今だから…昭和さ ある男のぼやき

主に昭和の流行歌のことについてぼやくブログです。時折映画/書籍にも触れます。

対談 コミック10年選手(フランキー堺 楠トシエ)

2007-02-09 17:38:43 | 昭和の名歌手たち


フ=フランキー
楠=楠トシエ

週刊明星(昭和36年11月12日号)
対談 コミック10年選手 フランキー堺・楠トシエ

水のんでリサイタル
フ:この間の、あなたのリサイタル。大成功でおめでとう。
楠:ありがとうございます。前の晩には、とうとう一睡もしなかったわ。
フ:どうして?
楠:ミュージカルの稽古で徹夜になっちゃったの。では本番いきましょうってのが、開演十五分前。「もうお客さん入ってますよ、早くしてください」なんて・・・(笑)
ですから、ごはんも食べずに、水を舞台のそでへおいといて、ハイ、つぎ、ハイ、なに、つぎ・・・・・・。頭もクシャクシャだけど、とにかく出りゃいいんだからって、それでやっちゃった。
フ:そんなだったの。たいへんだったなァ。
楠:水だけで一日もたせちゃったけど、人間て、意外ともつのね(笑)
フ:好評だったんでほんとよかった。
楠:まるでお子さまの集まり、会場のアナウンスが、「トイレは、廊下をつき当ってどちら・・・」なんてのばかり(笑)
でも満員で二千六百人の客席がぎっしり・・・・・・。切符が足りなかったんだから、嬉しかったわ。
フ:それは感激だよな。ところでビン(楠トシエのニックネーム)ちゃんは、もう何年になる?
楠:十年だわ。
フ:そうかおたがい、十年になるかね。ぼくがドラムをはじめたのが十八。そして映画を最初にとったのが昭和二十八年ですから・・・ね。
楠:もう、すごく撮ったでしょう?
フ:七十本くらいかな?
楠:七十本。じゃあ何から何でも分かっちゃうでしょう。自分が主役やってると、気持ちいいだろうな。そんなのやってみたいわ、チキショー(笑)
でも、あっという間ね、十年なんて・・・・・・。
そのわりに、苦しかったことは思い出せない。楽しかったことやうれしかったことばかり。人間がおめでたいせいかしら(笑)
フ:おたがいにね(笑)

ラッキーボーイ
楠:あたし、フランキーさんをはじめてみたときは、太鼓たたきながら、途中で「セ・シ・ボーン・・・・・・」なんてやってたわ。それがとても面白くって・・・・・・。
フ:とにかく、卒業試験の最中の日劇のステージに出てましたからね。昭和二十八年ですよ。
楠:へー、学校では、何やってたの?
フ:法学部。
楠:ホーガク?ヒエーッ(笑)間違わないでいったら、いまごろ何になってたかしら?
フ:だいぶ、ホーガク(方角)がちがっちゃったからね。ハハハ・・・・・・
楠:学校とお仕事じゃ大変でしょう。
フ:そのころから、カケモチやってた。試験と日劇のカケモチ(笑)
午前中に試験うけて、午後はステージで太鼓たたいてる。そして夜は試験勉強・・・・と使いわけてた。
楠:アルバイトとしても最高よね・
フ:そうだな、いちばん最初は学生の手慰みみたいだったけど、ゲイ・スターズに入ったとたんに、三万円の給料だから・・・・・・
楠:アーラ、すごいじゃない。
フ:それは基本の給料だから、ステージへ出ると、分けまえがつく。
楠:一流のバンドへ入ったから、幸せなのよ。あたしなんか、日劇へ出たとき、八百円だもの、日給が・・・・・・。憎いわね、まったく(笑)
フ:税務署のかた、いないでしょうね、ここには(笑)
そういう点ではたしかに恵まれていたね、ぼくは・・・・・。
楠:ドラムはいつから?
フ:その前、学校の演劇部にいたんですよ。十八ぐらいのとき。そのころ、芦原英了さんがやっている『白鳥の湖』の第一回公演に出たんだ。
楠:(スットン狂な声で)ハクチョー・・・(笑)
何やったのオ?
フ:お盆もって、赤いカツラつけて・・・・・・。廷臣ってわけさ、小牧さんと貝谷さんが合同でやったでしょう。
楠:あれ、見に行ったわ。
フ:ワルツやって、踊って疲れて、お酒でも飲もうってんで、パッパと呼びにくると、出ていくのが、あたし(笑)
[すましてお盆を捧げて、踊りながら近づくゼスチャーに、爆笑]
楠:それ、フィルムに撮っときたかったわねえ。
フ:ちょうどそのころ、友だちと、何となくドラムを叩いてみようかというんで、はじめちゃったのが、そもそも・・・・・・なんだ。
楠:それが、そもそも・・・・・・だから、ツイてたのね。
フ:たしかに、ラッキー・ボーイだったかもしれない。二十六年に卒業して、その翌年には『世界大戦争』を撮った松原宗恵監督が、いきなりぼくを主役にしてくれた。『青春ジャズ娘』・・・・・チエミちゃんと一緒ですよ。
楠:そして、いい奥さんをもらっちゃうし・・・・・・。確かにラッキーだわ(笑)

長女はワリが悪い
フ:おたくは、ムーランが最初でしたね。
楠:それがひどいものよ、あのころは。私なんか気が短いから、しょっちゅう、ケンカしてた。剣劇とストリップだから、アタマへきてたのよ。なにしろ「専門は?」と聞かれると「クラシックです、シューベルト」なんていってたときだから(笑)
フ:その前は何を。
楠:あたし、のど自慢学校の先生してたの・
フ:こりゃいいや(笑)
楠:ラジオの『のど自慢』が人気があったから、学校もはやっちゃってね。四百人くらい生徒がいたわ。そこの学校の先生が家に下宿してたもんだから、その先生の助手になったのが最初よ。
フ:ゴキゲンだね。
楠:なにせ、生徒は年上か同い年の人が多いから、遊ぶほうが多いわけ。だけど、だんだん、こんなことをやっていてもうだつが上がらないと思い出してね。
ところが、その年のクリスマス・イヴの日にボーナスと給料をぜんぶ、持ち逃げされちゃったのよ。泣くにも泣けないし、「チクショー、自分が舞台でうたったほうがいいや」と思って、ツテをさがしてムーランへ行ったのよ。
フ:学生にファンが多かったものね、あのころのムーランは。
楠:ちょうど訪ねて行った日に、歌い手が胃ケイレンかなにかで倒れちゃったのよ。そこで「あんた、なにが歌える?」「あたし、シューベルト」(笑)
フ:困ったろう、向うは・・・・・・。
楠:でも、なんかやれるだろうっていうから、『ヘイヘイ・ブギ』と『水色のワルツ』をピアノに合わせてやったら「イケるイケる」というので、そのまま寄ってたかって、タヌキみたいなお化粧されて(笑)、さっそく舞台へ出されちゃった。
フ:いつごろ?
楠:二十五年の五月だったわ。ところが間もなくポシャっちゃって、浅草へ流れて花月劇場。そこもポシャっちゃって、NHKのユーモア劇場に拾われたの。そのころ三木(鶏郎)さんと知り合って、あとずうっと因縁があるわけよ。
フ:日曜娯楽版がうけてたね。
楠:あのころ、はじめてほんとのコミック・ソングというものを知ったわ。そして、今度はコマーシャル・ソングでしょ。
フ:そういうものがやれるってことは、しっかりとした技術をもってるからですよ。勉強はどのようにやったの?
楠:独学よ。学校の先生は音楽学校へ行ったら・・・・・っていってくれたけど、あたしは洋服屋の娘でしょ。親が許してくれないのよ。お勤めして、お金を家へ入れろ・・・・・・ってわけ、けっきょく泣きの涙で、一晩バタバタやって、音楽学校へ行きたいって騒いだけれどやっぱりダメ。五人兄妹の長女だから諦めちゃった。
フ:そう、長女なの。ぼくも長男だ。
楠:わりがわるいわ、長女って(笑)

