今だから…昭和さ ある男のぼやき

主に昭和の流行歌のことについてぼやくブログです。時折映画/書籍にも触れます。

小梅姐さん、やめないで!

2006-12-07 01:30:41 | 我が愛しの芸者歌手たち

先日、二葉あき子「人生のプラットホーム -歌ひとすじに生きて-」という本を入手しました。この本は東京新聞が昭和62年10月から12月まで連載したものを加筆・修正したものだそうです。
(一部はプロが手直ししてますが)二葉あき子が自身の筆で、波乱万丈の人生を振り返っています。
あれこれと胸を打つ話も多いのですけども、まずは一つ、なかなかネットでは情報にお目にかかれない赤坂小梅姐さん(小梅太夫とは無関係)の話をご紹介したいと思います。

赤坂小梅
尊敬する先輩、大好きな歌手仲間は大勢いるが、私が心の底から惚れた人は赤坂小梅姐さんである。
"大梅"なんていう人もいるほどおなかも大きかったが、日本一の大姐御であった。昔、九州・小倉や東京の赤坂で向こうっ気の強い芸者さんで鳴らした明治の女。私がコロムビアに入ったころは、もう「ほんとにそうなら」の大ヒットで、一世も二世も風靡した大スターだった。

十八歳のときから一升酒を飲まれていたというほどの酒豪だったが、芸の執念は大変なもので常盤津から清元、長唄、小唄、民謡と、いいお師匠さんがいると聞けば借金をしてでも銀座裏のご自宅に招いて教えを乞うていた。

"男嫌い"という評判だったが、昭和十二年ごろ、長唄師匠の杵屋勝松さんと大ロマンスの末、結婚された。日中戦争さ中の昭和十三年、満州へ慰問に行かれ、憮順で歌っているとき「ダンナさまが急死した」という電報を受け取ったそうだ。

「世の中っておかしいよね。私ゃそのとき"楽天館"という劇場で♪ほんとにそうなら嬉しいネ・・・・・・と歌ってたんだからさ」
姐さんはあっけらかんと話されたが、私は姐さんの気持ちを思って泣いてしまった。

戦争中は「黒田節」、戦後は「おてもやん」で姐さんはいつも太陽のように輝いていた。そんな小梅姐さんにも、ついに引退のときがきた。

昭和五十六年四月二十七日、曇り。
私は日記をつけたこともないのに、その日のお天気まではっきりと記憶している。
私は信じられない気持ちのまま「引退記念公演」が行われる国立劇場へやってきて、二回公演の二回とも切符を買って客席に座った。楽屋へはお顔を見るのが悲しくて行けない。

ビクターのスターでライバルだった市丸さんも舞台に立たれた。司会者が「市丸さんは、いつまでもお美しく、お元気ですね」といったとき、私は小梅姐さんの心中を思い、「このオー」と胸が痛んだ。

姐さんは「黒田節」を歌われた。姐さんがご自慢の、白地に桜と盃を散らしたお着物。博多帯には故緒方竹虎副総理の筆になる「黒田節」の紫糸の刺しゅう。
八十キロもあった堂々たる姐さんが、普通の人よりもやせていた。糖尿病、高血圧、じん臓病・・・・・に右足骨折の大ケガ。
足を引きずっておられたが、歌手生活五十年、七十五歳になっても往年のウグイス芸者の艶の声は落ちていなかった。

姐さんはいつも「歌えなくなったら命をとって下さいって、神仏にお願いしてるの」といっていらした。
(おねえさんは歌えなくなったんじゃない。病気とケガで引退されるのだ)
私は流れる涙と鼻をハンカチをかんだ。

公演後、パーティがあった。姐さんのファンの政財界の大物、歌舞伎の猿之助、梅幸さんや、長谷川一夫先生も出席されていた。
私はこんな華やかな席ではいつも片隅でジュースぐらいしか飲まないのだが、その日はめちゃくちゃにお酒を飲んだ。いつか偉い人たちやお客さまの姿も私の眼中から消えていた。

私はおねえさんがあいさつに立たれたとたん、その前に飛び出して、
「おねえさん、やめないで!」「おねえさん、やめないで!」
と泣きながら大声で叫んでしまった。

私はパーティの席から外へ出されてしまった。



二葉センセ、本当に小梅姐さんが好きだったんでしょうね。文面からひしひしと伝わってきます。そしてその小梅姐さんも良い人柄だったんでしょうね。
読んでいて、ちょっとホロっときたハナシでした。


市丸[この歌に-三味線ブギウギ その2]

2006-11-27 00:02:29 | 我が愛しの芸者歌手たち
前回の続き。

「新しいことをしていないと、芸にカビがはえる」
市丸さんの『三味線ブギウギ』への挑戦は、芸に対する執念とも言えるものだが、その素地は、故郷の長野県松本から上京する頃、既に芽生えていた。

浅間温泉にお酌として出ていた時、客に求められた歌が歌えなくて恥をかいた。それが悔しくて、持ち前の負けず嫌いが、芸の修行にかりたてた。
「あんまり知りません、知りませんでは悔しいものですから、勉強しようと思っていたところ、ちょうど浅草で遊んでいた義理筋の人の世話で浅草に来たんです」
大正十五年、市丸さん十九歳の時だった。

芸者置屋「一松家」のお抱え芸妓として御披露目したが、目的が芸の修行だから、清元は延千嘉丸、宮園節は千市、小唄は春日とよ丸、と、それぞれに名取に上達した。
また、その美貌と美声でたちまち売れっ妓となった。

昭和二年、ビクターが設立され、、「鶯芸者」として、『祇園小唄』の藤本二三吉さん、『島の娘』の小唄勝太郎さんがデビューして、人気を集めた。市丸さんにも白羽の矢が立ち、昭和五年、ビクターの専属となった。

若かりし頃の市丸

ぽっちゃりして甘い声の勝太郎さんは「情」、スリムなからだで、鈴虫が鳴くような澄んだ声の市丸さんは「智」と評され、「市勝時代」の幕開けとなる。二人は同じビクターに所属し、着物で張り合い、ギャラで競った。
仲も悪かった。市丸さんにいわせると、勝太郎さんには、ビクター嘱託の邦楽通として知られる安藤兵部さんが協力者としてついていたのが、面白くなかったらしい。
「なにしろ若かったですからね。何の因果でそうなったのか。いつごろだったかは忘れたけど、わたしが勝っちゃんに『あんたのおでこは広いわね』と言った事があるの。そりゃ怒ったわよ。それからずっと口きかなかった。あの人も負けん気が強かったですからね」

