今だから…昭和さ ある男のぼやき

主に昭和の流行歌のことについてぼやくブログです。時折映画/書籍にも触れます。

一唱民楽~東海林太郎という人生

2005-08-27 23:49:05 | 昭和の名歌手たち
東海林太郎、こう書いて「しょうじたろう」と読める人、あのロイド眼鏡に燕尾服、独特の髪型・直立不動の姿勢が出てくる人は果たして何人だろうか。

没後33年。秋田で東海林太郎ナンバーを合唱で歌うイベントがあったそうだが100人集める予定が40人しか集まらなかったとか。
「40人もよく集まった」という気持ちと「たった40人」という気持ちで複雑な心境である。

東海林太郎の歌に対する情熱は並大抵のものではなかったらしい。
吹き込み前には歌詞を毛筆で写し、内容をまず理解しようとした。
納得できない場合は文献を読み漁る。
佐藤惣之助(詩人)曰く「東海林さんの歌を書くのは怖い」
藤田まさとは「すごい読書家で小野小町を題材にした時、彼は神田の古本屋で7・8冊も参考文献を仕入れて意見を述べた。作詞家に意見を出せる歌手は他にいないあ」と語った。佐藤の話は東海林も後年自身の口から話している。
(昭和46年7月22日放送「なつかしの歌声」ほか)

「歌に生き、歌に支えられた私です。死ぬまで歌い続けます。東海林の歌を聞きたいと言う人が一人でもいるうちは……」とも語る。
ピアノを使い、1日に1時間発声練習をし、ピアノがないホテル・旅館は泊まらなかった。
胃の中で食べたものが消化されているうちはいい声が出ない、食べたものが調へ流れた頃が一番いい声が出る。という考えから歌の前の食事は4時間前に摂った。

歌についてはこうも言っている。
「シューベルトを歌う心で歌っている。クラシックも、歌謡曲でも、いい歌を歌うには、ちゃんとした服装、人格で……その心・息・身には正装が最適です。例えば末のキャバレーが舞台であっても僕はコンサートのつもりで歌います。ですからアロハシャツや着流しでは歌えないのです。
あえていえば、その場で命を落としてもかまわない覚悟です。したがってステージで握手を求められてもお断りします。真剣勝負の場で握手するなんておかしいじゃありませんか。一尺四方のステージは真剣勝負の同情です」

当時の若手(60年代!?)についてはこう語っていた。
「この頃の歌手はたくみに歌うが自分で新しく開拓しようという気持ちがない
歌まねです。あんなものを聴くと馬鹿になります。歌の本質を知らないのです。
あんなに地声を張り上げてよくノドが続くと思うことがあります。しかし発見しました。彼らは声をつぶす前に自分が消えてゆくことをです」
なかなか辛口である。もっと長命であったならこの辛口トークが話題となった可能性もある。決して淡谷のり子だけが辛口の批評をしていた訳ではないのだ。

一時期、女優の高峰秀子と同居し、養女として貰い受けたがっていたが、結局高峰が嫌がりご破算になった。
この話は「いっぴきの虫」(高峰秀子・著)に詳しい。

なお藤山一郎とは犬猿の仲で有名だが、私は藤山が相当敵視していたと聞いた。
フィナーレに出場歌手全員が勢ぞろいする際に、藤山の前に東海林がゆっくり歩いていると、「やだねぇ~、年寄りは」と言っていたとか。
他にも東海林が楽屋に入る際に「おはようございます」と挨拶したところ、藤山は、「ああ、おはよう」と台本を読みながら応対したという話も。
東海林に対しては、俺の方が先輩という思いと自分がヒットが出せずにいた時期に
台頭したことを面白くなかったからとも考えられる。
東海林・藤山も癖のある人物である。
一番の原因は多分、ウマが合わなかったのだろう(笑)。