肌の感じが・・・・・・
フ:しかし、コマーシャル・ソングが当たるってことは、たいへんなことだよ。ちっちゃな赤ん坊みたいな子が、回らぬ舌で歌ってるもの。
楠:けっしていい加減には歌えないですね。
フ:あなたの聞いてると、ほんとは一生懸命なんだが、その一生懸命らしさが、やたら表へ出ていない。あのおおらかな感じって、いいですよ。すごくチャーミングだな。
楠:はじめは、コマ・ソンなんて、ちゃんとした歌い手がやるもんじゃない・・・・・なんて思っていましたけど、やってみれば大変なの。
フ:コマーシャル・ソングというのは、一種のコントですよ。長く書けば一篇のドラマになる内容を、短くたたみこむとコントになるように、コマーシャル・ソングも、内容をもっている。しかも同じ歌が、歌い手によってガラッと変わっちゃうんだ。あれは、人(にん)によるもんですよ、楠さんの人(にん)が、コマーシャル・ソングを当てさせたんだ。
楠:やっぱりヒットすると嬉しいわ、ひょっとすると、コマーシャル・ソングのおかげで、来年、外国へ行かないかって話がでてるの。
フ:そりゃいい。はじめて?
楠:あたしって、外国はぜんぜん。地方へもあまり行かないんです。ほとんど東京ばかりだから・・・・・・。行くときは、仕事を離れて遊んできたいわ。
フ:それがいいよ、ぜったい。
楠:フランキーさんなんか、モテるでしょう、あちらで・・・・・
フ:モテない、モテない(笑)
何しろ、「きみは、もっともティピカル(典型的)日本人である」なんていわれたもの。典型的な日本人の顔らしいな。目は吊り上ってるし、四角い顔して、鼻がアグラかいてから(笑)
楠:あたしなんか、どうかしら?
フ:アノネ(と、調子をつけて)あなたは、ブルターニュ、フランスの・・・。
楠:あら、フランス・・・・・・
フ:うん、肌の感じなんか・・・
楠:(派手に)ギャアーッ(悲鳴を上げ)だめよォ(笑)
フ:肌にさわったことはないけどさ(笑)、フランスのブルターニュ地方の女の子の感じ。可愛い感じだ、ホント・・・
楠:きょうは、いったい何の日。こんなこといわれたの、初めてだわ(笑)

お互いが愛し合って
フ:こんど、『南の島に雪が降る』と『世界大戦争』を撮り終ってから、ドイツで合作テレビを作ってきたけれど、いま世界の焦点になってる西ベルリンであちらの青年と話してみると、つきつめたところは、実に簡単なことなっちゃうんだよね。つまり、まず隣の人を愛していこう、ということなんだ、それ以外に世界の平和を保つ道はない。
そうして日本へ帰ってきてから『世界大戦争』を見たんですが、この仕事をさせてもらった意義を、しみじみと感じましたね。
ぼくたちが、今、いちばんやらなくてはならないことは、お互いが愛し合って、平和のために大きく叫ぶ・・・・・・こういうことを、もっと積極的にやらなければいけないってことですね。
楠:そうだわ、ほんとね。
フ:これからも、そういうテーマを、ぼくは一貫して仕事の上で表していきたいね。
楠:いったい、こんど戦争が起ったらどうなるんでしょう。逃げるったって逃げられないでしょうね。
フ:とにかく、みんなと一緒にいたいよ、一人でも多くの仲間と・・・。
どうせ死ぬなら、こういうふうに(手を大きく広げて肩を組むポーズ)みんな一緒に・・・・・・さ。
楠:一人ぼっちじゃ淋しいわ。このまえの戦争のときも、空襲なんかひどいとき、いつ死ぬか分からないと思って、肌着だけは、ぜったいにきれいにしていたわ。モンペはいて、真っ黒けな顔してたけど。
フ:そういうとき、いちばん考えることは、せっかく、いろんな仕事をやってきたのに、これがぜんぶ灰になるのかな、ということだね、おれが死んだあと、惜しいことをしたなと考えてくれる人が、ひとりもいなくなるなんて淋しいからな。
楠:それにつけても恋人がほしいな。恋人もなるべく多勢いたほうが、にぎやかでいいでしょうから・・・・・・(笑)

楠ビンちゃんの経歴はあまりよくわかっていないので、興味深かったです。
よくムーラン入りは24年と見かけますが、ここでは25年5月とハッキリ行ってますし。
浅草にもいたことがあるというのも初耳、のど自慢の先生というも・・・。


池真理子がフォルクローレで大勝負

2007-02-07 01:18:55 | 昭和の名歌手たち

面白い記事が見つかりましたので、御紹介致します。
池真理子の略歴はココ(←当ブログで以前取り上げたものを加筆・修正の上転載)

週刊平凡(1976.12.23日号)より
わたしは"なつメロ歌手"ではない・・・・・・
  57歳池真理子(もとスイングの女王)が
     過去を捨てインカ音楽(フォルクローレ)で大勝負!


池真理子(57歳)という名の歌手を御存知ですか。かつて"ブルースの女王"淡谷のり子、"ブギの女王"笠置シヅ子、とならんで"スイングの女王"と呼ばれたこともある、往年のスター歌手だ、

彼女の芸暦は古い。昭和20年10月、コロムビアの戦後第1号歌手として『愛のスイング』でデビュー、『ボタンとリボン』『センチメンタル・ジャーニー』などのヒット曲で一世を風靡した。NHK『紅白歌合戦』にも昭和27年の第2回以来5回出場の実績を持っている。
昭和23年に結婚、26年に長女・麻耶さん(25歳)が生まれたが翌27年に離婚。その麻耶さんも嫁いで、現在の彼女は東京・豪徳寺でお手伝いさんの女性とふたり暮らし。往年の美声は今も衰えず、毎日欠かさない発声練習の音域は3オクターブ以上と、あいかわらず健在を誇っている。

ところで、歳末ともなれば、各局とも"なつメロ"番組の制作におおあらわだ。なつメロ歌手の代表的存在ともいうべき池真理子のことだ、とうぜん東奔西走の忙しさと思ったら、じつはそうではなかった。彼女、これまでにもこの種のテレビ番組にはほとんど顔を見せていない。
「けっして当時の歌手のみなさんとごいっしょにうたうのがいや、というわけではありません。お声がかかれば喜んで出させていただきます」
というが、彼女にはいま"なつメロ"以上に打ち込んでいるものがあって過去を売り物にするヒマがないのだ。南アメリカはアンデス山脈のふもとに栄えていたといわれるインカ帝国、そのインカの調べを今日に伝えるフォルクローレの魅力が、いま、池真理子のハートをがっちりとつかんで放さないのだ。

フォルクローレといってもピンとこない向きもあるだろう。
だが、一般にはシャンソンのように思われている『花祭り』や、『コンドルは飛んで行く』という歌はご存知だろう。あの原曲が、実はフォルクローレなのだ。

思えば"スイングの女王"池真理子の全盛時代は昭和28年ごろまで。昭和30年ごろから彼女の人気は次第に下降線をたどり、新境地を開拓すべく35年の8月、アメリカに飛んだ。
たまたまニューヨークで日本初公演に出発しようとする『トリオ・ロス・パンチョス』のパーティーに出席した彼女は、ラテン音楽に魅了された。
「なんて素朴な人情味のある音楽なんだろう・・・そう思うと、矢も盾もたまらずラテン音楽を勉強したくなりました」
1年後、帰国した彼女は、さっそく中南米音楽研究の第一人者・吉田秀士についてスペイン語の勉強を始めた。
37年、彼女は新リズム"パチャンガ"でラテン界再デビューするが、当時の日本は"ドドンパ娘"渡辺マリのドドンパのリズムの全盛期。だが彼女のラテン音楽への意欲は少しも衰えず、それからもあいかわらず地道なコンサート活動を続けてきた。
彼女の勉強熱心には定評がある。ジャズ歌手時代は英語を、ラテンに転じてからはスペイン語を・・・。そのスペイン語を吉田秀士さんに師事してすでに15年、
「いまだに吉田教室を卒業できないんですよ」
と彼女は苦笑する。

問題のフォルクローレとの出会いは昭和46年。
中村淳真(あつまさ)さんの作曲した組曲『インカ王女の子守唄』を聞いた彼女は、同じ中南米音楽とはいえ、これまでのラテン・ミュージックとは一味も二味も違ったインカ音楽の魅力にたちまちとりつかれてしまった。
「それまでインカ帝国といってもお伽話の国くらいにしか思っていなかったんですよ。もちろん場所なんて知りませんでした。地球儀で、日本とは正反対側の現在のペルーのへんだとわかって驚いたり感心したり・・・」
凝り性の彼女はさっそく書店を駆けまわり、インカ関係の書物を買い集めたが、その数がなんと約80冊という熱のいれよう。
同時にインカ音楽のレコードも探し回ったが、
「いまと違って、当時はまだ大きなレコード店の民族音楽のケースに現地録音の器楽曲が2~3枚、ラテンのケースにユパンキのものが1~2枚ある程度で、インカ音楽のものを・・・と店員に尋ねても満足に返事も返ってこない状態でした」