小唄勝太郎


年は勝太郎さんが、二つ上で、デビューも先輩だったが、負けん気同士のぶつかり合いで、ことごとに対立した。
「それにこんなことがありましたよ。勝っちゃんがビクターを辞めてしばらくしたころ、また戻りたいという話があって、わたしにどうだと聞かれた。その時、こう言ったの。『勝っちゃんが戻るなら私が辞める。もうこの歳になって喧嘩は嫌だから』って。そしたら戻ってこなかった」

晩年、勝太郎さんが入院してからは、よく見舞いに行った。
「勝っちゃんが亡くなってしみじみ思うんだけど、あの人が居なかったら、今の私があったかどうか。いいライバルだったし、本当に感謝しています。もし私の方が先だったら、勝っちゃんもきっと、同じことを言うんじゃないでしょうかね」と言う。

勝太郎さんとは、入院中に仲直りしている。





小唄勝太郎=昭和5年レコード初吹き込み、6年ビクター入社。
市丸=昭和6年ビクター入社。
よって、二人はほぼ同期のようなもの。


勝太郎のビクター復帰騒動は、昭和20年代後半~昭和30年代前半と思われる。
結局勝太郎は東芝へ移籍した。
ビクター復帰は、懐メロブームになった昭和40年代。


菅井きんではありません
藤本二三吉(1897~1976)

浅草生まれの江戸っ子。霞町の芸者。
大正十三年よりレコード吹き込み。昭和3年ビクター入社。
市勝時代の到来前のビクターの看板。芸者歌手の草分け。
市勝ばかり優遇するビクターに嫌気が差し、後にコロムビアへ移籍。
コロムビア移籍後は、邦楽を中心に吹き込み。
昭和43年紫綬褒章、昭和50年勲四等宝冠章受賞。
藤本二三代は娘(実娘では無い)。
代表作に『唐人お吉の唄』『浪花小唄』『祇園小唄』など。
小唄勝太郎の代表作である『東京音頭』は、もとは藤本二三吉の歌った『丸の内音頭』である。


市丸[この歌に-三味線ブギウギ その1]

2006-11-26 00:12:59 | 我が愛しの芸者歌手たち

かつて読売新聞に[この歌に]というコーナーがありました。
今回ご紹介するのは、91年7月に掲載された市丸姐さんのモノです。
抜粋してお届け致します。

(中略)
昭和六年、『花嫁東京』でビクターからデビューし、『天竜下れば』が大ヒット、うぐいす芸者として、粋筋はもちろん、歌謡界の人気を集めた市丸さんが、戦後、『三味線ブギウギ』を歌って世間をあっといわせた。昭和二十三年十二月だった。
それまでの市丸さんの歌う歌といえば、純粋の日本調。丸髷姿だから「首を動かしてもダメ」といわれ、いつも不動の姿勢でしか歌っていなかった。
「ちょうど笠置シヅ子さんの東京ブギウギがはやっていて、一度でいいからからだを動かして歌ってみたいと思っていたところに、服部良一先生が曲を書いてくだすったんです」
自分でそう願ってはいたものの、市丸さんにとっては、大変な挑戦だった。裏面もまた、初めて歌う『雪のブルース』。
「そりゃ一生懸命でした。何回も何回も練習して、やっと吹き込みが終った翌日からは、熱を出して寝込んでしまいましたよ」と言う。

市丸さんのイメージをがらりと変えた仕掛け人の服部良一さんは、「市丸さんはきれいだし、リズムに強いから、モダン芸者として当たるだろうと、自身を持ってつくったんです。なにもかも初めてづくしなのに、市丸さんは頑張りましたよ。予想通りヒットしましたが、あとで、中山晋平先生が、時代が時代だからといって、市丸にあんな歌を歌わせることはないじゃないか、と怒っていたそうです」と、当時のことをなつかしむ。

ステージ姿も派手だった。ブギウギだから、笠置シヅ子さんほどではないが、日本髪姿に着物のすそを持ち上げ、踊りながら歌う。
「劇場が変わるたびに、振り付けの先生も変わるから、覚えるのに大変でした。十教わって全部動くと、かんじんの歌詞がおろそかになるもんですから、ごめんなさい、といって少し動きをはぶいたりしたもんです」
昭和二十五年四月、古賀政男さんらとともにハワイ、ロサンゼルスを巡業した時、『三味線ブギウギ』は大喝采で迎えられ、テレビにも日本の芸能人としては初めて出演したほどだ。


(明日へ続く)


我が愛しの芸者歌手たち・神楽坂はん子

2006-11-05 05:28:25 | 我が愛しの芸者歌手たち

もう11月、忘年会シーズンまであとわずか…。
お座敷ソングの1曲や2曲パァ~っと口ずさみたくなる季節到来ですね。

「我が愛しの芸者歌手たち」、今回は戦後デビューで最も有名な芸者歌手である神楽坂はん子姐さんをご紹介致します。


朝丘雪路ではありません
神楽坂はん子(1932~95)
本名は鈴木玉子。東京生まれ。16歳から神楽坂で芸者をしていた。
芸事好きで、こと唄は万城目正歌謡塾で優等生だったという。
お座敷で歌った「アリアン」が、評判を聞き呼んだ古賀政男・伊藤某文芸部長をいたく感動させ、デビューへ。
なお「アリアン」を歌えといったのは、万城目正の入れ知恵。
身許引受人の反対に合うも、はん子の強い意思に折れ、昭和27年「こんな私じゃなかったに」でデビュー。
同年「ゲイシャ・ワルツ」がヒットし、一世を風靡。
しかし、スタァ稼業に疲れたこともあるのか昭和30年、身許引受人の意向で引退。
公には結婚のための引退ということになっている。
日本クラウン創立時から昭和48年まではクラウンのディレクターとなる。
懐メロブームで復帰、日本コロムビアから再録音のアルバムを発売したりしていた。
懐メロブームの沈静化前後から再び消息が聴こえなくなり始め、平成7年アパートでひとり孤独死、肝臓ガンだったという。

