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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

踊り場の窓(2)

2013-02-03 18:09:30 | 日記
 『オリンピックの身代金』は、ところどころで、日本の歴史や現状に対する鋭い指摘を行っている。

 「この国のプロレタリアートは、歴史上ずっと支配層に楯突くということをしてこなかった。我慢することに慣れきっているので、人権という概念すら持っていない。無理をしてでも先進国を装いたい国側にとっては、願ってもない羊たちだろう」(230頁)

 村上作品に羊はよく出てくるが、こういう含意はないだろう。

 安倍政権の経済政策は、浜田宏一という人物が指南役となっているが、これがとんでもないことを言っている。しかしまあ、そういう政策が行われることは当然わかっていた。それでも日本の選挙民は、自民党を勝たせたのだ。

http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/713825b042ffbcb5747ef9ff49800512

 「わずか19年前(つまり戦時中ー引用者注)、人の命の値段は石炭や鉄よりも安かった」(235頁)

 まさにタダだった。徴兵の令書を発行すれば、役場の兵事係が本人に渡してくれた。

 「(天皇制について)完全なる公人が頂点にいるおかげで、この国の支配層はいつでも奉公人の立場に逃げられた。民主主義の過酷さと向き合わずに済んできた。天皇制は、日本人の永遠のモラトリアムなのだ」(238頁)

 責任逃れ、これは丸山真男が指摘したことでもある。無責任体系、これが日本の宿痾だ。原発事故についても、誰も責任をとっていない。それどころか、当時の官僚たちは次々と天下りして大金を食んでいる。

 いつも責任をとらないのは、支配層の人間である。しかし追及が激しくなると、被支配層のなかから人身御供にだされる者がある。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2013-02-03/2013020315_01_1.html

 

踊り場の窓

2013-02-03 11:21:57 | 日記
 『オリンピックの身代金』を読むスピードは、村上作品と比べて遅い。読んでいて、何度も本を置いて考えるからだ。
 
 「ギリシャのパルテノン神殿を築いたのも、江戸城の石垣を積みあげたのも、支配される側の人民だった。彼らは何が出来上がるのかも知らされずに、命ぜられるまま肉体を酷使した。」(172頁)

 人民から徴兵された兵士も同様だ。どこに行くかを知らされず戦場に行かされ、自分がどういう作戦のなかでどういう位置にいるのか、そんなことは一切知らされない。前方にいる「敵」(自分自身にとっての敵では絶対にない)に向けて銃弾を放ち、そして命令のままに弾幕の中に身を躍らせていく。その肉体は、その後息をしなくなるかもしれないし、赤い血が流されるかもしれない。支配層にとって、こうした人民は単なる「駒」であって、人間ではない。

 「この国の格差は年々ひどくなっている。戦後の財閥解体や農地改革により、支配層はその勢力を弱めたかのように見えたが、実際は財産が一族から企業に移っただけで、人民には下りてこなかった。人民は一貫して貧しいままだ」(177頁)

 その後、人民に一定の「おこぼれ」が渡されたが、経済状況が厳しくなるとそれもなくなり、人民は冷たい北風に身を震わせるようになる。今は、人民は貧困の井戸に投げ込まれている。

 「東京はええですねえ、何でもあって。同じ国だというのが信じられんぐらい。秋田とはちがう。これならオリンピックさ開いでも、外国の人に恥ずかしくね。何もかもが豊かで、華やかで、生き生きとして、歩いている人もしあわせそうで・・・なんて言うが、東京は、祝福を独り占めしでいるようなとごろがありますねえ」という秋田から夫の遺骨を取りに来た女がいうことば(228頁)。

 それに対して主人公は言う、「東京だけが富と繁栄を享受するなんて、断じて許されないことです。」(〃)

 今まさに、石原老人のあと知事になった猪瀬は、再び東京オリンピックの招致活動を活発化させている。1964年と同じような状況が日本にはある。地方は切り捨てられ、中山間地や寒村から人が消え、さらに今では地方都市も疲弊してきている。シャッター通りが続く。背を丸めた老人が、大きな荷物を持ってゆっくり歩いている。地方で育てられた子どもが東京に行き、地方で集められたカネが東京に向かう。

