『世界』9月号に、国語教育について、武田砂鉄がインタビューする文があった。
そこにこういう指摘があった。
「主体的であれ」とか「主体的に考えろ」って言いながら、学校から隙間とゆとりが奪われている。主体的に考える時間を奪っているのです。
これは、インタビューの相手五味渕典嗣さんの発言である。奪っているのは、もちろん国家、この場合は文科省であろうが、しかしそれに矛盾はない。「主体的であれ」と文科省がいうとき、それは自由に、おのれの思考と判断で「主体的に」なにかに取り組め、というものではなく、一定の枠のなかで「主体性」を発揮させようと考えているのだ。
文科省が狙う「主体的な」人間像とは、要するに前安芸高田市長の石丸氏のような、ネオリベラリズムを内面化し、国家権力に敵対しない、国家の枠の中で「主体的に」活動する人間のことをさす。
ちょうど同誌には、伊藤昌亮氏の「石丸現象 TikTok」という文が掲載されていて、そこに「「世の中をどうこうするよりも「自分を何とかする」」という説明があったが、文科省の「主体性」が向かう方向性は、「世の中をどうする」というものに行かないようなものなのである。
大日本帝国時代に、日露戦後の地方改良運動、大正期の民力涵養運動などでも「自治」ということばが多用された。その場合の「自治」というのは、国家に依存せず、国家に迷惑をかけないで自立し、国家の行政の下請けをしなさいということであった。通常考える「自治」とは異なる内容を、当時の国家は保有していたのであって、現在も官僚たちはそう考えているように思う。
この「自治」に対する考えのように、国家権力や支配層が考えることばは、通常の意味とは異なるのだ。