浜名史学

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【本】堀和恵『評伝 伊藤野枝』(郁朋社)

2024-09-03 09:00:33 | 

 『初期社会主義研究』第32号で、大岩川嫰氏が本書を絶賛していたので、図書館から借りて読みはじめた。

 伊藤野枝は、みずからを成長させたいという強い意志をもって生きた女性である。豊かなエネルギーを持ち、様々な軋轢を超えて自分自身を求めて生きてきた。そういう女性の「評伝」を書く場合は、書く側にも強靭なエネルギーが必要だ。

 しかし読みはじめて、この本にはそれがない(瀬戸内寂聴や村山由佳、井出文子の本にはある)。淡々と野枝の人生を書く(だから野枝の「評伝」なのに、全文224頁しかない)。文に熱を感じない。それでも我慢して読み続けたのだが、141頁に来て読むのを止めた。1919年10月の婦人労働者大会の記述があったからである。

 それが書かれている第四章の参考文献には、平塚らいてう自伝、山内みな自伝が掲げられているが、それを読んだ形跡はない。ここに記されている内容は、栗原康の『村に火をつけ 白痴になれー伊藤野枝伝』の記述をそのまま踏襲しているのである。

 わたしは栗原の記述が「捏造」であることを平塚、山内の自伝をもとに批判した。栗原も参考文献としてふたりの自伝をあげているのだが、勝手にその場の情景を捏造して、栗原が思いえがく野枝像をつくりあげようとしたのである。

 わたしの批判をここに掲げる。

第五章のはじめに、「野枝、大暴れ」という項目がある。一九一九年一〇月五日、友愛会婦人部主催による「婦人労働者大会」があった。 国際労働大会に派遣されるILO政府代表・田中孝子(渋沢栄一の姪)に「実際に労働に従事する婦人労働者の真の要求を告げる目的で」開かれたもので、「八人の女工が・・熱弁」(大原社研『日本労働年鑑』第一集)を振るった(これは当時友愛会にいた市川房枝が企画したものである)。大会が終わり、控室に戻った田中孝子に野枝が詰め寄ったときの顛末を栗原は書いている。その際に使用された資料は、山内みなの自
伝、平塚らいてうの自伝である。
(1)栗原本は、らいてうが「外まで聞こえるような怒号」を聞いて、らいてうが「駆けつける」となっているが、らいてう自伝では控室にいたときに野枝が入ってきたと記されている。「外まで聞こえるような怒号」は根拠があるのだろうか。
(2)栗原本では、らいてうが「田中が可哀想だと思いとめにはいった」と記されているが、らいてう自伝では、野枝をたしなめるつもりでひとことだけことばを挟んだとなっている。
(3)栗原本では「・・・、さらにまくしたてた。このブルジョア夫人め、ブルジョア夫人め」とあるが、これはまったくのフィクション。
(4)栗原本では、山内みなが「とめにはいった」となっているが、山内みな自伝では、とめたのは市川房枝と記され、野枝と田中との言い合いが終わってから、野枝はみなのところにくるのであって、栗原のいう、みなが「野枝の逆鱗にふれ」るという事実はない。
(5)栗原本では、野枝が山内みなに語ったことばのなかに「なんでわからないの」とあるが、山内みな自伝ではそれはなくて、ここの部分は「本を送ってあげます」となっている。ちなみに後で実際に本は送られてきた。
 みられるように、まず、彼は事実をあまり重視していない。明らかに創作がはいっている。彼が描こうとしている野枝像をより際立たせようと様々に修飾を加え、それを根拠にして断定していくという乱暴な手法を用いて野枝 像をつくりあげている。

 堀も、野枝が田中と「騒ぎ」を起こしていて、それを聞きつけた平塚が「駆けつけ」「止めにはいった」、山内みなも「止めにはいった」と書いている。まさに栗原の記述を踏襲しているのである。らいてう、山内みなの自伝を読めば、栗原が一定の状態を捏造したことがすぐわかるはずだ。堀は果たして自伝をきちんと読んだのかと疑わざるを得ない。

 評伝にしても、歴史書にしても、史資料や文献をもとにていねいに史実を発掘して、それをもとに叙述するということが求められる。栗原が書いたものを、きちんと史資料や文献で確かめることをしないで書くということは、読者に対して失礼である。

 ちなみに、堀はそれぞれの記述に関して典拠を示さずに、巻末に章ごとに参考文献を掲げているだけである。これでは歴史書としては失格である。

 わたしは学生時代から野枝が書いたもの、野枝について書かれたものをほとんど手に入れ読んできた。本書から、あらたな史実を発見することはなかった。とはいえ、視点を変えることによってあらたな野枝像を描くことは可能ではある。だが、本書には野枝をみつめる新たな視点というものを感じることはなかった。

 この本で新しいものといえば、甘粕正彦、辻まこと、伊藤ルイらのことが第五章で書かれていることであるが、わたしにとっての新しい事実は書かれていなかった。

 大岩川氏が、本書をなぜに「すぐれた評伝」とするのかまったく理解できない。「評伝」とするからには、史実をもとに野枝像を描くことでなければならない。

 

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