今だから…昭和さ ある男のぼやき

主に昭和の流行歌のことについてぼやくブログです。時折映画/書籍にも触れます。

ディック・ミネが語った あの歌手・このハナシ(第1章:伊藤久男、菊池章子)

2006-11-30 04:35:08 | 昭和の名歌手たち

その1(伊藤久男)
「イヨマンテの夜」でスターになった伊藤久男さんは、高所恐怖症だったんだよ。ヨボヨボのじいさんになっても、階段トコトコ登ってくの。
昔、大阪ロイヤルホテルでエレベーターの事故があってね。それ以来、恐怖症になっちゃった。
僕はそんなの平気だから、「僕が一緒に乗るから大丈夫だよ」って励ましてもダメね。
「どうぞエレベーターで行ってください。私はこっちで行きますから」
頑固でね、どうしても階段で行くっていうの。それだけ注意していて、結局は僕より先に死んじゃった。
「イヨマンテの夜」なんてスケールのでっかい歌を朗々と歌っていた人だけど、そんな男だったんだぜ。ただ大酒飲みの大食い。心臓と胃袋は別物の男だったよ。

若い頃はイイオトコだった…



その2(伊藤久男、菊池章子)
ステージに出る直前になって、「いけね!オレ、ズボン吊り忘れてきちゃった。何かヒモないかな?」って伊藤久男がいうからさ。ぼくも手伝って楽屋の裏を探したけど、荒縄しかないからね。
「少し重たいけど、がまんしてやれや」って渡したんだよ。彼は「ハイヨ」なんて気楽にいいながら、荒縄のズボン吊りをモゾモゾやりはじめたわけ。
それをぼくの隣で菊池章子が座って見ていてね。伊藤久男の汚いなりを上から下までつくづくながめて、「あたし、なんでこんな男と最初にナニしたんだろう・・・・・・」ポツンと呟いた。





服装・髪型は無頓着
伊藤久男(1910~83)
福島出身。
戦前~戦中は『暁に祈る』『熱砂の誓い(建設の歌)』などの戦時歌謡で一世を風靡。昭和18年、赤紙が届くも痔の悪化で入院した病院の医師が伊藤のファンで、その計らいで、軍役を解かれる。その後は故郷の福島へ疎開。吹き込み/慰問時の度、上京していた。慰問先の山形で終戦を迎える。
戦後は、戦時歌謡を歌ったことでGHQに捕まるのではと恐れ、酒に溺れるも、何とか復帰。「イヨマンテの夜」で再び人気が再燃。「あざみの歌」「山のけむり」といった抒情歌も見事に歌いこなし、ヒットさせた。
紅白歌合戦には、昭和27年(第2回)から昭和39年(15回)まで通算11回出場。
懐メロブーム時には、酒でノドを壊していたとも言われるが、スケールの大きい、豪快な歌い方・歌唱力は健在であった。
昭和50年代に入った頃から喘息や糖尿病に悩まされるようになり、晩年はインスリン反応による低血糖の発作のため、震えながらステージをこなすようになる。
昭和53年紫綬褒章受賞。
昭和58年4月25日、没。同年勲四等旭日章が追叙された。

淡谷のり子、ディック・ミネは親友
菊池章子(1924~2002)
東京・下谷出身。
三歳の頃から琵琶を習い始め、六歳で師範・免許皆伝。
昭和12年、日本コロムビア入社。
翌年「アイアイアイ」でデビューの予定も発売中止に。
昭和14年に「お嫁に行くなら」でデビュー。
昭和15年、映画主題歌「相呼ぶ歌」(伊藤久男とのデュエット)、「湖畔の乙女」がヒットし、スターの座に上る。
昭和20年、東洋音楽学校卒業。
戦後はテイチクへ移籍。昭和22年、一娼婦による新聞の投稿記事を基に作られた「星の流れに」が空前の大ヒット。なおこの曲は最初淡谷のり子の吹き込みが予定されていたが、淡谷が「良い歌だけど、こういう歌は歌いたくない」と拒否。菊池にお鉢が回ったものだった。
昭和23年にはテイチク専属作曲家・大久保徳二郎と結婚するも、31年離婚。
「星の流れに」以後も「母紅梅の歌」「春の舞妓」「岸壁の母」と順調にヒットを重ねたが、やがてヒットから遠ざかるようになるが、新曲は平成まで出し続けていた。
『懐メロ歌手というのは心外だ、私は現役歌手だ』、と昭和40年代に発言している。
昭和47年に製作したアルバムに、キングレコード管理楽曲である「かりそめの恋」を吹き込みたいと熱望。テイチクの菊池は「かりそめ~」、キングは浪曲師・二葉百合子が「岸壁の母」をそれぞれ吹き込むというパーター形式がとられた。
その後、NHKで二葉が「岸壁~」を歌ったところ、問い合わせが殺到。数年後、二葉の「岸壁の母」は日本全国に知れ渡る大ヒットとなり、オリジナルが菊池であることは半ば忘れ去られる形に。菊池は悔しがったらしい。
懐メロ歌手という看板に胡坐をかくことなく、昭和54年には、日中友好の架け橋にと山口淑子作詞による「憧憬」を発売。
平成12年、勲四等瑞宝章受賞。このあたりから体調を崩し始め、平成14年4月7日没。
「北上夜曲」で知られる歌手・多摩幸子は妹、作曲家の菊池一仁は孫。


ディック・ミネが語った あの歌手・このハナシ(序章)

