古川さんを中心に、ぼくらは面白がって、ドドンパの宣伝策戦を考えた。
「新しいリズムとかダンスは、いずれはハイティーンに受けなくちゃあかんのやけど、最初の発表会は、祇園のクラブ・ベラミでやろう。京都の大文字焼きの日に、舞妓をぎょうさん集めて、だらりの帯でドドンパ踊らせたら、週刊誌がわっと飛びついて来よるで」
話がきまった。古川さんは早速テイチクに新しいリズムを発表するから、宣伝費を出せと交渉し、予定どおり、八月の大文字焼きの夜、東京からも大勢のジャーナリストを招いて、ドドンパの大発表会が、祇園のクラブ・ベラミで開かれた。デモンストレーション用に、「祇園小唄」をドドンパでアレンジしたものも用意した。
「とにかく変わってますねえ。奇妙なダンスだ」
招かれた記者たちは、呆れた顔で取材して帰って行ったが、舞妓たちが、だらりの帯で新しいダンスを踊る姿は、写真にはもってこいの題材だ。各紙にこぞって紹介された。
だが、ブームとか流行とかいうものは、そう簡単にできるものではない。いくつかの週刊誌に報道されただけで、表面上は、ドドンパは大した反響もまきおこさなかったが、ぼくたちのクラブ・アローでは、毎晩意識的にバンド演奏はドドンパが中心になり、ぼくがお客さんたちに、その踊り方を指導して行くうちに、新リズム、ドドンパは、だんだん関西から関東へと滲透していった。
「なんだか、大阪では変なダンスが流行ってるらしいわ」
東京のハイティーンたちは、こういう流行に敏感である。正式の演奏会にはドドンパのリズムはまだまだ取り上げられるわけにはいかなかったが、東京や横浜のナイト・クラブでは「この店ドドンパやってないの。流行遅れねえ」などと言われると、みんなそうかなと思う。
やがて、何処のクラブでもドドンパを演奏するようになり、翌三十六年の一月ごろから本格的なドドンパブームが始まった。
こういう時、一番当たる戦術は、そのリズムを取り入れた流行歌を作って、流行らせることだ。さすがにビクターは気を見るのに敏だ。渡辺マリさんという新人歌手をデビューさせて「東京ドドンパ娘」というレコードを出した。これがご承知のように大ヒットした。
「ドドンパは誰が作ったリズムか」
という議論がやかましく交わされるようになった。それがまた週刊誌の話題になる。
「本家がアイ・ジョージなどとは、とんでもない大嘘だ」
ビクターが狼火をあげる。ぼくらは面白いから
「冗談じゃない。ドドンパの家元はこっちだ」と反駁する。騒然たるものだった。
だが、ここではっきりしておきたいのは、別にドドンパなどは、新しい薬を発見したのとは違うのだから、どっちでもいいことだけれど、真実はいまぼくが書いたとおりだということだ。
ドドンパは、オフ・ビート・チャチャチャの音型である。
そしてそれはフィリッピンのバンドが日本に持ち込んだものだ。
しかし、三拍目を三連音符にしたのは、誰でもないアイ・ジョージである。
ここのところと、ドドンパと命名したセンスだけは買ってほしい。
それと、もうひとつ。さっきぼくは、新しいリズムを流行らせるには、流行歌が一番効果的と書いた。しかし、ぼくたちはそんなことはわかり切っていたけどやらなかった。
そこを買ってほしい。
なぜなら、ぼくが「東京・ドドンパ野郎」というようなレコードを出したら、もしかしたら何万枚かのヒットになったのかもしれない。
しかし、それは間違っていることなのだ。
歌手に、ある風俗的なもののレッテルを貼ることは、一時期爆発的に人気が出るかもしれないけれど、そのレッテルが逆に一生とりのぞけなくなる。
ぼくたちは、遊びの精神と、商売になるということからドドンパを作って流行らせたけど、アイ・ジョージが、ドドンパと心中するのは、およそむなしいし馬鹿馬鹿しいことだ。だからしなかったのだ、
こう書くといかにも後からうまいことを言っていると思われるかもしれないが、実際そうだ。
「ジョージ。ドドンパは話題やで。君は話題を利用すればいいんだ。話題にふりまわされてはいかん」
古川さんは、何度もぼくにそう注意した。
ということでドドンパ=都都逸+ルンバ説は一蹴。
ドドンパ=フィリピン起源
三拍目を三連音符に変更=アイ・ジョージ
命名=アイ・ジョージ
なる真実が40余年の時を得て、あきらかになりました。
それにしてもアイジョージ&その仲間たち、凄すぎる…。
人間、ノッてる時は本当に素晴らしいことを示す話です。
アイ・ジョージは今何処へ…???
ご存知の方、ご一報下さいm(_ _)m