それでも彼女はその乏しいレコードを聴きながら、彼女は、少しづつインカ音楽への理解を深めていった。彼女がいちばん興味を持ったのは、インカ音楽の音階がドレミファソラシドのファとシの半音を欠いた5階音であることだった。日本古来の音楽も、これとまったく同じ5階音から成っている。
「インディオ(インカ帝国の末裔といわれる原住民)は東洋人そっくりといわれています。黄色い肌、黒い髪、生まれたばかりの赤ちゃんのお尻に蒙古班という青アザのあるところなど、日本人と少しも変わりません」
5階音のメロディーといい、インディオの容貌といい、あるいはわれわれ東洋人の兄弟だったのでは?
そう思うと、彼女はじっさいにアンデスを訪れ、その目でインディオたちの風俗を確かめたくてたまらなくなったという。

その彼女の念願がやっとかなえられたのは48年7月のこと。
「ある後援会の関係されている会社でペルー旅行の話があり、私もいっしょに行かないかと誘われました。当時、東京で3本、大阪で2本、テレビの仕事が入っていましたが、この機会を逃しては・・・と、お仕事を全部キャンセルして出かけました」
現地ではリマ、クスコなどのインカ帝国の遺跡を1ヶ月見てまわった。
「自分の目で現地を見て歩けるという嬉しさで、あわてて日本を飛び出したものの、あちらと日本では季節が正反対だということをすっかり忘れていたんです。日本は真夏でも、あちらは真冬。出発するときは夏姿だったのが、羽田に帰ったときはあちらで買ったポンチョなどを仰々しく着込んで・・・まるで西洋乞食みたいだったんですよ」
と彼女は笑う。

ことし7月15日、彼女は京都で《池真理子歌手生活30年記念》と銘打ってリサイタル『インカのしらべ』を開催した。
会場は意外にも若い人たちで超満員だったという。

過去30年の歌手生活をふりかえって、彼女はこう述懐する。
「私はジャズから入りラテンを経て現在のフォルクローレにたどりつきました。いろんな方から日本人の歌を忘れるな、というご忠告をいただきますが、私だって日本人です。日本の音楽をかたときも忘れたことはありません。いまやっているフォルクローレも、お稽古は原語でやっていますが、ステージではなるべく日本語に訳してうたうように心がけているんです」

フォルクローレといえば、さる11月から約1ヶ月間、世界のフォルクローレの第一人者、アタウアルバ・ユパンキの日本公演は、全国17か所の会場がいずれも超満員という大成功をおさめた。
池真理子が過去6年フォルクローレに寄せてきた愛情と努力が、ようやく実り始めたともいえるだろう。

「音楽には国境も人種の区別もありません。それに年もね」
という池真理子の声は、明るくはずみ、その顔の艶もまるで40歳そこそことしか思えない若々しさだった。


池さんの歌への関心はこれからさらにロシア音楽へと向かうことになります。
2000年に亡くなるまで、生涯現役として様々な歌に関心を持ち、学び、歌い続けた池さんは凄い歌手だったのだな...と改めて思います。
ナマのステージを一度観たかったです…


スウィングの女王・池真理子

2007-02-01 23:53:57 | 昭和の名歌手たち

ブルースの女王と言えば、淡谷のり子(または青江三奈)。
ラテンの女王と言えば、坂本スミ子(または宝とも子)。
タンゴの女王と言えば、藤沢嵐子。
歌謡界の女王と言えば、お嬢。
ブギの女王と言えば、笠置シヅ子。

さて、スウィングの女王は誰でしょう?
その方が今回取り上げる池真理子さんです。

バッテンボー
池真理子(1917~2000)
大正6年1月2日、京都生まれ。ミッション女学校卒業。
昭和9年宝塚入団、三日月美夜子の芸名で声楽専科に在籍するも、昭和12年退団。
東山ダンスホールで、歌うコンダクター(指揮者)として、人気を博するも昭和15年ダンスホール閉鎖。その後、三島一声・一色皓一郎の推薦で佐々木俊一の内弟子に。
そして、ビクターから「君と別れて」(一色との共唱)でレコードデビュー。
第2弾「青いリボンのお嬢さん」も吹き込まれたものの、リボンが検閲にひっかかり、発売中止に。
そのことなどもあり、ニッチク(戦時中の日本コロムビア)へ移籍。慰問隊員として全国を回る。
終戦を迎え、早速アメリカ調の曲を発売することになり、池に白羽の矢が立ち、コロムビアから改めて「愛のスウィング」でデビュー。大ヒットし、スウィングの女王と呼ばれるように。
その後も「センチメンタル・ジャーニー」「愛の散歩」「ボタンとリボン」など、洋楽または洋楽調のヒットを連発した。
私生活では、鈴木大拙氏長男で作詞家の鈴木勝と結婚し、一女を儲けるも離婚。
昭和35年、渡米。娘を知人の夫婦に預け、全米各地を回る。
8ヵ月後、ラテン系の新リズム「パチャンガ」を土産に帰国。
ラテン歌手としても歌い始める。
昭和45~46年頃、フォルクローレに興味を持ち始め、昭和48年には本場ペルーの首都リオで単独コンサートを催した。
その後も、音楽の道への追及は続き、ロシア音楽なども学ぶ。
歌手生活40周年コンサートでは都都逸(これは祖父母の影響)まで歌った。
昭和57年からは、二葉あき子、並木路子、安藤まり子らと「コロムビア五人会」を立ち上げ、老人ホーム慰問からハワイ公演、演劇まで幅広く活動した。
平成12年5月28日、ショーで「センチメンタル・ジャーニー」を歌い終わった直後にクモ膜下出血で倒れ、同30日死去。83歳。
愛称はアイク(名字(IKE)、及びアイゼンハワー米大統領のニックネームから)

二葉あき子曰く「珍しい音楽があるって聞いたら、南極だって行く人」
そのぐらい音楽には貪欲だった方らしく、フォルクローレやロシア民謡を正確に歌うために、ロシア語や中南米圏言語を基礎から勉強し、美声を護るためにヨガ修行をしていたそうです。

良い歌を歌いたい・聴かせたい…そういう姿勢だったことも関係あるのか、あまりレコードの類は出されて無いようです。
現在ではオムニバス盤に収録されている「ボタンとリボン」「愛のスウィング」程度しか入手は難しいと思われます。
興味のある方は中古市場/図書館で探して、10数年前に出たCDを探してみて下さい。特に専属50周年記念で出た方のCD(ヒット曲はステレオ再録音)は、池さんの幅広く歌ってきた歌が詰まっていてオススメです。

その中から、数曲ですがご紹介致します。

愛のスウィング
戦後すぐの大ヒット曲。
吹き込み前夜、緊張のあまり一睡も出来なかったそうです。
そのため、巷から流れる寝不足の歌声を聴くと、何ともきまりが悪かったとか。

インカ王女の子守唄
国際的に高名なギタリスト・中林淳真の手による、池真理子オリジナル・フォルクローレ。
この曲を聴いたとき、ココで池真理子を取り上げてみよう…と思いました。
そのくらい、非常に画期的な素晴らしい曲です。

百万本のバラ
加藤登紀子の歌でもおなじみのロシアの大ヒット曲です。
♪ミリオン ミリオン 真っ赤なバラで 
   あなたを あなたを 包みたい
     命の 命の 命の バラを
       あなたの 窓辺に 咲かせたい
70過ぎてから、持ち歌にして、ロシア語と日本語のチャンポンで披露。
そのチャレンジ精神には頭が下がる思いです。

ボタンとリボン
「バッテンボー」が流行語になった、そのぐらいのヒット曲。
ボブ・ホープ主演「腰抜け二挺拳銃」主題歌。
♪都が恋し 早く行きましょう 
   帰りたいわ あなた
     にぎやかな バッヅンヴォーズ 
       指輪と 飾りと バッツンヴォーズ 
後に、宝塚の後輩でもある久慈あさみも歌っています。

いとし吾が子
何と「長崎の鐘」は池真理子吹き込みの予定だったのです。
永井隆の親友・式場隆三郎が、池真理子の後援会長だった関係から、池にお鉢が回ってきたのですが、「長崎の鐘」は永井博士の心境を歌ったものですから・・・ということで、池は、尊敬する藤山一郎を推し、池はこの曲を取ったのでした。
「長崎の鐘」に隠れがちですが、こちらも素晴らしい古関メロディです。
この曲を歌ったことから、池さん、永井博士の遺児二人とも交友があったそうです。

祇園ブギ
大映映画「偽れる盛装」(主演:京マチ子)主題歌。
原六朗曰く「助監督がいきなり歌詞を持ってきて、これに曲つけてくれ。映画主題歌にするから」と、一週間で作らされた内の1曲。
映画と全然合ってない、ともっぱらの評判ですが、なかなか面白い曲。
榎本美佐江の「舞妓はんブギ」と酷似。