2006-11-29 23:59:18 | 昭和の名歌手たち

ぼくは、ぼくの感性で、ぼくがふれあってきた多くの人たちの"人間味"あふれる部分を紹介したいんだよ。なぜなら、そのふれあいこそがぼくの歩いてきた道なのだから―

なるコンセプトで書かれたのが、この本「あばよなんて、まっぴらさ! 歌も女も生涯現役」(ディック・ミネ:著)であります。

ディック・ミネといえば、三代目日本歌手協会会長で、戦前~戦後の歌謡を代表する大物中の大物であり、この本の出版当時には上には誰もいない状態。
(あえて、上を選ぶなら浅草オペラの伝説的スター歌手・田谷力三あたりか?)
もはやディック・ミネを黙らせることができたのは淡谷のり子だけでした(笑)

そんな訳でありますから、ミネさん、言いたい放題書きたい放題(笑)

当時既に大物だった三波春夫・村田英雄の二人もバッサリ。
特に同じレコード会社だった三波春夫はホントに嫌いだったご様子。
(褒める部分は褒めてますが)

この本、ミネの芸能生活50周年記念自叙伝「八方破れ言いたい放題」(昭和60年)が好評だったための、二匹目のドジョウ、なんですが、これが結構イケます。
「八方破れ~」の補完、ですね。
クスリで早く逝ってしまった仲間の話は読んでいて、切なくなりました…。

芸能人は、(主に)ファンによって神格化されてしまう場合が、少なからずありますが、私、そんな聖人君子なヤツはゴメンコウムリマスm(_ _)m
人間良いところもあれば悪いところもある訳ですしね、良いところばかりじゃツマリマセン、クスッとくるようなハナシがあれば、スゴイというハナシも引き立つもの。

…ということで、これから数回ミネ氏が語った(秘)エピソードを紹介していきたいと思います。


昭和の名歌手たち・徳山(とくやま・たまき)

2006-11-28 00:05:25 | 昭和の名歌手たち

戦前~戦中に絶大なる人気を博しながら、早世してしまったがために、知名度が低い・不当評価に甘んじている歌手は案外多いモノです。
二村定一、楠木繁夫、美ち奴…。
そんな不幸な歌手のひとりが、今回取り上げました、徳山(トクヤマ・タマキ)です。

まず「」、この字からして読み方が難しい。「れん、レン」だろうと思ってたら、
「たまき」とはねえ…。馬鹿まる出し@ハナ肇
私は徳さん知らなきゃ、この「」という字は一生知ることは無かったかも・・・(;^_^ A
この字、マックでは表示されるのかも不安。
まるで選挙ポスター(笑)
これで大丈夫だと思いますが…。

この徳さんとはどういう方かと言いますと
徳山(1903~42)
神奈川県藤沢出身。
昭和三年、東京音楽学校卒業後、武蔵野音楽学校の講師となる。
講師時代の教え子に渡辺はま子がいる。
昭和四年、日本ビクターに入社し、レコード吹き込みを本格的に開始。
昭和五年、流行歌吹き込みの風当たりが強くなってきたので、武蔵野音楽学校講師を退職。クラシック歌手と流行歌手、双方に集中。
昭和六年、映画主題歌『侍ニッポン』、『ルンペン節』が大ヒットし、一躍人気歌手の座につく。
昭和七年、四家文子と吹き込んだ『天国に結ぶ恋』が大ヒット。
昭和九年、皇族懇話会にて、小唄勝太郎、渡辺はま子、藤山一郎らと美声を披露し、「河原乞食」よばわりされていた流行歌手の地位向上に一役買う。
その後も、古川緑波とコンビを組み、映画・舞台出演する一方で、オペラ「カルメン」などに出演。クラシック(バリトン)と流行歌の世界で大活躍。
昭和14年『太平洋行進曲』『大陸行進曲』、昭和15年『空の勇士』『隣組』…と戦時歌謡でもヒットを連発。一世を風靡した。
昭和17年一月二十八日、敗血症のため死去。38歳。
満州慰問での怪我がもと、過労と戦時中の物資不足が祟った死であった。
大柄で豪放磊落そうな見た目とは裏腹、小心者で恐妻家であったと言われる。

こんな状態じゃ徳さんのベスト盤は無いよなァ…と思ってしまいそうですが、何とあるのです、CDで!
昭和を飾った名歌手たち-徳山
まだCDショップに在庫が残ってるところもあります。
いつ、購入不可能になるかわかりませんので、興味のある方はお早めにどうぞ。

そんな徳さんの、私の好きな曲はどんなのかと申しますと…。

ルンペン節
やっぱりコレは欠かせません。
現在CDに収録されているものは、ヒットした数年後に再録音されたものだそうです。
(知り合いの方の話だと、昭和9年に再録音したものだそうです)
オリジナル(昭和6年)版は、ドラムロールと♪でもルンペン呑気だね~ という部分のコーラスがあったりと、再録音に比べると華やかです。
しかしながら、徳さんの唄がイマイチ。特に♪ア~ッハッハ~ といったとこ、ただ歌ってるだけです。これはこれで悪くは無いのですけど…。
どうも音楽学校出のプライドが邪魔をしていた気がしなくも無いですね。
再録音だと、徳さんは頑張ってちゃんとコミックソングとして歌ってます。
そりゃ本職の二村定一、エノケン、ロッパと比べるとアレですけど。
ただこの後もレベルは向上していって、ロッパと見事にやり合うまでになってますから
、もし存命だったら、案外戦後吹き込み直してリバイバルヒットさせたかも。

