今だから…昭和さ ある男のぼやき

主に昭和の流行歌のことについてぼやくブログです。時折映画/書籍にも触れます。

歌の世界はどこか夜~松尾和子

2005-07-29 14:40:23 | 昭和の名歌手たち
松尾和子、東京生まれの箱根育ち。
ナイトクラブかどこかで歌っていたところをフランク永井にスカウトされ
「グッド・ナイト」でデビュー。
B面は数年後にヒットし、一昔前のデュエットの定番「東京ナイトクラブ」
デビューで両面、ビクターの期待の星だったことは容易に想像がつく。

第2弾シングルがあの名曲中の名曲、「誰よりも君を愛す」。
この歌はアレンジが素晴らしい。イントロが特に。
詞も実に川内康範らしいもの。

そしてソロで「再会」のヒット。

私だけなのだろうが、「誰よりも君を愛す」「再会」この2曲は2番の歌詞が印象深い。テレビなどでは1・3番を歌うことが多いのだろうが、松尾の場合は1・2番を歌うことが多かったような気がする。間に合ってないので判らないが…。
両曲とも2番が肝、そう思えてならない。

松尾和子の歌にはどこか影がある。
彼女以外誰にも醸し出すことが出来ないムードだ。
「東京ナイトクラブ」のパフォーマンスがいい例である。
そのせいなのか彼女のヒット曲は昼のイメージが無い。
せいぜい「お座敷小唄」、これも夜の宴会のイメージだ。
トークはざっくばらんだったそうだが、歌のマイクを握ると夜の帳が下りる。
ムード歌謡の女王と言われるわけである。

作曲家の吉田正は松尾が早世したことを悔しがっていた。
「今こそ、松尾に歌ってほしかった歌があるのに…」と。
まさにその通り、病気ではないだけに、なおのこと惜しまれてならない。


余談であるが晩年の吉田は由紀さおりを絶賛していた。
彼女が歌った松尾和子ナンバーにいたく感動したとか。
そこに亡き松尾とは違う夜の空気を醸し出すムードがあったのだろう。
残念ながら、松尾の吉田作品を由紀さおりがレコーディングする機会は未だ無い。
吉田正はビクター専属、由紀さおりは東芝EMI専属という壁があるからだ。
吉田作品の吹き込みも超法規的措置で「お先にどうぞ/嘘つき」というシングルをビクターから出しただけである。
(あとは安田姉妹名義のアルバムで「寒い朝」だけである)
ぜひ「由紀さおり 名曲を歌う」といった趣のアルバムを出してほしい。
松尾和子や美空ひばり作品をしっかり自分色に染めて、聴かせることができる
数少ない歌手であるから…。
ピアノ1本で、姉と、という安っぽいことはしないで、バンドの演奏で。

「二人でお酒を」革命~梓みちよ

2005-07-28 11:51:22 | 昭和の名歌手たち
梓みちよはナベプロが力を入れてデビューさせた歌手である。
当初は「ボサノバ娘」をキャッチフレーズだった。
その後、田辺靖雄との「ヘイ・ポーラ」がヒットする。
通称「マイ・カップル」、他にも「けんかでデイト」「いつもの小道」をこのコンビでヒットさせる。
そんな中、本当は永六輔のこの誕生を個人的に詞を書き、中村八大が曲をつけた曲が梓に転がり込む。

「こんにちは赤ちゃん」
このささやかながら言いたいことはしっかり言っている詞、口ずさみやすい曲。
人気テレビ番組「夢で逢いましょう」の今月の歌として、世に出たこの歌は話題となった。そして、本命と言われた畠山みどりの「出世街道」を押さえ、レコード大賞を受賞した。梓みちよの健康的なイメージも定着した。

だが、実際は酒もタバコも麻雀もたしなむ梓はやりにくかった。
「私はこんな女じゃない」、やがて曲も売れなくなってきた。
やがて自分のイメージを作った「こんにちは赤ちゃん」を憎むようにもなった。
そして、徐々に自分のイメージを変えていこうと決心した。

「新婚さんいらっしゃい」の司会もイメージチェンジに一役買った。
だが、やはりこの曲なくしてイメージチェンジは語れない。
「二人でお酒を」
この曲は平尾昌章が自身のリサイタル用に書き下ろした作品だった。
それを聴いた梓が是非にと希望し、レコーディングしたのだった。
当時は歌謡曲全盛時代、毎日どこのテレビ局でも歌番組があった。
梓のあぐらをかくパフォーマンスは視聴者の度肝を抜いた。
大好評だった、見事に梓は「大人の女」にイメージが変わった。

この曲のヒットに、ザ・ピーナッツはショックを受け引退の意思をより強くしたと言われている。「ここまでは私たちに出来ない…」

昭和49年の紅白歌合戦では紅組司会の佐良直美以外全員が応援であぐらをかいて
梓の歌に花を添えている。
さらに余談だが、今の女性があぐらをかくことは普通の光景となっている。

その後も「大人の女」路線を突き進み、「淋しがりや」「あかいサルビア」「メランコリー」「よろしかったら」などをヒットさせる。
「良い歌だから」と後輩の歌も躊躇することなく、ステージで披露したり、アメリカで本場の舞台を見て自身の物にしたり、芸の精進は怠っていない。
そのため、レパートリーは広い。
歌は、自信が感じられる歌唱が嫌いという方もいるが、やはり巧い。
「梓みちよの世界」をしっかり確立しているため、カバーも安心して聞ける。
宝塚出身だけあって、もとの芸がしっかりしているのも大きいと思う。

