そう言えば、終戦記念日でした。
遠い遠い昔の出来事ようになっていますが、慰安婦問題、靖国神社神社参拝など、戦争にまつわるあとのごたごたはまだ片付いていない。
あの時代を生きた人にはまだ戦争は終わっていない。
戦争を知らない世代からすると、テレビで赤紙が来たと言い、名誉と言われ、万歳三唱で送りだされるドラマのシーンでしか知らない。
でも誰も喜んでいない。死ぬかもしれない所に本人の希望なしに、赤紙の召集令状が来たというだけでいかねばならないのだ。
ただ無事を、家族は願うしかなかった。
基本的には20歳になると徴兵検査を受けさせられる。そして40歳までならいつでも来てもおかしくなかった。
ここにはどうしてその人にくるのか、ずっと疑問に思っていた謎があった。
やっぱり基準ってあるんですね。
ある村の8年に渡る出征の記録を放送してました。
村で病院にかかるとどういう病気をその年に患ったなど、細かい記録が取られ、甲、乙、丙(こう、おつ、へい、妙に懐かしい日本の呼び方だわ)に分けられていた。
健康で頑丈であれば、来てしまうわけだ。
そして、この時代特技となる物がある人も優先的に来た。
まだ運転免許などほとんどの人が持っていなかったので、持っていると、優先される。
ひずめ、それ以外の特技があれば、どの程度の技能があるのか、そっと調査に行って調べられた。そして優秀だと優先して送られた。
なんの基準なのかその当時は判らなかったが常にそうして、調べて回っていた人がいたらしい。
そして戦局に合わせ、出征していくのが外へ出るとまずい時期は万歳三唱もなく普段着で出陣していたそうだ。
それは実に味気ないものだったらしい。
だって、もう帰ってこれないかもしれないんだもの。
ちょっと仕事行ってきますという格好で、誰にも送られず出たら、そりゃ、あとあと悲しいですね。
そして戦局が危なくなっていくとこの徴兵の年齢も19歳~45歳に引き上げられ、学徒出陣へと移っていく。
最後は15歳以上であれば志願兵として、親の承認のハンコがあれば、出陣できたそうだ。
男としては名誉なことだ。行かないより行った方がいい。
村の村長もうちは何人志願兵が出たと自慢になっていた。
1歩間違えば死んでしまう所へ送りだすのに…。
けれど、同時にこの頃になると、経験もない、特技もない者をただ送ってどうするという話も出てくる。ただの人の寄せ集めになってしまう。そして持たせる銃もない。
けれどそれぞれの村に兵士係がいて、何人送りだせと言われれば、その人数を送りださなければならならなかった。
やがて赤紙を持ってきた配達人も戦死の知らせを持ってくることが多くなることになる。そろそろ戦争の終わりの頃だ。
本土空襲がはげしくなるとついに40歳の兵士が出征していく。
それだけ戦局が厳しいということだ。
そして、3,4度と赤紙をもらう人もいる。
無事で帰っても戦争が終わらない限り安心できないのだ。何度でもやってくる。
畑仕事をしていたらそこへ赤紙が来るんだから来る方は溜まったもんじゃないだろう。
そしてどんどん見送る人間もいなくなり、寂しく出征していくのが当たり前になった。
ドラマで、赤紙が来ると名誉だと大騒ぎし、女親は泣きという図式があったが、裏にはこうした綿密な調査があったわけだ。
そして最後は17歳になれば、徴兵検査を受けず、いつでも誰でも出征のときを迎えるように陸軍は規則を変えた。
それだけ、もう負けがこんでいたが、そうじゃないそうじゃないと新聞が煽っていたわけだ。
帰られても亡くした戦友のことや戦地のことで長らく心を病む人もいる。
帰れなかった人もいる。遺骨さえ、未だに戻らない人もいる。
本人にとっても親にとっても辛いことだろう。
あの故郷に帰りたいと思っても帰れない。
お母さんと呼んで敵に突っ込んでいった若者たち…。
2度と繰り返すべきじゃない。
1部では、戦後も赤紙が来ていた。
赤紙というと、行かねばならないと思ってもう戦争は終わったのにと泣く泣く出陣して言ったらしいが、このときは着ても、もう嫌なら嫌と言えたらしい。都会はそういうニュースがまだ知られていたが、都会を離れると知られていなくて無理やり行ったりした。
このときの赤紙は、戦地から引き揚げてくる人を迎えに行く仕事が主だったらしい。
生命の危険は戦時中よりずっと低かったわけだ。
そういうことがあって、今の世の中がある。
そう1年に1度考えることはやはり必要なのかもしれませんね。
特に今の時代であれば…。心の中にストレスという戦争を抱えていればこそ…。