♪すっからかんの空財布~ でもルンペン呑気だね~
西條八十の詩も楽しい1曲です。

侍ニッポン
作曲の松平信博は、今聴くと実につまらない曲が多いのですが、これは例外のひとつ。中島孝、村田英雄などもカバーした、今も演歌系番組で時折唄われるスタンダードとして見事に生き残っております。
歌い手の魅力で聴かせる曲だと私は思っております。
歌詞の新納鶴千代、「にいの」を「しんのう」と読み方を誤ったまま、吹き込んでしまった話は有名です。原作者・郡司次郎に、徳さん、あとで平謝りだったとか。

隣組
♪ド、ド、ドリフの大爆笑~
そう、『ドリフ大爆笑』のOPで唄われる曲は、この曲の替え歌なのです。
この曲に限らず、ドリフは戦前戦時歌謡の替え歌/パロディを持ち歌にしています。
メガネドラックの♪メン、メン、メガネは良い眼鏡~
これもこの曲の替え歌です。
作詞は岡本一平(岡本太郎の父で、大正~昭和初期に一世を風靡した漫画家)
こういう、「みんなで歌いませう」的曲も親しみやすく歌えるのが徳さんの魅力。

サラリーマンよ
聴けばわかりますが、藤原義江「討匪行」(この曲も聴けばわかります)の替え歌。
こういう下世話的曲を歌いつつ、クラシックって(笑)

天から煙草が
戦場に煙草が降って来る、という凄まじい設定の戦時コミックソング。

天国に結ぶ恋
当時あった心中事件をもとにした映画の主題歌。
四家文子共々偽名で、仕方無しに吹き込むも大ヒット。
批判されるも、二人とも「唄ってるこっちだって嫌だ」と言ったとか。

ガラマサどん
社長(古川ロッパ)の、趣味(下手の横好き)である義太夫に毎晩付き合わされる社員(徳さん)とその妻(江戸川蘭子)の苦悩を描いたコミックソング。
♪あなた今夜も義太夫ね ×××して頂戴ね と江戸川が歌うと、ロッパがそれに一言。これが実に面白い。
隠れた名曲。私は。徳さんナンバーではこれが一番好きですね。
ロッパの歌も、まとめたモノが欲しいところ。

さくら音頭
各社で競作となり、小唄勝太郎・三島一声・徳山のビクターが大勝利に終った曲。
徳さんの音頭モノは珍しい。
吹き込み時の一枚。PCLスタジオにて
しかし、この曲は小唄勝太郎を聴くためのモノで、徳さんは刺身のツマ以下状態(笑)
レコード店には「勝太郎の『さくら音頭』をくれ!」と言って、一般人が殺到した話が残っております。そのぐらい勝太郎ボーカルが素晴らしい。
勝太郎ナンバーでは「勝太郎くづし」と並んで私が気に入ってるナンバー。

歌ふ弥次喜多
古川ロッパとの弥次喜多舞台&映画主題歌。
左は古川ロッパ
軽快な1曲。ピンちゃん(藤山一郎)には歌えまい(笑)

ブム大将
浅草オペラでも御馴染み。
余談ですが、エノケンが歌ったモノも素晴らしい。

やっぱり戦中に亡くなってるせいか、評価が(当時から)不当に低い。
映像も数本の映画程度しか残ってませんしね・・・。
しかしながら、クラシックの世界をこなしつつ、幅の広い活動した、この偉大なる歌手がこのまま忘れられるのは淋しい限り。
話は変わりますが、『努力の歌手』と、私は徳山のことを思っております。
音楽学校出身の徳山が、コミックソングを歌いこなすようになるにはイロイロと大変だったことでしょう…これだけで私は徳さんを買ってます(^.^)
藤山一郎みたいに失笑モノの流行歌を残す歌手は多いですが、徳さんみたいにコミソン主流のような状態になった歌手は他にはまずいないでしょう。
同じ不遇でも二村定一(私も大好きです)はネット間に愛好者が多く、わりと情報が出回ってますが、徳山は「」という字も手伝ってか、あまり情報が無い状態です。
情報が無い=たいしたことがない歌手 では絶対ありません。
歌の幅の広さから、「ゲデモノ」、と言えなくもありませんけど、ゲデモノほど惹かれるとハマるものです(笑)


市丸[この歌に-三味線ブギウギ その2]

2006-11-27 00:02:29 | 我が愛しの芸者歌手たち
前回の続き。

「新しいことをしていないと、芸にカビがはえる」
市丸さんの『三味線ブギウギ』への挑戦は、芸に対する執念とも言えるものだが、その素地は、故郷の長野県松本から上京する頃、既に芽生えていた。

浅間温泉にお酌として出ていた時、客に求められた歌が歌えなくて恥をかいた。それが悔しくて、持ち前の負けず嫌いが、芸の修行にかりたてた。
「あんまり知りません、知りませんでは悔しいものですから、勉強しようと思っていたところ、ちょうど浅草で遊んでいた義理筋の人の世話で浅草に来たんです」
大正十五年、市丸さん十九歳の時だった。

芸者置屋「一松家」のお抱え芸妓として御披露目したが、目的が芸の修行だから、清元は延千嘉丸、宮園節は千市、小唄は春日とよ丸、と、それぞれに名取に上達した。
また、その美貌と美声でたちまち売れっ妓となった。

昭和二年、ビクターが設立され、、「鶯芸者」として、『祇園小唄』の藤本二三吉さん、『島の娘』の小唄勝太郎さんがデビューして、人気を集めた。市丸さんにも白羽の矢が立ち、昭和五年、ビクターの専属となった。