コンサートでは長年「こんにちは赤ちゃん」はあまり歌いたがらなかったが、アメリカでの公演の際の反響がきっかけで、自分の浅はかさに気がついた。
そう40周年のコンサートの際に話している。
「『こんにちは赤ちゃん』が元キーで歌えなくなったら引退する」とも発言。
今は披露するようにはなってきたと思われる。

最近はあまりテレビで見かけないが、たまには良い歌を聞かせて欲しい。

蘇った伝説のステージ~CHIEMI IN Los Angeles

2005-07-28 01:30:39 | 江利チエミ
江利チエミのステージは、その殆どが聴衆の記憶にしか残っていない。
映像の類は30thアニバーサリーの(おそらく)東京公演が若干現存の可能性がある
だけという半端じゃないくらいのお寒い状況だ。
音源も4・5ステージのみ現存。復刻された物も今では廃盤で入手困難である。

そんな中、「もう一度、チエミのステージを見たい、せめて聴きたい」「一度、チエミのステージを見たい、せめて音源を…」とファンが思っていた最中、このニュースが入ってきた。

 戦後、ジャズ歌手として活躍し「サザエさん」役でも人気のあった江利チエ
ミさん(1937-82年)が晩年に残した米国公演の録音テープが2日まで
に、東京都内の親族宅で見つかった。
 テープはチエミさんが自身で聴くために録音したもので、存在は知られてい
なかった。一時、結婚生活を送った高倉健さんの「唐獅子牡丹」を熱唱するな
ど異色の内容で、21日発売のCDボックスセット「江利チエミ 歌の宝石
箱」(キングレコード)に初めて収録される。
 テープを保存していたのは、チエミさんの義母の久保多紀子さん。公演はチエミさんが死去する約2年前の1980年5月、ロサンゼルスで行われ、チエミさんにとって最後の海外公演となった。久保さんはテープを仏壇の近くに保存しており「チーちゃんは気に入らない部分だけを何度も巻き戻して、音が変わるまで再生していました。努力の人でした」と話す。

何と幻中の幻のロス公演の音源がソフト化!
これはワイドショーでも報道された。

音が悪いのでは?モノラルでは?
キングレコードが気合を入れて、リマスタリングなどを行なってくれたお陰で予想以上に良い音で、そしてステレオで聴くことができた。
残念ながらトークは殆どカットされてしまっていたが、収録時間の関係上、仕方ないだろう。

肝心の内容だが、素晴らしいの一言に尽きる。
チエミのボーカルも晩年とは思えないくらい絶好調。
バンドのロサンゼルス・ユニオン・オーケストラの演奏の良さ、さすが本場のバンドである。
この公演では在留日本人や外国人向けにチエミ十八番の民謡を数多く歌っている。
(これはチエミのステージでは珍しいらしい)
これが本当に良い。オープニングは花笠音頭(余談:同じ会社の三橋美智也の公演の最後はこれ)から始まるのだが、にぎやかなOPにこれから始まるショーへの期待も高まる。そこから怒涛の勢いでチエミ民謡の連続。一般ファンには堪らない。
そして十八番の中の十八番「さのさ」を早めに披露。

秋田民謡「ドンパン節」では会場の客にマイクを向ける。
ここでのチエミのトークが、人柄を感じさせる温かい、そして機転の利く人であったことを感じることが出来る。

第2部(?)ではチエミ以外はほぼ不可能な芸当である「歌の勧進帳」と称した20数曲のポップスメドレーを披露する。

懐かしの唱歌「叱られて」では望郷の念・幼少時の思い出を呼び起こさせる。

コアなファンも一般ファンも大喜びの、披露の機会は少なかった、人気ドラマ「咲子さんちょっと」、加藤剛との競演の『黄色いトマト』主題歌の「愛はひそかに」
を、さらに、あの、江利チエミと言えば、の「サザエさん」までのサービス歌唱。

江利チエミの実力を感じさせる戦後歌謡曲メドレー。
最後は「唐獅子牡丹」を披露し、沸かせる。

「酒場にて」でのバンドの演奏の良さ。
「新妻に捧げる歌」では神々しさ。
最後のあいさつの台詞がまた泣かせる。
まさかこの約2年後にああいうことになるとは…残念無念である。

CDに収録された分では、チエミは民謡・俗謡・唱歌を13曲も歌っている。
そしてさらにメドレーで洋楽を20数曲連続で歌い上げている。
どちらも並みの歌手では100%不可能な芸当である。
おまけに前者もヒット曲、後者もチエミのヒット曲である。
ここまでレパートリーが広い歌手は他にいない。
何より「ヒットさせている」、さすがのひばりも洋楽はヒットはしていない。
何事も一生懸命で、何でもモノにしてしまう。
そんなチエミの努力の結晶がこのロス公演に十二分に生きているよう思える。
少なくとも私は、残っているステージ音源ではこの音源が最もよく愛聴している。
リアルタイムで体験できなかった私にとって、この音源は特に宝物である。

ぜひBOXの中から、アルバムカット(?)して、普通のアルバムとしての発売し、より多くの人に聞いていただき、凄さを感じていただきたい。そう思う。

追伸
最近、美空ひばりのラストステージ音源もソフト化された。
ぜひそちらも聴いてみたい。もしかして、ソフト化はこの音源がきっかけかも。
少々辛いのだが。

ジャパニーズ・ブルース~田端義夫

2005-07-27 14:02:05 | 昭和の名歌手たち
田端義夫、大正8年(1919)の元旦生まれだから、86歳。
未だに現役で、時折、NHKやテレビ東京でお目にかかれる。
歌手の中では現役最年長クラスに属する。
戦前から活躍するスタァ歌手、最後の生き残りでもある。

