今だから…昭和さ ある男のぼやき

主に昭和の流行歌のことについてぼやくブログです。時折映画/書籍にも触れます。

ドドンパ誕生秘話(後編)

2006-11-16 21:06:15 | 戦後・歌謡曲
前回の続きを…。

古川さんを中心に、ぼくらは面白がって、ドドンパの宣伝策戦を考えた。
「新しいリズムとかダンスは、いずれはハイティーンに受けなくちゃあかんのやけど、最初の発表会は、祇園のクラブ・ベラミでやろう。京都の大文字焼きの日に、舞妓をぎょうさん集めて、だらりの帯でドドンパ踊らせたら、週刊誌がわっと飛びついて来よるで」

話がきまった。古川さんは早速テイチクに新しいリズムを発表するから、宣伝費を出せと交渉し、予定どおり、八月の大文字焼きの夜、東京からも大勢のジャーナリストを招いて、ドドンパの大発表会が、祇園のクラブ・ベラミで開かれた。デモンストレーション用に、「祇園小唄」をドドンパでアレンジしたものも用意した。

「とにかく変わってますねえ。奇妙なダンスだ」
招かれた記者たちは、呆れた顔で取材して帰って行ったが、舞妓たちが、だらりの帯で新しいダンスを踊る姿は、写真にはもってこいの題材だ。各紙にこぞって紹介された。

だが、ブームとか流行とかいうものは、そう簡単にできるものではない。いくつかの週刊誌に報道されただけで、表面上は、ドドンパは大した反響もまきおこさなかったが、ぼくたちのクラブ・アローでは、毎晩意識的にバンド演奏はドドンパが中心になり、ぼくがお客さんたちに、その踊り方を指導して行くうちに、新リズム、ドドンパは、だんだん関西から関東へと滲透していった。

「なんだか、大阪では変なダンスが流行ってるらしいわ」
東京のハイティーンたちは、こういう流行に敏感である。正式の演奏会にはドドンパのリズムはまだまだ取り上げられるわけにはいかなかったが、東京や横浜のナイト・クラブでは「この店ドドンパやってないの。流行遅れねえ」などと言われると、みんなそうかなと思う。
やがて、何処のクラブでもドドンパを演奏するようになり、翌三十六年の一月ごろから本格的なドドンパブームが始まった。

こういう時、一番当たる戦術は、そのリズムを取り入れた流行歌を作って、流行らせることだ。さすがにビクターは気を見るのに敏だ。渡辺マリさんという新人歌手をデビューさせて「東京ドドンパ娘」というレコードを出した。これがご承知のように大ヒットした。

「ドドンパは誰が作ったリズムか」
という議論がやかましく交わされるようになった。それがまた週刊誌の話題になる。
「本家がアイ・ジョージなどとは、とんでもない大嘘だ」
ビクターが狼火をあげる。ぼくらは面白いから
「冗談じゃない。ドドンパの家元はこっちだ」と反駁する。騒然たるものだった。

だが、ここではっきりしておきたいのは、別にドドンパなどは、新しい薬を発見したのとは違うのだから、どっちでもいいことだけれど、真実はいまぼくが書いたとおりだということだ。
ドドンパは、オフ・ビート・チャチャチャの音型である。
そしてそれはフィリッピンのバンドが日本に持ち込んだものだ。
しかし、三拍目を三連音符にしたのは、誰でもないアイ・ジョージである。
ここのところと、ドドンパと命名したセンスだけは買ってほしい。

それと、もうひとつ。さっきぼくは、新しいリズムを流行らせるには、流行歌が一番効果的と書いた。しかし、ぼくたちはそんなことはわかり切っていたけどやらなかった。
そこを買ってほしい。