話は戻る。
東海林は意外にも弟子は「人に教えるガラじゃない」ととらず、リサイタルも嫌いだった。

辛口批評はまだある。「馬鹿な司会者(東海林談)」についてである。
「ふたことめには歌は世につれ世は歌につれというが、歌じゃ世につれても、世は歌につれるほど甘くありません」
「『昔とちっともお変わりありませんね』と私を励まして愛想のつもりで言ってるのでしょうが、こんなに情けないことは無い。40年も同じ歌を歌って進歩が一寸も認められないことだからね(苦笑)」

口癖は「白寿のリサイタルではシューベルトとワーグナーを歌うんだ」
「歌うたいであると同時に日本人であり、社会人であることを忘れてはいけない」
常に歌に対する精進をかさね、真摯な態度だった。
レコーディングの際はスタジオの入り口で最敬礼をし、スタッフのひとりひとりににこやかに挨拶をし、どんなに暑い日でもキチンと背広にネクタイ。
懐メロ歌手には珍しい、昔の音階(声質は衰えてはいるが)で声を出し
「勝負は1回しかない」と常に本番1回でレコーディングを終えた。

持ち歌は「赤城の子守唄」に1番愛着を持ち、テレビで歌うときも2番の省略には
この曲は頑として応じなかったことから「信念の人」とも評された。

こう書いてきて、お読みになった方は「東海林はクソ真面目なつまらない奴」と
思ったかもしれない。
いやいやそんなことは無い。酒を飲むと特に。
飲めば駄洒落をよく飛ばし、逆立ちをしながらビールを飲む芸当を見せる。
いつも日本酒・ビール・ウィスキーのチャンポンを飲む。

東海林太郎=酒と駄洒落 のイメージは同業者に多いらしい。
故コロムビアトップ氏も酒と駄洒落の話をしていた。
何しろ日本酒・ビール・ウィスキーのチャンポン、相手がバテてまどろんでると
もう本を読んでいるほどのタフさ。
若い頃は夕方6時から翌朝8時まで飲んでもビクともしなかったとか。
「実は満州で鍛えたんだ。でもこっそりトイレで吐いていたんだよ」とも。
「酒を飲んで歌えないのは本当の歌手じゃない」は酔ったときの口癖。
国民的歌手・東海林太郎ここにあり。

この真面目で辛口で酒を愛した東海林太郎。
明治という時代に生まれ育ったのも、この大歌手が出来た土壌のように思える。
東海林の信念も、今の世には生まれるものでもないだろう。
世間一般では格下に思われた歌手では初の勲四等受賞。
没時に国民栄誉賞があったらば、まず受賞していただろう。
正五位勲三等瑞宝章追賜というのは芸能界では最高だけに。
大衆芸能は軽く見られがちだが、美空ひばりが今もあれだけ騒がれている。
もうそろそろ東海林や藤山一郎は教科書で教える時代のような気がする。
テレビでも映像が放送されない現状では。
昭和も遠くになりにけり。