ちなみに同年代の現役男性歌手では他に高英男(シャンソン歌手、1918年生まれ、デビューは田端より遅い)がいる、女性歌手では青葉笙子(上原敏と「鴛鴦道中」)や小笠原美都子(元祖「十三夜」)がいる。

しかし、この三人と田端の違いは、田端は「現役」であることをアピールし続けていることにあると思う。
(あと田端のヒットの多さは群を抜いている)

もう「過去の人」扱いの中「島育ち」のヒット。
1970年代、もう「懐メロ歌手」かと思いきや、沖縄海洋博の頃には「十九の春」を歌い、ヒット。紅白出場の話もあったらしい。
そして伝説のラスベガスでの大当たり。

最近では84歳10カ月でレコーディングをして、アルバムとして発売してしまう。
インディーズではなく。
さらにテイチクの70周年コンサートにも堂々の特別出演。
年下の菅原都々子(この方のキャリアは田端より上)の出演は無い。

ステージに立つということは、精神的にも体力的にもある程度無いと厳しい。
それをこの年齢まで続けている。
もはや「声が出る、出ない」という次元を超えて、凄いとしか言いようが無い。
おまけに田端の場合、ギター演奏付きである。
たいしたものだ、同年代の人間にここまでやれる人が何人いますか?
そう考えると田端の凄さが少しは理解できるのではないだろうか。

田端の目標は90(88?)歳までは現役、だそうだ。
そう言わず、日本の現役歌手記録(あるのか?)を塗り替えて欲しい。

話は飛ぶ。
田端ははっきり言って声量があまりないように思う(若い頃から)。
だが高音の伸びがいい。
元祖ブルース歌手といってもいいのではないだろうか。
私が最も好きな田端の歌は「玄海ブルース」。
泥臭いようでそうではない名曲だ。
テレビでは最近は「かえり船」「島育ち」「大利根月夜」のローテーションとなって、あまり披露される機会はないが、機会があったら御一聴いただきたい。

最後に…バタヤン・森光子・モリシゲの3人組はこのまま不死鳥の如くいるように思えてしまうのは私だけだろうか。

時代の顔~佐良直美

2005-07-25 11:39:19 | 昭和の名歌手たち
佐良直美がデビューしたのは昭和42年5月。
デビュー曲の名は「世界は二人のために」
未だに歌い継がれるヒット曲で、数年前にはCMにも使われた。
その後も「私の好きなもの」「すてきなファニー」「愛の結晶」「ギターのような女の子」
と中・小ヒットを出していた。

そして、69年7月「いいじゃないの幸せならば」発売。
あの時代にあったどこか虚無感が漂うフォーク調歌謡曲である。
「歌は世につれ」、その言葉を証明するような1曲。

ちなみに69年のレコード大賞歌唱賞(大賞候補曲)は
・池袋の夜(青江三奈)
・港町ブルース(森進一)…最優秀歌唱賞
・ひとり寝の子守唄(加藤登紀子)
・人形の家(弘田三枝子)
そして、「いいじゃないの幸せならば」(佐良直美)
この年の他のヒット曲は
・夜明けのスキャット
・雲にのりたい
・長崎は今日も雨だった
・みんな夢の中
・京都・神戸・銀座
・禁じられた恋
・君は心の妻だから
・グッド・ナイト・ベイビー(これはまだ明るい)
・恋の奴隷
・時には母のない子のように
・初恋のひと
・ブルー・ライト・ヨコハマ
・夜と朝のあいだに
・真夜中のギター
・風(これはまだ明るい)
・フランシーヌの場合
見事に「夜」や「暗さ」という言葉で括ることができる。
私は生まれていないので、この時代の空気はわからない。
だが、「いいじゃないの幸せならば」がこの時代を最も濃く表したものに思えるのだ。
そして、あまりに濃すぎるがゆえにあまり歌い継がれないように思える。
だが、この虚無感、今でも十分に通用する。いや今だから再び通用する。
そう思えて仕方ない。

大賞受賞後も「どこへ行こうかこれから二人」「赤頭巾ちゃん気をつけて」
当時の人気テレビドラマ「肝っ玉母さん」の主題歌、盆踊りの定番「二十一世紀音頭」など
歌の仕事もしてはいたが、大賞のジンクスもあってか、ヒットは出せなくなる。
そのためか紅白では洋楽を歌っていた。「オー・シャンゼリゼ」「ラブ・ミー・テンダー」「ハウンド・ドッグ」「オブラディ・オブラダ」…。
「世界の音楽」「サウンド・イン・S」と言う歌番組の司会者だけある。
歌いこなすのには歌唱力がなければチープなものに、しかし彼女はそういうことはなく、硬軟どちらの歌い方もでき、好評を博した。
最後ののヒットはスチールギター入りカントリー・フォーク「ひとり旅」、美空ひばりも持ち歌にしていた。

しかし、作詞・作曲をこなす上に素晴らしいタレント性を持っていた佐良の人気は衰えることは無かった。
国民的人気ドラマ「ありがとう」にも全シリーズ出演。
さらに国民的行事「NHK紅白歌合戦」にも67年から79年まで実に13回連続出場。
そのうち72・74・75・76・77年は紅組司会も担当し、好評を博した。
今観ても、小気味いいしゃべり口・ユーモアセンス・盛り上げ方…実に素晴らしい。