なぜなら、ぼくが「東京・ドドンパ野郎」というようなレコードを出したら、もしかしたら何万枚かのヒットになったのかもしれない。
しかし、それは間違っていることなのだ。
歌手に、ある風俗的なもののレッテルを貼ることは、一時期爆発的に人気が出るかもしれないけれど、そのレッテルが逆に一生とりのぞけなくなる。
ぼくたちは、遊びの精神と、商売になるということからドドンパを作って流行らせたけど、アイ・ジョージが、ドドンパと心中するのは、およそむなしいし馬鹿馬鹿しいことだ。だからしなかったのだ、
こう書くといかにも後からうまいことを言っていると思われるかもしれないが、実際そうだ。
「ジョージ。ドドンパは話題やで。君は話題を利用すればいいんだ。話題にふりまわされてはいかん」
古川さんは、何度もぼくにそう注意した。


ということでドドンパ=都都逸+ルンバ説は一蹴

ドドンパ=フィリピン起源
三拍目を三連音符に変更=アイ・ジョージ
命名=アイ・ジョージ


なる真実が40余年の時を得て、あきらかになりました。

それにしてもアイジョージ&その仲間たち、凄すぎる…。
人間、ノッてる時は本当に素晴らしいことを示す話です。

自身が今や『硝子のジョニー』

アイ・ジョージは今何処へ…???
ご存知の方、ご一報下さいm(_ _)m

ドドンパ誕生秘話(前編)

2006-11-15 14:16:55 | 戦後・歌謡曲

昭和歌謡曲が生み出した音楽のジャンルに「ドドンパ」というものがあります。
渡辺マリ「東京ドドンパ娘」が代表格。
ザ・ドドンパ・ソング

他には北原謙二「若いふたり」もドドンパです。
松尾和子&和田弘とマヒナスターズ「お座敷小唄」もアレンジはドドンパ。
三橋美智也「星屑の町」もドドンパ…。
変り種では美空ひばり「ひばりのドドンパ」なんてモノまであります。
神戸一郎もドドンパアレンジで「東京ラプソディ」を吹き込んでいます。
数年前には、氷川きよし「きよしのドドンパ」が登場してました。

この、今も一部に絶大なる支持があるドドンパですが、どうやって出来たのかは諸説あって今も不明です。

今回、アイ・ジョージ「ひとりだけの歌手」(1963年/音楽之友社)に興味深い記述がありましたので、ご紹介させて頂きます。

ドドンパについて書きたい。ドドンパは、さっき書いたような、ぼくのレコーディングの中から生まれたリズムである。ぼくたちはレコーディングのスタジオで、いつもメンバーが集まるまでの時間や、休憩時間に、ドラム、コンガ、ボンゴ、ティンバル、コーバル、ギロ、タンバリンなど、ありとあらゆる打楽器で、即興的にリズムを演奏して楽しむのだ。即興楽器だから、それぞれ勝手なリズムをでっちあげて、
「アイ・ジョージ式リズムだ!」
「変型マンボやで」
「大阪流アフロ・キューバン・リズムや」
と、命名して自慢する。

ある日、ふと誰かが、こんなことを言い出した。
「フィリッピンのペペ・モルト楽団が、変わったリズムをやっとったで」
「どんなんや、やってみいな」
そこで紹介されたのが、チャチャチャを変型したオフ・ビート・チャチャチャである。
二拍目に馬鹿に強いアクセントがあり、奇妙な面白さがあった。

「アローの"ちゃんねえ"(あるホステスのニックネーム)が東京でおぼえて来たダンスもあるそうや」
そう言って、もう誰でもご存知の、あの「ドドンパ」のダンスが踊られた。
「なんや、けったいなダンスやな、びっこの踊りやないか」
そんなことを、みんなでわいわい言い合って騒いでいたが、そのうちにぼくが、突然あることを思いついた。

「三拍目を三連音符にしたらどうだろ。よけい変わって面白いかもしれないよ」
三連音符くらいの用語はぼくだって知っている。やってみた。
ンパ、ドドド、タタ、ンパ……これで一、二、三、四、一、二というくり返しになる。
そこへ古川さんがやって来た。

