今だから…昭和さ ある男のぼやき

主に昭和の流行歌のことについてぼやくブログです。時折映画/書籍にも触れます。

ディック・ミネが語った あの歌手・このハナシ(第6章:石原裕次郎、三波春夫)

2006-12-25 06:40:44 | 昭和の名歌手たち

その1
あるステージで、ぼくと(石原)裕次郎と三波春夫が共演したことがある。そのときに、ぼくの『旅姿三人男』を三人で、一番、二番、三番とメドレーで歌うことになった。
ところが、裕次郎がブースカ怒ってるんだよ。
「なんだ、あのやろう!後輩のくせに生意気だ」
「どうしたんだ?」
って訊くと、
「あのやろう、自分に三番を歌わせてくれってほざくんですよ・・・・・・先輩が歌うのが当たり前でしょう?それを後輩のくせに・・・・・」

つまり、こういうことなんだね。
ある歌を三人でメドレーで歌う場合、一番、二番よりも三番を歌うほうが、客に与える印象がどうしても強くなる。
他の二人が一番、二番をどう歌おうと、最後に自分の歌い方でピシッと決めるわけだからね、余韻がそれだけ強く残るわけだ。あの、『紅白歌合戦』だって、誰がトリを取るか、毎年話題になるだろう?その年の主役だからね。歌手なら誰だってトリを取りたいわけだ。
で、この場合も、三波春夫が三番を歌いたいっていったんだね。三波らしいやね。

ところが、裕次郎にいわせると、ディック・ミネの持ち歌なんだから当然ぼくが歌うべきだってことと、テイチクの専属のキャリアからいうと、ぼく、裕次郎、三波の順で、三波は一番後輩なのに先輩二人を差し置いて・・・・・・ってことなんだ。
三波はそのころは人気絶頂だったけど、裕次郎だってスクリーンの大スターだし、歌手としても三波に勝るとも劣らぬ人気歌手だったからね。その自負心は強烈に持ってるわけだ。それで、
「三波のやろう、生意気だ!」
って怒ったわけなんだよ。

ところが、ぼくはそういうことは、一向に気にしないんだよ。誰が何番歌おうと・・・。
こっちは飽きるほど、うんざりするぐらい歌っているんだから、ホント、歌うのイヤなんだ。それに彼等はずっと後輩で、これから伸びて行くんだし・・・・・・。
で、裕次郎には
「いいじゃねえか。歌いたかったら歌わせてやんなよ」
「だって、先輩・・・・・・腹が立たないスか?」
「怒るほどのタマじゃないよ、放っとけよ」
ってなだめたんだけど、裕次郎、それでもまだブースカいってたね。


その2
三波春夫で感心するのは、ぼくなんかとはまるで違って、後輩のしつけに異様に厳しいことだね。
テイチクの廊下で、十七、八の女の子が泣いているところに通りかかったことがあってね。わけを聞いてみると、その子、新人歌手らしいんだけどね、ぼくはあんまり若い子なんて知らないから・・・でこういうんだよ。
「・・・・・・・三波先生の前歌をやったことがあるんですけど・・・・・また、やることになって・・・・・」

ポツン、ポツンとその子が話したのをまとめると、こういうことなんだ。

「お疲れ様でした」
って楽屋で座長の三波のところに挨拶に行くとするね。
まず、戸の開け方が悪いって注意される。
―もっと、丁寧に。
で、やり直しをさせられる。
―開けたら、閉める。
あわてて、閉める。
―挨拶はそんな入口じゃなくて、ちゃんと私のところまで来て。
で、三波のところまで行って、正座してお辞儀をする。
―手のつき方はそうじゃない。両手の親指と親指、人差し指と人差し指をきちんとくっつけて・・・・・そう。頭を下げるときは、鼻がその間に行くように・・・・・・そう。

やれやれってホッとしたら、
―いま、こっちに歩いてくるときに、そこの畳のヘリを踏んだだろう!

一事が万事、この調子なんでね。その子、すっかり恐れをなして、それで泣いていたってわけだ。

よく知られていることだけど、三波は浪花節(浪曲)出身だよね。あの世界はことに厳しいらしいんだよ。先輩、後輩の序列やしつけが。三波もたっぷりやられてきてる。
苦労したらしいよ。
(中略)

ぼくなんか、そんなこと一切やらないからね。
「いや、ご苦労さん・・・・・いいんだよ、わざわざこっちにこなくたって。早く寝なさい。くたびれたろう」
で、おしまい。いい女だったらこうはいかないけどね。
「もう寝るのかい?まだ早いよ。遠慮することはないよ。こっちにおいで・・・・・・腹減っただろう。うまい菓子があるよ」
いいかげんなもんだね、ぼくも。

三波は別にいじめてるわけじゃないんだろうけど、いまの若いモンにはいじめとしか思えない。で、泣くわけだ。仕様がないよ。大体、その親たちからして、そんな礼儀やしつけはわかっちゃいないからね、子どもに求めたって無理なんだ。ぼくなんか時代の違いだって割り切ってるからね。しないんだよ、そんな面倒くさいこと・・・・・・。

それから、三波で感心することは、何ごとにも徹底しているってことだね、嫌味なくらい。
「今日は遠いところから、おじいちゃん、おばあちゃん、よく来ていただきました」
で、ステージの前方に出て行って、一番前の客に、
「おばあちゃん、どちらから?」
「●●△△××++・・・・・」
「ああ、わざわざ本当に遠い所からいらしてくださって・・・・・お客様は神様です」
実際《ファンが一番大切》って思っていたって、普通の神経じゃ、あそこまでいえないからね。堂々たるモンだよ。ぼくなんかは、からだがむずがゆくなっちゃうけどね。

