涼風野外文学堂

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【メッセージ】

2007年12月06日 | 日記・身辺雑記
 ひどく生きにくい時代だ。資本は労働に牙を剥き、老人は若者に牙を剥き、弱い者たちは夕暮れにさらに弱い者へと牙を剥く。実に単純な行動原理が連なって実に複雑にこの世界のメカニズムを蝕み、緩やかなアポトーシスへと向かわせている。
 誰かが公的年金制度は崩壊したと叫び、別の誰かが石油はあと68年で枯渇すると訴え、また別の誰かがヤンバルクイナはもうすぐ絶滅すると悲嘆にくれる。テレビのニュースは今日も凶悪な殺人事件があったことを伝え、僕らはそれらの声を鳥の声が絶えた春のBGMとして聞き流すことにすっかり慣れ、声の主の怒りに同調し、悲しみを共有し、あるいはそうしているふりをしながら、チョコレート掛けのバナナチップに舌鼓を打つ。
 自らの足を食する蛸のようであるという点において、僕らは皆分け隔てなく、愚かだ。かつてこれほどまでに、自分たちの愚かさを思い知らされる時代があったろうか?僕らはドミノ倒しを眺める無力で無責任な傍観者の視点でもって、この世界の緩やかな崩壊が現在進行形の確実な出来事であることを知り、また、自分は並べられたドミノの牌ではないものと根拠もなく思い込んでいる。
 パンドラの箱は既に空いているのだと認めざるを得まい。あらゆる災いは既にこの世に振り撒かれた後なのだ。しかしその箱の底に、果たして、最後の希望は残っているのか?

 こんな時代に君を送り出すに当たって、もちろん僕は、多大な責任を負っているのだ。その責任から生ずる義務を忠実に果たそうとするのなら、僕はこの世界の、僕の手が届く限りのほんの小さな一部分について、ほんの少し、本当にほんの少しでも、今よりよいものにして、君にバトンを手渡す必要があるのだ。
 しかし僕は目の前でドミノ倒しが既に進行していることを知り、その中で、僕自身も一枚のドミノの牌であると認識しているとしても、僕一人が流れに抗おうとしたところで、多くのドミノが押し流されるように倒されていく中で、僕もどちらかの方向に早晩なぎ倒されてしまうのだ、という諦念を抱かざるを得ない。
 だから僕は、ドミノ倒しの巨大なうねりに抵抗するたった一つの方法として、君に、無償の愛があることを伝えたいのだ。それこそがパンドラの箱の一番の奥底から最後に飛び出した、小さく儚い希望の欠片なのだ。僕が父であり、君が子であるという、とても素朴な事実あるいは物語が、どれほど「僕」が「僕」の内側で完結しようとする矮小な可能性を打ち砕くのか、僕らのプリミティブな孤独(≒死)の恐怖を振り払う灯火となるのかを、示そう。僕が君にできることといえば、結局のところ、それだけなのだ。

 ――本日、長女誕生。母子ともに健康。


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