「古川さん、新しいリズム作りましたよ。どうです、ちょっと聞いて下さいな」
ンパ、ドドド、タタ、ンパ……ぼくたちは面白がって、そのオフ・ビート・チャチャチャを何回もくり返した。
「何かメロディーを乗っけてみんかいな」
よっしゃと、やったろうと、即座にありあわせの楽譜を持って来て「ベッサメ・ムーチョ」を演奏してみた。
「いけるやないか」
「もう一曲、何かやろうか」
今度は、「キエン・セラ」をやってみた。意外に面白い。
「オフ・ビート・チャチャチャでは、名前がむずかしすぎるわな、新しい名前をつけようやないか」
みんな考え込んだ。
「ドドンパ!」
「それや、それがええわ。ドドンパ!いかしとるで。秋田のドンパン節みたいなもんや。純国産リズム、ドドンパ。よっしゃ今年の夏にアローで大デモンストレーションやって大いに流行らしてやろうやないか……」
ドドンパは、こうして、まったく即興的に突如として生まれた。



※アロー=「クラブ・アロー」大阪のナイトクラブ。アイジョージはここの専属だった。
※古川=古川益雄。「クラブ・アロー」支配人で、アイジョージのマネージメント担当。


続きは明日掲載。


お千代節 対 服部メロディー

2006-11-08 08:32:36 | 戦後・歌謡曲

今、70年代の歌謡曲が密かに人気を集めているとか。
こういう「懐メロ」が人気を博すようになったのは、いつからなのでしょう。

私が知る限りでは昭和32年の映画「雨情」で、森繁久彌が歌った「船頭小唄」が最初であるように思います。
その後モリシゲは「ゴンドラの唄」もリバイバルヒットさせています。
この流れも手伝い、34年に村田英雄が楠木繁夫のカバー「人生劇場」を発売します。

昭和36年、ロカビリーで人気を博していた「3人ひろし」の一人・井上ひろしが「雨に咲く花」、これまたロカビリーで人気だった佐川満男が「無情の夢」を、それぞれロッカバラードにアレンジさせ、ヒット。
ですが、そのリバイバルヒットの代表格は、何と言ってもフランク永井「君恋し」。
その年のレコード大賞にまで輝き、リバイバルであることは今では忘れられています。

昭和38年、アイ・ジョージが「戦友」を、反戦歌の意味合いで歌い始め、このあたりから軍歌が再びリバイバルされ始めます。

昭和40年、東海林太郎の、(今で言うセルフカバーの)アルバムが当時の新記録を作る売り上げを出したあたりから、更に戦前~戦後の唄が再び人気を博すようになり、「懐メロブーム」が沸き起こってきます。
このあたりから、藤山一郎の助言もあり、声が出なくなったため、歌うのを止めていた高峰三枝子が再び歌い始めるようになります。
さらに明治百年もあり、そのブームは明治・大正の唄にまで及びます。

昭和43年、「懐かしの歌声」放送開始。これにより、「当時の」歌い手がさらにクローズアップされます。淡谷のり子や藤山一郎あたりのまだ前線で踏ん張っていたものから、すっかり忘れ去られたモノまで、ここぞばかりにみんな復活します。

レコード会社も、懐メロ歌手によるLP、人気歌手による懐メロLP、いろいろ出し、またそれがよく売れていました。古賀メロディーなどは特によく吹き込まれていたようです。

そのブーム真っ只中の昭和46年に一枚のアルバムが出ます。それが今回当ブログで取り上げます、「島倉千代子 服部メロディを歌う」です。
意外にもお千代さんは、このアルバムまで服部メロディーとはわずかに1曲しか縁がありません。これが縁となり、「月蒼く恋は命」(47年)、「あじさい旅情」(48年)と曲提供に至ります。
それにしても昭和歌謡史に残る大物作曲家&歌手がここまでまったく無縁というのは実に面白いです。
まあ、これはお千代さんに限りませんが。
さて作曲家である服部先生は、歌い手のお千代さんをどう思っていたか。
このLPに言葉を寄せています。


大絶賛です。
(まあ、この手のアルバムへ寄せる言葉に批判なんざある訳ありませんが・・・)
やはり気にはなっていたようです。
作曲家は自分のヒット曲を若手の歌手に歌うことを喜ぶ場合が多いです。
オリジナル歌手の歌い方が嫌、という場合も少なからずあるようです。
古賀政男は、森進一が歌う「人生の並木路」で号泣したそうです。
(このレコーディングでは森本人も自身の経験が重なり、号泣したとか)

