゴーリキーの「どん底」とか、チェーホフやブレヒトなどの劇もある。それらは、外国のものであっても、普遍的な人間に対する洞察がある。しかし、加藤事務所のそれは現代の翻訳劇が多く、舞台上での展開は他人事にしか見えないのだ。何故にこの劇を上演するのかという、社会的な意味を感じないのだ。加藤の趣味を、舞台で自己満足的に上演しているだけ、というように思える。

 私は、人間を深く洞察したもの、あるいはまったく喜劇の中の喜劇、そういったものが好きだ。中途半端なものは見たくはない。

 全国的に演劇をみる人口が減っているようだ。演劇は、それぞれ個々の精神を揺るがす力を持つ。演劇鑑賞人口が増えることを望む。