残念ながら80年ごろに吹き出した問題で芸能界に嫌気がさしたのと声帯ポリープを痛めたのが原因で、佐良は事務所を閉鎖した。それは事実上の引退である。

ただ、今でも石井ふく子の舞台「初蕾」では佐良の作曲した音楽が使われている。
まったく芸能界から縁を切ったわけではない。

冷たいのは所属レコード会社のビクター。
ベスト盤ひとつ発売していないというあの当時を代表するスターとは思えない対応である。
以前8曲入りのベスト盤は出ていたがもう廃盤である。
そんな中、<COLEZO!>シリーズの中で「素晴らしいフォークの世界」が復刻された。
なぜベスト盤より先にマイナーなアルバムなのか、理解に苦しむ。

「素晴らしいフォークの世界」自体は半分が当時のヒット曲のカバー、半分は書き下ろしである。
カバー作品・書き下ろし曲、共にレベルが高く、なおのこと、佐良の歌の総決算のようなBOXの類のもの、せめてベスト盤の発売を、そう思わずにはいられない。

吹けば飛ぶような将棋の駒~王将

2005-07-20 20:02:28 | 60年代・歌謡曲
「王将」、国民歌謡と言っても過言は無い名曲中の名曲である。
この歌は他の歌よりも様々なドラマがある。

昭和33年、歌謡界に古賀政男の強力なバックアップでデビューした村田英雄。
デビュー曲は「無法松の一生」、B面は「度胸千両」。
今でこそ、どの演歌歌手も歌っているこの曲であるが、当時は全く売れなかった。
スタッフ一同「あれ?」である。天下の古賀政男を力を入れているのにも関わらず、この結果。
それでも月に一枚のペースでレコードを発売していった。
だが、売れたのはリメイクの「人生劇場」程度だった。
まだ、NHKからのパージは解かれていない。
そのため、紅白歌合戦には出場できず。

さすがの村田英雄も焦り、一度は諦めて故郷へ帰ったこともあった。
「人物だけを扱う自分の路線に問題があるのだろうか」
しかし村田はやはり人と人とが織り成す光と影のドラマを歌いたかった。
自分の浪曲の師匠・酒井雲もそうだったように…。
腹が決まった頃、プロダクションから連絡が来た。
「服部良一先生で1曲やってみることにした。戻って来い」
何と題材はチンギス=ハン。やっぱり曲は売れなかった。

そうあれこれと模索している頃、船村徹のコロムビア移籍の一報が入った。
「船村徹でやってみないか」
ディレクターの斉藤氏が、村田のプロダクションの社長・西川幸男に持ちかけた。
「船村はいい。でも古賀先生はどうするんだ。服部先生とは勝手が違うぞ」
「それはあんたのほうから、古賀先生に話をしてくれ。我々がそんなことを言ったらクビが飛んでしまう」

その夜のうちに西川は古賀邸へ向かった。
彼も村田の売り込みに必死だった。
当然のことながら古賀政男は激怒した。
「君も村田君も浪曲師出身だろう。義理と人情を大事するのが浪花節だろう。帰れ、帰りたまえ」

一応は言いに行ったのだから…と西川は製作にOKを出した。
もう水面下では進んでいたが。
無論、失敗は許されない。
しかし、まだ曲の完成までにはひと山あったのである。

作詞の西條八十である。
彼が詩を書いてくれないのである。
村田と西川は何度も世田谷の西條邸へ出向いた。
「先生、お願いします」
「ダメだ、俺は美空ひばりや島倉千代子とか、女の歌しか書かないんだ。帰れ」
何度も門前払いを受けた。

やがて何度も頼み込みに行くうちに西條の対応が変わってきた。
「君の人間性もわからないのに歌なんか書けるか」
男の歌は書かない、最初に比べて、脈が出てきた。
数日後、とうとう西條は二人を屋敷へ入れ、話を聞いたのだった。
しかし、答えはノーだった。

それからも村田は西條邸へ出向いた。
ある日、通り雨に逢い、西條邸に着く頃にはずぶ濡れになってしまった。
玄関の庇をを借りて、少し乾かしてから…そう思っていたとき、西條夫人が出てきた。
「あら何ですか、そんなところで。雨が降っているのに大変ね。お上がりなさい」
「どうもすみません。あの先生は」
「まだ寝てますよ」
「今日はぜひともお会いしたいのですが」
「あなたも本当に辛抱強いのね。わかったわ、ちょっと待ってて頂戴」
夫人が2階へそう言って、駆け上がって行った。

しばらくして、西條が降りてきた。
「君も本当にしつこい男だね。ダメだ、男の歌は。いやだ」
「先生、そう言わずお願いします」
「第一、私は君という人間をよく知らないから歌など書けない。何度も言っとるだろう」
「では先生、私という人間をじっくり見ていただけませんか。今日はトコトン話をさせていただきます」
「仕方の無いやつだ、本当に。じゃあ、今晩、飯でも食おう。それでいいか」
「はい、お願いします」

しばらくして、二人はつくし亭へ向かった。
村田が西條のモトに通いつめ、やっと実現した1対1の対話の時間だった。
「君は飲むんだろう」
「ええ、先生もお飲みになるんでしょう」
「私はほんの少しだ」
村田が西條から貰った盃を飲み干し、料理に手をつけている様を、西條はじっと観察していた。

「君には好き嫌いが無いのか」
「はい、ありません。何でも食べます」
「それにしてもよく飲むな」
「そうですか。そうでもないですよ」
村田の態度に、徐々にほぐれてきた西條も、やがてこんなことを言った。