では、服部先生絶賛のこのLP、私なりの感想を。

お千代さん、服部先生の楽曲と物凄く相性が良いなァ…と。
ホント、もっと早く一緒に仕事をしていたらお千代さんは演歌カテゴリに入れられずにすんだのかも知れなかったのに…と正直残念。

「セコハン娘」など山下毅雄「プレイガール」シリーズのようなスキャットアレンジになっていたり、「雨のブルース」「夜のプラットホーム」はなかにし礼による詩がアンコに挟まり、独自の世界を醸し出しています。
懐メロを今に生かす、というのがコンセプトだったのでは?

服部2代目こと、服部"記念樹"克久編曲による「蘇州夜曲」は語り継がれるべき名カバーで、見事にお千代さんの「蘇州夜曲」と化し、李香蘭(山口淑子)、渡辺はま子(&霧島昇)ともまた違う、完全なるポップスとなっています。

このアルバムは懐メロであって懐メロにあらず、見事なまでに昭和40年代の歌謡曲のアルバムなのである。四半世紀前の楽曲が違和感無く、こういう形に出来るあたり、服部良一がいかに先端を行く素晴らしい作曲家だったかということを痛感。
日本のポップスの父の称号は伊達ではないのです。

ちなみにカマトトムード全開でもあるので、その辺に注意が必要。
淡谷のり子はおそらく「アダス、このシトの歌い方嫌い」と言いそう…。

懐メロを見事にアレンジした、数年前流行だった懐メロカバーブームにも通じるこのアルバム、何とか再販を希望します。
そして、ポップスの歌い手である島倉千代子にもスポットが当たることを祈ります。
昭和40年代の歌謡曲ファンは聴いて損は無いでしょうね。

※曲目
夜のプラットホーム(オリジナル:淡谷のり子、二葉あき子)
蘇州夜曲(オリジナル:渡辺はま子&霧島昇)
風は海から(オリジナル:渡辺はま子)
アデュー上海(オリジナル:渡辺はま子)
銀座カンカン娘(オリジナル:高峰秀子、笠置シズ子)
雨の日ぐれ(オリジナル:二葉あき子)
小雨の丘(オリジナル:小夜福子)
別れのブルース(オリジナル:淡谷のり子)
セコハン娘(オリジナル:笠置シズ子)
胸の振り子(オリジナル:霧島昇)
雨のブルース(オリジナル:淡谷のり子)
花の素顔(オリジナル:藤山一郎・安藤まり子)
湖畔の宿(オリジナル:高峰三枝子)
小鳥売りの歌(オリジナル:松平晃)


ウィリー沖山「スイスの娘」

2006-10-22 11:25:40 | 戦後・歌謡曲

昨日、横浜県民ホールへ「第6回C・M・F音楽祭」へ行って来ました。
雪村いづみ・弘田三枝子・山下敬二郎・西口久美子@元青い三角定規・ウィリー沖山…それはそれは濃いメンバーで、日本の中高年は元気イッパイであることを思い知らされました。出演者も客も元気元気…トイレは近いけど(笑)
あの調子ではあと数十年はイケそう…私のほうが先にくたばりそうです(汗)

その会場で、ウィリー沖山さんの自主製作のベスト盤が売ってました。
ウィリーさんを見たのは2度目なんですが、最初に見たとき、「これはCD欲しいな…」と思っていたので、喜び勇んで購入。
ショーが終わったらみんな買いに行くのかな…と思いましたが、もう持っているのか、CDをいじれる世代じゃないのか(大汗)、皆さんサッサとトイレットか外へと消えていきました…。おかげでスムーズに買えましたけど。