追記
プロフィールは加筆/修正の上でWikipediaに投稿致しました。これで少しでも興味のある方のお役に立てれば幸いです。


粋でいなせな我らが浩吉っあん・高田浩吉

2007-01-07 14:47:02 | 昭和の名歌手たち

歌ふ映画スタァ-この言葉はもはや死語と化しております。
歌う俳優/タレント…こう言い換えた方が良いかも知れませんね。
昔は映画、今はドラマにCM。
自分も出演、主題歌・挿入歌も歌っちゃえ。
石原裕次郎、高倉健、吉永小百合・・・。

逆に、歌手が俳優やって大成しちゃった美空ひばり、江利チエミ。
結果、副業が本業になってる小林旭みたいなのもいます。
最近だと、上戸彩、沢尻エリカ、長澤まさみ…。
タイプは違いますが柴咲コウもそうでしょうね。
今は何だか女性ばかりなのは気のせいでしょうか(^^ゞ
・・・頑張れ、男(笑)

さて、このタイアップ、誰がトップバッターか?
女性だと高峰三枝子、男性だと高田浩吉と言われております。
お三枝さんは、今はとりあえずパスして、今回は浩吉っあんの方を取り上げたいと思います。


高田浩吉(1911~98)
兵庫県園田村(現・尼崎市)生まれ。
生後すぐ母が亡くなり、伯母のもとで育てられる。
大正十五年、松竹入社。
昭和五年頃から大幹部となり、主演映画が製作される。
昭和十年、「大江戸出世小唄」が公開、主題歌と共に大盛況を博し、スタアの座を固める。
昭和十六年、徴兵。満州・ロシア国境のチャムスへ赴任。
昭和十八年に除隊後は、慰問を中心に活動。
昭和二十年、高田浩吉劇団結成、二十五年の解散まで各地を巡業し盛況を博す。
昭和二十六年、映画界に本格復帰。「とんぼ返り道中」で美空ひばりの相手役を演じたところ、人気が再燃。親子二代のファンも急増。
「伊豆の佐太郎」もヒットさせ、見事に歌うスタアとして奇跡的に返り咲く。
その後も「白鷺三味線」「大江戸出世双六」「五十三次待ったなし」などヒットを連発。
昭和三十五年、東映移籍。
時代劇映画衰退に伴い、テレビ・舞台へ活躍の場を移行する。
昭和四十年代の懐メロブームでも、その美声を惜しみなく披露。
昭和六十年代には、原野商法を行っていた会社の広告出演していたことから、裁判で賠償を命じられたこともある(のち、和解)。
平成十年五月十九日、没。


元祖・歌う映画スタァなだけに、本来映画共々紹介すべきなんでしょうが、この手の娯楽時代劇映画というものはなかなか見る術がございませんので、視聴次第…とううことで御勘弁願いますm(__)m

江戸情緒たっぷりの端唄/都都逸調の浩吉ぶし。
戦後はそれに加え、ほのかにジャズの香り。
大江戸モダン・サウンドは、今もなお私の中では健在です。

伝七小唄
実は2種類ありますが、これは後者。
昭和43年3~7月にABCで放送された「伝七捕物帳」主題歌です。
浩吉っつあんと、その愛嬢・高田美和のデュエット。
三味線とエレキギター、スチールギターの融合。
和製・テケテケ・サウンド。
乞う再評価!
作曲は土田啓四郎(代表作:愛と死を見つめて)

大江戸出世双六
昭和30年公開の同名映画主題歌。
♪どうする どうする スチャラカン
といいながらも、ノホホ~ンと構えてるような歌詞。
まさに端唄の世界。
浩吉ぶし絶好調、私が最も愛唱する1曲です。

半次呼び込み唄(お軽勘平)
歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」から「お軽勘平」を題材にしたと思われる1曲。
♪私ゃ 売られていくわいな ヨイショ 行くわいな
軽快な曲調とは裏腹、なかなかヘビーな歌詞です。

大江戸出世小唄
♪土手の柳は風まかせ 好きなあの娘は風まかせ ええ しょんがいな
という歌詞は、ある年代以上であれば耳にした覚えはあるかと思います。
高田浩吉の唄といえばコレ、というべき決定版です。

むらさき小唄
これは高田浩吉では無く、国民栄誉賞俳優・長谷川一夫主演映画「雪之丞変化」の主題歌で、東海林太郎のヒット曲。
この「雪之丞変化」は長谷川一夫の当たり役で、戦後も市川崑監督でリメイク。
浩吉っつあんも、「雪之丞変化」を舞台で演じていたからなのか、昭和51年頃にこの曲を吹き込み、ポリドールからシングルが出ています。
曲中の台詞は、雪之丞・十代目岩井半四郎(仁科亜希子の父)、闇太郎・高田浩吉となっています。この台詞も素晴らしい。
さすがの浩吉っつあんも歌唱に衰えが見られませんが、そのあたりは50年の芸暦で見事にカバーしております。

鴛鴦道中
昭和13年、上原敏と青葉笙子によるヒット曲。股旅歌謡の決定版の1曲。
戦後、ニューギニアで戦死した上原に代わって、東海林太郎に相手役を替えて、実演等で披露していたこともある(レコードも発売)。
懐メロブーム到来の昭和42年ごろ、テイチクで、今度は高田浩吉を相手役に迎え、三度吹き込んだのが、コレです。
上原、東海林、高田…と戦前ポリドールの看板スタア三人と同一曲を吹き込みをしている青葉笙子、他にこういう例は少ないかと思います。
三代目の歌声も、決して悪いモノでは無く、青葉共々往年を回想しながらの心暖まる歌唱となっております。

浮かれ駕篭
米山正夫の作詞/作曲による、和製ジャズ端唄。
高田浩吉もお気に入りで「私のお気に入りの曲のひとつです」と、後年語っています。
まさに高田浩吉の真骨頂、ぜひとも一聴をオススメ致します。

明日なき男
昭和32年公開「りんどう鴉」劇中歌。
粋な台詞入りの、浩吉股旅ソングの名作。

この台詞をこう爽やかさすら感じさせて聴かせる俳優は今では皆無でしょうね。
演ってる俳優が恥ずかしがってることがバレバレな状態で、この台詞は・・・。
浩吉っつあんの偉大さを痛感致します。
そして、娯楽映画の難しさも。

江戸の三四郎さん
昭和31年公開「花笠太鼓」劇中歌。
戦後、高田浩吉の相手役といえば、美空ひばりなのですが、この映画の相手役は何と江利チエミ!一応ジャズ歌手としてスタートしたはずなのですが、この映画ではそんなことを一部歌うシーンを除き、微塵も感じさせぬ熱演振り。
映画で何とチエミを、途中まで浩吉っつあんは「男」だと思って接しているのです(笑)

後年、サザエさんを当たり役にするのもわかる気がします。
さて、この曲ですが、もとは九州地方の俗謡で、それをアレンジしたものだそうです。
見事に江戸の唄となっているのは浩吉ボイスの成せる技でしょう。

伊豆の佐太郎
戦後、高田浩吉カムバック第一弾シングル。
佐太郎という名は、作詞の西條八十邸出入りの植木職人の名前から拝借。
股旅+小唄/端唄調のエッセンスのこの曲は高田浩吉ならでは。

白鷺三味線
タモリお気に入りの1曲(曰く「思想が無い唄」)
この曲の売りはイントロの三味線。
オリジナルでは、伝説の三味線弾き・三味線豊吉が担当。
この曲は、高田自身も会心の1曲。
上原げんと作品では最も良いと、絶賛。


日本調復活…ぜひ受け継いで歌う方が出てきて欲しいモノです、男で(笑)
女性では、檜山うめ吉さん?とかいう方がいるそうなので。


ディック・ミネが語った あの歌手・このハナシ(第6章:石原裕次郎、三波春夫)

2006-12-25 06:40:44 | 昭和の名歌手たち

その1
あるステージで、ぼくと(石原)裕次郎と三波春夫が共演したことがある。そのときに、ぼくの『旅姿三人男』を三人で、一番、二番、三番とメドレーで歌うことになった。
ところが、裕次郎がブースカ怒ってるんだよ。
「なんだ、あのやろう!後輩のくせに生意気だ」
「どうしたんだ?」
って訊くと、
「あのやろう、自分に三番を歌わせてくれってほざくんですよ・・・・・・先輩が歌うのが当たり前でしょう?それを後輩のくせに・・・・・」