若かりし頃の市丸

ぽっちゃりして甘い声の勝太郎さんは「情」、スリムなからだで、鈴虫が鳴くような澄んだ声の市丸さんは「智」と評され、「市勝時代」の幕開けとなる。二人は同じビクターに所属し、着物で張り合い、ギャラで競った。
仲も悪かった。市丸さんにいわせると、勝太郎さんには、ビクター嘱託の邦楽通として知られる安藤兵部さんが協力者としてついていたのが、面白くなかったらしい。
「なにしろ若かったですからね。何の因果でそうなったのか。いつごろだったかは忘れたけど、わたしが勝っちゃんに『あんたのおでこは広いわね』と言った事があるの。そりゃ怒ったわよ。それからずっと口きかなかった。あの人も負けん気が強かったですからね」

小唄勝太郎


年は勝太郎さんが、二つ上で、デビューも先輩だったが、負けん気同士のぶつかり合いで、ことごとに対立した。
「それにこんなことがありましたよ。勝っちゃんがビクターを辞めてしばらくしたころ、また戻りたいという話があって、わたしにどうだと聞かれた。その時、こう言ったの。『勝っちゃんが戻るなら私が辞める。もうこの歳になって喧嘩は嫌だから』って。そしたら戻ってこなかった」

晩年、勝太郎さんが入院してからは、よく見舞いに行った。
「勝っちゃんが亡くなってしみじみ思うんだけど、あの人が居なかったら、今の私があったかどうか。いいライバルだったし、本当に感謝しています。もし私の方が先だったら、勝っちゃんもきっと、同じことを言うんじゃないでしょうかね」と言う。

勝太郎さんとは、入院中に仲直りしている。





小唄勝太郎=昭和5年レコード初吹き込み、6年ビクター入社。
市丸=昭和6年ビクター入社。
よって、二人はほぼ同期のようなもの。


勝太郎のビクター復帰騒動は、昭和20年代後半~昭和30年代前半と思われる。
結局勝太郎は東芝へ移籍した。
ビクター復帰は、懐メロブームになった昭和40年代。


菅井きんではありません
藤本二三吉(1897~1976)

浅草生まれの江戸っ子。霞町の芸者。
大正十三年よりレコード吹き込み。昭和3年ビクター入社。
市勝時代の到来前のビクターの看板。芸者歌手の草分け。
市勝ばかり優遇するビクターに嫌気が差し、後にコロムビアへ移籍。
コロムビア移籍後は、邦楽を中心に吹き込み。
昭和43年紫綬褒章、昭和50年勲四等宝冠章受賞。
藤本二三代は娘(実娘では無い)。
代表作に『唐人お吉の唄』『浪花小唄』『祇園小唄』など。
小唄勝太郎の代表作である『東京音頭』は、もとは藤本二三吉の歌った『丸の内音頭』である。


市丸[この歌に-三味線ブギウギ その1]

2006-11-26 00:12:59 | 我が愛しの芸者歌手たち

かつて読売新聞に[この歌に]というコーナーがありました。
今回ご紹介するのは、91年7月に掲載された市丸姐さんのモノです。
抜粋してお届け致します。

(中略)
昭和六年、『花嫁東京』でビクターからデビューし、『天竜下れば』が大ヒット、うぐいす芸者として、粋筋はもちろん、歌謡界の人気を集めた市丸さんが、戦後、『三味線ブギウギ』を歌って世間をあっといわせた。昭和二十三年十二月だった。
それまでの市丸さんの歌う歌といえば、純粋の日本調。丸髷姿だから「首を動かしてもダメ」といわれ、いつも不動の姿勢でしか歌っていなかった。
「ちょうど笠置シヅ子さんの東京ブギウギがはやっていて、一度でいいからからだを動かして歌ってみたいと思っていたところに、服部良一先生が曲を書いてくだすったんです」
自分でそう願ってはいたものの、市丸さんにとっては、大変な挑戦だった。裏面もまた、初めて歌う『雪のブルース』。
「そりゃ一生懸命でした。何回も何回も練習して、やっと吹き込みが終った翌日からは、熱を出して寝込んでしまいましたよ」と言う。

市丸さんのイメージをがらりと変えた仕掛け人の服部良一さんは、「市丸さんはきれいだし、リズムに強いから、モダン芸者として当たるだろうと、自身を持ってつくったんです。なにもかも初めてづくしなのに、市丸さんは頑張りましたよ。予想通りヒットしましたが、あとで、中山晋平先生が、時代が時代だからといって、市丸にあんな歌を歌わせることはないじゃないか、と怒っていたそうです」と、当時のことをなつかしむ。

ステージ姿も派手だった。ブギウギだから、笠置シヅ子さんほどではないが、日本髪姿に着物のすそを持ち上げ、踊りながら歌う。
「劇場が変わるたびに、振り付けの先生も変わるから、覚えるのに大変でした。十教わって全部動くと、かんじんの歌詞がおろそかになるもんですから、ごめんなさい、といって少し動きをはぶいたりしたもんです」
昭和二十五年四月、古賀政男さんらとともにハワイ、ロサンゼルスを巡業した時、『三味線ブギウギ』は大喝采で迎えられ、テレビにも日本の芸能人としては初めて出演したほどだ。


(明日へ続く)


楠トシエ特集パート2 「サンデー毎日」(昭和28年9月27日号)

2006-11-25 17:11:30 | 昭和の名歌手たち

先日、楠ビンちゃんの資料を捜索していたところ、貴重な雑誌を入手できました。
デビュー前後の話が載っておりましたので、ご紹介致します。

楠トシエ(テレビ女優第一号)