ウィリー沖山「スイスの娘」
やっぱりというか、残念ながらというか、インディーズ盤です。
一応Amazonでも買えますよ。

しかし、インディーズとあなどるなかれ!
ビクターがチャンと協力しているので、当時のオリジナル音源
しかも、マスタリングが別宮環氏という、その筋では高名な方。
よって、あの当時の音が良い音で聞くことができるのであります(^▽^)

Mr.ヨーデルの異名を持つウィリー沖山。
実はヨーデル以外でも何でもござれ、なお方。
低音の響きが実にイイ…。日比谷のジャズフェスティバルで歌ってた「慕情」にはシビレました。あの手のポピュラー系をまとめたCDもお願いしたいですね。
惜しまれるのは今手に入るCDがコレ1枚きり。
やっぱり巧過ぎる人は売れないらしい…。

さて、CDの収録曲は…。
キャトルコール
スイスの娘
東京のヨーデル唄い
バック・イン・ザ・サドル・アゲイン
ダーリン・ダーリン
ヨーデル唄いと洗濯女
ホワイ・ベビイ・ホワイ
アルプスの若者たち
アルペン・ミルクマン(山の人気者)
恋の投縄
悲しいヨーデル
アイ・ミス・マイ・スイス
スケーターズ・ワルツ・ヨーデル
チャイム・ベル
峠の我が家

の全15曲。これで2500円。(ココに解説あり)

これ、予想以上に聴いていて心地良いです。
良い買い物をしました。
個人的には「スイスの娘」「東京のヨーデル唄い」「峠の我が家」がおススメ。
特に「峠の我が家」の低音がたまりませぬ。巧すぎるぜウィリー。

公式サイトを見ると、昭和8年生まれだそうです、ウィリーさん。
何の何の、声は裏声から低音まで衰えるどころか円熟味の増した素晴らしいモノになっております。見に行ってみる価値はあると思います。

…とまるで、ウィリー沖山の太鼓持ち状態になって、今回はオシマイm(_ _)m


三人娘・雪村いづみは「運の人」ではない・前編

2005-08-20 18:17:13 | 戦後・歌謡曲
初代三人娘と言えば、美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみです。
雪村本人の弁だと「ひばりちゃんは天才児、チエミちゃんは努力児、私は幸運児」
いえいえ、3人とも天才児で、努力児、そして幸運児です。

チョッと考えれば判ります。
運がなければ国民的スタァにはなれません。
歌は3者とも絶品であります。

努力という点では
ひばりはチエミに触発され、洋楽を歌い始め、それをうまく
消化して、歌の幅を広げた、これは間違いない事実。
(後年「スターダスト」が絶賛されますが、チエミの影響が無かったらこの歌は
歌うことは無かったでしょう)

さらにチエミの「さのさ」にも触発。
柳家三亀松の後ろで三味線を弾いていた父という、そっちの筋を知らず知らずに体得しているチエミ。
しかし、ひばりは魚屋の娘。そっちの筋は素人。
再び特訓し、消化。
ドドンパのリズムと日本の粋が混在する名曲「車屋さん」がその成果。
江利チエミ無しでは美空ひばりは完成していなかったでしょう。

チエミは、喜劇女優だった母親譲りのセンスをみがき、コメディに挑戦。
その集大成が「サザエさん」でもあります。
本来隠し芸だった民謡(さのさは俗謡)を見事に自分のものにしてしまい、十八番に
してしまうこともやってのけます。
何とコマ劇場での1ヶ月公演の先駆者でもあります。
(三波春夫やひばりでは無いのですよ)

こう見ると、ひばりがいかにチエミに影響を受けていたかということが見えてきませんでしょうか。
見事に消化してのけたひばりも凄いですが、影響を与えたチエミも凄い。

まあ、こんな調子ですから(実生活ではさておき)、「ライバル」とあちこちで
騒ぎ立てます。
「○○劇場でひばり○人入場、○○劇場のチエミ○人は入場・勝利」

そんな中、うまい具合に中和剤的存在として、いづみが登場。
それゆえ、「運の人」と呼ばれますが、芸のバケモノのような二人に運だけでは
叶うわけがありません。やはりスゴイ物を持ったバケモノだったのです。
そして3人は時代を代表する歌い手となっていくわけです。
(以下後編へ)