「村田君、君は恋をしたことがあるか」
「ええ、もちろんですよ。何度もあります」
「そうか。…私はね、心中をしたことがある」
「先生が?へえ」
「今の女房と一緒になる前、米国に好きな女がいてな。桑港で一緒に川に飛び込んだんだ」
「やりますね、先生」
「ところが、飛び込んだら、背が立っちゃてな。浅かったんだな、川が」
「ワッハッハ」
「アハハじゃないぞ。あんなにバツが悪かったことは無い。心中は未遂に終り、私はこうして今も
生きている。人生なんて不思議なもんだ。あの川がもっと深かったら、今の私は無い」

会食が終わる時、西條は村田に言った。
「村田君、君はなかなか面白い男のようだ。一週間後にまた来るといい」
「と、言うと曲を書いていただけるということですか」
「ああ、やってみよう」
「ありがとうございます、先生。ありがとうございます」

それから一週間後、村田は再び西條邸へ。
2階から降りてきた西條は1枚の原稿用紙を村田に手渡した。
「できましたか」
村田は胸を躍らせて、原稿用紙を見た。
1行、「吹けば飛ぶような将棋の駒に」、それだけだ。
裏もひっくり返してみたが、何も書いていない。
「裏になぞ、書いてやしないよ」
村田の行動を見て、西條は言った。
「たった一行だけですか」
「そうがっかりするな。出だしが肝心なんだ。この1行が歌の全てなんだ。これを作るまでが大変なんだ。いい出だしができれば、その後の詩も自然といいものができる。大丈夫だ、この1行には自信がある。良い歌が出来る。」

それからしばらくした後、詞は完成し、船村徹の曲も出来上がり、唄のレッスンが始まった。
船村・村田、共に酒好きで、船村は村田の顔を見るたびに「一杯飲むか」と言い、レッスンが始まる頃には二人とも大分酔っ払っていた。
そんな二人の姿をじっと見ていたのが、船村の弟子・大野穣。
のちの北島三郎、その人である。大野もデビュー後は新栄プロに世話になることになる。
その北島は後にこう語っている。
「『ああ良い歌だ。俺がこの歌を歌うことができたらどれだけ幸せだろう』、そう思ってました」

そんなレッスンを2週間し、レコーディングに望んだ。
ついに芽が出た、この歌は徐々に評判を上げていき、ロングセラーとなり、昭和37年には戦後初のミリオンセラーを突破した。この年のレコード大賞特別賞も受賞した。
そして、相乗効果で他のシングルも売れた。
ここにきてやっと「無法松の一生」も知られるようになるのである。

「王将」発売は昭和36年の晩秋。始めからの大ヒットではなかった。
どうやら、まずは名古屋からのヒットらしい。
そして、九州・四国。
さらに昭和36年、念願の紅白歌合戦初出場の際に「王将」を歌ったことが東京での人気に火をつけた。
昭和37年6月、東京の歌舞伎座にて60万枚突破記念祝賀会が開かれた。
「王将」人気で、仏でもフランス人歌手が歌うということで立会いに行っていた船村も急遽帰国。
ヒットを祝った。
このときの前歌がプロ初舞台となったのが北島三郎・新川二朗の二人である。

ところが、そのヒットの真っ只中、とんでもない事件がおきていた。
戯曲「王将」の作者・北条秀司氏からのクレームだった。
浅草国際劇場での公演初日、あと一時間で幕が開く、そんな時だった。
村田は、坂田三吉に扮する10分間の一人芝居の練習をしていた。
「王将」のヒットでロクに稽古の時間がとれず、どうやら形になりそうだ、と思った矢先だった。
「ごめんなさい、中山です」
そう言って、一人の男が入ってきた。しかし村田はそんな男は知らない。
反応できずにいると
「北条秀司のところの中山です。あなた、村田英雄さんですね」
「そうですが」
「今日、幕、開けさせませんよ」
「どういうことですか」
「うちの先生の作品を何の断りも無く、歌にしたり芝居にしたり、いったいどういうつもりなんだ。天皇(北条秀司氏)がカンカンに怒っていますよ」
その言葉を聴いたとたん、周りの人間は逃げた。
公演初日、コロムビアの重役も来ていたが、皆逃げた。
村田一人がその男に事情を聴く。
「ちょ、ちょっと待って下さい。私には何が何だかサッパリ分からない。いったいどうすればいいというんですか」
相手は一人、その男はいっそう居丈高に言った。
「だから、今日の公演はやらせないと言っているんだ。ふざけたマネをするな。コロムビアに言ってもラチがあかない。歌っているのはあんたなんだから、あんたに責任をとってもらうしかないだろう」
村田は今の事情を説明し、公演をやめることはできない、そう言ったが相手は
「そんなことは知らん。こっちは新国劇の舞台も止めたことがあるんだ」
その後、間に入った人の調整で、著作権料200万の支払いとしかるべき人物による北条秀司氏への挨拶、ということで決着が付き、無事(?)、幕は開いた。