それに、
「あのやろうは、えげつねえやろうだ!」
とかナントカいわれながらもあそこまで行ったのは、いい根性してるといおうか、立派だよ。敬服するよ。

ただね。ステージを下りたら、三波春夫じゃない、ただの社会人だってことを本人が気づいていたら、もっと立派なんだけどね。



ディック・ミネ・・・昭和9年テイチク入社。
石原裕次郎・・・昭和31年テイチク入社。
三波春夫・・・昭和32年テイチク入社。


ディック・ミネが語った あの歌手・このハナシ(第5章:志村喬)

2006-12-24 23:59:51 | 懐かし映画

ぼくが映画に出はじめて、本職の迫力を感じた最初の役者が志村喬でね。亡くなったけど、いい役者だった。

何という映画だったかな?タイトルは忘れてしまったけどね。その映画ではぼくはバカ殿様役。志村さんは骨董屋の役。役が役だからね。ぼくはいつもふんぞり返って威張ってるわけだ。で、このバカ殿様、バカのわりには趣味がよくて、骨董品集めときたね。ところが、そこがバカ殿様がバカ殿様たるゆえんでね。鑑定の仕方が問題なんだよ。たとえば、例によってお供を大勢引き連れて、背骨が痛くなるくらいふんぞり返って骨董品屋に行くわけだ。志村さんが迎えに出て、内心じゃこのバカって思っているんだけど、
「殿様、いらっしゃいまし」
そこで音楽が入る。ミュージカル映画だからね。ぼくがオペレッタ調で歌うわけだ。で、そのあと、志村さんが茶器をいくつか持ってくる。千利休あたりが使っていたと称するものをね。で、普通だったら、それを手にしてためつすがめつ鑑賞したり手触りを見たりするよね。ところがぼくは、箸でコーンと叩いて、その音に耳を傾けてね、こうだよ。
「ウーン。いい音がする。これはよいものじゃ。気に入ったぞ」
志村さんはそのときなんとも哀れっぽい、情けなそうな表情をするんだけど、この辺りから共演していて、《うまいなあ!》って思うんだよ。

骨董屋のあるじとしては、どうせ売るなら骨董品の価値を充分分かるヒトに売りたいよね。ところが、毎回この調子で、バカ殿様は、コーンってやっては買って行く。できることなら、売らずに自分の手許に置いときたいぐらいのものをね。情けないやら腹立たしいやら・・・・・・それが毎回繰り返されるわけだ。
で、最後に、山水画の掛軸をバカ殿様が見て、
「あれは誰が書いた?」
「雪舟でございます」
「有名なのか」
「はい、それはもう、山水画を描かせたら、第一人者でございます」
「そうか、有名か。気に入ったぞ」
「いえ、殿様、あれだけはご勘弁願います。私めの命の次ぐらいに大切にしているものですから・・・・・・・」
「なに!売り物であろうが」
「は、はい、それはそうでございますが・・・・・・なにとぞ、あれだけは・・・・・・」
「ならん、まかりならん」
てな調子で、刀に手をかけたりして、ぼくは威張るわけだ。ところが、おかしいんだよ。このとき、うっかり刀を逆に・・・・・正式には刃の方を上に腰に差すものなのに、下向きに差していてね。つかに手をかけたときに、どうも具合が悪いな・・・・・・で、見て気がついたんだよ。それをさ、監督やらカメラマンは誰も気がついていないんだよ。大笑いだよ。でね。マキノ監督は、
「バカ殿らしくていいや、それでいこう」

これですよ。臨機応変が娯楽映画のいいところでね。芸術映画気取りの巨匠じゃこうはいきません。で、次のシーンに移るんだけど、ここでもマキノ監督は、
「志村くんは、バカ殿に愛娘を奪われるようなものだからね。怒りと悲しみのどん底みたいなもんなんだ。よし、ここはひとつ歌を入れて、志村くんにその思いをたっぷり歌い上げてもらおう。ミネくん、大至急書いてくれ」

いつもこの調子ですからね。シナリオなんてあってないようなもんで、現場でクルクル変わっちゃう。変わるのはいいんだけど、なにしろ一週間で一本撮らなきゃいけませんからね。スタッフは大変ですよ。そのつど、短期間で監督の欲求を満たさなきゃいけない。蜂の巣を突っついたみたいに大騒ぎですよ。
ぼくも当時映画の撮影とはこんなものだと思っていたしね。また仮に、そうじゃないくても、この調子でスピーディで活気のある雰囲気がピッタリくるのかね、ホイホイてなもんで、
「監督、曲は大久保徳二郎でどうでしょう?」
「うん、君にまかせる」
で、大久保徳二郎(「上海ブルース」「或る雨の午后」「夜霧のブルース」の作曲者)が呼ばれてくるまでの間に、ぼくは詩を作るわけだ。見るからにアホづらしたバカ殿様の扮装のままでね・・・・・・。ものの十五、六分で書き上げたころ、大久保が来る。場面の状況を説明して歌詞を見せ、ああでもないっこうでもないとやりながら、曲が出来上がる。志村さんを呼んでまずぼくが歌ってみせ、それを真似ながら歌うわけだけど、感心しましたねえ、志村さんのうまいのには。ぼくはそれまでにずいぶん俳優さんに教えたけどね。志村喬みたいに音程がしっかりして、歌の感じをピタリとつかんで歌える俳優を見たことがなかったからね・・・・・・。よし、それで行こう――。

で、リハーサル再開。
ぼくのバカ殿様を前に、志村喬の骨董屋があるじが歌いはじめる。
♪ 山と思えば山じゃない
    川と思えば川じゃない
   夢を描いた雪舟の
   そこが非凡な芸術じゃ
   ・・・・・・・
渋くてね、いい声してるんだよ。
それにあれは志村喬じゃなくて、完全に骨董屋が歌っていたね。このバカ殿様にむざむざ雪舟を奪られてしまうのか、恨みやら腹立たしさやら悲しさやらが、歌っているうちにゴチャゴチャしてきたんだね。うっすらと涙が滲んでね・・・・・・。
アレ!? って思ったら、もう涙がポロポロ・・・・・・涙流して歌っているんだよ。

