昨日の『東京新聞』の「こちら特報部」は、小室さん、眞子さんの結婚に関する特集であった。記事は、この結婚に異を唱えることに対する問題を挙げていた。
私は、この問題をテレビやネット、週刊誌などで騒いでいることそれ自体に、強い異和感を持ち続けていた。
結婚は、「両性の合意」のみにより成立するのだ。
私は子どもが結婚するという報告を「ああそう」で受けた。私が結婚するのではない、個人と個人が好きになって一緒にいたいと思うから結婚するのだ。もしうまくいかなければ離婚すればよいのだ。
それは皇族であろうと変わりはない。家柄などを最優先して結婚するなど、好きでもない人と一緒に生活することほど不幸なことはない。誰でも幸福を追求する權利はあるのだ。
日本社会の一部に、日本国憲法の精神の婚姻の自由、それは日本国憲法だけではなく普遍的なあり方だ、それを否定する人々がいることに驚く。
一部の批判は、あきらかに人権侵害である。それが堂々と週刊誌などのメディアのなかで行われていたことこそ問題なのだ。
原理的に考えれば、このような「事件」は、天皇制があるが故に生じる。批判する人々は、どちらかといえば天皇制を擁護する立場の人のようだ。しかし彼らは天皇制そのものを擁護するのではなく、みずからの考えによって自分なりの天皇制の像をつくりあげ、それを基準として判断している。彼らは「主観的天皇制」の擁護者なのである。しかしそれは天皇制に対する敬意でも何でもない。彼らこそ、こう云ってよければ「不敬」なのだ。
私は天皇制は廃止したほうがよいと思っている。なぜか。明治維新に始まる近代天皇制はきわめて人為的・作為的な制度であるからだ。現代天皇制は、その近代天皇制を継承している。
眞子さんを巻き込んだこの度の騒ぎは、近代・現代天皇制がもたらしたものだとも言える。
雑多な誹謗中傷をものともせずに結婚に突き進んでいった二人の勇気と決意に、私は敬意を表したい。