…一世を風靡した歌手としては淋しい最期です。
NHKの邦楽番組には出演したことがあるそうですが、ヒット曲を歌った映像はどうもテレビ東京くらいしか残っていない様子。それも昭和40年代後半まで。
「ゲイシャ・ワルツ」「こんなベッピン見たことない」…地方回りのステージは出来るだけのヒット曲を持ってるだけに、晩年の消息不明は?です。飲み屋をやっていたというハナシもありましたが…。連絡先がわかれば、「ゲイシャワルツ」は後世に残る大ヒット曲、懐メロ番組やステージ等の営業の声はかかってもおかしくないはず。
美ち奴のように神経を患っていたんでしょうか?アル中だったんでしょうか?
情報お持ちの方、ご教授下さいm(_ _)m

神楽坂はん子は現在ベスト盤の入手が困難になっています。
オムニバス盤には「ゲイシャワルツ」が入っている場合が多いので、聴くこともできない状況はコロムビアという会社の性格上少ないでしょう。
今は100円ショップで売ってる500円CDを探した方がCDショップを見て歩くより早くはん子にありつけるかもしれません。

おススメ曲は…
・だから今夜は酔わせてね
「ゲイシャワルツ」のB面。はん子は「息継ぎが難しい」と言って「ゲイシャ~」より、こっちの曲を好んで実演で披露していたそうです。
はかない芸者稼業の辛さを歌った西條八十の佳作。

・芸者フラ
はん子の唄の殆どは古賀政男の手によるものですが、これは原六朗の手によるもの。六朗は「はん子は一緒に呑んでる方が楽しい。はん子でヒット曲かけた古賀先生はさすがだ。」と後に語っています。原は駄作と語ってますが、いやいや、なかなか
面白い作品に仕上げっています。三味線とスチールギターの競演というのも珍しいです。三味線豊吉も真っ青です。
ちなみに「三味線フラ」という曲は神楽坂浮子です。
はん子に憧れて芸者になって、そこそこ売れた方で、この方が唯一存命の芸者歌手です。

・こんなベッピン見たことない
昭和28年のヒット曲。
「東京」という雑誌で歌謡詩公募をしたときの当選作に石本美由紀が補作。
はん子と男性コーラスの掛け合いが面白い。

・こんな美男子見たことない
『こんな~見たことない』シリーズ第2弾。美男子と書いてハンサムと読みます。
2匹目の鰌はいたのか、いなかったのか…大映が映画して、続編も「こんな奥様」「こんなアベック」と第4弾まであったところを見るといたのでしょうね。
♪こんな●●見たことない~ という部分は全作共通の模様。
私はメロディ的にはコチラが「ベッピン」より好きです。

・女ごころの十三夜
はん子後半の名曲。
日本調の曲とはん子の歌いっぷりに、巧さが光ります。
個人的には市丸姐さんでも聴いてみたい1曲。
確か、お千代さんがカバーしているはず。

・モチのロン
戦前、美ち奴・杉狂児で歌われた「強くなってね」の使いまわし(笑)
詞はもちろん違います。
オリジナルは青木光一と、再録音では古賀政男と歌っています。

・こんな私じゃなかったに
神楽坂はん子、記念すべきデビュー曲です。
お座敷ソングの王道ともいえる詞・曲ですが、今こういうモノをかける人はいないでしょう。そういう点で新鮮に聴こえます。はん子の美声もデビューながら素晴らしい。


神楽坂はん子がうまく出てきた理由は、戦後の進駐軍放送のジャズやポピュラーの氾濫にいささか食傷気味だった世代の心にうまく直撃したからだと言われています。
まだまだ日本調が近くに何とか残っていた頃のお話。
日本調は昭和39~40年の「お座敷小唄」「まつの木小唄」「ひなげし小唄」が大流行した後、姿を消し始め、懐メロブームまでは見ることが出来ましたが、70年代後半は池内淳子主演「女と味噌汁」シリーズぐらいでしか見かけなくなります。
平成18年の現在、絶滅寸前と相成りました。
現代音楽とは一味違う、日本調歌謡もたまには聴くと新たな発見があると思います。


我が愛しの芸者歌手たち・番外編 榎本美佐江(その2)

2006-10-23 19:48:33 | 我が愛しの芸者歌手たち

榎本美佐江という歌い手さんの情報がネットには殆どありません。
当ブログは榎本に限らず、そんな忘れられてしまった名歌手のことを多少なりとも載せることが、開設の理由のひとつでございます。
他のものも取り上げてはいますが、良いモノは新旧関係無いという考えです。

角度とメイクで女は変わる
先日、榎本美佐江のソノシートが手に入りました。
これで念願の「舞妓はんブギ」を手に入れることが出来ました(^▽^)
え~榎本美佐江って?方のために改めまして略歴紹介。

お千代さんではありません
榎本美佐江(1924~98)
川口生まれ。
28年に、東映映画『女難街道』主題歌だった「お俊恋唄」がヒット。
昭和30年、国鉄スワローズ投手の金田正一と結婚し、引退。
昭和38年、金田と離婚し、歌謡界へカムバック。
糟糠の妻として支えた彼女を捨て、若い女のもとに走り、あげく相手を妊娠させたことが離婚原因。また子供が出来なかったことも一因。
このような事情のため、世間は榎本に同情的だった。
復帰第一弾シングル「後追い三味線」はヒットした。
その後も、数少ない日本調歌手として、活躍。
戦前、小笠原美都子が歌っていた「十三夜」のリメイクは有名。
「十三夜の榎本か、榎本の十三夜か」という名唱である。
晩年もテレビ東京やNHKの懐メロ番組に出演。
平成10年9月23日、大腸ガンで没。


このソノシートには、作詞家・吉川静夫の文が掲載。
それによると…。
・新東宝のニューフェイスが芸暦の最初
・「お俊恋唄」は、ビクター社のヒット賞は貰えず、片面の「新太郎街道」を歌った小畑実が貰った。
・吹き込みの時は榎本はマイクを拝む。

…などということが書いてあります。
特に「新東宝~」の部分は記憶違いなのか、本当なのか?
後者だとすると、ネットで見る記載は間違いということになります。
他にも検索すると、「お俊恋唄」のヒット時には「十三夜」は既に持ち歌…という記述も。一体何が正しくて、何が間違いか?
当ブログは間違いがわかり次第、訂正する予定でございます。
ご指摘お待ちしておりますm(_ _)m

さて、ソノシートに戻ります。
案外ソノシートはオリジナル企画というものがあったりします。
コレの場合は榎本美佐江と市丸の対談が収録。
市丸が聞き手になって、いろいろしゃべっております。
当時の新曲「お別れさのさ」を三味線静子の伴奏で披露。
榎本からの懇願で、姐さんは「春風(小唄)」を披露。
江戸小歌の家元として、日本調の勉強もしなきゃね…と一言。