すごい役者だと思ったね。役柄になりきるのは当たり前にしても、ほんの二、三十分前に覚えた歌に、プロの歌手でさえあれほど感情を移入できるものじゃないからね・・・・・・。

ぼくは別の世界から入った下手っぴいだよね。やりづらかっただろうけど、そういう様子はカケラも見せないしね、偉ぶらない、誠実な人柄でね・・・・・・。ああいうヒトを、ホンモノの役者というんだろうね。


この話は、映画『鴛鴦歌合戦』のエピソードだと思われます。
かなり記憶違いが見受けられますが(^^ゞ
(いちいち指摘しなくてもこの映画はカルト的人気を誇ってます。DVD化もされておりますので、興味のある方はお調べになってはいかがでしょうか?)
ともかく、志村喬の凄さを感じる話です。
この後、ミネは志村に「テイチクに入って、歌ってみないか?」と誘ったらしいですが、「私は役者だから」と断られたそうです。
志村喬の歌といえば、映画『生きる』での
♪い~のち~ィ みじ~ィかァし~~~~~(@ゴンドラの唄)
があまりにも有名ですが、この映画では、あの怖い感じは微塵もありません。
お見事です。

「私は役者だから…」
と言って、歌手としての活動は無かった志村さんですが、一度だけ、加東大介司会の、NETだったか、フジだったかの「懐かしのメロディー」的番組に出て、雪降る公園のセット(つまり「生きる」の例のシーン再現)で「ゴンドラの唄」を歌ったことがあったそうです。それからすぐ、加東氏は鬼籍入りされたそうです。


ディック・ミネが語った あの歌手・このハナシ(第4章:東海林太郎)

2006-12-23 23:58:42 | 昭和の名歌手たち

僕がデビューしたとき、東海林太郎さんは「赤城の子守唄」「国境の町」でスターだったからね。ただ、まったく音楽のジャンルがちがうのと、こっちは、むしろその手の歌謡曲をバカにしてたから、気にもとまらなかったよ。親しくなったのは、しばらくあとなんだけどね。いまでこそ、あの人、まじめの見本みたいに思われてるけど、なんのなんの、おかしい人なんだよ。

お互いに大学出のせいか、話が合うの。僕には気を許してくれて、女の話なんかもずいぶんしたよ。
大阪に行くとき、偶然、一緒になってね。寝台車だ。新幹線なんてない時代だから、寝台で十二時間かかった。寝台車のはじに車掌室があって、その横が喫煙室になっていた。二人でウィスキー三本くらい空けたかな。横浜で買った崎陽軒のシューマイをつまみに、ボソボソ話ながら、とうとう大阪まで行っちゃった。

東海林さんは秋田中学を出てるんだけど、僕の姉の旦那と同期でね。だからよく知ってるわけ。

大阪のキャバレーの仕事のとき、僕はなんとか東海林さんを崩してやろうと思ってね。なにしろ、いつもあのスタイルでしょ。直立不動で、ただ歌うだけだもんね。ステージ前にさんざん酒をすすめてね。あの人、大酒飲みなんだよ。少しフラフラしながらステージに出た。
「あっあ、今日は酒までごちそうになっちゃって。そのうえ、ギャラまでもらえるっつうんだから、この商売、やめられないねェ」
やりましたよ。読者のみなさんは、東海林さんのこんな「しゃべり」想像できるかい。

満州へも何回も行ってるし、僕と一緒に回ったことはないんだけど、また似たようなことやってきているはずだよ

晩年はあまり幸せとはいえなかった。女房運というか、家庭的には恵まれなかったんじゃないかな。ガンになって何回も手術したんだ。人工の肛門を脇腹に開けて、そこから排便してる始末だからね。
「ミネさん、いくつになっても、新しい女はいいね。こないだ久しぶりにいただいな女が、これが処女でね。ていねいに、ていねいにやったんだけど、あんまりいい気分のもんだから、ここからウンコが出ちゃってさ。こっちは気持ち悪いし、あっちは気持ちいいし、困ったもんだね」
そんなこといいながら、三回目の手術の後、しばらくしてから死んじゃった。

あの人は、自宅に引っ張り込んで、手を出すタイプだったんだよ。息子がそのことで、東海林さんをボロクソにいうから、僕は怒鳴ってやった。
「お前な、お母さん、君を産んでまもなく早死だし、夫婦仲もうまくいってなかったんだもの、そりゃ女だって欲しくなるよ。だいいち、いまのお前さんは。お父さんの歌うたって食ってんだろ。感謝しなきゃダメだよ」ってね。
それ以来、すっかり考え直したらしく、立派にやってるけどね。

東海林さんは歌手協会の初代会長。象徴みたいなもんだから、なにもしてないね。二代目が藤山一郎さんで、三代目が僕。
藤山さんはいい格好してたから、「よきにはからえ」ってね。
僕が引き受けたときには、つまみ食いはあるわで、かなり乱れてたよ。僕はセコイこと嫌いだからね。全部きれいにして、いまは週三回は連絡してる。今日だって二回も電話してね。われわれ歌手は東海林さんのような、本当にステキな先輩を持ってるんだから、特に若手の歌手はもっともっとがんばらなくちゃいけない。

テレビのなかった時代という違いはあるけど、東海林さんは、身振りも手振りもない。
「歌心」一本であれだけファンの心をつかんできたんだから、すごいもんだよ。

(中略)
東海林さんのステージ見た人ならわかると思うけど、あの人は間奏の間、ずっと直立不動で正面向いてるよね。ところが、日劇で間奏のときに、舞台の袖のほう見て、二番の出だしトチっちゃったことがある。僕も一緒だったんで、思わずフいちゃったけど、あの人も人間なんだよ。
そのころ、十九か二十歳くらいの女がいてね、奥さんと別れたすぐあとだったから、東海林さんもそうとう惚れ込んだんだね。その娘がステージの袖にいたわけ。間奏のときにちらっと横向いたんだよ。そんなことする人じゃないんだが、惚れた女がいるときってのは、そんなもんだ。目と目が合って、それから二番の出になったら、間違えて、もう一回、一番歌っちゃたんだよ。東海林さんのそんな人間臭いとこ知らないでしょ。