東海林太郎
本名:同じ。
明治31年12月11日、秋田に生まれる。長男。
大正5年3月、秋田中学校(現・秋田高等学校)卒業。
国立東京音楽学校入学を、父の反対により断念。
大正6年4月、早稲田大学商学部予科入学。
同期に河野一郎(河野洋平元・自民党総裁の父)、浅沼稲次郎(元社会党委員長)ら。
陸上競技選手も一時はやっていた。
大正11年1月、結婚。
大正12年9月、満鉄入社・調査課勤務。
大正13年1月、長男・和樹出生
大正14年9月 妻・久子、歌手の夢が捨てられず、長男・和樹を残して帰国。
大正15年、二男・玉樹出生(東海林が引き取る、久子とはその後離婚)
昭和2年4月、鉄嶺図書館長赴任。(左翼というレッテルを貼られたため)
昭和5年8月、歌手の夢を捨てきれずに満鉄を退社
昭和5年9月、渡辺シズを伴って帰国。のちにシズとは結婚。
昭和8年3月、ニットー・レコードで「宇治茶摘唄」を吹込み、レコードデビュー
昭和8年5月、時事新報社主催・第2回音楽コンクール声楽部門入賞。
昭和9年2月、ポリドール・レコードで「赤城の子守唄」発売。50万枚を売る。昭和9年、「国境の町」(ポリドール)「山は夕焼け」(キング)ヒット。
スターの座を不動のものにする。
昭和10年、「旅笠道中」「むらさき小唄」「野崎小唄」「お駒恋姿」などがヒット。
昭和11年、「三味線やくざ」「お夏清十郎」「すみだ川」ヒット。
昭和12年、「踏絵」「湖底の故郷」ヒット。
昭和13年、「陣中髭比べ」「上海の街角で」「麦と兵隊」ヒット。
昭和14年、「名月赤城山」「築地明石町」ヒット。東海林太郎後援会発足。
昭和15年、テイチク移籍。
昭和16年、「あゝ草枕幾度ぞ」「琵琶湖哀歌」「銀座尾張町」ヒット。
昭和18年、「軍国舞扇」ヒット。
昭和22年、ポリドール復帰。「さらば赤城よ」ヒット。
昭和23年7月、S状結腸癌手術。
昭和26年正月、第1回紅白歌合戦出場。
昭和27年、「勘太郎子守唄」が久々のヒット。
昭和28年12月28日、妻・シズ逝去。享年五十二。
昭和30年11月 2回目のS状結腸癌回復手術。
昭和30年大晦日、第6回紅白歌合戦に病院から抜け出し出場。
昭和31年大晦日、第7回紅白歌合戦出場。
昭和34年、青木美瑳子と再婚。
昭和38年2月、日本歌手協会設立。初代会長に就任し、亡くなるまで勤める。
昭和39年6月、3回目の手術。人工肛門を施す。
昭和40年6月、LP「東海林太郎傑作集」(キング)、20万枚の大ヒット。
昭和40年11月3日、紫綬褒章受章。
昭和40年12月、第7回日本レコード大賞特別賞受賞。
昭和40年大晦日、第16回紅白歌合戦出場。
昭和41年11月11日、秋の園遊会招待。
昭和43年5月、人工肛門にポリープ発見、切除。
昭和43年12月14日、先妻・庄司久子逝去、享年七十。
昭和44年4月、新たに人工肛門を施す。
昭和44年4月29日、勲四等、旭日小綬章授与。
昭和45年10月 レコード吹込み中、右脚アキレス腱を切る。
これにより足を痛め、軽井沢の自宅へはあまり戻らなくなる。
昭和46年8月、立川市のマネージャー宅に転居。
昭和47年3月、第23回NHK放送文化賞を受賞。
昭和47年敬老の日、山梨県富士吉田市文化センターの歌謡ショーに出演。
競演に若原一郎他。これが最後のステージとなる。
昭和47年9月22日、東京12チャンネル「なつかしの歌声」収録。
笑顔で「早稲田大学校歌」を、他に「春の哀歌」を歌う。これが絶唱となる。
昭和47年9月26日、仕事の打ち合わせをマネージャーとした後の午後2時、「ねむい、いつものように1時間ばかり昼寝をしますよ、3時になったら姿三四郎のTVをつけて下さい」と言って、横になった。
3時になり、マネージャーがテレビをつけたが起きず、様子がおかしいのに気づき
急いで医者を呼び見て貰ったところ、脳出血の発作による昏睡状態とわかる。
翌日、立川中央病院に入院。意識は混濁し、家族の顔も見分けられず。
10月3日夕刻頃から好転の兆しが現れ、大部分のつめかけた人が一旦帰宅。
長男・和樹も大阪へ戻る。
夜、院長回診後に容態悪化。
10月4日午前8時50分、次男夫婦・妹・付き人・マネージャー・後援会関係者数名に看取られながら逝去。享年七十三。
死因は脳出血による心臓衰弱。
没後、正五位勲三等瑞宝章追賜。
10月 青山葬儀所において音楽葬。法名・ 声楽院釈太朗大居士。
秋田市土崎港中央3丁目、西船寺に眠る。
11月 日本歌謡大賞放送音楽特別賞受賞。
大晦日、第23回紅白歌合戦で島倉千代子が「すみだ川」を歌う。