 この50年間、何が変わったのだろうか。

 ボクは、こうしてこの本を読みながら立ち止まる。そして辺りを見回すのだ。

 この本、9ポで二段組み、521頁に及ぶ大作だ。ボクは、階段を上りながら、途中にある踊り場で窓の外を見る。この本、その踊り場がいっぱいあるのだ。村上作品とは違う。


 

「メディアの統制」

2013-02-03 10:57:42 | 日記
 以下に掲載したのは、今日の『河北新報』の社説である。安倍首相というのは、今までもメディアへの権力的統制を行ってきた人物。その人物が首相に返り咲いたのだから、おそらく参議院選挙以降にそれが本格化していくだろう。

 どこの権力者も、結局は北朝鮮のような統制が行き届いた国家体制をめざすものだ。文科省による教育統制なんか、その典型的な例だ。

 中国の週刊紙『南方週末』の、共産党による記事差し替え問題は、決して他国のことではない。いずれわが国でも、そのようなことがおこるだろう。すでにテレビでは行われている。

 残念ながら、河北新報社のように、警告を発する新聞社もあるが、大方のメディアは、自主的に権力の奴隷と化しているから、あまり心配もしていないだろう。マスメディアは、すでに日本の支配権力の強力な一翼を担っているからである。




メディア統制/民主主義の根底を崩すな

 安倍晋三首相は年頭、閣議の冒頭撮影を11年ぶりに許可し、情報公開と政権の透明性をアピールした。

 一方で、歴代首相が続けてきたぶら下がり取材は、野田佳彦前首相に続き拒否。理由について「首相としてコメントすべきでない事もあります」などと、インターネットの交流サイト「フェイスブック」に投稿し、背反する姿をのぞかせる。

 第2次安倍内閣が始動して1カ月余。これからのメディア対応は気になるところだ。

 第1次政権時(2006年9月~07年9月)には、表現の自由と国民の知る権利を脅かすメディア統制、メディア介入に駒を進めた。

 首相の主眼は衆院選で公言した通り、憲法改正だろう。
 07年5月には憲法改正手続き法(国民投票法)を成立させた。改憲案への賛成・反対を訴えるテレビのスポットCMを投票2週間前から禁止するメディア規制が盛り込まれ、放送への関与を強める姿勢を印象づけた。

 「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」憲法21条に対し、自民党の改憲草案では第2項を設けて「公益および公の秩序を害することを目的とした活動を行い、ならびにそれを目的として結社をすることは、認められない」と加えた。

 この追加条項には、ジャーナリストらから「民主主義の根底を崩す暴挙」と批判の声が上がっている。

 公の秩序を害したかどうかを判断するのは、最終的に裁判所だとしても、取り締まるのはまず警察・検察の国家権力であって、政権を批判する者が結社して活動を行えば、政府側の恣意(しい)的な判断によって取り締まりの対象になりかねないからだ。

 自民党草案Q&Aによると、「平穏な社会生活」を乱す「人権主張」も取り締まりの対象になるとされ、政治家の行状を報道することが訴えられる恐れがある。真相解明のため、ときに公人のプライバシーに踏み込む報道は萎縮しかねない。

 菅義偉官房長官も第1次安倍政権の総務相として、放送局への介入を強めた。

 06年11月、NHKに対し、北朝鮮による拉致問題を短波ラジオ国際放送で重点的に取り上げるよう放送命令を出した。個別具体の内容を命じたのは初めてだった。

 拉致問題の解決を最重要課題に掲げていた安倍首相も、命令に歓迎の姿勢を表明していた。

 自民党下野時に安倍氏は、一部テレビ番組に出演して、「日本のリーダーとして復活を」などと周囲から持ち上げられていた。一方で自民党はかつて、気に召さない放送局への幹部出演を拒絶した。

 政権を放り出した後に学んだ教訓が、メディアの選別や操作術だったというのでは「自由民主」の党名が泣こう。

 紙面に露骨に介入して改ざんを行った中国共産党のような低次元、未成熟なメディア対応を厳に慎むよう求めたい。

格差社会

2013-02-02 14:30:00 | 日記
 ボクは今、奥田英朗の『オリンピックの身代金』を読んでいる。東京オリンピックを間近にひかえた東京は、オリンピック関係工事の騒音に包まれていた。