そんな純情な面もあった東海林さん、女運にはとことんツイていない人でね。その女とも長続きしなかったよ。何もかも持っていかれてね。死ぬときは東京の立川に住んでいんだが、みじめなもんだったよ。ステージがあんなふうだから、私生活のほうもさぞかし、きちんとしてるだろうと思ったら大間違い。後世に名を残す人には違いないけど、末路はあわれだったね。冥福――。


楠トシエ特集パート3 「サンデー毎日」(昭和37年10月8日号)

2006-12-09 18:02:50 | 昭和の名歌手たち

CMビンちゃんがんばる    「人物現代史」

●歌いまくった"二百曲"
かの女は、CMソングの歌手だということを、つい最近まで不名誉なことだと思いこんでいた。
『ふんわりふわふわハマフォーム』のうた、『カシミヤタッチのカシミロン』のうた、『ヴィックス』のうた、そしていま大ヒットしている洗剤『テル』のうた、流行コマソンのほとんどは楠トシエの声である。コマソンは、これまで二千曲ほどつくられ、電波にのった。そののち、かの女は一割の二百曲を歌っている。名実ともに"コマソンの女王"なのだが、長いこと、かの女は、そういわれることにこだわってきた。

かの女は、ほんもののホーム・ソング歌手が望みだったのだ。こどもと家庭の主婦のために、明るい、たのしい歌をサービスする歌手、それがかの女の理想だった。
ところが、「キミの声は明るいね、リズムがあるね、言葉がハッキリしているね、だからコマソンにぴったりサ」というわけで、ポポンのうたをうたわされたのがはじまり。あっという間にコマソン歌手になってしまった。

だが、わからないもので、コマソンは二千曲も出るにおよんで、昔の童謡にかわるこどものうたになり、主婦の愛唱歌になった。コマソン変じてホーム・ソングになったのだから、楠トシエにしてみれば、まわり道をしたつもりが初志を達した結果になった。

「ホイでもってビックリしちゃった」のが、かの女の心境である。同時に「やっと自信というか、誇りを感じられるようになった。大手を振って歩けるわ」と胸を張っていうようになった。
かの女に自信を持たせたきっかけは、二つある。『ヴィックス』の歌が、ことしのCMコンクールで一位になり、続いてカンヌの国際CMコンクールに日本代表として出品されたことである。

「それまで、あのCM、ビンちゃん(愛称)でしょ、といわれると恥ずかしくて恥ずかしくて。CMソングは、歌ってる顔は出ないし、名前も紹介されないでしょ、そういうしきたりでしょ、だから引き受けてたのよ、実は」
小首をかしげて、すごく早いテンポで。かの女は話す。CMテンポである。恥ずかしい、不名誉だからといっても、かの女はCMソングの仕事を、一度だっていいかげんにすませたことはない。「仕事に対してきわめてドン欲な人です」(作曲家いずみたく氏の話)という定評通り、かの女はCMソングの譜面を受けとると、それをおたまじゃくし通りに歌いこなすだけではなく、プラス・アルファを加えた。どうせ歌うならヒットしなきゃ、ヒットさせるには、こう歌わなければ、という論理でかの女は、作曲家、スポンサーに、自分のアイディアを、遠慮なくぶっつけた。

●アクセントづけが特技
いまヒットしている『テル』のCMソングで、どこが受けているかというと、「テルウゥーウ」と語尾が数回、踊りを踊るところだ。踊らせたのは楠トシエで、スポンサーは、はじめあまりイイ顔をしなかった。ただ、語尾が踊るだけならまだしも。ふてくされた声で「テルウゥーウ」とやられては。商品が売れるかしらという恐れをもつのもスポンサーとしては当然だ。

だが、かの女は、スポンサーの顔いろなんかドコ吹く風で、思いきり、ふてくされた声で歌ってのけた。かの女には確信があった。

『セデス』のCMで、お上品にいわずに「セ、デ、スッ」と少少すごんだいい方をして、事実それが当たっている。その経験があるので、かの女は強気だった。無難なCMより、冒険のあるCMを・・・・・・と、かの女はいつもねらっている。逆効果の効果を、つねに計算している。『カシミヤタッチ』のうたで、「ホイでもって」という言葉が印象に残るが、それも原文は「ソイでもって」だったのを、かの女がさらにデフォルメしたものである。こんなふうに、アクセントをつけるのが、かの女の特技である。


小梅姐さん、やめないで!

2006-12-07 01:30:41 | 我が愛しの芸者歌手たち

先日、二葉あき子「人生のプラットホーム -歌ひとすじに生きて-」という本を入手しました。この本は東京新聞が昭和62年10月から12月まで連載したものを加筆・修正したものだそうです。
(一部はプロが手直ししてますが)二葉あき子が自身の筆で、波乱万丈の人生を振り返っています。
あれこれと胸を打つ話も多いのですけども、まずは一つ、なかなかネットでは情報にお目にかかれない赤坂小梅姐さん(小梅太夫とは無関係)の話をご紹介したいと思います。

赤坂小梅
尊敬する先輩、大好きな歌手仲間は大勢いるが、私が心の底から惚れた人は赤坂小梅姐さんである。
"大梅"なんていう人もいるほどおなかも大きかったが、日本一の大姐御であった。昔、九州・小倉や東京の赤坂で向こうっ気の強い芸者さんで鳴らした明治の女。私がコロムビアに入ったころは、もう「ほんとにそうなら」の大ヒットで、一世も二世も風靡した大スターだった。

十八歳のときから一升酒を飲まれていたというほどの酒豪だったが、芸の執念は大変なもので常盤津から清元、長唄、小唄、民謡と、いいお師匠さんがいると聞けば借金をしてでも銀座裏のご自宅に招いて教えを乞うていた。