右から、市丸、榎本美佐江、三味線静子
市丸姐さんの発言
・貴女が復帰するって電話貰った時、嬉しくて声が出なくなっちゃった。
・榎本復帰後、初めてのテレビ出演の時、言葉が出なくて泣けちゃった。
・3日も8年も同じよ、休んだら声は出なくなる。
榎本さんの発言
・最初は歌えるか不安だった。
・復帰前に吉田先生の元にレッスンしにいったとき全然声が出なくて、テープに声を録音して何回も聴いて、練習した。

対談を聞く限り、市丸姐さんは榎本美佐江を可愛がっていた御様子。
二人とも、「声が似てる」とよく言われるそうである(ソノシートの記載より)。
確かに「舞妓はんブギ」を聴くと、そう聴こえなくもないけども。
後年は二人ともまったく違いますが。
榎本=ちりめんビブラート 市丸=小粋な美声
となっていきますが…。

没後8年、気がつけば今や榎本の歌を収録したCDを探すことすら困難であります。
去るものは日々に疎し。
しかしながら、かつてこんな日本調の良い歌手がいた…ということは事実です。
月を見たときにでも、「十三夜」でも口ずさみ、思い出してくださいませ。


我が愛しの芸者歌手たち・日本橋きみ栄

2006-07-25 00:01:23 | 我が愛しの芸者歌手たち

以前予告していました通り、「我が愛しの芸者歌手たち」、今回は日本橋きみ栄を取り上げたいと思います。

ポリドールレコードの芸者歌手と言えば、新橋喜代三・〆香・染千代と並び、名前が出るのが、この日本橋きみ栄です。

日本橋きみ栄
日本橋きみ栄(1915~93)
本名:佐藤清子
東京・神田生まれで生粋の江戸っ子。
17歳から芸の世界へ身を投じる。
昭和8年、ニットーレコードで初吹き込み。
やがて美声が評判を呼び、昭和9年「港の別れ唄」で業界に認められる。
昭和10年、ポリドールレコードへ。
昭和12年「蛇の目のかげで」ヒット。
戦後は、23年「炭坑節」がヒット。
その後ポリドールからキングへ移籍した。
32年からはビクターで、純邦楽の分野の吹き込みをするようになる。
46年、芸術最優秀賞受賞(自作曲「見世物小屋」)
49年にポリドールへ復帰。
50年、山田五十鈴主演「たぬき」音曲担当となり評判を取る。
平成5年10月9日、死去。78歳。


上記の略歴で間違いがございましたら、ご一報下さい。
すみやかに訂正致します。

ポリドールレコードというところは何やらややこしい会社でございまして、一応、今はユニバーサルという会社になっていますが、昭和23年までのポリドールと、1960~80年代のポリドールは別モノの会社であるご様子。
復刻するにも複雑な事情がある上、売れ行きが見込めないのでは・・・というお寒い状況でございます。
とはいえ、70年代には復刻LPが多数出てますので、必ずしも入手困難とは言い切れないので、興味のある方はそちらを当たってみてはどうでしょうか。

神田祭
作詞:佐藤惣之助 作曲:山田栄一
浅草〆香・上原敏と歌ってます。
下町の祭ムードがしてくる佳作です。
ただ、歌い手がねえ…。
こういう曲なら上原敏より高田浩吉の方が粋に歌えた気が…。
別に敏さんが悪いとは言ってませんけどf(^_^;
神田で生まれ育ったゆえ、きみ栄にお鉢が来たのでしょうね。
でも、〆香姐さんの歌声の方が素晴らしいf(^_^;


昭和10年ごろの吹き込み風景
蛇の目のかげで
作詞:並木せんざ 作曲:阿部武雄
日本橋きみ栄の代表曲にして、初の大ヒット曲。
詩も♪~とさ と淡々と、それでどこかユーモラスな感じがしています。
作詞者:並木せんざはサトウハチローの別名
作曲の阿部武雄は、この年に「妻恋道中」「流転」「裏町人生」「鴛鴦道中」などもヒットさせていて、まさに絶頂期の仕事。
きみ栄の粋な歌い方は文句なしの絶品。

五月雨傘
作詞:矢島籠児 作曲:島口駒夫

江戸情緒漂う日本調歌謡曲の名作。
きみ栄の良さが実に出ている気がします。


後年のきみ栄
炭坑節
戦後のきみ栄の大ヒット曲。
炭坑節は、赤坂小梅・美ち奴・音丸なども吹き込んでいますが、有名なのは美ち奴・きみ栄の両ヴァージョンでしょう。
空前絶後のノドを持つ美ち奴に勝るとも劣らない粋な歌唱を披露してくれたきみ栄に拍手を送りたい。

浮名くずし
作詞:佐藤惣之助 作曲:阿部武雄
片面は三味線やくざ(東海林太郎)で、両面ヒットしたそうであります。
股旅モノ+α、といった曲調で、きみ栄の名唱が曲の良さを引き立てます。


次回は小唄勝太郎を取り上げる予定です。


我が愛しの芸者歌手たち・番外編 榎本美佐江

2006-07-24 17:18:45 | 我が愛しの芸者歌手たち

「我が愛しの芸者歌手たち・番外編」ということで、今回は榎本美佐江を取り上げたいと思います。
「番外編」としたのは、彼女は芸者じゃないからです。
ですが、日本調の曲を主に歌っていた歌手ゆえ、このカテゴリに入れてみました。


忘れられた歌手(泣)
榎本美佐江(1924~98)
昭和21年デビュー。
昭和28年「お俊恋唄」がヒットし、世に知れ渡る。
その美貌と歌唱力で、人気を博した。
昭和30年、後の400勝投手・金田正一と結婚・引退。
昭和38年に離婚し、芸能界復帰し、「後追い三味線」をヒットさせる。
歌謡界のリバイバルブームの際には「十三夜」をヒットさせた。
その後も懐メロ番組などで、美声を披露していた。
平成10年9月23日、大腸ガンで死去。73歳。


榎本美佐江も資料が乏しいので、簡単な説明しかできませんで…m(_ _)m
榎本美佐江についてご存知の方、情報お寄せ下さい。
音源も、それなりにヒットがあるはずなんですが、あまり復刻されてません。
この人クラスならば、CDの一枚出ていてもおかしくないんですけども(-_-x)
ビクターさん、<COLEZO!>シリーズでベスト盤復刻お願い致しますよm(_ _)m