1週間後の公演の終了後、村田は北条秀司氏へ挨拶に出向くことになった。
コロムビア関係者が北条氏に恐れをなして、誰も行こうとしなかったためである。
「さて、誰が…」そんな会話が飛び交っていた時、北条側から連絡が来た。
先方の要望は、人気番組「スター千一夜」(フジテレビ)に出て、仲のよいところをアピールしたい
、そういうものだった。
「なぜ私がそこまでする必要があるんだ。冗談じゃない。絶対に嫌だ」
村田は抵抗した。
が、コロムビア関係者に拝み倒され、仕方なく村田は河田町のフジテレビへ。
楽屋で北条氏と初対面した。
村田が自己紹介すると
「ああ、あんたが村田英雄か。私の作品をえらい宣伝してくれてるらしいな」
と皮肉めいた言葉。村田もさすがに腹に据えかねた。
「先生、ぶしつけかも判りませんが、私は筋の通らないことには我慢がならない性分なので、今回の事で言わせていただきたいことがあります」
すると北条氏は手を挙げて村田を制した。
「わかった、わかった。もう何も言うな。それ以上言うな。私もだいたいの所は若い衆から聞いているから、君の言いたいことは分かっているつもりだ。今日はとにかく、二人で仲良くテレビにでようじゃないか」

そして本番中、北条氏はこう発言した。
「今後『王将』に関して、村田君がどこで何をやってもかまわない。私が許可する」
全国ネットで村田に特権を与えたのである。
「この発言もさらなるヒットの影響を与えたのでは」、村田は後年、回想している。
「その代わりといってはなんだが、村田君、アレを書くのには私も相当苦労したんだよ。だから汚さないように頼むよ。君を信頼しているから、しっかり頼むよ」
さすが、大物である。
こうして、この「王将」騒動は一件落着したのだった。

さて、この「王将」。
ヒット当時、ただ一人面白くない思いで見ていた人がいた。
作曲家の古賀政男である。
ヒット当時、とあるパーティーである男が古賀に対してこう言ってしまった。
「先生、さすがですね。凄い勢いですね。大ヒットですよ『王将』」
「あれは私の曲ではない」
温厚な古賀政男をその一言で怒らせてしまった。
なお村田と古賀が和解するのはそれから数年の後である。
(昭和40年ごろまでに和解していると思われる)

「王将」、今でもその歌の魅力は色褪せない。
昭和歌謡史上、最高の応援歌の1曲である。
そのヒットした理由は、詞・曲・唄の三拍子が文句なしに素晴らしいことにつきる。
♪飛ぶような将棋の駒に の最初から盛り上がりを見せる部分なぞ、たまらない。
しかし、三人は将棋が出来ない(知らない)。
だから、西條は♪吹けば飛ぶような将棋の駒に という一節が書けた。
なお、西條・村田・船村の三氏はヒットの功績によって、名誉初段を贈られている。

だが、私はこの歌を他の歌手の歌で聴いて良いと思ったことは無い。
美空ひばり、ちあきなおみ…私が好きな歌手の歌を聴いてもだ。
この歌には村田英雄が欠かせない。
村田英雄無くして「王将」無し、「王将」無くして村田英雄無し。
そう思う。

(私は村田英雄ファンですので一通り歌は知っています、他の歌も大好きです。
ただ、この歌が半端じゃなく偉大であるだけです)

そして歌は生まれた~別れの一本杉

2005-07-20 14:52:27 | 戦後・歌謡曲
戦後歌謡史に残る大偉人、キングレコードの大看板、春日八郎。
彼が一躍スターダムになったのは昭和29年8月発売の「お富さん」である。
勿論、デビュー曲「赤いランプの終列車」「街の燈台」「雨降る街角」などは、既にヒットしていた。
が、売れ方が「お富さん」は違った。
それまでの最高のヒットが70万枚だったのが、いきなり65万枚。
時はジャズ全盛期、キングでも江利チエミが大人気。
そんな時代にぴったりの明るく、うきうきとした曲は見事にあった。
「歌は時代を映す鏡」、まさにその通りであろう。
そのヒットをさげて、国際劇場で初ワンマンショーを開いた。大盛況。

しかし、他の曲が売れないのである。
「瓢箪ブギ」「裏町酒場」「妻恋峠」「男の舞台」「ギター流し」…小・中ヒットはあった。
が、所詮「お富さん」を超えるヒットではない。
どこへ行っても「お富さん」、後の歌がすっかり食われてしまう。
やがて、「『お富さん』が消える時、春日八郎が消える」と言う声も聞こえてきた。

同じキングレコードでも
戦前からの大ベテラン・林伊佐緒は「真室川ブギ」などを当て、まだまだ健在。
昭和18年デビューの先輩・津村謙は「あなたと共に」のデュエットがヒット。
年下の先輩・江利チエミも「ウスクダラ」「パパはマンボがお好き」…快進撃は続いていた。
大津美子、ペギー葉山、若原一郎(先輩だが)といった新人も出てきた。
何より、最高の好敵手・三橋美智也が「おんな船頭唄」のヒットでスターダムに。

春日は焦っていた。
新曲を吹き込んでも「売れないだろう」と思うようになっていった。
やがて口数も少なくなった。いつも暗い顔をしているようになり、ますます言われた。
「『お富さん』と共に彼はオシマイだ。」

そして、ヒグラシの声も絶え始めた季節、奇跡は生まれた。

「あのう…」と全く見知らぬ人に呼びかけられた。キングレコードの廊下でだった。
「春日八郎さん、で・す・ね」
「そうですが…」
「実はぼく、作曲しているんです。いま、3曲くらい持っているんですが、聞いていただけないでしょうか」
「……」
「ぼくはピアノが無いから、ギターを弾きます。ぜひ聴いて下さい」

この男こそ、後の大作曲家・船村徹だった。
彼も売れるため、必死だった。
春日もだ。
「もしかしたら、今の俺の悩みを吹き飛ばしてくれるかもしれない」

早速、彼の曲を聴いてみた。
「う~ん、この『別れの一本杉』というのはいい。この曲をぜひ私に歌わせてほしい」
「ええっ、本当ですか」
それはそうだろう、聴いてもらうだけでも大変なのに、まして歌わせてほしいである。
「これはいける。絶対いける。この曲でまた勝負したい」
自分に言い聞かせるように、春日はつぶやいていた。