"男嫌い"という評判だったが、昭和十二年ごろ、長唄師匠の杵屋勝松さんと大ロマンスの末、結婚された。日中戦争さ中の昭和十三年、満州へ慰問に行かれ、憮順で歌っているとき「ダンナさまが急死した」という電報を受け取ったそうだ。

「世の中っておかしいよね。私ゃそのとき"楽天館"という劇場で♪ほんとにそうなら嬉しいネ・・・・・・と歌ってたんだからさ」
姐さんはあっけらかんと話されたが、私は姐さんの気持ちを思って泣いてしまった。

戦争中は「黒田節」、戦後は「おてもやん」で姐さんはいつも太陽のように輝いていた。そんな小梅姐さんにも、ついに引退のときがきた。

昭和五十六年四月二十七日、曇り。
私は日記をつけたこともないのに、その日のお天気まではっきりと記憶している。
私は信じられない気持ちのまま「引退記念公演」が行われる国立劇場へやってきて、二回公演の二回とも切符を買って客席に座った。楽屋へはお顔を見るのが悲しくて行けない。

ビクターのスターでライバルだった市丸さんも舞台に立たれた。司会者が「市丸さんは、いつまでもお美しく、お元気ですね」といったとき、私は小梅姐さんの心中を思い、「このオー」と胸が痛んだ。

姐さんは「黒田節」を歌われた。姐さんがご自慢の、白地に桜と盃を散らしたお着物。博多帯には故緒方竹虎副総理の筆になる「黒田節」の紫糸の刺しゅう。
八十キロもあった堂々たる姐さんが、普通の人よりもやせていた。糖尿病、高血圧、じん臓病・・・・・に右足骨折の大ケガ。
足を引きずっておられたが、歌手生活五十年、七十五歳になっても往年のウグイス芸者の艶の声は落ちていなかった。

姐さんはいつも「歌えなくなったら命をとって下さいって、神仏にお願いしてるの」といっていらした。
(おねえさんは歌えなくなったんじゃない。病気とケガで引退されるのだ)
私は流れる涙と鼻をハンカチをかんだ。

公演後、パーティがあった。姐さんのファンの政財界の大物、歌舞伎の猿之助、梅幸さんや、長谷川一夫先生も出席されていた。
私はこんな華やかな席ではいつも片隅でジュースぐらいしか飲まないのだが、その日はめちゃくちゃにお酒を飲んだ。いつか偉い人たちやお客さまの姿も私の眼中から消えていた。

私はおねえさんがあいさつに立たれたとたん、その前に飛び出して、
「おねえさん、やめないで!」「おねえさん、やめないで!」
と泣きながら大声で叫んでしまった。

私はパーティの席から外へ出されてしまった。



二葉センセ、本当に小梅姐さんが好きだったんでしょうね。文面からひしひしと伝わってきます。そしてその小梅姐さんも良い人柄だったんでしょうね。
読んでいて、ちょっとホロっときたハナシでした。


ディック・ミネが語った あの歌手・このハナシ(第3章:70年代芸能人)

2006-12-06 19:32:17 | 昭和の名歌手たち
その1
佐良直美と一緒の仕事のあとにね、直美ちゃんがマネジャーの女の子とステーキ食べに行くっていってんだよ。
「おい、女だけで大丈夫かい。俺、一緒に行ってやろうか」
「大丈夫よ。もうすぐわかるわよ」

なんのことだか、そのときはわからなかったの。二、三日したら新聞に、あのレズ騒動が出てたよ。二人はデキてたんだもの、レズ同士なら心配ないわけだよね。
佐良は、まもなく新聞に書かれるのを知ってたのね。

あの頃の勢いなら、事前に記事を止めることもできたと思うんだけど、それをやらなかった。僕はそういう直美に惚れたね。



その2
「引退記念大売出し」大儲け、おめでとう。
「引退」っていう錦の御旗がなかったら、あれだけの商売はできなかったな。いや売った売った。この芸能界不況時代によくやったよ。

はるみはスポットライト浴びる快感てものを誰よりも知ってるタレントだからね。普通のオバさんに戻りたいなんて、いまさら家庭の中に収まるタマじゃないぜ。「引退」と書いて、しばらく休憩と読ませるんじゃないのかな。僕は予告しとくよ。きっとカムバックしてくるぜ。

「女としての人生を・・・・・・なんてえらそうなこといいましたけど、わたしにはやっぱり歌しかないってことが、あらためてわかりました。わがままなはるみを許してください。新人、都はるみのつもりで出直します」
なんてね。コマ劇場あたりでやるんじゃないの。あの子は歌もうまいし、性格もいい子だ。もし、僕の予言が当たったら、水臭いこといわないでさ、はるみ節に拍手してやろうよ。



その3
大阪で不良やってた子だからな、スケ番の元祖。ちっとやそっとじゃ消えない子だね。
あるテレビの番組で、ゲームやるのがあってね。負けると、足かせはめられて、くすぐられるなんて、バカなゲームなんだよ。そこで、僕がアッコの足をくすぐる段取りになったの。
「ミネさん、悪いけど靴下脱げないの。ディレクターにいってよ。わたしがいうとカドが立つから」
「なんだお前、足に模様が入ってんのか」
「エヘヘ・・・・・・」
ゴッド姐ちゃんっていわれるわけだよ。だからあいつはロングドレスかパンタロン。素足は出さないの。最近へアースタイル変えたら、いい女になったな。



その4
去年、水前寺清子のデビュー二十年ていう企画で、歌舞伎座へ応援に行ったときのこと。チータに
「二十年にほんの入り口だよ。お前さんにとって、歌手稼業はこれからが勝負だ。チータの歌に『大勝負』ってのかい、あの歌の詞にあるだろう。"前向け 右向け 左向け"って。右見て、左見て、男見たりするから八代亜紀みたいになっちゃうんだ。女性歌手にくっついた男、いろいろ知ってるけど、生意気なのにくっつかれたら終わりだよ。チータは決してよそ見するんじゃないよ」
と、これステージでやっちゃったんだ。チータが泣いてね。僕がチータほっぺたにチューしたら、二十年の汗と涙でしょっぱいの。