十三夜
作詞:石松秋二 作曲:長津義司

昭和16年に小笠原美都子が出したモノのリメイク。
一般(と言ってもある程度の年齢)には「十三夜の榎本」と言われたとか…。
フランク永井「君恋し」、村田英雄「人生劇場」あたりと肩を並べる、オリジナルを超越したカバーと言えるでしょう。
(君恋し=二村定一、人生劇場=楠木繁夫、がオリジナル。こちらも素晴らしい!)
榎本美佐江=ちりめんビブラート、なんですがその魅力全開で、歌ってます。
私の個人的な好みでいくと、榎本ヴァージョンの方が好きです。
♪ああ~それなのに~それなのに~
ビクター様はこの「十三夜」はどうも未復刻のご様子。
せめて、この曲くらい復刻しましょうよ、納得できません(-_-x)

後追い三味線
作詞:吉川静夫 作曲:吉田正
カムバック後にヒットさせた、榎本三大ヒット曲の1曲。
橋幸夫の股旅物のヒットがある吉田正が、軽快な筆を振るっております。
吉川静夫の詩が、適度に榎本の境遇と照らし合わせられる感じでgood。
榎本の切ない声がまた泣かせます。

お俊恋唄
作詞:吉川静夫 作曲:佐々木俊一
榎本美佐江の初ヒット曲。
私好みの股旅メロディー(笑)。
高田浩吉が歌ってもハマりそうです。

二十三夜
作詞:佐伯孝夫 作曲:渡久地政信
タイトル的にも、詩の内容も、「十三夜」の姉妹編といった曲。
一体いつ頃の曲なんでしょう?
二番煎じ感もありますが、こちらもなかなかの佳作。


他にも、市丸姐さんの「天竜下れば」なんてのも歌ってます。
「市丸姐さん亡き後は、あなたが歌い継いで」というくらいの出来です。
(ちなみに、市丸97年没、榎本98年没。歌い継いだ?期間はおよそ1年…)
なぜか、歌詞が一部違っています。
♪しぶきに濡れてヨー(市丸)
       ↓
♪しぶきがかかるヨー(榎本)

榎本さんは、市丸姐さんに可愛がれてたと聞きます。
何かこの歌詞の変更は意味があるんでしょうか?
ただ間違って歌詞を覚えていただけ?


我が愛しの芸者歌手たち・赤坂小梅

2006-07-04 04:16:41 | 我が愛しの芸者歌手たち

「我が愛しの芸者歌手たち」、第3弾は「赤坂小梅」です。
ビクター(市丸)テイチク(美ち奴)と来てますので、第3弾はコロムビア(小梅)で参ります。
(勝太郎は「勝太郎くずし」が手に入り次第、取り上げたいと思います。)

さて、まずは赤坂小梅のプロフィールを御覧下さい。

赤坂小梅(1906~92)
本名:向山こうめ。
九州は福岡県北九州小倉地区の生まれ。
九人兄弟の末っ子で、出生10日目にて母が逝き、35歳年上の長姉の手によって育てられる。
花街の近くに住んでいたため、そこから聞こえる三味線の音や歌声を子守唄代わりに聴いて育った。そのためか、幼少時から芸事が大好きだった。
そして、ついに16歳のときに、家族の反対を押し切り、小倉の旭検番から「梅若」の名で初座敷と相成る。
昭和4年、小倉を訪れた中山晋平・藤井清水・野口雨情らが、料亭「津田倉」で梅若の歌声を聴き、その美声に驚く。
そして、梅若の才能を認めた藤井の紹介で、ビクターで「小倉節」など新民謡数曲を吹き込む。
昭和6年には上京。後援者清水作之助の紹介で、赤坂若林から「小梅」と名乗って、お披露目となり、鶯芸者として鳴らすことに。
昭和8年3月、藤井清水と共にコロムビアへ入社し、5月に「ほんとうにそうなら」でデビューし、一躍スターダムになる。
昭和9年にも「そんなお方があったなら」をヒットさせ、その人気は不動のものに。
その名声を生かしながら、各地の民謡を吹き込んでいく。
小梅は民謡と言うジャンルを一般化したパイオニア・功労者とも言える。
小梅によって全国区となった民謡は数多いが、一般受けしやすいように小梅流に歌いなおしたモノゆえ、地元から不満の声があったものもある。
小梅によって全国区になった民謡は「おてもやん」「そろばん踊り」「小諸馬子唄」などがあるが、何といっても一番は黒田節。
「黒田節の小梅か、小梅の黒田節か」とまで言われた。数十年間、コロムビアの民謡部門の売り上げベスト10に入っていた記録もある。
戦後は流行歌の吹き込みは減ったが、民謡・俗謡の吹き込みは続き、その筋の人気は衰えることを知らなかった。ステレオ時代になっても積極的に吹き込んでいる。
日本酒を一晩に三升呑んでも大丈夫というほどの酒豪で、マージャンは下手の横好きの典型、他人の悪口は決して言わず、 おおらかで太っ腹な性格であった。
芸者としても岸信介や佐藤栄作など著名人のお座敷も務めたほどだった。
昭和49年、紫綬褒章受賞。昭和55年、勲四等宝冠章受賞。
酒豪が祟り、内臓が滅茶苦茶だったらしく、昭和54年ごろから肺炎・白内障・糖尿病・腎臓を立て続けに患った末、右足を骨折。2年の闘病で20キロも痩せた。
そのため、昭和56年4月21日、東京三宅坂・国立小劇場での「芸能生活60周年・歌手生活50年 感謝引退記念公演」を最後に一線から身を引く。
港区麻布の、長谷川一夫邸の真ん前にあった自宅も引き払い、養女(長兄の子)と共に千葉県館山市布良の安房自然村に引っ越す。
そこで養女に身の回りの世話をしてもらいながら「小梅民謡教室」を開くなどしていたが、数年後脳梗塞で倒れたため、歌は止め、リハビリに励んだりしていた。
平成4年1月17日、85歳で逝く。




小梅姐さんというのは流行歌というよりは、民謡や小唄・端唄などの方です。
ですから、歌謡曲好きの方は一寸キツイものもあるかもしれませんね。
でも、良いノドなんです、これが。男性顔負けの声量たっぷりの低音で。
まあ、一度は聴いて損は無いと思いますが…。
そんな訳で、おススメ曲も民謡・俗謡が殆どでございます。


