ことし、葉鶏頭の種を買ってきた。はじめはなかなかいいじゃないかと思っていたが、長期の日照りが続き、そしてその後には雨の日が続き、世話が出来ないままに、葉は虫に食われて無惨なすがたになった。葉はほとんど食われて、ただ葉脈だけが残っている。
葉を食べた虫は、害虫となる。害虫は殺さなくてはならない!と、実際花屋さんで売られている花々には害虫駆除の薬品がかけられているはずだ。
しかしわたしは薬品はつかわない。夕顔の葉にも蛾の卵が産み付けられ、その幼虫が葉を食い荒らす。ときどき、箸でつまんで殺すこともあるが、今年は日照りが続いたせいか、いつもの幼虫を見ない。夕顔が、今年も夜、白い大きな花を咲かせている。
さて、人間を「害虫」とみなし、命令に服従させ、むやみに殺害するという事態が、人間社会では起きる。人間社会のどこかで、それは起き続けている。「強制収容所」。
ソビエト連邦の強制収容所、ナチスによる強制収容所、日本の「入管」、そしてガザ。そうしたところに収容される人びとは、大きな権力を持つ者にとっては、「害虫」として映る。
強制収容所の例として4つあげたが、そのような収容所はこれだけではない。4つあげた理由は、「戻り道を探して ミレナとカフカとマルガレーテ」(くるみざわしん・作)という演劇の台本に示されているからである。
今日、ポストを見たらそれがあった。東京に住むOさんからである。早速読んでみた。内容は深刻で、過去と現在を行き来しながら、強制収容所からの「戻り道を探す」というテーマで書かれたものである。
三人の名が記されているが、カフカはあの『変身』のカフカである。『変身』は、主人公グレゴール・ザムザがある日突然「害虫」となってしまうというところから始まる小説である。ミレナは、カフカの恋人であった人、彼女も強制収容所で命を落とした。マルガレーテは、『カフカの恋人ミレナ』という本を書いた人で、ミレナとは収容所で一緒だった。マルガレーテはソ連の収容所、ナチスの収容所を体験していて、それについて『スターリンとヒットラーの軛のもとで』という本に書いている。いずれも翻訳されているが、わたしは読んではいない。
カフカの『変身』における「害虫」、その「害虫」ということばを強制収容所や「入管」に収容された人びとが「害虫」視されることとをつなげ、さらに収容所の看守などもみずからを「害虫」とみなし、そこからの「戻り道」を探す、害虫から人間へと戻る道を探そうとする、そういう設定が、この台本の内容である。
もちろんカフカも、ミレナも、マルガレーテも、そしてナチスの強制収容所の看守らも、すでにこの世にはいない。ミレナは、棺に入っているこれらの人びとを起こしていく。
看守らは、目を覚まされるが、再び過去の強制収容所での仕事を繰り返そうとする。過去の強制収容所で行われていたことが、日本の「入管」やガザで繰り広げられているからだ。台詞には「・・・ちっとも変わらないな。ここにまた強制収容所が現れた。そこらじゅうにあるんじゃないか。今も。」がある。
なぜ強制収容所があるのか。
「問題は収容所のなかじゃない。外だ。貧困。恐怖。差別。戦争。そいつらが強制収容所を作っている」
この台詞は、収容されている人びとが収容所をつくっているのではなく、収容所に収容されていない人びとの差別、恐怖、戦争・・・・が、収容所を設けていることを如実に示す。外にいる人びとの無関心や無知、それらが強制収容所を必要とし、収容される人びとを「害虫」としているのである。問題は、収容所の外にいるふつうの人びとに問いが投げかけられるのだ。「あなたたちが人間を害虫に変える仕組みを」つくっているのだ、と。
「自分達が一番だと思い込んでいる連中は」、「遅れた野蛮人から土地と資源を取り上げるのは自分たちの権利であり、正しいことだと信じている」のであって、彼らに「素直に従えば家畜、逆らえば害虫」と、人びとを分別していくのだ。家畜たちは、「命じられるまま」に「害虫」を殺す。
だが人間は「害虫」なんかではない。
『変身』で「害虫」となったザムザが、「どうやったら害虫から人間に戻れるか」、それが書かれているのかとパレスチナ人のアンハールが問う。しかし『変身』には書かれていない。
収容されている人びとも「害虫」とされ、収容所の看守らもみずからを「害虫」であったと認識し、再び棺の中へと還っていくのだが、収容所や「入管」の存在を見て見ぬふりをしている「家畜」たちも、決して人間ではなく、「害虫」に近い。
「害虫から」どうやって「人間に戻るか」、その問いを突きつけた演劇が、この「戻り道を探して」である。
しかしこれは、深刻な問題提起なのだということが、行間にあふれている。