アジアの歌姫・ジュディ・オング

2005-08-20 19:07:20 | 歌手について
・「魅せられて」のときで、芸歴20年のベテラン。
・台湾語・北京語・日本語・英語・スペイン語が話せる。
・木版画家としても著名。
・名家の生まれ、だからセレブ
・実は「魅せられて」以外の歌もそこそこ売れていた
・歌手デビューは実は昭和41年。
・香港での「おしん」の主題歌を歌い、ヒット
・中国・(香港)・台湾ではスター(今はそうでもないとか)
以上ジュディ・オングの最低知識である。

そしてこれはお馴染みの「あの歌」のお馴染みエピソード
・ティッシュのCMソング
・それも急遽作ったもの
・羽に骨が入っている現在の衣装は「スーパー魅せられて」
・この曲のヒットのために米ドラマ「SHOGUN」降板

なぜ我々はジュディの羽が開く時、高揚感を覚えるのだろうか。
本当は内田あかり「浮世絵の街」での衣装を進化させただけではないのか。
あの羽はトイレットペーパーをイメージしていたのか。
自分で建てたジュディ・オング記念館の需要はあるのか。
化粧をとったらどんな顔なのか。
そして、本当はキワモノなのに、そう思えないのは何故なのか。

アジアのスター、ジュディ・オング。
誰にも真似できないという点(除:衣装)ではスターである。
今後も観察を続けて、いえ応援していきたい方です。

歌もなかなか良い歌を歌っていることを付け加えておきます。
興味のある方はソニーのベスト盤を購入をオススメします。
「ゴールデン☆ベスト ジュディ・オング(ソニー編)」を特に。
ジュディワールドをご堪能下さい。

三人娘・雪村いづみは「運の人」ではない・前編

2005-08-20 18:17:13 | 戦後・歌謡曲
初代三人娘と言えば、美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみです。
雪村本人の弁だと「ひばりちゃんは天才児、チエミちゃんは努力児、私は幸運児」
いえいえ、3人とも天才児で、努力児、そして幸運児です。

チョッと考えれば判ります。
運がなければ国民的スタァにはなれません。
歌は3者とも絶品であります。

努力という点では
ひばりはチエミに触発され、洋楽を歌い始め、それをうまく
消化して、歌の幅を広げた、これは間違いない事実。
(後年「スターダスト」が絶賛されますが、チエミの影響が無かったらこの歌は
歌うことは無かったでしょう)

さらにチエミの「さのさ」にも触発。
柳家三亀松の後ろで三味線を弾いていた父という、そっちの筋を知らず知らずに体得しているチエミ。
しかし、ひばりは魚屋の娘。そっちの筋は素人。
再び特訓し、消化。
ドドンパのリズムと日本の粋が混在する名曲「車屋さん」がその成果。
江利チエミ無しでは美空ひばりは完成していなかったでしょう。

チエミは、喜劇女優だった母親譲りのセンスをみがき、コメディに挑戦。
その集大成が「サザエさん」でもあります。
本来隠し芸だった民謡(さのさは俗謡)を見事に自分のものにしてしまい、十八番に
してしまうこともやってのけます。
何とコマ劇場での1ヶ月公演の先駆者でもあります。
(三波春夫やひばりでは無いのですよ)

こう見ると、ひばりがいかにチエミに影響を受けていたかということが見えてきませんでしょうか。
見事に消化してのけたひばりも凄いですが、影響を与えたチエミも凄い。

まあ、こんな調子ですから(実生活ではさておき)、「ライバル」とあちこちで
騒ぎ立てます。
「○○劇場でひばり○人入場、○○劇場のチエミ○人は入場・勝利」

そんな中、うまい具合に中和剤的存在として、いづみが登場。
それゆえ、「運の人」と呼ばれますが、芸のバケモノのような二人に運だけでは
叶うわけがありません。やはりスゴイ物を持ったバケモノだったのです。
そして3人は時代を代表する歌い手となっていくわけです。
(以下後編へ)