そして歌は生まれた~別れの一本杉

2005-07-20 14:52:27 | 戦後・歌謡曲
戦後歌謡史に残る大偉人、キングレコードの大看板、春日八郎。
彼が一躍スターダムになったのは昭和29年8月発売の「お富さん」である。
勿論、デビュー曲「赤いランプの終列車」「街の燈台」「雨降る街角」などは、既にヒットしていた。
が、売れ方が「お富さん」は違った。
それまでの最高のヒットが70万枚だったのが、いきなり65万枚。
時はジャズ全盛期、キングでも江利チエミが大人気。
そんな時代にぴったりの明るく、うきうきとした曲は見事にあった。
「歌は時代を映す鏡」、まさにその通りであろう。
そのヒットをさげて、国際劇場で初ワンマンショーを開いた。大盛況。

しかし、他の曲が売れないのである。
「瓢箪ブギ」「裏町酒場」「妻恋峠」「男の舞台」「ギター流し」…小・中ヒットはあった。
が、所詮「お富さん」を超えるヒットではない。
どこへ行っても「お富さん」、後の歌がすっかり食われてしまう。
やがて、「『お富さん』が消える時、春日八郎が消える」と言う声も聞こえてきた。

同じキングレコードでも
戦前からの大ベテラン・林伊佐緒は「真室川ブギ」などを当て、まだまだ健在。
昭和18年デビューの先輩・津村謙は「あなたと共に」のデュエットがヒット。
年下の先輩・江利チエミも「ウスクダラ」「パパはマンボがお好き」…快進撃は続いていた。
大津美子、ペギー葉山、若原一郎(先輩だが)といった新人も出てきた。
何より、最高の好敵手・三橋美智也が「おんな船頭唄」のヒットでスターダムに。

春日は焦っていた。
新曲を吹き込んでも「売れないだろう」と思うようになっていった。
やがて口数も少なくなった。いつも暗い顔をしているようになり、ますます言われた。
「『お富さん』と共に彼はオシマイだ。」

そして、ヒグラシの声も絶え始めた季節、奇跡は生まれた。

「あのう…」と全く見知らぬ人に呼びかけられた。キングレコードの廊下でだった。
「春日八郎さん、で・す・ね」
「そうですが…」
「実はぼく、作曲しているんです。いま、3曲くらい持っているんですが、聞いていただけないでしょうか」
「……」
「ぼくはピアノが無いから、ギターを弾きます。ぜひ聴いて下さい」

この男こそ、後の大作曲家・船村徹だった。
彼も売れるため、必死だった。
春日もだ。
「もしかしたら、今の俺の悩みを吹き飛ばしてくれるかもしれない」

早速、彼の曲を聴いてみた。
「う~ん、この『別れの一本杉』というのはいい。この曲をぜひ私に歌わせてほしい」
「ええっ、本当ですか」
それはそうだろう、聴いてもらうだけでも大変なのに、まして歌わせてほしいである。
「これはいける。絶対いける。この曲でまた勝負したい」
自分に言い聞かせるように、春日はつぶやいていた。

当時は歌謡界でも世代交代の時期だった。
藤山一郎などの戦前の大スターのヒットが落ち着き始め
戦後デビューの歌手が出始め、新しい歌謡曲が出来始めていた。
その中でも「故郷歌謡」というものが売れ始めてきていたのだった。
そんな中での「別れの一本杉」だった。

春日本人が大いに乗り気だったのに加え、当時のキングは「故郷歌謡」に力をいれていた。
あっさりとレコーディングすることができた。
船村が、春日と同じような下積みをしていたことや、春日の妻と同じ学校だったことも幸いした。

時代の波に乗った「別れの一本杉」は見事にヒットした。
そして、「故郷歌謡」の代表曲となり、永遠のスタンダード歌謡へとなった。

この歌のヒットによって、「春日八郎」の名は不動のものとなった。
その後の活躍はここに書くまでも無いだろう。

「好きな歌が売れる。これほど嬉しいことはない」彼は後に語っている。