つまり、こういうことなんだね。
ある歌を三人でメドレーで歌う場合、一番、二番よりも三番を歌うほうが、客に与える印象がどうしても強くなる。
他の二人が一番、二番をどう歌おうと、最後に自分の歌い方でピシッと決めるわけだからね、余韻がそれだけ強く残るわけだ。あの、『紅白歌合戦』だって、誰がトリを取るか、毎年話題になるだろう?その年の主役だからね。歌手なら誰だってトリを取りたいわけだ。
で、この場合も、三波春夫が三番を歌いたいっていったんだね。三波らしいやね。

ところが、裕次郎にいわせると、ディック・ミネの持ち歌なんだから当然ぼくが歌うべきだってことと、テイチクの専属のキャリアからいうと、ぼく、裕次郎、三波の順で、三波は一番後輩なのに先輩二人を差し置いて・・・・・・ってことなんだ。
三波はそのころは人気絶頂だったけど、裕次郎だってスクリーンの大スターだし、歌手としても三波に勝るとも劣らぬ人気歌手だったからね。その自負心は強烈に持ってるわけだ。それで、
「三波のやろう、生意気だ!」
って怒ったわけなんだよ。

ところが、ぼくはそういうことは、一向に気にしないんだよ。誰が何番歌おうと・・・。
こっちは飽きるほど、うんざりするぐらい歌っているんだから、ホント、歌うのイヤなんだ。それに彼等はずっと後輩で、これから伸びて行くんだし・・・・・・。
で、裕次郎には
「いいじゃねえか。歌いたかったら歌わせてやんなよ」
「だって、先輩・・・・・・腹が立たないスか?」
「怒るほどのタマじゃないよ、放っとけよ」
ってなだめたんだけど、裕次郎、それでもまだブースカいってたね。


その2
三波春夫で感心するのは、ぼくなんかとはまるで違って、後輩のしつけに異様に厳しいことだね。
テイチクの廊下で、十七、八の女の子が泣いているところに通りかかったことがあってね。わけを聞いてみると、その子、新人歌手らしいんだけどね、ぼくはあんまり若い子なんて知らないから・・・でこういうんだよ。
「・・・・・・・三波先生の前歌をやったことがあるんですけど・・・・・また、やることになって・・・・・」

ポツン、ポツンとその子が話したのをまとめると、こういうことなんだ。

「お疲れ様でした」
って楽屋で座長の三波のところに挨拶に行くとするね。
まず、戸の開け方が悪いって注意される。
―もっと、丁寧に。
で、やり直しをさせられる。
―開けたら、閉める。
あわてて、閉める。
―挨拶はそんな入口じゃなくて、ちゃんと私のところまで来て。
で、三波のところまで行って、正座してお辞儀をする。
―手のつき方はそうじゃない。両手の親指と親指、人差し指と人差し指をきちんとくっつけて・・・・・そう。頭を下げるときは、鼻がその間に行くように・・・・・・そう。

やれやれってホッとしたら、
―いま、こっちに歩いてくるときに、そこの畳のヘリを踏んだだろう!

一事が万事、この調子なんでね。その子、すっかり恐れをなして、それで泣いていたってわけだ。

よく知られていることだけど、三波は浪花節(浪曲)出身だよね。あの世界はことに厳しいらしいんだよ。先輩、後輩の序列やしつけが。三波もたっぷりやられてきてる。
苦労したらしいよ。
(中略)

ぼくなんか、そんなこと一切やらないからね。
「いや、ご苦労さん・・・・・いいんだよ、わざわざこっちにこなくたって。早く寝なさい。くたびれたろう」
で、おしまい。いい女だったらこうはいかないけどね。
「もう寝るのかい?まだ早いよ。遠慮することはないよ。こっちにおいで・・・・・・腹減っただろう。うまい菓子があるよ」
いいかげんなもんだね、ぼくも。

三波は別にいじめてるわけじゃないんだろうけど、いまの若いモンにはいじめとしか思えない。で、泣くわけだ。仕様がないよ。大体、その親たちからして、そんな礼儀やしつけはわかっちゃいないからね、子どもに求めたって無理なんだ。ぼくなんか時代の違いだって割り切ってるからね。しないんだよ、そんな面倒くさいこと・・・・・・。

それから、三波で感心することは、何ごとにも徹底しているってことだね、嫌味なくらい。
「今日は遠いところから、おじいちゃん、おばあちゃん、よく来ていただきました」
で、ステージの前方に出て行って、一番前の客に、
「おばあちゃん、どちらから?」
「●●△△××++・・・・・」
「ああ、わざわざ本当に遠い所からいらしてくださって・・・・・お客様は神様です」
実際《ファンが一番大切》って思っていたって、普通の神経じゃ、あそこまでいえないからね。堂々たるモンだよ。ぼくなんかは、からだがむずがゆくなっちゃうけどね。

それに、
「あのやろうは、えげつねえやろうだ!」
とかナントカいわれながらもあそこまで行ったのは、いい根性してるといおうか、立派だよ。敬服するよ。

ただね。ステージを下りたら、三波春夫じゃない、ただの社会人だってことを本人が気づいていたら、もっと立派なんだけどね。



ディック・ミネ・・・昭和9年テイチク入社。
石原裕次郎・・・昭和31年テイチク入社。
三波春夫・・・昭和32年テイチク入社。


ディック・ミネが語った あの歌手・このハナシ(第4章:東海林太郎)

2006-12-23 23:58:42 | 昭和の名歌手たち

僕がデビューしたとき、東海林太郎さんは「赤城の子守唄」「国境の町」でスターだったからね。ただ、まったく音楽のジャンルがちがうのと、こっちは、むしろその手の歌謡曲をバカにしてたから、気にもとまらなかったよ。親しくなったのは、しばらくあとなんだけどね。いまでこそ、あの人、まじめの見本みたいに思われてるけど、なんのなんの、おかしい人なんだよ。

お互いに大学出のせいか、話が合うの。僕には気を許してくれて、女の話なんかもずいぶんしたよ。
大阪に行くとき、偶然、一緒になってね。寝台車だ。新幹線なんてない時代だから、寝台で十二時間かかった。寝台車のはじに車掌室があって、その横が喫煙室になっていた。二人でウィスキー三本くらい空けたかな。横浜で買った崎陽軒のシューマイをつまみに、ボソボソ話ながら、とうとう大阪まで行っちゃった。

東海林さんは秋田中学を出てるんだけど、僕の姉の旦那と同期でね。だからよく知ってるわけ。

大阪のキャバレーの仕事のとき、僕はなんとか東海林さんを崩してやろうと思ってね。なにしろ、いつもあのスタイルでしょ。直立不動で、ただ歌うだけだもんね。ステージ前にさんざん酒をすすめてね。あの人、大酒飲みなんだよ。少しフラフラしながらステージに出た。
「あっあ、今日は酒までごちそうになっちゃって。そのうえ、ギャラまでもらえるっつうんだから、この商売、やめられないねェ」
やりましたよ。読者のみなさんは、東海林さんのこんな「しゃべり」想像できるかい。

満州へも何回も行ってるし、僕と一緒に回ったことはないんだけど、また似たようなことやってきているはずだよ

晩年はあまり幸せとはいえなかった。女房運というか、家庭的には恵まれなかったんじゃないかな。ガンになって何回も手術したんだ。人工の肛門を脇腹に開けて、そこから排便してる始末だからね。
「ミネさん、いくつになっても、新しい女はいいね。こないだ久しぶりにいただいな女が、これが処女でね。ていねいに、ていねいにやったんだけど、あんまりいい気分のもんだから、ここからウンコが出ちゃってさ。こっちは気持ち悪いし、あっちは気持ちいいし、困ったもんだね」
そんなこといいながら、三回目の手術の後、しばらくしてから死んじゃった。

あの人は、自宅に引っ張り込んで、手を出すタイプだったんだよ。息子がそのことで、東海林さんをボロクソにいうから、僕は怒鳴ってやった。
「お前な、お母さん、君を産んでまもなく早死だし、夫婦仲もうまくいってなかったんだもの、そりゃ女だって欲しくなるよ。だいいち、いまのお前さんは。お父さんの歌うたって食ってんだろ。感謝しなきゃダメだよ」ってね。
それ以来、すっかり考え直したらしく、立派にやってるけどね。

東海林さんは歌手協会の初代会長。象徴みたいなもんだから、なにもしてないね。二代目が藤山一郎さんで、三代目が僕。
藤山さんはいい格好してたから、「よきにはからえ」ってね。
僕が引き受けたときには、つまみ食いはあるわで、かなり乱れてたよ。僕はセコイこと嫌いだからね。全部きれいにして、いまは週三回は連絡してる。今日だって二回も電話してね。われわれ歌手は東海林さんのような、本当にステキな先輩を持ってるんだから、特に若手の歌手はもっともっとがんばらなくちゃいけない。