その名はおスミ~坂本スミ子

2005-08-17 21:34:54 | 昭和の名歌手たち
坂本スミ子、今で言うマルチタレントのさきがけでもある。
勿論、今のそれよりずっとレベルは高い。

私が坂本スミ子の名を知ったのはいつだったろうか。
確か「夢で逢いましょう」の再放送のときだった気がする。
「ベタベタの関西弁を話す太ったオバチャン」にしか思わなかった。
その後、「第35回思い出のメロディー」で「夢で逢いましょう」を歌って
いるのも見たが、やはりあまりどうと思わなかった。
(顔が違うような気がしたが・笑)

その直後に、「夜が明けて」を聴いた。
その独特の声質、どこか南米を思わせる曲、詩の儚げさ…。
いっぺんに彼女の評価が変わった。

1曲でもその歌手の歌を好きになれば、あとはこっちのもの。
やはり私の思ったとおり、彼女は沢山良い歌を歌っていた。
例えば「親を眠らす子守唄」。
この歌は女優・坂本スミ子の代表作でカンヌ映画祭でグランプリを受賞した
名作「楢山節考」の宣伝歌だ。

なお余談ではあるが、よくこの映画を語るとき、「坂本スミ子は前歯を抜いた」
とよく言われる。実際は前歯四本を削って芯だけ残して、差し歯にしたのであって
抜いていないのである。

老母を想う子の気持ちがよく伝わる名曲で、今でも歌っているらしい。
久々にヒットチャートにのるべき歌だった。
だが、「ある事情」によって、幻の名曲になってしまった。

他にも世界のポール・モーリア作曲のディスコ・ナンバー、「オーララ・オーサカ」という歌もある。

彼女はもともとラテン歌手としてデビューしたので、もちろんラテンの名曲も一杯歌っている。
彼女の持ち歌「エル・クンバンチェロ」の迫力は半端ではない。
昭和37年の紅白歌合戦でも披露しているがまるでバケモノである(笑)。
他にも他の歌手の曲で知られる「アドロ」も素晴らしい。
これが収録されている「Viva!ハリウッド」のゴリラの掌にのるおスミさんという
ジャケットも実に良い。

現在は熊本の園長業の傍ら、娘(石井聖子)と歌っていたりする。
できれば、もう少し歌のほうに重点を置いて欲しい。

あと、彼女はレコード会社の移籍が非常に多い。
テイチク→東芝→フィリップス→ソニー→トリオ(テイチク系?)→フィリップス
→トリオ(テイチク系?)…もっとあるのかも知れない。
テイチク・ソニーは良いベスト盤が出た。
が、他は無い(フィリップス時代は60年代後半の一部のみCD化)。
名曲揃いなので、権利関係や商売になるか否かの問題はあるだろうが、BOXでも
かまわないので、ぜひ眠った名曲を起こして欲しいものである。

憧れのスタァ歌手・オカッパル~岡晴夫

2005-08-04 03:35:33 | 昭和の名歌手たち
岡晴夫、私が初めて聴いた懐メロ(戦前~昭和30年代までの流行歌)は
彼のヒット中のヒット曲「憧れのハワイ航路」なので、特別な想いがある。
1999年8月の終りの月曜日、テレビ東京「昭和歌謡大全集」のオープニングで流れた。
モノクロ映像・フルコーラス・あの魅力あふれる曲・岡のボーカル…。
すっかりこの歌が気に入った私は、同番組内で流れた「三味線ブギウギ」「蘇州夜曲」
「燦めく星座」「リンゴの唄」とこの曲が愛唱歌となった。
特にこの唄のメロディーが大好きで、ひっきりなしに口ずさんでいた記憶がある。

私は「昭和20年代を代表する歌手は?」と聞かれたら、こう答える。
「岡晴夫・笠置シヅ子・美空ひばり・リンゴの唄・青い山脈」
これらは戦争後の日本人の心の支えとなったと言っても過言じゃないと思う。