「和服姿にハイヒールの歌手」
テレビ創業時代のてんやわんやを語る時、必ず持ち出される話だ。
テレビ珍談奇談集のトップを飾るこの小事件の主が、彼女なのである。

NHKテレビが開局して間もなくのこと、あるミュージカル・ヴァラエティのなかで、彼女はイヴニング姿から毒消し売りに早変わりした。2、3分の間に紺ガスリを着こみ、帯をしめ、カツラをかぶりスタジオに飛び込んだ。
アッと気がついた時には、もう遅かったというわけだ。

このときの話を立会った人にきいてみると
「この時、彼女は少しも騒がず、でね。カメラが泡食ってバスト(上半身)に切りかえたら、臨機応変にバストだけで動きをつけながら歌ってのけやがった」
とむしろ、ほめられてる。

しまったと思った途端、カッーとならなかったこと、その場で動きがつけられたこと、このテレビ的な才能とクソ度胸が買われたか、7月1日からNHKテレビ初の専属スターとなった。
去年のクリスマスの夜に初出演、2月1日の本放送から毎週「僕の見たもの聞いたもの」を市村ブーちゃんと二人で続けている。
これだけの乏しい経験だが日本の流行歌手仲間では、まず一番テレビ慣れの部に入る。
だからNTVにとられては大変だとNHKが抱えたのも、それほど不思議ではない。

女学校三年のころからダン・道子について声楽の勉強をはじめた。
やってみると声量のないことが身にしみて悲しい。マイクの使える流行歌手の方が向くのかしらんなどと考えているうちに卒業。
戦争、疎開、洋裁の内職・・・・・・とお定まりの平凡なコースが続いていたが、戦後ジャズの刺激で昔の夢が目を覚ました。

縁あって二十四年五月、新宿のムーラン・ルージュに入ったのが歌で食べるようになった最初である。
ストリップに押されて解散となった二十六年五月までの丸二年間、マイクの設備の悪い、客席にトイレットの匂いが、そこはかとなく、ただよっていたこの小屋で頑張った。
ムーランそのものが、こんなふうだったので、ステージ歌手としての彼女も大して目につかなかったが、ここで"動き"を勉強したことが、どれくらい得になっているかわからない。

ポリドールレコードの専属になったのもその頃である。
当時のポリドールは戦災の痛手から立ち直れず、まさに潰れんとする一歩前にあった。だから何曲か吹き込みはしたものの、そのレコードが出たのやら出なかったのやら、当人さえ、はっきり覚えていない有様なのだ。

こうして当時は彼女の行くところ必ずつぶれるといった始末で、まさに斜陽とともに歩いていた彼女だったのだ。
それを「そういうところにしか入れなかったのさ」などと悪口をいっていた人もあったが、この話、半分は本当の話だった。

これと同じ経過をたどって消えてしまった歌手が何人いるかわからないのに、なぜ彼女だけは浮き上がってきたのか。
まず正直なところ、時節に恵まれたことが第一、二十六年秋に民間放送が始まり、ムーラン・ルージュの残党と一緒にNJBの「新日本劇場」に出演し、ラジオ東京が始まると「ドレミファ・ゲーム」の歌う司会というふうに、だんだん商売繁盛になってきた。
今ではNHK「ユーモア劇場」のレギュラー・メンバーでもある。

これらのどれをとってみても、彼女が一本立の歌手として歌をうたっているのはない。みんな挿入歌であり、役割はショウのなかの歌を引き受けるだけ。
まあ快く承知するのなら頼む方も頼み易いというわけでもあろう。
近頃はやりの言葉を使うなら、彼女は、まさに「中間歌手」という存在なのだ。
彼女が自ら、これを心得ていることが、彼女の存在を明確にした第二の理由だろう。

この世界、一度上り坂になったら、もうしめたものだ。
テレビ俳優第一号は、かくて先刻御承知のとおり、レコードもテイチクからお迎えがきた。映画だって1本とっている。
ところが彼女、このところ斜陽の歌姫に朝が来たようなものだが、実は年中、自信を喪失している。
顔に自信が無い、セリフが浮いてしまう、自分のものを持っていない・・・・・・となかなか内省方である。

外見は小柄で、人気稼業とは見えぬ地味な作りで・・・・・・バスの停留所あたりに立っている若夫人といったところ。
お年は?と紹介するのもエチケット違反かも知れないが、音楽年鑑には「大正十三年生まれ」とある。
テイチクが彼女入社に際して配ったものは「昭和三年生まれ」
もっとも五㍍も離れていれば、レコード会社的年齢も通用するといったところである。



後追いで、何も知らない私には興味深い記述でした。
一応ビンちゃんを評価しているようですが、最後に年齢詐称で思いっきり嫌味かっ飛ばしてます(笑)


ドドンパ誕生秘話(後編)

2006-11-16 21:06:15 | 戦後・歌謡曲
前回の続きを…。

古川さんを中心に、ぼくらは面白がって、ドドンパの宣伝策戦を考えた。
「新しいリズムとかダンスは、いずれはハイティーンに受けなくちゃあかんのやけど、最初の発表会は、祇園のクラブ・ベラミでやろう。京都の大文字焼きの日に、舞妓をぎょうさん集めて、だらりの帯でドドンパ踊らせたら、週刊誌がわっと飛びついて来よるで」

話がきまった。古川さんは早速テイチクに新しいリズムを発表するから、宣伝費を出せと交渉し、予定どおり、八月の大文字焼きの夜、東京からも大勢のジャーナリストを招いて、ドドンパの大発表会が、祇園のクラブ・ベラミで開かれた。デモンストレーション用に、「祇園小唄」をドドンパでアレンジしたものも用意した。