でも、チータは先輩を立てるし、歌以外のことは考えない。いい子だよ。隠れ亭主がやってた赤坂のステーキ屋を紹介されて、一緒に行ったんだけどね。僕にカネを払わせないんだよ。
「ダメよ、それでつぶれる店じゃない」
ってね。こういう子なんだよ。

こんなこともあったよ。テレビ東京の「懐かしの歌謡祭」のとき、僕の楽屋にでっかい寿司が届いた。これが名無しなんだよ。あとで寿司屋に聞いたらわかったんだけど、これがチータ。

昭和の名歌手たち・霧島昇(きりしま・のぼる)

2006-12-04 23:59:46 | 昭和の名歌手たち

♪花も嵐も踏み越えて~行くが男の生きる道~
もはや格言の粋にすら達しているこのフレーズ。
映画『愛染かつら』主題歌「旅の夜風」、これを歌ったのが、今回取り上げる霧島昇であります。

この方は、今では知名度は今ひとつですが、戦前~戦中~戦後と沢山のヒット曲をかっ飛ばし、昭和40年代ナツメロブームでも大活躍した大物中の大物。
その割には、ネットでは不人気、一般知名度の今ひとつ。
私自身も、さほど好きでも無いのですが、昭和歌謡史に欠くことの出来ない歌手。
ぜひとも一度は聴いて頂きたいものです。


食いだおれ人形
霧島昇(1914~1984)
本名:坂本栄吾(英明説もあり)
福島県出身。
小学校卒業後、拳闘選手(ボクサー)になることを夢見て上京。やがて歌手を志すようになり、苦学して東洋音楽学校を卒業。
アルバイトで、エディソンレコードに坂本英夫名義で吹き込んだ「僕の思い出」がコロムビア関係者の耳に留まり、コロムビア入社へ。
東海林太郎の対抗馬として、昭和11年、霧島昇としてデビュー。翌年「赤城しぐれ」がヒットし、名を上げる。
昭和13年、松竹映画『愛染かつら』主題歌である「旅の夜風」が空前の大ヒット。
昭和14年、この唄を共に歌ったミス・コロムビア(松原操)と結婚、四児をもうける。同年は「一杯のコーヒーから」「純情二重奏」もヒット。
昭和15年、映画主題歌である「新妻鏡」「目ン無い千鳥」「蘇州夜曲」に「誰か故郷を思わざる」がヒット。
昭和18年、戦時歌謡の代表作「若鷲の歌」がヒット。
戦後も、並木路子と共に「リンゴの唄」を歌いヒットさせたのを皮切りに、「夢去りぬ」
「三百六十五夜」「サム・サンデー・モーニング」「胸の振子」「白虎隊」などをヒットさせ健在振りを示した。
紅白歌合戦には、第2回(昭和27年)から第9回(昭和33年)まで通算5回出場。
昭和45年には紫綬褒章受賞。没後勲四等旭日章を追贈。
昭和59年4月24日没、69歳。

ちなみに私がおススメする曲は…

誰か故郷を思わざる
ナツメロ・スタンダードで、基本中の基本。
この曲は作曲した古賀政男が、外務省の音楽親善大使としてアメリカへ一年ほど行って、帰ってきて、すぐ手がけたもの。南米民俗音楽の影響、異国での生活時の望郷の念などがこもっている、と古賀は後に語っています。
また、西條八十の詩も、古賀自身の少年時の光景/心境そのもので驚いたとか。
また、この曲は完成してから吹き込むまで実に10日間しか無かったという話も。
曲を視聴したコロムビア関係者の判断で、製作したレコードは殆ど戦地への慰問レコードとして送り、それが軍歌に飽いていた兵士の心の琴線に触れ、大流行。
大陸へ慰問した歌手が、そこで覚え、帰国後ステージで披露…という逆輸入のかたちで国内でもやがて流行したそうです。
渡辺はま子の話では、戦地でこの曲を歌っていると、最前列で聴いていた畑俊六(大将)が目頭を押さえ涙を拭っているのを見て、途中で貰い泣きしてしまい声が続かなくってしまうと、集まっていた兵士も皆それにつられ、泣き始めてしまったそうです。

旅の夜風
これもナツメロ・スタンダードで、基本中の基本とも言える曲。
♪肌に夜風が沁みるとも 男柳がなに泣くものか
という部分を、♪肌に夜風が沁み渡る と霧島が歌ってしまったことも有名。
戦後も、映画共々リメイク。

胸の振子
服部メロディーの名作として、様々な歌手によってリメイクされている、いわば「発掘された」曲。当時は中ヒットくらいだったらしい。
ただ、とても美しいメロディーであることから、知る人ぞ知る名作として愛好され、昭和46年発売の雪村いづみ&キャラメル・ママ「スーパージェネレーション」でも取り上げられたことで、さらに知名度は上がった。
新たなるスタンダードナンバーと、今は言えるのかも。
本家・霧島バージョンは、他のどのカバーに及ばぬと私は思う。
ぜひとも一度は聴いて欲しい1曲。

白虎隊
昭和12年に島田磬也作詞、古賀政男作曲、藤山一郎唄で、テイチクから発売。
当時は売れずも、会津地方では愛好され、戦後会津側からの要望で、(古賀がいた)コロムビアから岡本敦郎で吹き込みの予定が、スケジュールの関係からか、霧島にお鉢が回る。昭和27年・30年・35年、と3度発売。霧島のスマッシュヒット。
詩吟は佐々木神風。