野郎やったね
作詞:和田隆夫 民謡
これの元唄は「常盤炭坑節」です。(♪月が出た出た~ じゃありません)
いわゆるお座敷ソングでして、小梅姐さんが豪快に歌っております。

浅間の煙
作詞:西條八十 作曲:古関祐而
信州民謡「小諸馬子唄」をうまく使った民謡チックな1曲。
小梅姐さんの男顔負けの美声が心行くまで堪能できます。

おてもやん
俗謡
今現在でも知名度が高い俗謡。
熊本の方の民謡でもございますが、これが明治期に花柳界でも歌われるようになり、「熊本甚句」という名で親しまれるように。
小梅は昭和11年に吹き込んでいたが、戦後、再発売の特需景気の頃に人気となり、全国区の民謡(俗謡)となっていく。
リズミカルな曲で、ある意味ではラップなんかの元祖とも言える。


黒田節
福岡民謡
赤坂小梅といえば、この曲です。
小梅のすべてが詰まっていると言えなくも無いですね。
とにかく、男らしく豪快な小梅ボーカルの真骨頂。
その昔、結婚式でこの黒田節を舞う年寄りは必ずいたものです。
その重厚さは聴いていて、思わず聞き惚れますが、民謡に免疫が無いとキツイかも(゜゜;)

そろばん踊り
作詞:石本美由紀 福岡民謡
久留米のほうの民謡です。
なかなかコミカルな、久留米の機織り娘の恋を歌った曲。
台詞入りで、小梅の話し声も聴くことが出来る。
見た目とは裏腹、案外可愛い声をしております(まあ作ってるんでしょうがね)。



※ちなみに小梅姐さんはこういうお顔
ドスコイ

若い頃はもう少し可愛い顔でした。
下が若い頃の小梅姐さん。
貫禄はありますね

歳月は人を変えるものでございます。
以上でこの項を終わりますm(_ _)m

なおこのシリーズ、次は(音源が手に入り次第ですが)日本橋きみ栄を予定しています。芸者系で、リクエストでございましたらドウゾ。
答えられる範囲でやってみます。


我が愛しの芸者歌手たち・美ち奴

2006-06-29 12:24:30 | 我が愛しの芸者歌手たち

「我が愛しの芸者歌手たち」、第2弾は「美ち奴」を取り上げます。
最初は勝太郎にするつもりだったんですが、気が変わりました(笑)

まあ、まずは美ち奴のプロフィールを…


美ち奴(1918~1996)
北海道は北端・稚内郊外で生を受ける。本名;久保ソメ、のち赫子と改名。
幼少時から唄を好み、その美声は地元では評判であった。
それが昂じて上京し、やがて昭和9年浅草の芸者屋「染美ちの家」から、芸者「美ち奴」としてお披露目。なお「染美ちの家」は親類が経営していた置屋。
その類稀なる美声はやがて評判を呼び、ニットーレコードから吹き込みの誘いが来、レコードデビュー、同じ昭和9年のことである。
このニットー専属時代は当時そこの専属であった服部良一作曲の「さくらおけさ」「あゝ満州」をヒットさせている。
この美ち奴との縁が、やがて服部の結婚の糸口に繋がった。
やがて、美ち奴の声に目をつけた、当時の新興レコード会社テイチクが移籍の話を持ち込み、契約する。
昭和10年、「ほんに貴方は罪な方」でテイチクデビューする。
翌11年、後々までの名コンビ・杉狂児「細君三日天下」もヒット。
その年の11月に発売された「あゝそれなのに」「うちの女房にゃ髭がある(杉とのデュエット)」が爆発的大ヒットを飛ばし、美ち奴は一躍時代のトップスターへと躍り出る。
その後も、レコーディングの際に作曲者・古賀政男が号泣したという「軍国の母」、中国大陸を舞台にした「霧の四馬路」「身代わり警備」…と戦時歌謡のヒットを連発。
昭和14年11月には浪曲歌謡「吉良の仁吉」を発売。これが又大ヒットし、同じ路線の「娘浪曲師(台詞は当時の人気女優:山路ふみ子)」「街道石松ぶし」「仁吉男の唄」などもヒットさせている。
戦中も人気は絶大で、昭和18年には台湾民謡「シャンランぶし(ツーレロ節)」をヒットさせている。これは戦後、小林旭やザ・ドリフターズによってリメイクされている。
戦争末期~戦後は女剣戟の中野弘子とコンビを組み、巡業。
昭和25年には各社競作ながら「炭坑節」をヒットさせ、健在ぶりを見せる。
が、ここまでは表向きは順風満帆だった(実際はせっかく北海道から引き取った両親を空襲で失ったりしている)美ち奴にここから暗雲が立ち込める。
テイチクの新人歌手・真木不二夫と恋仲になり、泥沼の末破局。
このことが原因となり、自律神経失調症を患う。
その後は病気の問題もあり、表舞台をいったり来たりを繰り返す。
昭和40年代前半からの懐メロブームには顔を出し、その美声を披露していた。
しかし、病気が進行していくうち、舞台に立っても震えが止まらずそれも叶わなくなる。その状況を見かねた中野弘子が尽力し、昭和58年、特養老人ホーム「むつみ園」に入所。のちに中野弘子も入所する。
「美ち奴」としての誇りは最期まで失うことは無く、テレビ等の取材が来た時は本名の久保ソメではなく「美ち奴」として接していた。
「むつみ園」でも、ホーム内の演芸会では、その美声を披露することもあった。
平成8年5月29日、大腸ガンのため死去。
中年以降のベストパートナー:中野弘子も後を追うように49日が過ぎた後に死去。
なお、美ち奴の弟のひとりは、ビートたけしの師匠で、浅草フランス座の芸人・深見千三郎である。