テレビのなかった時代という違いはあるけど、東海林さんは、身振りも手振りもない。
「歌心」一本であれだけファンの心をつかんできたんだから、すごいもんだよ。

(中略)
東海林さんのステージ見た人ならわかると思うけど、あの人は間奏の間、ずっと直立不動で正面向いてるよね。ところが、日劇で間奏のときに、舞台の袖のほう見て、二番の出だしトチっちゃったことがある。僕も一緒だったんで、思わずフいちゃったけど、あの人も人間なんだよ。
そのころ、十九か二十歳くらいの女がいてね、奥さんと別れたすぐあとだったから、東海林さんもそうとう惚れ込んだんだね。その娘がステージの袖にいたわけ。間奏のときにちらっと横向いたんだよ。そんなことする人じゃないんだが、惚れた女がいるときってのは、そんなもんだ。目と目が合って、それから二番の出になったら、間違えて、もう一回、一番歌っちゃたんだよ。東海林さんのそんな人間臭いとこ知らないでしょ。

そんな純情な面もあった東海林さん、女運にはとことんツイていない人でね。その女とも長続きしなかったよ。何もかも持っていかれてね。死ぬときは東京の立川に住んでいんだが、みじめなもんだったよ。ステージがあんなふうだから、私生活のほうもさぞかし、きちんとしてるだろうと思ったら大間違い。後世に名を残す人には違いないけど、末路はあわれだったね。冥福――。


楠トシエ特集パート3 「サンデー毎日」(昭和37年10月8日号)

2006-12-09 18:02:50 | 昭和の名歌手たち

CMビンちゃんがんばる    「人物現代史」

●歌いまくった"二百曲"
かの女は、CMソングの歌手だということを、つい最近まで不名誉なことだと思いこんでいた。
『ふんわりふわふわハマフォーム』のうた、『カシミヤタッチのカシミロン』のうた、『ヴィックス』のうた、そしていま大ヒットしている洗剤『テル』のうた、流行コマソンのほとんどは楠トシエの声である。コマソンは、これまで二千曲ほどつくられ、電波にのった。そののち、かの女は一割の二百曲を歌っている。名実ともに"コマソンの女王"なのだが、長いこと、かの女は、そういわれることにこだわってきた。

かの女は、ほんもののホーム・ソング歌手が望みだったのだ。こどもと家庭の主婦のために、明るい、たのしい歌をサービスする歌手、それがかの女の理想だった。
ところが、「キミの声は明るいね、リズムがあるね、言葉がハッキリしているね、だからコマソンにぴったりサ」というわけで、ポポンのうたをうたわされたのがはじまり。あっという間にコマソン歌手になってしまった。

だが、わからないもので、コマソンは二千曲も出るにおよんで、昔の童謡にかわるこどものうたになり、主婦の愛唱歌になった。コマソン変じてホーム・ソングになったのだから、楠トシエにしてみれば、まわり道をしたつもりが初志を達した結果になった。

「ホイでもってビックリしちゃった」のが、かの女の心境である。同時に「やっと自信というか、誇りを感じられるようになった。大手を振って歩けるわ」と胸を張っていうようになった。
かの女に自信を持たせたきっかけは、二つある。『ヴィックス』の歌が、ことしのCMコンクールで一位になり、続いてカンヌの国際CMコンクールに日本代表として出品されたことである。

「それまで、あのCM、ビンちゃん(愛称)でしょ、といわれると恥ずかしくて恥ずかしくて。CMソングは、歌ってる顔は出ないし、名前も紹介されないでしょ、そういうしきたりでしょ、だから引き受けてたのよ、実は」
小首をかしげて、すごく早いテンポで。かの女は話す。CMテンポである。恥ずかしい、不名誉だからといっても、かの女はCMソングの仕事を、一度だっていいかげんにすませたことはない。「仕事に対してきわめてドン欲な人です」(作曲家いずみたく氏の話)という定評通り、かの女はCMソングの譜面を受けとると、それをおたまじゃくし通りに歌いこなすだけではなく、プラス・アルファを加えた。どうせ歌うならヒットしなきゃ、ヒットさせるには、こう歌わなければ、という論理でかの女は、作曲家、スポンサーに、自分のアイディアを、遠慮なくぶっつけた。

●アクセントづけが特技
いまヒットしている『テル』のCMソングで、どこが受けているかというと、「テルウゥーウ」と語尾が数回、踊りを踊るところだ。踊らせたのは楠トシエで、スポンサーは、はじめあまりイイ顔をしなかった。ただ、語尾が踊るだけならまだしも。ふてくされた声で「テルウゥーウ」とやられては。商品が売れるかしらという恐れをもつのもスポンサーとしては当然だ。

だが、かの女は、スポンサーの顔いろなんかドコ吹く風で、思いきり、ふてくされた声で歌ってのけた。かの女には確信があった。

『セデス』のCMで、お上品にいわずに「セ、デ、スッ」と少少すごんだいい方をして、事実それが当たっている。その経験があるので、かの女は強気だった。無難なCMより、冒険のあるCMを・・・・・・と、かの女はいつもねらっている。逆効果の効果を、つねに計算している。『カシミヤタッチ』のうたで、「ホイでもって」という言葉が印象に残るが、それも原文は「ソイでもって」だったのを、かの女がさらにデフォルメしたものである。こんなふうに、アクセントをつけるのが、かの女の特技である。


ディック・ミネが語った あの歌手・このハナシ(第3章:70年代芸能人)

2006-12-06 19:32:17 | 昭和の名歌手たち
その1
佐良直美と一緒の仕事のあとにね、直美ちゃんがマネジャーの女の子とステーキ食べに行くっていってんだよ。
「おい、女だけで大丈夫かい。俺、一緒に行ってやろうか」
「大丈夫よ。もうすぐわかるわよ」

なんのことだか、そのときはわからなかったの。二、三日したら新聞に、あのレズ騒動が出てたよ。二人はデキてたんだもの、レズ同士なら心配ないわけだよね。
佐良は、まもなく新聞に書かれるのを知ってたのね。

あの頃の勢いなら、事前に記事を止めることもできたと思うんだけど、それをやらなかった。僕はそういう直美に惚れたね。



その2
「引退記念大売出し」大儲け、おめでとう。
「引退」っていう錦の御旗がなかったら、あれだけの商売はできなかったな。いや売った売った。この芸能界不況時代によくやったよ。

はるみはスポットライト浴びる快感てものを誰よりも知ってるタレントだからね。普通のオバさんに戻りたいなんて、いまさら家庭の中に収まるタマじゃないぜ。「引退」と書いて、しばらく休憩と読ませるんじゃないのかな。僕は予告しとくよ。きっとカムバックしてくるぜ。

「女としての人生を・・・・・・なんてえらそうなこといいましたけど、わたしにはやっぱり歌しかないってことが、あらためてわかりました。わがままなはるみを許してください。新人、都はるみのつもりで出直します」
なんてね。コマ劇場あたりでやるんじゃないの。あの子は歌もうまいし、性格もいい子だ。もし、僕の予言が当たったら、水臭いこといわないでさ、はるみ節に拍手してやろうよ。



その3
大阪で不良やってた子だからな、スケ番の元祖。ちっとやそっとじゃ消えない子だね。
あるテレビの番組で、ゲームやるのがあってね。負けると、足かせはめられて、くすぐられるなんて、バカなゲームなんだよ。そこで、僕がアッコの足をくすぐる段取りになったの。
「ミネさん、悪いけど靴下脱げないの。ディレクターにいってよ。わたしがいうとカドが立つから」
「なんだお前、足に模様が入ってんのか」
「エヘヘ・・・・・・」
ゴッド姐ちゃんっていわれるわけだよ。だからあいつはロングドレスかパンタロン。素足は出さないの。最近へアースタイル変えたら、いい女になったな。



その4
去年、水前寺清子のデビュー二十年ていう企画で、歌舞伎座へ応援に行ったときのこと。チータに
「二十年にほんの入り口だよ。お前さんにとって、歌手稼業はこれからが勝負だ。チータの歌に『大勝負』ってのかい、あの歌の詞にあるだろう。"前向け 右向け 左向け"って。右見て、左見て、男見たりするから八代亜紀みたいになっちゃうんだ。女性歌手にくっついた男、いろいろ知ってるけど、生意気なのにくっつかれたら終わりだよ。チータは決してよそ見するんじゃないよ」
と、これステージでやっちゃったんだ。チータが泣いてね。僕がチータほっぺたにチューしたら、二十年の汗と涙でしょっぱいの。