岡晴夫、デビュー曲は「国境の春」。
その後すぐ「上海の花売娘」「港シャンソン」がヒット。
一躍知られた存在になる。
戦争中はシンガポールの部隊に配属。
そこで風土病に罹り、帰国。療養生活を送る。
戦後すぐ活動を再開。
そして「東京の花売娘」がヒット。
男性歌手が不足気味(帰国していない)だったことも手伝い、岡は一躍トップスタァに躍り出る。
「青春のパラダイス」「啼くな小鳩よ」「港に赤い灯がともる」とヒットを連発の
最中、とうとう最大のヒット曲と出会う。

「憧れのハワイ航路」
この曲は当時キングレコードに籍を置いていた人気歌手・小畑実の新曲だった。
この唄のレッスン中にたまたま通りかかった岡が気に入り、仲のよかった小畑と作曲家の江口夜詩に頼み、譲ってもらった1曲。
この曲のヒットでさらに波に岡は乗るのだった。

しかし、ハードスケジュール(&ヒロポンの副作用)が祟り、戦中壊した体が悲鳴を上げ始める。
さらに、彼は前唄を入れるのは好まなかった。
「客は俺の歌を聴きに来ているのに、他の奴の唄を聴かせる訳にはいかない」
ワンマンショウの形式を作ったのは彼と言われている。
他の歌手よりも体力を消耗したと思われる。
そして、デビュー前の流し時代からの盟友・上原げんとのコロムビア移籍。
さらに新しい歌手の台頭。
岡の人気は下がり始めていった。

昭和29年、彼はデビュー以来の籍を置いていたキングを辞め、
新興レコード会社・マーキュリー(松山恵子・藤島桓夫・東海林太郎が所属)へ移籍。
しかし、ヒットは出なかった。
もし、キングを辞めていなかったら「お富さん」という曲がレパートリーに入っていたかもしれなかったのだが…。

さすがの岡の低迷振りを見かねて、盟友・上原げんとがコロムビアに口を利き、
コロムビアに移籍するように勧めた。
コロムビア第1作は「逢いたかったぜ」。
再び岡の人気は復活。しかしハードスケジュールに体が限界となり、約3年休養。

昭和37年、歌謡界復帰。
古巣のキングに舞い戻り、「南の島に雪が降る」を発表。
(この唄は春日八郎のために用意された唄だった)
しかし、糖尿病は刻一刻と進行していった。

昭和40年、盟友・上原げんと急死。
(余談ではあるが、上原がこの当時手がけていた歌手が後の五木ひろし)
岡は失明寸前(白内障+糖尿病)の身でありながら、葬儀に参列。
号泣しながら、「逢いたかったぜ」を歌った。

そんな岡にやっと陽が射す。
昭和43年にスタートした「懐かしの歌声」によって、懐メロブームが到来。
当然、岡が出演しないわけがない。セルフカバーのアルバムも売れた。
まだまだ岡晴夫を求める人は多かった。彼も俄然張り切りだす。
岡の唯一のカラー映像である出演番組「年忘れ大行進」(昭和44年)での掛け声の多さが
岡の人気が健在であることをしめす良い例だ。

しかし、運命というものは残酷である。
これからという昭和45年、懐メロブームの真っ只中、倒れる。
糖尿病の悪化と末期ガン。
5月19日、他界。享年54。

彼の本領発揮の場だった舞台映像は当然残っていない。
数少ない映画が残るのみ。
晩年のテレビ出演(「懐かしの歌声」)のVTRは残っているが、ファンにすれば
やせ衰えた別人のような岡を見るのは辛いらしい。
幸いにも舞台音源が数種類残っているらしい。
今年は没後30年、来年は生誕90年。ぜひ復刻してほしいものだ。
「残っている」ということ自体が奇跡なのだから。
あの鼻にかかった独特の歌声を聴くと、郷愁を覚えるのは私だけではあるまい。
当時を生きていた人、後追いの人…。
戦後60年に彼を欠かすことはできない。

昭和歌謡界の黒い花びら~水原弘

2005-08-02 18:00:35 | 昭和の名歌手たち
水原弘と言えば?
「黒い花びら」?「君こそ我が命」?「へんな女」?
「ハイアース」の看板?レミー?借金?勝新?