美ち奴の声とは一体どういう声なのか。
一度聴いたら絶対忘れられない、金属のような声です。
他に類を見ない声で、まあ、あえていうとするならば日吉ミミの声をもっと高くしたような声です。
こればっかりは聴いてみるしかありません。
テイチクから、オムニバスで戦前歌謡のCDが2500円ほどで出ていますし、6曲980円でベスト盤も出てます。
曲数は多く聴くことが出来ないのは残念至極ですが、必ず聴くことはできます。
ご興味のある方は、まめにテイチクから出ているオムニバスCDを探しに図書館なり、TSUTAYAに行くなり、CDショップでCDを購入して下さいませ。
本当はテイチクでチャンとした全曲集を作るべきなんですが…。
小野巡、楠木繁夫、杉狂児、鈴木三重子、塩まさる、東海林太郎、藤山一郎、田端義夫(これは本人がYESと言いたがらないという話…)、菅原都々子、白根一男などなど、検討すべき歌手は一杯いるはずなんですけども…。
今のところ、ディック・ミネと菊池章子くらいしかオリジナル音源での全曲集は無いようです、購入可能なのは。
美ち奴は鈴木三重子とセットで大昔CDが出てますし、小野巡、楠木繁夫、杉狂児あたりより状況は比較的マシな方ではありますが、戦前~戦中テイチクの稼ぎ頭だったものに対する扱いでは到底ありません。
ぜひともネットでのダウンロードの形でも構わないので、音源を吐き出してください。

まあそんなわけで美ち奴の手持ち音源も聴いたことがある音源も決して多い訳ではありませんが、その中から多少、名曲を紹介&解説&感想を…。


1.うちの女房にゃ髭がある(デュエット:杉狂児)
作詞:星野貞志 作曲:古賀政男

♪パピプペ パピプペ パピプペポー うちの女房にゃ髭がある~
今もってこのフレーズは有名。
某ラジオ番組では水野晴男(映画評論家)のテーマとして親しまれているらしいです。
昭和11年の唄ながら、その詩は現代に通じます。恐妻家はいつの世も多いのです。
まして、男が弱くなり(実際昔の男性よりも精子の数も減少)、女が強くなったこの時代。この唄は今こそ再び脚光を浴びるべき唄なのかも。
実際この唄を歌っているのは、殆ど杉狂児です、美ち奴は「何です、あなた」と台詞を言うだけです。しかし、この美ち奴の据わった声が恐ろしい(笑)
そして、続く杉狂児の♪いーや 別に 僕は その… という部分の可笑しさ。
このやり取りこそ、この唄のミソでして、特に杉狂児の部分をいかにビクついてやるかが、この唄を歌って喝采を受けるかの大きなポイントなのであります。
忘年会・飲み会・自嘲ソングとしても、最高なこの曲。ぜひとも御一聴のほどを。
ちなみに、作詞の星野貞志は詩人・サトウハチロー。書いた歌詞が自分であると知られるのが恥ずかしいとのことで別名で表記されてます。

2.あゝそれなのに
作詞:星野貞志 作曲:古賀政男

古賀政男がチンドン屋の行列をみて、いきなりサビの部分がひらめき、モノの10分程度で完成したという噂がある曲。
「うちの女房にゃ髭がある」の片面がこの曲。同面同時大ヒットというのは歌謡界にはあまり例がありません(時差ヒットはあります)。
せいぜい三波春夫の「チャンチキおけさ/船方さんよ」くらいではないでしょうか。
(植木等「ハイそれまでョ/無責任一代男」「ドント節/五万節」なんてのもありますが)
こちらの「あゝそれなのに」という言葉は当時の流行語にもなりました。
やっぱり忘年会・飲み会ソングに最適な唄です、こちらは男女どちらでもOK。
それにしても、この歌詞は意味深といえば意味深。
おそらくこの旦那がした行動のは
1番=浮気(しかも白昼!?)
2番=浮気(しかも白昼!?)
3番=呑んで午前様で帰宅 or 愛人宅へ宿泊
4番=呑んで午前様で帰宅 or 愛人宅へ宿泊
じゃないかと私は考えていますが、貴方はどう思います?
どちらにしても、女がいくら思っていても男はその気持ちに気づかない行動をとることは古今変わらないようです(逆もまたしかり)。

3.満州ぶし
作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男

当時日本政府が力を入れていた満蒙開拓キャンペーンの宣伝歌のような曲。
この民謡チックな、音丸あたりが歌いそうな、のどかな歌を聴くと、「満州は素晴らしいところみたい、俺も行って一旗あげよう」と思わずにいられません。
ですが、その後の悲劇を思うと…何とも罪作りな1曲です。
まさしく「歌は世につれ」の典型と言えますね。

4.パイロット小唄
作詞:岩間真三郎 作曲:陸奥明

昭和16年12月発売。
第2次大戦勃発当時の花形職業・飛行機乗り(パイロット)をテーマにした軽快なマーチアレンジの一作。
作曲の陸奥明は菅原都々子の父で、代表曲に「お座敷小唄」があります。
曲の出だしを聴く限り、そのまま♪朝だ~夜明けだ~ などという男声合唱団の声が聴こえて来そうですが、実際は美ち奴のあのミョーな歌声。ある意味、当時の体制を皮肉った当時のレコード会社の抵抗とも取れなくもありません。
歌詞も「シート」「エアポート」「ルートマップ」「エアメール」「グラウンドマーク」…外来語のオンパレード(一応「航空港」など、しっかりと表記は漢字表記にはなっていますが)。
…昔も今も、お役所は書類しか見ていないようです。検閲も抜け道はあったのです。
ちなみに後年の再録音は、小唄のアレンジになっています。

5.あのネ軍使
作詞:島田磐也 作曲:鈴木哲夫

美ち奴の幻の名曲にして、大珍曲。
歌詞は…というと風船に乗って、軍使が敵の支那軍のもとに降りて来て、降参を呼びかけるというもの。勿論、これは表向きの説明。
実際の歌詞は、どう考えても支那側を徹底的におちょくってる(笑)。
その上軍使が、当時の人気喜劇俳優・高勢実乗(爆笑)。
この人のギャグ(というか微妙な線であるが)「アノネーオッサン」を美ち奴が台詞で使っているというトンでもないワルノリぶり。
まさしく怪作中の怪作。時代背景もふんだんに感じ取れる貴重な一作。
ちなみに高勢実乗(1897~1947)という「オッサン」はこういう顔をしてます。アノネーオッサン、ワシャカナワンョ

6.シャンラン節(ツーレロ節)
作詞:村松秀一 台湾民謡

小林旭もドリフも歌った、この歌の元祖はコミソン女王(笑)・美ち奴姐さん。
軽快なメロディーに乗せ、美ち奴の声も絶好調。
ところで台湾の方では嫁入りの際にはドリアンを食べる習慣があるのでしょうか。
時代よりも土地柄が強く出ている曲。