でも、チータは先輩を立てるし、歌以外のことは考えない。いい子だよ。隠れ亭主がやってた赤坂のステーキ屋を紹介されて、一緒に行ったんだけどね。僕にカネを払わせないんだよ。
「ダメよ、それでつぶれる店じゃない」
ってね。こういう子なんだよ。

こんなこともあったよ。テレビ東京の「懐かしの歌謡祭」のとき、僕の楽屋にでっかい寿司が届いた。これが名無しなんだよ。あとで寿司屋に聞いたらわかったんだけど、これがチータ。

昭和の名歌手たち・霧島昇(きりしま・のぼる)

2006-12-04 23:59:46 | 昭和の名歌手たち

♪花も嵐も踏み越えて~行くが男の生きる道~
もはや格言の粋にすら達しているこのフレーズ。
映画『愛染かつら』主題歌「旅の夜風」、これを歌ったのが、今回取り上げる霧島昇であります。

この方は、今では知名度は今ひとつですが、戦前~戦中~戦後と沢山のヒット曲をかっ飛ばし、昭和40年代ナツメロブームでも大活躍した大物中の大物。
その割には、ネットでは不人気、一般知名度の今ひとつ。
私自身も、さほど好きでも無いのですが、昭和歌謡史に欠くことの出来ない歌手。
ぜひとも一度は聴いて頂きたいものです。


食いだおれ人形
霧島昇(1914~1984)
本名:坂本栄吾(英明説もあり)
福島県出身。
小学校卒業後、拳闘選手(ボクサー)になることを夢見て上京。やがて歌手を志すようになり、苦学して東洋音楽学校を卒業。
アルバイトで、エディソンレコードに坂本英夫名義で吹き込んだ「僕の思い出」がコロムビア関係者の耳に留まり、コロムビア入社へ。
東海林太郎の対抗馬として、昭和11年、霧島昇としてデビュー。翌年「赤城しぐれ」がヒットし、名を上げる。
昭和13年、松竹映画『愛染かつら』主題歌である「旅の夜風」が空前の大ヒット。
昭和14年、この唄を共に歌ったミス・コロムビア(松原操)と結婚、四児をもうける。同年は「一杯のコーヒーから」「純情二重奏」もヒット。
昭和15年、映画主題歌である「新妻鏡」「目ン無い千鳥」「蘇州夜曲」に「誰か故郷を思わざる」がヒット。
昭和18年、戦時歌謡の代表作「若鷲の歌」がヒット。
戦後も、並木路子と共に「リンゴの唄」を歌いヒットさせたのを皮切りに、「夢去りぬ」
「三百六十五夜」「サム・サンデー・モーニング」「胸の振子」「白虎隊」などをヒットさせ健在振りを示した。
紅白歌合戦には、第2回(昭和27年)から第9回(昭和33年)まで通算5回出場。
昭和45年には紫綬褒章受賞。没後勲四等旭日章を追贈。
昭和59年4月24日没、69歳。

ちなみに私がおススメする曲は…

誰か故郷を思わざる
ナツメロ・スタンダードで、基本中の基本。
この曲は作曲した古賀政男が、外務省の音楽親善大使としてアメリカへ一年ほど行って、帰ってきて、すぐ手がけたもの。南米民俗音楽の影響、異国での生活時の望郷の念などがこもっている、と古賀は後に語っています。
また、西條八十の詩も、古賀自身の少年時の光景/心境そのもので驚いたとか。
また、この曲は完成してから吹き込むまで実に10日間しか無かったという話も。
曲を視聴したコロムビア関係者の判断で、製作したレコードは殆ど戦地への慰問レコードとして送り、それが軍歌に飽いていた兵士の心の琴線に触れ、大流行。
大陸へ慰問した歌手が、そこで覚え、帰国後ステージで披露…という逆輸入のかたちで国内でもやがて流行したそうです。
渡辺はま子の話では、戦地でこの曲を歌っていると、最前列で聴いていた畑俊六(大将)が目頭を押さえ涙を拭っているのを見て、途中で貰い泣きしてしまい声が続かなくってしまうと、集まっていた兵士も皆それにつられ、泣き始めてしまったそうです。

旅の夜風
これもナツメロ・スタンダードで、基本中の基本とも言える曲。
♪肌に夜風が沁みるとも 男柳がなに泣くものか
という部分を、♪肌に夜風が沁み渡る と霧島が歌ってしまったことも有名。
戦後も、映画共々リメイク。

胸の振子
服部メロディーの名作として、様々な歌手によってリメイクされている、いわば「発掘された」曲。当時は中ヒットくらいだったらしい。
ただ、とても美しいメロディーであることから、知る人ぞ知る名作として愛好され、昭和46年発売の雪村いづみ&キャラメル・ママ「スーパージェネレーション」でも取り上げられたことで、さらに知名度は上がった。
新たなるスタンダードナンバーと、今は言えるのかも。
本家・霧島バージョンは、他のどのカバーに及ばぬと私は思う。
ぜひとも一度は聴いて欲しい1曲。

白虎隊
昭和12年に島田磬也作詞、古賀政男作曲、藤山一郎唄で、テイチクから発売。
当時は売れずも、会津地方では愛好され、戦後会津側からの要望で、(古賀がいた)コロムビアから岡本敦郎で吹き込みの予定が、スケジュールの関係からか、霧島にお鉢が回る。昭和27年・30年・35年、と3度発売。霧島のスマッシュヒット。
詩吟は佐々木神風。

三百六十五夜
昭和23年封切の同名映画主題歌。
ミス・コロムビア(松原操)は、この曲を最後に引退し、育児に専念することに。
この引退には諸説あって、子供の教育が公式な理由となっているが、実はヒロポン中毒で声が出なくなってしまったからでは?、という説も存在する。
霧島・松原、共に酷いヒロポン中毒であったことから出た説である。

若鷲の歌
♪若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨
古関裕而による戦時歌謡の大傑作。
霧島がこの曲をステージで歌っていたときに、赤紙が着て、会場中この曲の大合唱で送ったというエピソードが存在する。

高原の月
戦時中の異国風叙情歌謡の傑作。
仁木他喜雄による美しいメロディーに、西條八十の美しい詩、そして二葉あき子・霧島昇の歌声。
もっと評価されても良い1曲。

蘇州夜曲
異国情緒たっぷりの服部メロディーの代表格。今も様々な歌手にカバーされ、CMでもよく使われていたりする。
渡辺はま子とのデュエット曲であったこの曲も、ナツメロ番組では、渡辺はま子が披露し、霧島が歌う機会は殆ど無かった。
霧島がステレオで再録音をした音源、これがなかなか素晴らしい出来で驚く。
機会があれば、この霧島ソロ・バージョンもお聴き頂きたいもの。

一杯のコーヒーから
作詞の藤浦洸は珈琲党、作曲の服部良一はビール党で、「一杯のコーヒーから」か「一杯のビールから」で、対立したとか。
そのせいか、♪一杯のコーヒーから の部分、♪一杯のビールから の方がすんなり歌える。
ミス・コロムビア(松原操)とのデュエット。
後年、ナツメロ番組では霧島ひとりスタジオで歌っていたが、正直何とも言いがたいものがあった。やはりこの曲は女性歌手とのデュエットの方が良いかと…。

そよかぜ
「リンゴの唄」B面。
霧島はこの曲に惚れ込んでいたそうで、何度も吹き込み直している。
この曲をメインで歌いたいがために、「リンゴの唄」を並木路子に譲ったという話が伝わっている。
並木がソロで吹き込み直したのは昭和も終わりに近づき、霧島没後の昭和62年頃である。
美しいタンゴの佳作。

愛染かつら愛用

地味ながらも、ヒット曲の多さでは東海林・藤山と肩を並べるほどな霧島センセですが、なぜか冷遇状態…。
主に戦後ですが、洒落た曲も案外多いですし、再評価が待たれます。

最後に…
霧島センセといえば、●ラ、屈伸しながらの歌唱、これらと共にに語られるのが、△空×ばりも真っ青の衣装センス。
これは実は、愛妻・松原操(ミス・コロムビア)のお見立てによるもの。
「あなたは地味なんだから、衣装くらいは…」という考えからだったとか。
霧島本人は結構恥ずかしかったらしいです。


ディック・ミネが語った あの歌手・このハナシ(第2章:ヒロポン中毒で散った芸能人)

2006-12-02 23:59:08 | 昭和の名歌手たち

その1(某男性大物歌手)
つい最近、名前をあげれば誰でも知っている有名な歌手が死んでね。故人のために名は伏せるけど、このヒトもかつてはひどいヒロポン中毒だった。なんとかやめることができたけど、残念ながらからだの深いところを蝕まれていたんだろうね。死ぬ数ヶ月前から頭がおかしくなって・・・・・・むかしからよく知っているヒトだから辛くてね。