遠い遠い昔の出来事ようになっていますが、慰安婦問題、靖国神社神社参拝など、戦争にまつわるあとのごたごたはまだ片付いていない。
あの時代を生きた人にはまだ戦争は終わっていない。
戦争を知らない世代からすると、テレビで赤紙が来たと言い、名誉と言われ、万歳三唱で送りだされるドラマのシーンでしか知らない。
でも誰も喜んでいない。死ぬかもしれない所に本人の希望なしに、赤紙の召集令状が来たというだけでいかねばならないのだ。
ただ無事を、家族は願うしかなかった。
基本的には20歳になると徴兵検査を受けさせられる。そして40歳までならいつでも来てもおかしくなかった。
ここにはどうしてその人にくるのか、ずっと疑問に思っていた謎があった。
やっぱり基準ってあるんですね。
ある村の8年に渡る出征の記録を放送してました。
村で病院にかかるとどういう病気をその年に患ったなど、細かい記録が取られ、甲、乙、丙(こう、おつ、へい、妙に懐かしい日本の呼び方だわ)に分けられていた。
健康で頑丈であれば、来てしまうわけだ。
そして、この時代特技となる物がある人も優先的に来た。
まだ運転免許などほとんどの人が持っていなかったので、持っていると、優先される。
ひずめ、それ以外の特技があれば、どの程度の技能があるのか、そっと調査に行って調べられた。そして優秀だと優先して送られた。
なんの基準なのかその当時は判らなかったが常にそうして、調べて回っていた人がいたらしい。
そして戦局に合わせ、出征していくのが外へ出るとまずい時期は万歳三唱もなく普段着で出陣していたそうだ。
それは実に味気ないものだったらしい。
だって、もう帰ってこれないかもしれないんだもの。
ちょっと仕事行ってきますという格好で、誰にも送られず出たら、そりゃ、あとあと悲しいですね。
そして戦局が危なくなっていくとこの徴兵の年齢も19歳~45歳に引き上げられ、学徒出陣へと移っていく。
最後は15歳以上であれば志願兵として、親の承認のハンコがあれば、出陣できたそうだ。
男としては名誉なことだ。行かないより行った方がいい。
村の村長もうちは何人志願兵が出たと自慢になっていた。
1歩間違えば死んでしまう所へ送りだすのに…。
けれど、同時にこの頃になると、経験もない、特技もない者をただ送ってどうするという話も出てくる。ただの人の寄せ集めになってしまう。そして持たせる銃もない。
けれどそれぞれの村に兵士係がいて、何人送りだせと言われれば、その人数を送りださなければならならなかった。
やがて赤紙を持ってきた配達人も戦死の知らせを持ってくることが多くなることになる。そろそろ戦争の終わりの頃だ。
本土空襲がはげしくなるとついに40歳の兵士が出征していく。
それだけ戦局が厳しいということだ。
そして、3,4度と赤紙をもらう人もいる。
無事で帰っても戦争が終わらない限り安心できないのだ。何度でもやってくる。
畑仕事をしていたらそこへ赤紙が来るんだから来る方は溜まったもんじゃないだろう。
そしてどんどん見送る人間もいなくなり、寂しく出征していくのが当たり前になった。
ドラマで、赤紙が来ると名誉だと大騒ぎし、女親は泣きという図式があったが、裏にはこうした綿密な調査があったわけだ。
そして最後は17歳になれば、徴兵検査を受けず、いつでも誰でも出征のときを迎えるように陸軍は規則を変えた。
それだけ、もう負けがこんでいたが、そうじゃないそうじゃないと新聞が煽っていたわけだ。
帰られても亡くした戦友のことや戦地のことで長らく心を病む人もいる。
帰れなかった人もいる。遺骨さえ、未だに戻らない人もいる。
本人にとっても親にとっても辛いことだろう。
あの故郷に帰りたいと思っても帰れない。
お母さんと呼んで敵に突っ込んでいった若者たち…。
2度と繰り返すべきじゃない。
1部では、戦後も赤紙が来ていた。
赤紙というと、行かねばならないと思ってもう戦争は終わったのにと泣く泣く出陣して言ったらしいが、このときは着ても、もう嫌なら嫌と言えたらしい。都会はそういうニュースがまだ知られていたが、都会を離れると知られていなくて無理やり行ったりした。
このときの赤紙は、戦地から引き揚げてくる人を迎えに行く仕事が主だったらしい。
生命の危険は戦時中よりずっと低かったわけだ。
そういうことがあって、今の世の中がある。
そう1年に1度考えることはやはり必要なのかもしれませんね。
特に今の時代であれば…。心の中にストレスという戦争を抱えていればこそ…。