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芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

指導者を失った日本

2012年09月21日 | Weblog
関東軍による柳条湖事件に続く、謀略事件は、昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件である。この謀略事件を引き起こした当時の幹部は
支那駐屯軍司令部(天津):司令官 田代皖一郎中将
支那駐屯歩兵旅団(北平):旅団長 河辺正三少将
支那駐屯歩兵第1連隊(北平):連隊長牟田口廉也大佐 
であった。
この幹部のうち2名の、河辺正三がビルマ方面軍司令官、牟田口廉也がインパール作戦の司令官になった。無責任な謀略が露見しているのに、インパール作戦の幹部になり、数万の日本兵と、数千のインド国民兵を飢えとマラーリヤ、赤痢で死んで行くのを見殺しにして、自らは、退却命令も出さず、先に安全地帯に撤退している。多くの敗残兵は、先に死んだ兵の死肉を食べながらも逃げ延び切れず、日本兵の死体が街道を埋め尽くしたため、英国軍は、伝染病を恐れて、死体に油をかけて燃やしたと記録されている。その白骨死体を標識にして逃げ延びたものもいるようだ。遠藤周作『深い河』の人物の一人がそれだ。そのため、日本にとってはありがたくない呼称の「白骨街道と」呼ばれている。無責任な指導者を頂くと不幸を呼ぶ典型的な例である。8万強の兵士のうち傷病にかかりながらも、まがりなりに潰走できたのは、1万と言うが、無責任は、この上の参謀本部も同じで、責任を取らないために、問い質すことも調査もしなかったから、実際の数字がまるで分からない。未だに成仏できない数万の魂が、インパールからラングーンの白骨街道を浮遊していることになる。