「とにかく変わってますねえ。奇妙なダンスだ」
招かれた記者たちは、呆れた顔で取材して帰って行ったが、舞妓たちが、だらりの帯で新しいダンスを踊る姿は、写真にはもってこいの題材だ。各紙にこぞって紹介された。

だが、ブームとか流行とかいうものは、そう簡単にできるものではない。いくつかの週刊誌に報道されただけで、表面上は、ドドンパは大した反響もまきおこさなかったが、ぼくたちのクラブ・アローでは、毎晩意識的にバンド演奏はドドンパが中心になり、ぼくがお客さんたちに、その踊り方を指導して行くうちに、新リズム、ドドンパは、だんだん関西から関東へと滲透していった。

「なんだか、大阪では変なダンスが流行ってるらしいわ」
東京のハイティーンたちは、こういう流行に敏感である。正式の演奏会にはドドンパのリズムはまだまだ取り上げられるわけにはいかなかったが、東京や横浜のナイト・クラブでは「この店ドドンパやってないの。流行遅れねえ」などと言われると、みんなそうかなと思う。
やがて、何処のクラブでもドドンパを演奏するようになり、翌三十六年の一月ごろから本格的なドドンパブームが始まった。

こういう時、一番当たる戦術は、そのリズムを取り入れた流行歌を作って、流行らせることだ。さすがにビクターは気を見るのに敏だ。渡辺マリさんという新人歌手をデビューさせて「東京ドドンパ娘」というレコードを出した。これがご承知のように大ヒットした。

「ドドンパは誰が作ったリズムか」
という議論がやかましく交わされるようになった。それがまた週刊誌の話題になる。
「本家がアイ・ジョージなどとは、とんでもない大嘘だ」
ビクターが狼火をあげる。ぼくらは面白いから
「冗談じゃない。ドドンパの家元はこっちだ」と反駁する。騒然たるものだった。

だが、ここではっきりしておきたいのは、別にドドンパなどは、新しい薬を発見したのとは違うのだから、どっちでもいいことだけれど、真実はいまぼくが書いたとおりだということだ。
ドドンパは、オフ・ビート・チャチャチャの音型である。
そしてそれはフィリッピンのバンドが日本に持ち込んだものだ。
しかし、三拍目を三連音符にしたのは、誰でもないアイ・ジョージである。
ここのところと、ドドンパと命名したセンスだけは買ってほしい。

それと、もうひとつ。さっきぼくは、新しいリズムを流行らせるには、流行歌が一番効果的と書いた。しかし、ぼくたちはそんなことはわかり切っていたけどやらなかった。
そこを買ってほしい。

なぜなら、ぼくが「東京・ドドンパ野郎」というようなレコードを出したら、もしかしたら何万枚かのヒットになったのかもしれない。
しかし、それは間違っていることなのだ。
歌手に、ある風俗的なもののレッテルを貼ることは、一時期爆発的に人気が出るかもしれないけれど、そのレッテルが逆に一生とりのぞけなくなる。
ぼくたちは、遊びの精神と、商売になるということからドドンパを作って流行らせたけど、アイ・ジョージが、ドドンパと心中するのは、およそむなしいし馬鹿馬鹿しいことだ。だからしなかったのだ、
こう書くといかにも後からうまいことを言っていると思われるかもしれないが、実際そうだ。
「ジョージ。ドドンパは話題やで。君は話題を利用すればいいんだ。話題にふりまわされてはいかん」
古川さんは、何度もぼくにそう注意した。


ということでドドンパ=都都逸+ルンバ説は一蹴

ドドンパ=フィリピン起源
三拍目を三連音符に変更=アイ・ジョージ
命名=アイ・ジョージ


なる真実が40余年の時を得て、あきらかになりました。

それにしてもアイジョージ&その仲間たち、凄すぎる…。
人間、ノッてる時は本当に素晴らしいことを示す話です。

自身が今や『硝子のジョニー』

アイ・ジョージは今何処へ…???
ご存知の方、ご一報下さいm(_ _)m

ドドンパ誕生秘話(前編)

2006-11-15 14:16:55 | 戦後・歌謡曲

昭和歌謡曲が生み出した音楽のジャンルに「ドドンパ」というものがあります。
渡辺マリ「東京ドドンパ娘」が代表格。
ザ・ドドンパ・ソング

他には北原謙二「若いふたり」もドドンパです。
松尾和子&和田弘とマヒナスターズ「お座敷小唄」もアレンジはドドンパ。
三橋美智也「星屑の町」もドドンパ…。
変り種では美空ひばり「ひばりのドドンパ」なんてモノまであります。
神戸一郎もドドンパアレンジで「東京ラプソディ」を吹き込んでいます。
数年前には、氷川きよし「きよしのドドンパ」が登場してました。

この、今も一部に絶大なる支持があるドドンパですが、どうやって出来たのかは諸説あって今も不明です。

今回、アイ・ジョージ「ひとりだけの歌手」(1963年/音楽之友社)に興味深い記述がありましたので、ご紹介させて頂きます。

ドドンパについて書きたい。ドドンパは、さっき書いたような、ぼくのレコーディングの中から生まれたリズムである。ぼくたちはレコーディングのスタジオで、いつもメンバーが集まるまでの時間や、休憩時間に、ドラム、コンガ、ボンゴ、ティンバル、コーバル、ギロ、タンバリンなど、ありとあらゆる打楽器で、即興的にリズムを演奏して楽しむのだ。即興楽器だから、それぞれ勝手なリズムをでっちあげて、
「アイ・ジョージ式リズムだ!」
「変型マンボやで」
「大阪流アフロ・キューバン・リズムや」
と、命名して自慢する。

