古関さんには、『日本国憲法の誕生』という名著があるが、今は日米安全保障条約に基づく日本の「対米従属」について考えているようだ。これは2020年に出版されたものであるが、近現代史研究者への問いかけともなっている。
この紹介文は、2021年の一月にかいたものであるが、古関さんは年明けに新たな著書を刊行するというので、ここに掲載するものである。
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本書の構成は、第1章 指揮権密約、第2章 朝鮮半島の有事密約、第3章 安保改正での核密約、第4章 沖縄返還と核密約、第5章 消えた自主防衛、第6章 有事法制下での対米従属、第7章 自民党の憲法改正案、第8章 安保を支える国体思想、第9章 「従属構造」を見据えて、である。見られるとおり、第4章までは日本の安全保障に関する重要な問題が、日米両政府間の密約によって構築されてきたことを、様々な資料に基づいて明らかにしていく。そこには、日本政府の対米「従属」の姿が明瞭に示される。「指揮権密約」というのは、日本の再軍備に伴ってつくられる軍隊の指揮権を米軍が持つことを認めるというものである。密約の背景には、日本国憲法の存在があったが、軍隊の指揮権を米国に渡すということは、「米国への対外主権を持たない従属国家」になるということであり、それが今に至るまでずっと続いているということである。それぞれの密約は理由があって結ばれるのであるが、一貫しているのは対米「従属」である。
その「従属」は「自発的・積極的従属関係」に変質していくのだが、その契機は1996年の「日米安保共同宣言」であった。その後日本は、「自ら率先して「対米従属国家」を看板に掲げている国家」となる。日米安保体制とはアメリカにとっては在日米軍基地を自由に使用できることであった。今や、その米軍に自衛隊が一体化し追従するというところまで来ている。
古関さんは、かくも強固な「従属」性が何故に存在しているのかを考え、国体思想に行き着く(第8章)。「日米安保も、その従属性も、日米同盟だけを見ていたのでは、いまや理解できないのである」として、「国体」に注目する(「宮務法と政務法という二元的法体系の存在」、教育に関する勅令主義、統帥権など)。これは白井聡の『国体論 菊と星条旗』(集英社新書、2018年)にも通じる視点であり、私もその驚異的な「従属」ぶりの原因に昭和天皇の遺訓があるのではないかと疑ったことがある。「国益」ということばがあるが、それを無視しての日本政府のアメリカへの献身ぶりに、何らかの原因を考えたくなるのも当然であろう。
2015年の集団的自衛権を容認する戦争法(安保法制)が国会に提出されたとき、立憲主義の危機が叫ばれた。だが今までも、安全保障(安保条約)に関わる問題は、密約も含めて、立憲主義や法治主義は蹂躙され続けてきている。1955年、外相・重光葵が訪米して安保条約を相互防衛条約にしたいとアメリカに伝えた際、アメリカ(ダレス国務長官)が憲法の制約を指摘したところ、重光は「日米双方で協議すればよい」と言い、それについてダレスは「協議をすれば憲法が変わるとは知らなかった」と切り返したという(230頁)。こうした立憲主義を歯牙にもかけない日本政府の「慣習」(それは構造化している)はどうして存在するのか。
古関さんは、末尾に「対米従属は、米国や日米安保との関係だけで見られがちであるが、実は日本近代のあり方そのものが根源から問われている」と書いている。その問いは、近現代史の研究者に投げかけられたものである、と私は理解した。