 その騒音をつくりだしていた人びとのほとんどは、全国の寒村からの出稼ぎ労働者だった。このときも、そして今も、公共工事を請け負う鹿島などのゼネコンをトップに、何層にもわたる下請け構造が存在し、そのもっとも底辺には、低賃金で過酷な労働があった。彼らは飯場で生活し、ただ少額の金を得るために働き、働くために食い、そして眠った。

 「格差社会」ということばがマスメディアで報じられるようになったのは、いつ頃のことだろうか。

 小泉内閣が派遣労働を製造業にまで解禁した頃から、今まで日本経済の成長を支えた第二次産業の労働者の多くが非正規労働者となり、景気の善し悪しに応じて、工場の門を出たり入ったりするようになった。職を失った労働者は、住むところもなくなり、路上で生活するようになり社会問題となっていった。

 だがボクは、ふと思う。「格差社会」は、ずっと前から、ボクたちの社会では当たり前のこととしてあった。ボクたちの住む地域では、金持ちのことを「オダイサマ」と呼んでいた。子どもの頃も「オダイサマ」はいた。その一方で、戦災住宅のような安普請の「長屋」に住んでいた友人もいた。こう書くのも気が重いが、垢じみた同じ服を、いつも着ていた。

 1960年代を中心とした高度経済成長は、そういう姿を見えなくした。

 東京オリンピックは、1964年のことだ。高度経済成長の真ん中で、ボクたちの周辺から貧困が見えなくなってきたとき、寒村は経済成長とは無縁だった。いやそれは正確ではない。都会の高度経済成長は、寒村の低賃金労働力を踏み台にして成し遂げられたのだ。寒村は、寒村のまま、都会に収奪されていたのだ。

 この『オリンピックの身代金』は、秋田のそうした寒村からの出稼ぎ労働者の存在を背景にする。寒村に生まれ、寒村で成長し、そして結婚し、都会に出稼ぎに行く。そうして過酷な低賃金労働に耐えながら、稼いだカネを故郷に送る。農繁期になると帰郷して、過酷な労働に耐える。いつも、いつも耐えながら、貧困を生きる。

 そうした現実はなくなっていたのか。「オダイサマ」の存在とそうした出稼ぎ労働者、まさにこれは「格差社会」ではないか。

 ボクはが大学を卒業した頃、繊維産業に働く女子労働者の実態を見る機会があり、そこに現代の「女工哀史」を発見したことがある(それについて、「“暁”を求めてー現代の「織姫」たち」というルポを書いた)。そこにも貧困は厳然と存在していた。

 『オリンピックの身代金』は、そうした現実をボクの記憶から呼び戻している。だから、読み進めるのがなかなかたいへんだ。ストーリーの先に進んでいく「足取り」(?)がとにかく重い。

 奥田が、こういうシビアな小説を書いているとは知らなかったし、奥田の才能に感服するしかない。

{付記}

 他方で、村上春樹の作品は、読み進めるのに、まったく苦労がない。それはなぜか。村上の作品には、現実がないからだ。ボクたちは寄せては来る様々な社会的・経済的・政治的葛藤に、あるときは立ち向かい、あるときはよけ、あるときは敗北しながら、生きていく。
 
 ところが、村上作品には、精神的な葛藤はある。だが精神的に葛藤するその人間の生存の基盤としての、社会的・経済的・政治的なそれが捨象されているのだ。もちろん精神的な葛藤を説明するために、そうしたものへの言及がなされることはある。だがそれは真正面から記されることはない。

 ボクが、村上作品の第一印象を「軽い」としたことは、決して間違いではないと、奥田のこの本を読みながら確信した。

 やはり、村上の作品は、観念の産物なのだ。

 なぜ若者が村上作品に魅力を感じるのか。人生の途上に現れてくる、様々な客観的な現実を若者は直視しようとしない。現実があまりにもたいへんだから、あるいは閉塞した現代社会に生きているからか、直視しなくてもいいのならそのままで生きていこうとする姿勢、そうした生き方が、村上作品と共鳴をおこすのではないだろうか。