三百六十五夜
昭和23年封切の同名映画主題歌。
ミス・コロムビア(松原操)は、この曲を最後に引退し、育児に専念することに。
この引退には諸説あって、子供の教育が公式な理由となっているが、実はヒロポン中毒で声が出なくなってしまったからでは?、という説も存在する。
霧島・松原、共に酷いヒロポン中毒であったことから出た説である。

若鷲の歌
♪若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨
古関裕而による戦時歌謡の大傑作。
霧島がこの曲をステージで歌っていたときに、赤紙が着て、会場中この曲の大合唱で送ったというエピソードが存在する。

高原の月
戦時中の異国風叙情歌謡の傑作。
仁木他喜雄による美しいメロディーに、西條八十の美しい詩、そして二葉あき子・霧島昇の歌声。
もっと評価されても良い1曲。

蘇州夜曲
異国情緒たっぷりの服部メロディーの代表格。今も様々な歌手にカバーされ、CMでもよく使われていたりする。
渡辺はま子とのデュエット曲であったこの曲も、ナツメロ番組では、渡辺はま子が披露し、霧島が歌う機会は殆ど無かった。
霧島がステレオで再録音をした音源、これがなかなか素晴らしい出来で驚く。
機会があれば、この霧島ソロ・バージョンもお聴き頂きたいもの。

一杯のコーヒーから
作詞の藤浦洸は珈琲党、作曲の服部良一はビール党で、「一杯のコーヒーから」か「一杯のビールから」で、対立したとか。
そのせいか、♪一杯のコーヒーから の部分、♪一杯のビールから の方がすんなり歌える。
ミス・コロムビア(松原操)とのデュエット。
後年、ナツメロ番組では霧島ひとりスタジオで歌っていたが、正直何とも言いがたいものがあった。やはりこの曲は女性歌手とのデュエットの方が良いかと…。

そよかぜ
「リンゴの唄」B面。
霧島はこの曲に惚れ込んでいたそうで、何度も吹き込み直している。
この曲をメインで歌いたいがために、「リンゴの唄」を並木路子に譲ったという話が伝わっている。
並木がソロで吹き込み直したのは昭和も終わりに近づき、霧島没後の昭和62年頃である。
美しいタンゴの佳作。

愛染かつら愛用

地味ながらも、ヒット曲の多さでは東海林・藤山と肩を並べるほどな霧島センセですが、なぜか冷遇状態…。
主に戦後ですが、洒落た曲も案外多いですし、再評価が待たれます。

最後に…
霧島センセといえば、●ラ、屈伸しながらの歌唱、これらと共にに語られるのが、△空×ばりも真っ青の衣装センス。
これは実は、愛妻・松原操(ミス・コロムビア)のお見立てによるもの。
「あなたは地味なんだから、衣装くらいは…」という考えからだったとか。
霧島本人は結構恥ずかしかったらしいです。


ディック・ミネが語った あの歌手・このハナシ(第2章:ヒロポン中毒で散った芸能人)

2006-12-02 23:59:08 | 昭和の名歌手たち

その1(某男性大物歌手)
つい最近、名前をあげれば誰でも知っている有名な歌手が死んでね。故人のために名は伏せるけど、このヒトもかつてはひどいヒロポン中毒だった。なんとかやめることができたけど、残念ながらからだの深いところを蝕まれていたんだろうね。死ぬ数ヶ月前から頭がおかしくなって・・・・・・むかしからよく知っているヒトだから辛くてね。

医者の話だと、ヒロポンの副作用というのは、二十年から二十五年ぐらい後で出てくるらしい。若いときには体力があるから抑えられているけど、七十近くになるととても体力がついていかないからね、みんな、バタバタ死んでいっちゃう。ほとんど内臓をおかされてね・・・・・ね。

このヒト庭の木によじ登るんだよ、カミさんと一緒に。カミさんも亭主と同じころにヒロポンを打ちはじめたからね。大体、おなじ時期に頭がおかしくなったわけだ。ぼくが散歩していたら、八百屋のご用聞きが自転車で通りすがりに、
「△△先生のとこ、はじまりましたよ」
「おい、見世物じゃねえんだよ。可哀相にヒロポン中毒なんだから、放っといてくれ!」
って叱るとね、
「でもね、危ないんですよ。枝が折れたら・・・・・・」
たしかにそうだよね。夫婦で落っこっちゃったら、大変だ・・・・・・。

死ぬ二週間前に、おかしなことをいい出してね。
「ぼくの恋愛を誰かが邪魔してる!」
って怒るんだよ。話を聞くと、
「ぼくには十七歳の恋人がいる。仙台の方に住んでいるけど、ぼくたちの間を誰かが邪魔して、別れさせようとしているんだ!」
で、その犯人は、
「バタやんじゃないか?」
って真剣な目でいうんだね。《ア、こりゃおかしい》って思ったけど、あいまいに口を濁して聞いていたわけだ。ところが翌日、バタやんがカンカンになって起こって電話してきてね。
「彼から電話がかかってきて、おまえじゃないか? っていうんですよ。何いっていやがる、ヒトの恋路を邪魔するほどヒマじゃない。ぼくは自分のことで精一杯だ、って怒鳴りつけましたけど、どないなってるんやろ? あのヒト・・・・・・」

で、日本歌手協会に、その歌手はひとかかえもある封筒の束を持ち込んでね。
「これ、この通り、恋人からの手紙がこんなにある。まあ、読んでくれ」
読んでみると、なんのことはない、どう見てもただのファン・レターなんだよ。そして、「誰が犯人か、協会も探すのを手伝ってくれ」
っていうんだよ。困るよね、そういわれても。で、協会は会員全体の福祉と向上をはかるためのもので、個人の恋愛沙汰にタッチするわけにはいかないって説明したけど、それだけで、今度はぼくが邪魔しているっていうんだよ。もうラチがあかないからね。
「・・・・・・××さんね。警察に行って探してもらったらどうだろう? 一番いいんじゃないか。ぼくもついていってあげるから」

