今だから…昭和さ ある男のぼやき

主に昭和の流行歌のことについてぼやくブログです。時折映画/書籍にも触れます。

ディック・ミネが語った あの歌手・このハナシ(第1章:伊藤久男、菊池章子)

2006-11-30 04:35:08 | 昭和の名歌手たち

その1(伊藤久男)
「イヨマンテの夜」でスターになった伊藤久男さんは、高所恐怖症だったんだよ。ヨボヨボのじいさんになっても、階段トコトコ登ってくの。
昔、大阪ロイヤルホテルでエレベーターの事故があってね。それ以来、恐怖症になっちゃった。
僕はそんなの平気だから、「僕が一緒に乗るから大丈夫だよ」って励ましてもダメね。
「どうぞエレベーターで行ってください。私はこっちで行きますから」
頑固でね、どうしても階段で行くっていうの。それだけ注意していて、結局は僕より先に死んじゃった。
「イヨマンテの夜」なんてスケールのでっかい歌を朗々と歌っていた人だけど、そんな男だったんだぜ。ただ大酒飲みの大食い。心臓と胃袋は別物の男だったよ。

若い頃はイイオトコだった…



その2(伊藤久男、菊池章子)
ステージに出る直前になって、「いけね!オレ、ズボン吊り忘れてきちゃった。何かヒモないかな?」って伊藤久男がいうからさ。ぼくも手伝って楽屋の裏を探したけど、荒縄しかないからね。
「少し重たいけど、がまんしてやれや」って渡したんだよ。彼は「ハイヨ」なんて気楽にいいながら、荒縄のズボン吊りをモゾモゾやりはじめたわけ。
それをぼくの隣で菊池章子が座って見ていてね。伊藤久男の汚いなりを上から下までつくづくながめて、「あたし、なんでこんな男と最初にナニしたんだろう・・・・・・」ポツンと呟いた。





服装・髪型は無頓着
伊藤久男(1910~83)
福島出身。
戦前~戦中は『暁に祈る』『熱砂の誓い(建設の歌)』などの戦時歌謡で一世を風靡。昭和18年、赤紙が届くも痔の悪化で入院した病院の医師が伊藤のファンで、その計らいで、軍役を解かれる。その後は故郷の福島へ疎開。吹き込み/慰問時の度、上京していた。慰問先の山形で終戦を迎える。
戦後は、戦時歌謡を歌ったことでGHQに捕まるのではと恐れ、酒に溺れるも、何とか復帰。「イヨマンテの夜」で再び人気が再燃。「あざみの歌」「山のけむり」といった抒情歌も見事に歌いこなし、ヒットさせた。
紅白歌合戦には、昭和27年(第2回)から昭和39年(15回)まで通算11回出場。
懐メロブーム時には、酒でノドを壊していたとも言われるが、スケールの大きい、豪快な歌い方・歌唱力は健在であった。
昭和50年代に入った頃から喘息や糖尿病に悩まされるようになり、晩年はインスリン反応による低血糖の発作のため、震えながらステージをこなすようになる。
昭和53年紫綬褒章受賞。
昭和58年4月25日、没。同年勲四等旭日章が追叙された。

淡谷のり子、ディック・ミネは親友
菊池章子(1924~2002)
東京・下谷出身。
三歳の頃から琵琶を習い始め、六歳で師範・免許皆伝。
昭和12年、日本コロムビア入社。
翌年「アイアイアイ」でデビューの予定も発売中止に。
昭和14年に「お嫁に行くなら」でデビュー。
昭和15年、映画主題歌「相呼ぶ歌」(伊藤久男とのデュエット)、「湖畔の乙女」がヒットし、スターの座に上る。
昭和20年、東洋音楽学校卒業。
戦後はテイチクへ移籍。昭和22年、一娼婦による新聞の投稿記事を基に作られた「星の流れに」が空前の大ヒット。なおこの曲は最初淡谷のり子の吹き込みが予定されていたが、淡谷が「良い歌だけど、こういう歌は歌いたくない」と拒否。菊池にお鉢が回ったものだった。
昭和23年にはテイチク専属作曲家・大久保徳二郎と結婚するも、31年離婚。
「星の流れに」以後も「母紅梅の歌」「春の舞妓」「岸壁の母」と順調にヒットを重ねたが、やがてヒットから遠ざかるようになるが、新曲は平成まで出し続けていた。
『懐メロ歌手というのは心外だ、私は現役歌手だ』、と昭和40年代に発言している。
昭和47年に製作したアルバムに、キングレコード管理楽曲である「かりそめの恋」を吹き込みたいと熱望。テイチクの菊池は「かりそめ~」、キングは浪曲師・二葉百合子が「岸壁の母」をそれぞれ吹き込むというパーター形式がとられた。
その後、NHKで二葉が「岸壁~」を歌ったところ、問い合わせが殺到。数年後、二葉の「岸壁の母」は日本全国に知れ渡る大ヒットとなり、オリジナルが菊池であることは半ば忘れ去られる形に。菊池は悔しがったらしい。
懐メロ歌手という看板に胡坐をかくことなく、昭和54年には、日中友好の架け橋にと山口淑子作詞による「憧憬」を発売。
平成12年、勲四等瑞宝章受賞。このあたりから体調を崩し始め、平成14年4月7日没。
「北上夜曲」で知られる歌手・多摩幸子は妹、作曲家の菊池一仁は孫。