 ボクたちは、生きる。その生きるということは、まさに現実的に生きるということなのだ。こちらが現実を無視しても、現実はしっかとボクたちを掴まえて離さない。

 東京オリンピック関係の建設工事に従事する低賃金労働力として、寒村の農民たちが構造的に組み込まれていたように、である。


映画と読書

2013-02-01 22:37:51 | 日記
 奥田英朗の『オリンピックの身代金』を読み始めた。村上の次の本が図書館から来ないからだ。

 『ララピポ』とは異なり、硬派の小説のようだ。それを読み終えたら、Yさんが推薦した『ねじまき・・・』を読み始めよう。

 今日は、映画を2本見た。TSUTAYAから借りてきたものだ。「ララピポ」と「ノルウェイの森」。「ララピポ」の脚本を書いたのは中島哲也。中島の脚本による「嫌われ松子の一生」、「下妻物語」の映画が面白かったので借りてきたのだが、原作と比べるとどうもイマイチであった。

 「ノルウェイの森」は、原作を読んでいないとなかなか理解できないようなものだった。ということは、映画が独立した作品になっていないということだ。

 この映画を見てなるほどと思ったことがあった。村上のこの作品は、観念小説だということだ。荒唐無稽の物語を村上は書いているが、これはそれとは異なり、相対的に現実的なストーリーであったが、映画を見ていると、やはり地に足をつけた内容ではない、抽象的なものだということがわかる。

 バックに流れていた曲は、もちろんビートルズの「ノルウェイの森」もあるが、現代音楽的なものが多かった。そういうバック音楽でないと、このストーリーにはあわないのだ。ジャズでもなく、クラシックでもなく・・・・


{追記} 
 『噂の女』の本を紹介したブログの最後に「明日も明後日も生きていかなければならないのだ。フーッ」と書いた。それは『ララピポ』の最後の部分に書かれていた文を借用したものだが、町田の住人から「明日も明後日も生きていかなければならないのだ。フーッと書いておられますが、お先に行かれてもけっこうです」というメールがきた。

 町田の住人より先に行くわけには行かない。まだまだしなければならないことがある。ボクは奴隷ではないから。

【本】奥田英朗『噂の女』(新潮社)

2013-02-01 10:05:36 | 日記
 たくさんの人が読みたがっている小説である。たいへん読みやすい。

 糸井美幸という、幸せな家庭に生まれ育たなかった薄倖の少女が、長じて金持ちの男たちに取り入り、その男たちを睡眠薬などで殺して、その男たちの財産を奪い取り、最後には姿を消す。

 地方都市に住む糸井美幸の行状は、多くの人々の噂になる。金持ちの男に取り入ってカネを獲得する、女はそれを隠れてやっているわけではない。半ば公然と行っている。女がその金持ちのカネに取り入るということは、他の者たちもそのカネに群がるということでもある。

 金持ちが若い女(糸井)を愛人とし、その女にカネをつぎ込むということは、小金持ちたちの願望でもある。

 若い女が男たちを手玉にとってカネを奪い取っていく姿は、そのほかの若い女たちにとっても、一種のあこがれでもある。そうしてでも、カネに不自由しない生き方をしたいのである。

 糸井美幸という、薄倖の少女が「噂の女」になって大金を稼いでいくプロセスは、人びとにとって許容範囲のことである。人びとは、とにかく正義とか、理念とかに依拠したり、人としてのあるべき姿を求めて生きているわけではない。糸井という「噂の女」の倫理観と、大同小異なのである。

 そのようにして市井の人びとは生きてきたし、これからも生きていく。

 奥田は、地方都市の市井の人びとの、そうした生き方を、糸井という「噂の女」を軸にして明らかにしていく。別にそれを非難したりするのではない。示すだけだ。

 私たちは、あり得る話だなと思いながら読み、そしてその物語を忘れていく。

 市井の人びとによってつくられている今の社会のあり方、理念とか正義とかに拘束されないでこの大地を這いずり回りながら生きるためのカネ、少し贅沢をするためのカネを求めて生きていくというあり方が、今後もずっと続いていくのだろうと思いながら、本を閉じるのである。何も変わらない、何も変えようとしない。同じような生活を、続けていくのだ。

 とにかく、明日も明後日も生きていかなければならないのだ。フーッ!!