当時は歌謡界でも世代交代の時期だった。
藤山一郎などの戦前の大スターのヒットが落ち着き始め
戦後デビューの歌手が出始め、新しい歌謡曲が出来始めていた。
その中でも「故郷歌謡」というものが売れ始めてきていたのだった。
そんな中での「別れの一本杉」だった。

春日本人が大いに乗り気だったのに加え、当時のキングは「故郷歌謡」に力をいれていた。
あっさりとレコーディングすることができた。
船村が、春日と同じような下積みをしていたことや、春日の妻と同じ学校だったことも幸いした。

時代の波に乗った「別れの一本杉」は見事にヒットした。
そして、「故郷歌謡」の代表曲となり、永遠のスタンダード歌謡へとなった。

この歌のヒットによって、「春日八郎」の名は不動のものとなった。
その後の活躍はここに書くまでも無いだろう。

「好きな歌が売れる。これほど嬉しいことはない」彼は後に語っている。

函館山から… 美空ひばり

2005-07-20 00:30:38 | 80年代・歌謡曲
私は函館の生まれだ。
函館のご当地ソングといえば「函館の女」(北島三郎)、「立待岬」(森昌子)。
微妙なところではあるが「函館本線」(山川豊)、「港町ブルース」(森進一)もそうであろう。
他に「函館ブルース」(小野由紀子・青山和子)という歌もある。

この「函館山から」は、女王・美空ひばりの40周年記念曲として発売された。

発売は昭和61年、ひばりの晩年。
ひばりは、弟・かとう哲也に先に逝かれたあたりから、どんどん枯れてきたように思う。妙なアクや凄みが薄れてきた。

「函館山から」の次に発売される「愛燦燦」はこの時期のひばりだから歌えた、そんな素晴らしい歌唱で、曲の良さもあって、絶品である。
おそらく、これが十年前だったら、ひばりのアクが全開の珍作で一部ファンから絶賛されて終りだったろう。

公私の境が無い人、美空ひばり。
「函館山から」の中にこんな歌詞がある。
♪お前はもう若くはないととどろく波よ
このフレーズは、まさにひばりの心の叫びに思える。
他にもそういう歌は一杯ある。
「悲しい酒」は最も有名な例であろう。

しかし、私が好きで、哀しいと思う歌は「函館山から」なのだ。
そして「さくらの唄」があとに続く。
この2曲には私も公になってしまった悲劇と、やがてそれを無意識のうちに利用してしまっている芸獣・美空ひばりの哀しさをひしひしと感じてしまうからだ。

女とお酒とブルースと…青江三奈の夜

2005-07-19 23:38:35 | 昭和の名歌手たち
青江三奈の記憶…私の世代だと「伊勢佐木町ブルース」の♪タラタッタ タラララ~ ア~
のフレーズくらいしか浮かばない。

私が青江三奈の名を認識したのは、彼女が2000年7月2日に亡くなったと訃報が流れたときである。紅白出場18回の大歌手逝く…。もう当時は歌謡曲について興味を持ち始めていたので、頭にはとめておいた方がいい。後に役立つのでは?の思いがあったのを覚えている。
何よりワイドショーに出ている水前寺清子の憔悴ぶりが強烈であった。

それから約2ヵ月後、テレビ番組「昭和歌謡大全集」の追悼コーナーにて、淡谷のり子・渡辺はま子・池眞理子と、逝った年齢は不足のない大往生の女性歌手(それでも残念ではあった)と共に青江三奈の映像が流れた。「まだ亡くなった気がしません。どこか海外旅行へでも行ったみたいで」とチータは番組内で語り、「恍惚のブルース」のVTRを見ながら、号泣していた。

54歳…【井原静子(本名)は昭和16年5月7日生まれなので享年59歳】あまりに早い死、そして、作曲家花礼二氏(代表曲:国際線待合室)との結婚・遺産騒動…。
ワイドショーで騒がれていた記憶はあるが、肝心の歌の記憶が無い…。
おそらくテレビ東京かNHKでは追悼特番を放送したと思うのだが…。
それを録画しておけば、貴重な財産になっただろうし、故人に対する追悼にもなっただろう。
残念でならない。

その後、私が青江三奈を聴いたのはそれから数年後である。
NHKの30分番組で、司会は水前寺清子。
「盛岡ブルース」や『ふたりのビックショー』での「伊勢佐木町ブルース」の映像が流れていた。
やはり、チータは号泣していた。当時の新曲を歌うときも泣きっぱなしだった。
しかし、あのハスキーな歌声は3年前の私には理解できず、ほったらかしとなった。

それがである、つい2年ほど前から好きになりだしたのである。
きっかけは「恍惚のブルース」、昭和41年の紅白歌合戦の再放送を見たことがきっかけだった。
妙に沁みた。
それからは、徐々に慣らすように永遠のスタンダード歌謡「伊勢佐木町ブルース」「新宿サタデー・ナイト」あたりを聴くようになった。
決め手はたまたまテレビで見た「池袋の夜」の映像。
それからしばらくして、ラジオでも「池袋の夜」。

今や、どんどん歌謡曲に遣って行く私にとって、青江三奈は欠かせない。
MDにも江利チエミ・由紀さおり・布施明・佐良直美・高英男・クールファイブなど共に常に1・2曲収録して携帯している。