ある日、ふと誰かが、こんなことを言い出した。
「フィリッピンのペペ・モルト楽団が、変わったリズムをやっとったで」
「どんなんや、やってみいな」
そこで紹介されたのが、チャチャチャを変型したオフ・ビート・チャチャチャである。
二拍目に馬鹿に強いアクセントがあり、奇妙な面白さがあった。

「アローの"ちゃんねえ"(あるホステスのニックネーム)が東京でおぼえて来たダンスもあるそうや」
そう言って、もう誰でもご存知の、あの「ドドンパ」のダンスが踊られた。
「なんや、けったいなダンスやな、びっこの踊りやないか」
そんなことを、みんなでわいわい言い合って騒いでいたが、そのうちにぼくが、突然あることを思いついた。

「三拍目を三連音符にしたらどうだろ。よけい変わって面白いかもしれないよ」
三連音符くらいの用語はぼくだって知っている。やってみた。
ンパ、ドドド、タタ、ンパ……これで一、二、三、四、一、二というくり返しになる。
そこへ古川さんがやって来た。

「古川さん、新しいリズム作りましたよ。どうです、ちょっと聞いて下さいな」
ンパ、ドドド、タタ、ンパ……ぼくたちは面白がって、そのオフ・ビート・チャチャチャを何回もくり返した。
「何かメロディーを乗っけてみんかいな」
よっしゃと、やったろうと、即座にありあわせの楽譜を持って来て「ベッサメ・ムーチョ」を演奏してみた。
「いけるやないか」
「もう一曲、何かやろうか」
今度は、「キエン・セラ」をやってみた。意外に面白い。
「オフ・ビート・チャチャチャでは、名前がむずかしすぎるわな、新しい名前をつけようやないか」
みんな考え込んだ。
「ドドンパ!」
「それや、それがええわ。ドドンパ!いかしとるで。秋田のドンパン節みたいなもんや。純国産リズム、ドドンパ。よっしゃ今年の夏にアローで大デモンストレーションやって大いに流行らしてやろうやないか……」
ドドンパは、こうして、まったく即興的に突如として生まれた。



※アロー=「クラブ・アロー」大阪のナイトクラブ。アイジョージはここの専属だった。
※古川=古川益雄。「クラブ・アロー」支配人で、アイジョージのマネージメント担当。


続きは明日掲載。


お千代節 対 服部メロディー

2006-11-08 08:32:36 | 戦後・歌謡曲

今、70年代の歌謡曲が密かに人気を集めているとか。
こういう「懐メロ」が人気を博すようになったのは、いつからなのでしょう。

私が知る限りでは昭和32年の映画「雨情」で、森繁久彌が歌った「船頭小唄」が最初であるように思います。
その後モリシゲは「ゴンドラの唄」もリバイバルヒットさせています。
この流れも手伝い、34年に村田英雄が楠木繁夫のカバー「人生劇場」を発売します。

昭和36年、ロカビリーで人気を博していた「3人ひろし」の一人・井上ひろしが「雨に咲く花」、これまたロカビリーで人気だった佐川満男が「無情の夢」を、それぞれロッカバラードにアレンジさせ、ヒット。
ですが、そのリバイバルヒットの代表格は、何と言ってもフランク永井「君恋し」。
その年のレコード大賞にまで輝き、リバイバルであることは今では忘れられています。

昭和38年、アイ・ジョージが「戦友」を、反戦歌の意味合いで歌い始め、このあたりから軍歌が再びリバイバルされ始めます。

昭和40年、東海林太郎の、(今で言うセルフカバーの)アルバムが当時の新記録を作る売り上げを出したあたりから、更に戦前~戦後の唄が再び人気を博すようになり、「懐メロブーム」が沸き起こってきます。
このあたりから、藤山一郎の助言もあり、声が出なくなったため、歌うのを止めていた高峰三枝子が再び歌い始めるようになります。
さらに明治百年もあり、そのブームは明治・大正の唄にまで及びます。

昭和43年、「懐かしの歌声」放送開始。これにより、「当時の」歌い手がさらにクローズアップされます。淡谷のり子や藤山一郎あたりのまだ前線で踏ん張っていたものから、すっかり忘れ去られたモノまで、ここぞばかりにみんな復活します。

レコード会社も、懐メロ歌手によるLP、人気歌手による懐メロLP、いろいろ出し、またそれがよく売れていました。古賀メロディーなどは特によく吹き込まれていたようです。

そのブーム真っ只中の昭和46年に一枚のアルバムが出ます。それが今回当ブログで取り上げます、「島倉千代子 服部メロディを歌う」です。
意外にもお千代さんは、このアルバムまで服部メロディーとはわずかに1曲しか縁がありません。これが縁となり、「月蒼く恋は命」(47年)、「あじさい旅情」(48年)と曲提供に至ります。
それにしても昭和歌謡史に残る大物作曲家&歌手がここまでまったく無縁というのは実に面白いです。
まあ、これはお千代さんに限りませんが。
さて作曲家である服部先生は、歌い手のお千代さんをどう思っていたか。
このLPに言葉を寄せています。