水原弘のデビュー曲は言わずと知れた「黒い花びら」。
その後も「黒い落葉」「黄昏のビギン」「恋のカクテル」とヒットを出すが
やがて途切れる。

なぜか?彼はスターになったのは自分だけの力だ、そう勘違いし、天狗になり、
中村八大と確執が出来(?)、コンビ解消も大いに関係あると思う。
「中村八大さん・永六輔さんのお陰です」と当時は発言していたらしいが。
そうじゃなかったら、その後も「夢で逢いましょう」の今月の唄でヒットを飛ばす
八・六コンビとの関係を絶つとは到底思えない。
永はさておき、中村八大との関係まで途切れる。
どう考えても「何か」あったように思う。

あとは、あまりの唄のうまさに手を余した、とも考えられる。
彼のディスコグラフィーを見ても、懐メロ・ラテン・クリスマスソング・歌謡曲・コミックソング…あまりにも節操がないことが何よりの証拠だろう。

ヒットが出なくなる前後から映画に頻繁に出演。
残念ながら俳優としては失格。
そして、勝新太郎の兄弟分になる。
勝新譲りの豪遊癖もつく。
金も無いのに豪遊→借金の山
博打に手を出し、捕まる→仲間をかばい黙秘→常習犯とみなされる
危険人物とみなされ、干される。地方回りの仕事くらい。
我侭ぶりに手が負えず、マナセプロからナベプロへ、しかしナベでも手に余る。
ただ唄はうまい。レコードを出せば少しは売れている。

ここまでが「君こそ我が命」までのおミズの経歴である。
常識で考えれば彼の生き方はムチャクチャである。
しかし、その「ムチャクチャ」が好きという人も数多く存在する。
それが「君こそ我が命」の仕掛人だった。
おミズも仕掛人も全身全霊で取り組んだこの曲は見事大ヒット。
「改心したおミズ」に皆驚き、そして喝采を浴びさせた。

しかしながら、仕掛人もおミズの妻も「この幸せは長く続くまい」と感じていた。
そのため、仕掛人はせめても…とこの曲に箔をつけようとした。
レコード大賞最優秀歌唱賞・紅白歌合戦再出場。
「改心したおミズ」はそれに喜び、「君こそ我が命」を熱唱した。

予想通り、一度は止めた豪遊をおミズは再開。
借金取りもさらに増える。
やはり「唄のうまさ」が仇となり、ヒットはあまり出ず。
(例外として「へんな女」「お嫁に行くんだね」などがそこそこのヒット)
ショーへの予算のかけ方も赤字になるような金のかけ方…。
最後は自身の興行権を金策のために売り払い、そのため無理な地方巡業させられ
、体を壊し、最期はホテルで吐血。全身から出血し、亡くなる。
残ったのは借金の山だった。
この借金は、「君こそ我が命」の仕掛人だった長良じゅんなどが長年かかって片付けることになる。

無頼派
こういうムチャクチャな生き方に愛想を尽かしつつも、そういう人間に限ってトンでもない魅力がある、だから縁を切りきれない人。

本当に迷惑、絶対納得がいかない、と心底そいつが嫌いな人。

それの典型が水原弘のように思える。
彼は手放しで絶賛するほどの好人物にはどうも思えない。
そう思っていたら「付き人時代の5wood氏は彼に辛く当たられた」という話が。
そう、それでいいのだ。この手の人間はこういうものだ。
あれだけ借金をこさえる人間は、それ相応に悪党でなきゃできない。
彼で絶賛すべき部分は唄だけだ。
生き方まで絶賛するのは何か違う、「どこか惹かれる」で止めよう。
そういう人間じゃないのだろうか、彼のような男は。