医者の話だと、ヒロポンの副作用というのは、二十年から二十五年ぐらい後で出てくるらしい。若いときには体力があるから抑えられているけど、七十近くになるととても体力がついていかないからね、みんな、バタバタ死んでいっちゃう。ほとんど内臓をおかされてね・・・・・ね。

このヒト庭の木によじ登るんだよ、カミさんと一緒に。カミさんも亭主と同じころにヒロポンを打ちはじめたからね。大体、おなじ時期に頭がおかしくなったわけだ。ぼくが散歩していたら、八百屋のご用聞きが自転車で通りすがりに、
「△△先生のとこ、はじまりましたよ」
「おい、見世物じゃねえんだよ。可哀相にヒロポン中毒なんだから、放っといてくれ!」
って叱るとね、
「でもね、危ないんですよ。枝が折れたら・・・・・・」
たしかにそうだよね。夫婦で落っこっちゃったら、大変だ・・・・・・。

死ぬ二週間前に、おかしなことをいい出してね。
「ぼくの恋愛を誰かが邪魔してる!」
って怒るんだよ。話を聞くと、
「ぼくには十七歳の恋人がいる。仙台の方に住んでいるけど、ぼくたちの間を誰かが邪魔して、別れさせようとしているんだ!」
で、その犯人は、
「バタやんじゃないか?」
って真剣な目でいうんだね。《ア、こりゃおかしい》って思ったけど、あいまいに口を濁して聞いていたわけだ。ところが翌日、バタやんがカンカンになって起こって電話してきてね。
「彼から電話がかかってきて、おまえじゃないか? っていうんですよ。何いっていやがる、ヒトの恋路を邪魔するほどヒマじゃない。ぼくは自分のことで精一杯だ、って怒鳴りつけましたけど、どないなってるんやろ? あのヒト・・・・・・」

で、日本歌手協会に、その歌手はひとかかえもある封筒の束を持ち込んでね。
「これ、この通り、恋人からの手紙がこんなにある。まあ、読んでくれ」
読んでみると、なんのことはない、どう見てもただのファン・レターなんだよ。そして、「誰が犯人か、協会も探すのを手伝ってくれ」
っていうんだよ。困るよね、そういわれても。で、協会は会員全体の福祉と向上をはかるためのもので、個人の恋愛沙汰にタッチするわけにはいかないって説明したけど、それだけで、今度はぼくが邪魔しているっていうんだよ。もうラチがあかないからね。
「・・・・・・××さんね。警察に行って探してもらったらどうだろう? 一番いいんじゃないか。ぼくもついていってあげるから」

ってことで、築地警察署に行ってわけだ。ところが、警察署まできて玄関口の赤いランプを見たとたんに、
「あ、やめた! 帰る・・・・・・」
さっさと帰っちまった。《警察沙汰はまずい》って瞬間的に意識が正常に戻ったんだろうね。
で、その二週間あとに彼は亡くなり、いくらも日もたたないで、奥さんも後を追った・・・・・・。


その2(漫才師)
漫才界の大アネゴって言われたミス・ワカサね。あのヒトも哀れな死にざまだった・・・・・・。
あのヒトの漫才がおもしろくてね、ぼくは大好きだから、客席で見ることがあるんですよ。ところが、ステージの上からぼくがいるのがわかるんだよね。で、下ネタのときなど、ぼくの方を指して、
「あそこにディック・ミネが来てるんやけど、あの方がまた、大きいものを持ってはってね・・・・・・」
オレ、舞台でいわれちゃうんだから。いくらぼくが図々しい男だといったって、これじゃ顔が赤くなっちまうよ。お客さんはゲラゲラ笑いながら、どれどれ、なんて立ち上がって見るヒトもいるしさ。アネゴ肌の、とても気はいい女でした。

ミス・ワカサが死んだとき、ぼくもおなじ舞台に出ていてね。ぼくらと控え室はちがったけど、師匠の具合がひどく悪いって聞いてね。行ってみると、アブラ汗流して土気色の変な顔して、呻いているんだよ。医者が呼ばれてきたけど、もう手遅れでね、心臓マヒでしたね。

ヒロポンというのは、打ちはじめのころは皮下注射だけど、だんだん中毒になってくると静脈に打ちはじめるようになってね。おなじところに打っていると、皮膚が固くなって針が通らなくなるからね、腕のいろんなところに打って、あとは首筋とか肩とか・・・・・・ミス・ワカサも、しまいには打つところがなくなるぐらいの重症の中毒だった・・・・・・。

※どうもミネ氏は、ミス・ワカサの師匠であるミス・ワカナ(こちらは酷いヒロポン中毒)と一部記憶が入り混じっている様子。ワカサ師匠のご親族の方曰く「(ワカサ師匠は)生まれつき重い心臓弁膜症だったので、そんな薬使えるような体では無い」とのことです。

ワカサ師匠の名誉のために訂正致します。
ミス・ワカサ、ミス・ワカナ…名前が似ておりますが、師匠-弟子の間柄で別人です。

他に、正司歌江(かしまし娘)著『女やもン!』にも、このような記述が。
「ヒロポンを打たないと芸人やない、というほどの大流行でした。
でも、なかには意志の強い芸人さんもいてはりました。まわりの人たちがなにをいおいうと、どんなしつこくすすめられようと、ガンとして打たずに頑張り通した人もいてはりました。
暁・伸、ミス・ハワイさん、亡くなったミス・ワカサさんは、その点ではほんまに偉いですヮ。
『あんな毒の薬は、ゼッタイ打ったらあかん。人間の命は明日も知れへんことはたしかでも、それとこれは違う。ヒロポンで身体をいためることは、一種の自殺行為やないか』
こういう信念で、最後までヒロポンを拒否したのは立派やと思います。」


その3(笠置シズ子、岡晴夫)
ヒロポンにはいろんな幻覚症状があってね。部屋中にゾロゾロ虫が沸いてくるように見えたり、窓の外から目が睨みつけているように見えたり、トランプの王様が飛び出して、剣を持って追いかけてきたり・・・・・・。

笠置シズ子の場合はこうだった。
彼女が全盛のころだから、昭和二十年代のことだけどね。ある劇場の楽屋が狭くて、彼女だけ舞台裏の片隅を映画の部屋のセットみたいに仕切ってね、そこを控え室にしていたけど、あるとき、注射打ってるところに通り合わせたんだよ。
で、どうなるかと思って、ソッと見ていると、しばらくして、
「この部屋、汚いッ!」
いきなり立ち上がったかと思うと、
「オバはん! ホウキ持ってきておくなはれ!」
大声で掃除のおばさんを呼んだんだよ。で、ホウキを手にすると、狂ったみたいになって、部屋を掃除しはじめるんだね。相当散らかっているか、ホコリだらけにでも見えるのかねえ、いつまでも、いつまでも掃除しているんだよ・・・・・・。

岡晴夫もねえ、若さにまかせてメチャクチャに打ってたからね・・・・・・。死ぬ前は、テレビで一緒になったときなんて、
「おはようございます」
って挨拶されて、ヒョイと見ると、幽霊みたいな男が立っていてね、岡晴夫なんだよ。
痩せちゃって、青いんだか、白いんだか変な顔色しててね、目は死んだ魚の目だったね。
これはヒトに聞いた話だけど、後に総武線の小岩だかどこだかで飲み屋をやって、客の目もはばからずに打っていたそうだ。いい男だったのに、若死にしちゃってね・・・・・。


亡くなった方たちを引き合いに出して、ぼくも心がいたむけど、みんなエンターテイナーとして才能に恵まれた素晴らしいヒトたちだったのに、ヒロポン中毒になったばかりに、あたら命を縮めてしまった。ぼくはこれが口惜しくてね。二度とこんなことがあってはいけないって、痛切に思っているからね。それで後輩の芸能人のためなら勘弁してもらえるだろうと、あえて紹介させてもらった。



この話のネタ元の本の出版は昭和61年11月。
あとがきは昭和61年10月。
夫婦で…で、夫が亡くなった後、妻もすぐ亡くなった…。
そう考えると、名が伏せられた大物歌手は×××では無いのでしょうか?
(名前は特定できますが、ミネ氏も伏せておりますので・・・)
読んでいて衝撃が走った辛いハナシでしたが、最後のミネ氏の一文、コレに共感しました。本当に残念極まりないです…。
この手の薬物撲滅を心から祈らずにはいられませんね。

紹介された偉大なるエンターテイナーたちに改めて合掌。