7.吉良の仁吉
作詞:萩原四朗 作曲:山下五朗

美ち奴三大ヒット曲(ああそれなのに、うちの女房にゃ~、吉良の~)のうちの1曲。
これ、メロディーは当時人気の浪曲師:広澤虎造の節回しがもと
いわゆる「虎造くずし」というものです。
本家を知っておきますと、より一層楽しめるかと思います。
後年の再録音は歌いこまれて、歯切れのよい歌唱となっていて、こちらもおススメ。



…といったところで、この記事は終えさせていただきます。
最後に、皆さんも気になる(?)美ち奴さんの画像を紹介しましょう。

♪うち~の女房にゃ~髭がある~


我が愛しの芸者歌手たち・市丸

2006-06-27 02:40:10 | 我が愛しの芸者歌手たち

私がこよなく愛する歌手の一人に市丸姐さんがいます。
市丸姐さんのプロフィールは…

市丸(1906~97)
長野生まれ。19歳のときに上京。
昭和6年「花嫁東京」で歌謡界デビュー、同年「茶切節」がヒット。
昭和8年には長野県民謡「伊那節」(これも後に吹き込みヒット)を基にした「天龍下れば」が大ヒット。
同じ所属会社(ビクター)の小唄勝太郎ともども「市勝時代」を築く。
その小唄勝太郎とは犬猿の仲で知られた。
戦後は、それまでの日本調を生かしつつも、流行を取り入れた「三味線ブギウギ」
を大ヒットに導く。
この歌に中山晋平は「市丸にこんな歌を歌わせるなんて」と激怒したという。
が、本人は服部良一のもとに自ら曲の依頼をし、西川鯉三郎に振り付けを依頼するなどヤル気満々だった。
昭和30年代あたりからは小唄・端唄といった方面に重点を置くようになる。
昭和35年には、中村勘三郎の許しを得、江戸小歌(←小唄)中村派を数百年ぶりに復活させ、家元となる。
懐メロ番組にも「三味線ブギウギ」「天竜下れば」などを披露に度々出演。
また、邦楽番組にも、小唄・端唄・長唄・清元…と芸の幅が広いこともあり、欠かせない存在としてちょくちょく出演していた。
これは晩年まで続く。
ちなみにテレビ出演の際は、着物の色にも気を配り、カメラ目線もしっかりしていた。
生涯ビクター専属であったこともあり、ビクターでは生き字引的存在であった。
後輩の面倒はよかったらしい。あの中尾ミエが「市丸姐さんは怖かった」と証言。
平成9年1月の卒寿パーティーでも艶やかな姿を見せていたが、その直後に入院。
2月17日に他界、90歳。生涯独り身を貫いた。

というのが市丸姐さんのプロフィールです。
とにかく美人でした、この姐さん。近寄りがたい美人
いくら美人でも年取ったらそうはいかん…と思うでしょう?
いえいえ、それがそうじゃないんです。
私、昭和45年の市丸姐さん、つまり64歳のときの映像を持っているんですけど、どう見ても60過ぎの婆さんには見えません。全然ババアらしくないんですよ。
声も、これがまた粋なお声で素晴らしい。
♪ハア ちょいと ブギウギ~ とカメラ目線
明治生まれがカメラ目線ですぜ! 
今の60代じゃないんです、平均寿命は60代後半の時代ですよ。
いやはや、大したものでしたm(_ _)m

その後、平成に入ってからの、日本髪の鬘をつけていない姐さん(85歳)の映像も見ましたが、年齢よりは若く見えました。
(残念ながら私が見たことのある市丸の映像は3種類だけです…)

ここまでイロイロ言ってる私ですが、残念ながら市丸姐さんの音源は手持ちがあまり
ありません(汗)。
ビクターからは今現在、流行歌だけを集めたCDは出ておりません。
小唄とか端唄・長唄とかのCDは結構出ているんですけども…私、そのあたりは興味
がありませんので(^ ^;Δ

とりあえず、数少ない持っている音源の一部の解説&感想を…。

1.天竜下れば
作詞:長田幹彦 作曲:中山晋平
昭和8年、市丸姐さんがラジオに舞台に歌いまくり、執念でヒットさせた作品。所謂、新民謡というものである。今でも長野では親しまれている、市丸姐さんの戦前最大のヒット曲。とにかく粋な歌い方で、たまりません。

2.茶切節
作詞:北原白秋 作曲:町田佳声
もとは昭和2年、静岡鉄道が製作した宣伝ソング。
それを昭和6年、市丸が吹き込み、ヒットさせた。
「ちゃっきり娘」というトリオ漫才もあったほど、有名な静岡県民謡。
これも新民謡である。
♪唄はちゃっきり節 男は次郎長
これを知らない日本人はいないと言われましたが、今はどうでしょうか?
姐さんの声がまだ若い、未熟というか、少し声を無駄に張り上げてる感も…。

3.流線ぶし
作詞:西條八十 作曲:細田義勝
昭和10年の作品。
世の中何でも流線だ、ということを西條八十は教えてくれます。
市丸はいつも通り淡々と、粋さをにじませながら歌います。

4.三味線ワルツ
作詞:佐伯孝夫(?) 作曲:清水保雄
昭和27~28年頃の作品。
「ゲイシャ・ワルツ」に触発されたかと。
なかなか面白い作品だと思います。

5.三味線ブギウギ
作詞:佐伯孝夫 作曲:服部良一
昭和24年のヒット曲で、市丸最大のヒット曲。
この唄への意気込みは先述した通り。
この曲は一連の芸者歌手にはおそらく歌えないでしょう。
市丸だからこそ、歌いこなせたと思います。
私、この曲一曲で市丸を敬愛するようになりました。
そのぐらい、斬新な名曲。


こう熱く市丸姐さんについて、書き連ねましたが、あんまり音源持ってない上、好きじゃない唄も多いんですよねえ、市丸姐さん。
市丸姐さんの、戦前流行歌とは相性が良くないんでしょうね。
でも、大好きなんですよ。
「三味線マンボ」という唄を一度だけ聴いたことがあるんですけど、すごく良かった。
戦後の唄をもっと聴きたいですね、姐さんは。
我が故郷にも、市丸姐さんが歌う「函館五稜郭音頭」というご当地ソングがあります。
これは自慢ですね(^▽^)

ちなみに、これが市丸姐さんです。
♪ハ チョイとブギウギ~

本当はもっと別嬪なんですよ(^.^)
私、この姐さんのライバル・小唄勝太郎も大好きな歌手です。
機会があれば、勝太郎編もいずれ…。