夏の夜、私が夜道を歩く時口ずさんでしまう歌は「上を向いて歩こう」より「池袋の夜」や灰田勝彦「燦めく星座」が圧倒的に多い。
晴れた夜、月を見ながら聴く青江三奈はまた格別である。

一度、コンサートに行って見たかった。
お気に入りの歌手の殆どが休業や故人である私はいつもそうやって臍をかむのだった。

もしコンサートのVTRがあるならDVD化して欲しい。
歌手にとって、本来ステージこそ100%以上の魅力を発揮する場所と信じているから…。

裏か表かまた裏か… 「酒場にて」

2005-07-19 11:09:39 | 江利チエミ
江利チエミの数少ない歌謡曲のヒットである「酒場にて」。
(酷い本だと歌謡曲のヒットはこれ1曲だけと書いている本もある)
この歌は初のチエミ艶歌などと紹介されがちだが、実際は違う。
(「この雨に濡れて」や「ひとり泣く夜のワルツ」などがあり、いずれも小~中ヒットの模様)
ただ、離婚騒動や義姉による借金騒動で(一般的に)暗いイメージになりつつあった江利チエミが
「死ぬこともできず今でもあなたを想い」などと歌う。
企画を出したレコード会社も酷い。さすがの本人も渋ったらしい。

実際のところ、インパクトという点はあったとは思う。
が、それだけでは曲は売れない。
(離婚後「ひとり暮らしの詩」なる曲も出していたがヒットには至らず)
やはり曲の良さ(有線でかかりそうな曲)と江利チエミの歌唱にヒットの秘密がありそう。

「初のチエミ艶歌ではない」というのは本当だが、この曲には今までの江利チエミの歌にない新しいものである。
♪消えた~あ~~の部屋~ の節回しはジャズのフィーリングであり、限りなく重くなり勝ち、泥臭くなりがちの曲・詩をサラッとうたってのける。
今まで数人の歌手がこの歌に挑戦しているのを聞いたが、みんな失敗だった。
チエミの歌唱は簡単なようでそこにはしっかりプロの技がこめられていた。

その辺を感じ取ったチエミファン(それでもNOな人はいただろうが)
そして、有線層、チエミに興味が無かった人も「これは」と手を伸ばして、借金返済に大いに役立ったと思われる。
「昔のヒットだけの往年の名歌手」と「現在進行形でヒットを出している大物歌手」
宣伝をする際、どちらがしやすいだろうか?当然後者である。
まして、大看板・江利チエミ。大いにプラスになったであろう。

そしてなんと75年の紅白歌合戦、江利チエミにNHK側からオファーが来た。
「チエミをトリに」という声も上がっていた。
しかし、江利チエミは断った。

68年を最後に、司会2回・当時の最多出場者・大貢献者であるチエミを「ヒットが無い」という
ムチャクチャな理由(アンケートには上位にいたのにも関わらず)、一説には上のお偉方が「飽きた」と一言で切り捨てられたとも、「歌唱力が落ちたから」(42年にポリープ手術)とも…そんなあんまりな理由でベテラン優遇の69年に落選。
落選の反響が凄まじかった+美空ひばり司会ということで、70年にNHKは出場を依頼。
が、チエミは辞退。
「去年より歌唱力が上がったとは思えませんので」
その後、再びひばりの「本来出るべき人がいない。私もそろそろ…」発言でひばりへの配慮で
71年に再び出場を依頼。
「ヒット曲がございませんので」とチエミ、再び一蹴。

ヒットも出た、今度こそ…と3度目の依頼。
逃した魚はデカイ、チエミ・女の意地をみせつけたのであった。

今でも歌い継がれるヒット曲「酒場にて」
江利チエミ晩年のイメージ、まんまと思われがちだが、実際はチエミには当時恋人がいたらしい。
死後、封印されてしまい、「チエミの晩年=暗い、どん底」とテレビでは言われがちだが、仕事も亡くなるまで精力的に行っていたり、雪村いづみとのタッグマッチコンサートや「春香伝」、亡くなった為流れた「エプロンおばさん」(長谷川町子原作)など、どん底の人間がここまで良い仕事を
できるであろうか。まして江利チエミは美空ひばりの好敵手である。
と…こう見るとどうやってみても酷いものではなかっただろうと私は思う。
このことを触れないのは語る人が少ない(今や雪村いづみくらい?)
のと型にはめたがる&テレビ局側にチエミを知る人がいなくなったことが原因だろうか。
ぜひ今後江利チエミをテレビの特集で取り上げる時は「不幸」を強調しないで頂きたい。

と…普通はここで文を終えるが、私はこの曲のB面「陽気なスージー」にも触れたい。
この曲はA面「酒場にて」とはまた違う「新たなチエミ・ソング」であるからだ。
A面とは180度変わって、この歌は底抜けに明るい。
今まで取り組んだことがあまり無いであろうブギのリズム、しかし日本のうた…。
洋楽の江利チエミのイメージを生かしつつ…実はこういう歌は無かった。
江利チエミ/前田憲男の組み合わせが功を奏した、そんな出来でした。
この曲がA面だったら…、「酒場にて」はヒットしました。私も好き。
でも「陽気なスージー」は私の中では特別な1曲、この歌をステージで歌い踊る江利チエミを見てみたかった、きっと水を得た魚のように見事に歌っただろうと思うと残念でもあります。
ぜひ復刻してほしい1曲。
シングルお持ちの方、もう一度ターンテーブルに落として聞いて見てほしい。


※この「酒場にて」は私が初めて買ったEPであります。