大絶賛です。
(まあ、この手のアルバムへ寄せる言葉に批判なんざある訳ありませんが・・・)
やはり気にはなっていたようです。
作曲家は自分のヒット曲を若手の歌手に歌うことを喜ぶ場合が多いです。
オリジナル歌手の歌い方が嫌、という場合も少なからずあるようです。
古賀政男は、森進一が歌う「人生の並木路」で号泣したそうです。
(このレコーディングでは森本人も自身の経験が重なり、号泣したとか)

では、服部先生絶賛のこのLP、私なりの感想を。

お千代さん、服部先生の楽曲と物凄く相性が良いなァ…と。
ホント、もっと早く一緒に仕事をしていたらお千代さんは演歌カテゴリに入れられずにすんだのかも知れなかったのに…と正直残念。

「セコハン娘」など山下毅雄「プレイガール」シリーズのようなスキャットアレンジになっていたり、「雨のブルース」「夜のプラットホーム」はなかにし礼による詩がアンコに挟まり、独自の世界を醸し出しています。
懐メロを今に生かす、というのがコンセプトだったのでは?

服部2代目こと、服部"記念樹"克久編曲による「蘇州夜曲」は語り継がれるべき名カバーで、見事にお千代さんの「蘇州夜曲」と化し、李香蘭(山口淑子)、渡辺はま子(&霧島昇)ともまた違う、完全なるポップスとなっています。

このアルバムは懐メロであって懐メロにあらず、見事なまでに昭和40年代の歌謡曲のアルバムなのである。四半世紀前の楽曲が違和感無く、こういう形に出来るあたり、服部良一がいかに先端を行く素晴らしい作曲家だったかということを痛感。
日本のポップスの父の称号は伊達ではないのです。

ちなみにカマトトムード全開でもあるので、その辺に注意が必要。
淡谷のり子はおそらく「アダス、このシトの歌い方嫌い」と言いそう…。

懐メロを見事にアレンジした、数年前流行だった懐メロカバーブームにも通じるこのアルバム、何とか再販を希望します。
そして、ポップスの歌い手である島倉千代子にもスポットが当たることを祈ります。
昭和40年代の歌謡曲ファンは聴いて損は無いでしょうね。

※曲目
夜のプラットホーム(オリジナル:淡谷のり子、二葉あき子)
蘇州夜曲(オリジナル:渡辺はま子&霧島昇)
風は海から(オリジナル:渡辺はま子)
アデュー上海(オリジナル:渡辺はま子)
銀座カンカン娘(オリジナル:高峰秀子、笠置シズ子)
雨の日ぐれ(オリジナル:二葉あき子)
小雨の丘(オリジナル:小夜福子)
別れのブルース(オリジナル:淡谷のり子)
セコハン娘(オリジナル:笠置シズ子)
胸の振り子(オリジナル:霧島昇)
雨のブルース(オリジナル:淡谷のり子)
花の素顔(オリジナル:藤山一郎・安藤まり子)
湖畔の宿(オリジナル:高峰三枝子)
小鳥売りの歌(オリジナル:松平晃)


尾崎紀世彦「My Better Life」(1979.10)

2006-11-07 10:05:43 | 70年代・歌謡曲

某レコード店でセール最終日だったので、行ってきました。
その戦果の1枚です。

見たとき、まあ値段的にもお手ごろだったのでちょっと手にとって見ました。
「ビーバーエアコン 冬のキャンペーン・テーマソング」
というクレジットがあるところを見ると、これはCMでガンガンテレビでかかっていたんでしょうね。
尾崎紀世彦と冬イメージ的にもまったく合いそうにありませんf(^_^;
しかしながら、作曲・編曲/大野雄二のクレジットを発見。
「歌唱力はバツグンなキーヨとマエストロ・大野のコンビなら大丈夫じゃないか?」
と思い始め、B面の作曲・編曲/木森敏之のクレジットで心は決まりました。
購入決定です。サッサとレジに直行しました。

さて、家に帰っておもむろにレコードプレーヤーにセットし、拝聴。
「VIVA!キーヨ&ユージ・オーノ!」
思わず叫んでしまうことはしませんでしたが(笑)、実に良い作品でした。

尾崎紀世彦の歌は「また逢う日まで」「さよならをもう一度」…熱唱タイプの歌が非常に多い。こんなのばっかりだったから彼はヒットが続かなかったと断言できます。
いくら歌い上げる楽曲・熱唱タイプが好きな私でもゲンナリ…。
(でも「ふたりは若かった」という曲はとてもイイ!)

ところが、この「My Better Life」は絶叫タイプの曲ではまったく無いのです。
ジャズチックなマッタリムードな曲なのです。秋~冬の夜にシックリくるタイプ。
聴いていて疲れない、リラックスムードが漂ってます。
尾崎紀世彦は見事に歌ってくれました。

そういえば、「Summer Love」(アサヒビールCM曲)なんて、マッタリムードだったよなァ・・・。でもアレは夏の曲。

尾崎紀世彦の巧さを再確認できた1枚でした。
彼は決して「また逢う日まで」だけの歌手では無い、素晴らしい歌手なのです。
この曲とか「Summer Love」もテレビで歌って欲しいですね。
毎度毎度「また逢う日まで」(名曲ですけど)ばかりじゃ、いささかウンザリです。
こういう本当にウマイ歌手がCDアルバムはおろかシングル1枚出せないで、某詐欺師の番組で「仕事が無い」なんて発言させるなんて、今の日本の音楽界はどうなってるんでしょうか、ホントに!

ちなみにこの曲は74年「ゆるしておくれ」以来5年半振りにチャートイン。
最高48位・12週・4.5万枚という、それなりの成績を残したのでありました。
復刻は多分無いでしょうね、それが残念。