ってことで、築地警察署に行ってわけだ。ところが、警察署まできて玄関口の赤いランプを見たとたんに、
「あ、やめた! 帰る・・・・・・」
さっさと帰っちまった。《警察沙汰はまずい》って瞬間的に意識が正常に戻ったんだろうね。
で、その二週間あとに彼は亡くなり、いくらも日もたたないで、奥さんも後を追った・・・・・・。


その2(漫才師)
漫才界の大アネゴって言われたミス・ワカサね。あのヒトも哀れな死にざまだった・・・・・・。
あのヒトの漫才がおもしろくてね、ぼくは大好きだから、客席で見ることがあるんですよ。ところが、ステージの上からぼくがいるのがわかるんだよね。で、下ネタのときなど、ぼくの方を指して、
「あそこにディック・ミネが来てるんやけど、あの方がまた、大きいものを持ってはってね・・・・・・」
オレ、舞台でいわれちゃうんだから。いくらぼくが図々しい男だといったって、これじゃ顔が赤くなっちまうよ。お客さんはゲラゲラ笑いながら、どれどれ、なんて立ち上がって見るヒトもいるしさ。アネゴ肌の、とても気はいい女でした。

ミス・ワカサが死んだとき、ぼくもおなじ舞台に出ていてね。ぼくらと控え室はちがったけど、師匠の具合がひどく悪いって聞いてね。行ってみると、アブラ汗流して土気色の変な顔して、呻いているんだよ。医者が呼ばれてきたけど、もう手遅れでね、心臓マヒでしたね。

ヒロポンというのは、打ちはじめのころは皮下注射だけど、だんだん中毒になってくると静脈に打ちはじめるようになってね。おなじところに打っていると、皮膚が固くなって針が通らなくなるからね、腕のいろんなところに打って、あとは首筋とか肩とか・・・・・・ミス・ワカサも、しまいには打つところがなくなるぐらいの重症の中毒だった・・・・・・。

※どうもミネ氏は、ミス・ワカサの師匠であるミス・ワカナ(こちらは酷いヒロポン中毒)と一部記憶が入り混じっている様子。ワカサ師匠のご親族の方曰く「(ワカサ師匠は)生まれつき重い心臓弁膜症だったので、そんな薬使えるような体では無い」とのことです。

ワカサ師匠の名誉のために訂正致します。
ミス・ワカサ、ミス・ワカナ…名前が似ておりますが、師匠-弟子の間柄で別人です。

他に、正司歌江(かしまし娘)著『女やもン!』にも、このような記述が。
「ヒロポンを打たないと芸人やない、というほどの大流行でした。
でも、なかには意志の強い芸人さんもいてはりました。まわりの人たちがなにをいおいうと、どんなしつこくすすめられようと、ガンとして打たずに頑張り通した人もいてはりました。
暁・伸、ミス・ハワイさん、亡くなったミス・ワカサさんは、その点ではほんまに偉いですヮ。
『あんな毒の薬は、ゼッタイ打ったらあかん。人間の命は明日も知れへんことはたしかでも、それとこれは違う。ヒロポンで身体をいためることは、一種の自殺行為やないか』
こういう信念で、最後までヒロポンを拒否したのは立派やと思います。」


その3(笠置シズ子、岡晴夫)
ヒロポンにはいろんな幻覚症状があってね。部屋中にゾロゾロ虫が沸いてくるように見えたり、窓の外から目が睨みつけているように見えたり、トランプの王様が飛び出して、剣を持って追いかけてきたり・・・・・・。

笠置シズ子の場合はこうだった。
彼女が全盛のころだから、昭和二十年代のことだけどね。ある劇場の楽屋が狭くて、彼女だけ舞台裏の片隅を映画の部屋のセットみたいに仕切ってね、そこを控え室にしていたけど、あるとき、注射打ってるところに通り合わせたんだよ。
で、どうなるかと思って、ソッと見ていると、しばらくして、
「この部屋、汚いッ!」
いきなり立ち上がったかと思うと、
「オバはん! ホウキ持ってきておくなはれ!」
大声で掃除のおばさんを呼んだんだよ。で、ホウキを手にすると、狂ったみたいになって、部屋を掃除しはじめるんだね。相当散らかっているか、ホコリだらけにでも見えるのかねえ、いつまでも、いつまでも掃除しているんだよ・・・・・・。

岡晴夫もねえ、若さにまかせてメチャクチャに打ってたからね・・・・・・。死ぬ前は、テレビで一緒になったときなんて、
「おはようございます」
って挨拶されて、ヒョイと見ると、幽霊みたいな男が立っていてね、岡晴夫なんだよ。
痩せちゃって、青いんだか、白いんだか変な顔色しててね、目は死んだ魚の目だったね。
これはヒトに聞いた話だけど、後に総武線の小岩だかどこだかで飲み屋をやって、客の目もはばからずに打っていたそうだ。いい男だったのに、若死にしちゃってね・・・・・。


亡くなった方たちを引き合いに出して、ぼくも心がいたむけど、みんなエンターテイナーとして才能に恵まれた素晴らしいヒトたちだったのに、ヒロポン中毒になったばかりに、あたら命を縮めてしまった。ぼくはこれが口惜しくてね。二度とこんなことがあってはいけないって、痛切に思っているからね。それで後輩の芸能人のためなら勘弁してもらえるだろうと、あえて紹介させてもらった。



この話のネタ元の本の出版は昭和61年11月。
あとがきは昭和61年10月。
夫婦で…で、夫が亡くなった後、妻もすぐ亡くなった…。
そう考えると、名が伏せられた大物歌手は×××では無いのでしょうか?
(名前は特定できますが、ミネ氏も伏せておりますので・・・)
読んでいて衝撃が走った辛いハナシでしたが、最後のミネ氏の一文、コレに共感しました。本当に残念極まりないです…。
この手の薬物撲滅を心から祈らずにはいられませんね。

紹介された偉大なるエンターテイナーたちに改めて合掌。