昨夜、あの名作「ゴースト・ニューヨークの幻」をやっていた。
1990年の作品だが、私は名場面だけを見て、単なるラブストーリーだと決め付けていたので、まあ見ることはないとは思っていたのだが、たまたま暑くて寝付けないこともあって、最後まで見てしまった。
しかし、あんな映画だとは思わなかった。
結構ドタバタだった。
ウーピー・ゴールドバーグが出ているのは知っていたが、彼女が主役と言ってもいいくらいだ。
というのは言いすぎかも知れないけど、皆あれ見て泣いたんだろうか。
まあ泣いたんだろうなあ。
私だって、感動しそうな場面くらいは見当がつく。
だけどあの有名な場面、恋人であるデミ・ムーアに自分(主人公であるサム)がそばにいることを知らせるために、1セント硬貨を少しずつ持ち上げて彼女の手の上に「お守りだ」と言って渡すところ。
確かにあそこだけ見れば感動の場面なんだろうけど、そもそも彼は単なる魂なんだぞ。
ドアを通り抜けできるやつが、なぜ1セントだけは持つことができるのか。
彼女に触れることもできず、悪人を追い返すこともできなかったはずなのに、都合のいいときだけは物を動かしたり、さわったりすることができるようになるなんて、かなり不自然だ。
悪人をなぐろうとして空振りばかりしていたのに、最後の場面では悪人を突き飛ばしていたし、大きな金属の櫓のようなものまで動かしていた。
そんな力があるのなら、最初から悪人をやっつければいいのに。
そんなのどうだっていいじゃないか、っていう人もいるかも知れないし、私だって、だからと言って全体のストーリーが台無しになるとまでは思わない。
だけど、そんな細かいことなんかどうでもいいと思って映画を作っているのかと思うと、無性に腹が立つ。
だって、辻褄が全然合わないじゃないか。
「愛があるからいいじゃん」ってか? そんなんでいいの?
私は、これも名作と言われる「シックス・センス」の時にも同じ感想をいだいた。
監督が実に細かいところに気を使っているとエラそうにPRしているが、「だけどオスメント君のお母さんは、間違いなくブルース・ウィリスと話をしていたよ」って感じたものだ。
あんまり言うと、ネタバレになってしまうからやめとくけど、監督も観客も、こういうところを安易に素通りしすぎているような気がしてならない。
もっときちんとした映画評論のできる人はいないものだろうか。
1990年の作品だが、私は名場面だけを見て、単なるラブストーリーだと決め付けていたので、まあ見ることはないとは思っていたのだが、たまたま暑くて寝付けないこともあって、最後まで見てしまった。
しかし、あんな映画だとは思わなかった。
結構ドタバタだった。
ウーピー・ゴールドバーグが出ているのは知っていたが、彼女が主役と言ってもいいくらいだ。
というのは言いすぎかも知れないけど、皆あれ見て泣いたんだろうか。
まあ泣いたんだろうなあ。
私だって、感動しそうな場面くらいは見当がつく。
だけどあの有名な場面、恋人であるデミ・ムーアに自分(主人公であるサム)がそばにいることを知らせるために、1セント硬貨を少しずつ持ち上げて彼女の手の上に「お守りだ」と言って渡すところ。
確かにあそこだけ見れば感動の場面なんだろうけど、そもそも彼は単なる魂なんだぞ。
ドアを通り抜けできるやつが、なぜ1セントだけは持つことができるのか。
彼女に触れることもできず、悪人を追い返すこともできなかったはずなのに、都合のいいときだけは物を動かしたり、さわったりすることができるようになるなんて、かなり不自然だ。
悪人をなぐろうとして空振りばかりしていたのに、最後の場面では悪人を突き飛ばしていたし、大きな金属の櫓のようなものまで動かしていた。
そんな力があるのなら、最初から悪人をやっつければいいのに。
そんなのどうだっていいじゃないか、っていう人もいるかも知れないし、私だって、だからと言って全体のストーリーが台無しになるとまでは思わない。
だけど、そんな細かいことなんかどうでもいいと思って映画を作っているのかと思うと、無性に腹が立つ。
だって、辻褄が全然合わないじゃないか。
「愛があるからいいじゃん」ってか? そんなんでいいの?
私は、これも名作と言われる「シックス・センス」の時にも同じ感想をいだいた。
監督が実に細かいところに気を使っているとエラそうにPRしているが、「だけどオスメント君のお母さんは、間違いなくブルース・ウィリスと話をしていたよ」って感じたものだ。
あんまり言うと、ネタバレになってしまうからやめとくけど、監督も観客も、こういうところを安易に素通りしすぎているような気がしてならない。
もっときちんとした映画評論のできる人はいないものだろうか。
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