今だから…昭和さ ある男のぼやき

主に昭和の流行歌のことについてぼやくブログです。時折映画/書籍にも触れます。

市丸[この歌に-三味線ブギウギ その2]

2006-11-27 00:02:29 | 我が愛しの芸者歌手たち
前回の続き。

「新しいことをしていないと、芸にカビがはえる」
市丸さんの『三味線ブギウギ』への挑戦は、芸に対する執念とも言えるものだが、その素地は、故郷の長野県松本から上京する頃、既に芽生えていた。

浅間温泉にお酌として出ていた時、客に求められた歌が歌えなくて恥をかいた。それが悔しくて、持ち前の負けず嫌いが、芸の修行にかりたてた。
「あんまり知りません、知りませんでは悔しいものですから、勉強しようと思っていたところ、ちょうど浅草で遊んでいた義理筋の人の世話で浅草に来たんです」
大正十五年、市丸さん十九歳の時だった。

芸者置屋「一松家」のお抱え芸妓として御披露目したが、目的が芸の修行だから、清元は延千嘉丸、宮園節は千市、小唄は春日とよ丸、と、それぞれに名取に上達した。
また、その美貌と美声でたちまち売れっ妓となった。

昭和二年、ビクターが設立され、、「鶯芸者」として、『祇園小唄』の藤本二三吉さん、『島の娘』の小唄勝太郎さんがデビューして、人気を集めた。市丸さんにも白羽の矢が立ち、昭和五年、ビクターの専属となった。

若かりし頃の市丸

ぽっちゃりして甘い声の勝太郎さんは「情」、スリムなからだで、鈴虫が鳴くような澄んだ声の市丸さんは「智」と評され、「市勝時代」の幕開けとなる。二人は同じビクターに所属し、着物で張り合い、ギャラで競った。
仲も悪かった。市丸さんにいわせると、勝太郎さんには、ビクター嘱託の邦楽通として知られる安藤兵部さんが協力者としてついていたのが、面白くなかったらしい。
「なにしろ若かったですからね。何の因果でそうなったのか。いつごろだったかは忘れたけど、わたしが勝っちゃんに『あんたのおでこは広いわね』と言った事があるの。そりゃ怒ったわよ。それからずっと口きかなかった。あの人も負けん気が強かったですからね」

小唄勝太郎


年は勝太郎さんが、二つ上で、デビューも先輩だったが、負けん気同士のぶつかり合いで、ことごとに対立した。
「それにこんなことがありましたよ。勝っちゃんがビクターを辞めてしばらくしたころ、また戻りたいという話があって、わたしにどうだと聞かれた。その時、こう言ったの。『勝っちゃんが戻るなら私が辞める。もうこの歳になって喧嘩は嫌だから』って。そしたら戻ってこなかった」

晩年、勝太郎さんが入院してからは、よく見舞いに行った。
「勝っちゃんが亡くなってしみじみ思うんだけど、あの人が居なかったら、今の私があったかどうか。いいライバルだったし、本当に感謝しています。もし私の方が先だったら、勝っちゃんもきっと、同じことを言うんじゃないでしょうかね」と言う。

勝太郎さんとは、入院中に仲直りしている。





小唄勝太郎=昭和5年レコード初吹き込み、6年ビクター入社。
市丸=昭和6年ビクター入社。
よって、二人はほぼ同期のようなもの。


勝太郎のビクター復帰騒動は、昭和20年代後半~昭和30年代前半と思われる。
結局勝太郎は東芝へ移籍した。
ビクター復帰は、懐メロブームになった昭和40年代。


菅井きんではありません
藤本二三吉(1897~1976)

浅草生まれの江戸っ子。霞町の芸者。
大正十三年よりレコード吹き込み。昭和3年ビクター入社。
市勝時代の到来前のビクターの看板。芸者歌手の草分け。
市勝ばかり優遇するビクターに嫌気が差し、後にコロムビアへ移籍。
コロムビア移籍後は、邦楽を中心に吹き込み。
昭和43年紫綬褒章、昭和50年勲四等宝冠章受賞。
藤本二三代は娘(実娘では無い)。
代表作に『唐人お吉の唄』『浪花小唄』『祇園小唄』など。
小唄勝太郎の代表作である『東京音頭』は、もとは藤本二三吉の歌った『丸の内音頭』である。


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