世間では少子化問題に係る厚生労働大臣の舌禍事件が相変わらず賑やかな模様ですが世間と隔絶された修羅場の真っ只中にいる俺様はそんなこと知ったこっちゃないのですが何か?(軽くキレ気味)
しかしこんな時世だからこそ、感情に任せてマスコミの煽動に乗っかってキレてるばっかりじゃなく、少し冷静になって、物事を反対側から観察してみることも大事なのではないかと思います。果たして世間様の言うように、厚労相ただ一人の資質の問題なのか。問題の根は実はもっと深いところにあるのではないか。
例の「産む機械」発言にせよ、直近の「健全」発言にせよ、口にしている本人に悪気はないのだし(だからなお悪い、という批判ももっともですが、まあそれは置いておいて)、世間一般のオッサンとして非常にありふれた意見(それでは務まらないのが大臣だ、という批判も(以下略))であるとも思うのです。
実際のところ「少子化対策」というタームそれ自体が、根本的な問題として、今般の大臣発言に象徴されるような矛盾を内包しているのではないか、と思います。もっと言ってしまえば、問題を「少子化対策」という感覚で捉えてしまったその時点で、必然的に、今般の「産む機械」的発想に早晩行き着かざるをえないのではないでしょうか。
そもそも「少子化」を問題と捉えてこれに「対策」を行おうという発想は、現在の出生率が理想より低いということ、これを上昇させることが必要だということが暗黙の前提になっています。現在の出生率と比較対象になるものは、当然過去の出生率しかありません。過去の出生率と比較して現在の出生率は低下傾向が止まらず、このまま進めば社会を構成する年齢構造がどんどん高齢にシフトし、少ない生産人口で、多数の生産力のない高齢者を支えなければならなくなる、という論理です。
しかしこれは、そもそも、根本的に逆なのではないでしょうか。「少子化が進む」→「高齢化社会になる」→「少ない生産人口で多数の高齢者を支える」→「破綻する」のではなく、「人口増を前提に社会制度設計をした」→「目論見が外れた」→「破綻する」→「少子化対策が必要」というのが実情なのではないでしょうか。端的に言えば、社会制度設計が根本的に間違っていたのに、そのツケを少子化対策に回しているのです。
さらに突っ込んで言ってしまえば、そもそも、過去の高い出生率というものは、女性の人権を犠牲にした上に成り立ってきた部分を否定できないと思います。子を産み、育てるというのは、女性の身体に負担をかけることをどうしても避けて通れないわけで、これは例えば、一般の事務職員として働き、成果を積み重ね、出世しようという価値を追及しようとしたときには、キャリアを途中で一旦休止せざるをえない点で、どうしても妨げになります。女性の社会進出に必要な契機が充分に与えられていなかったことが、結果的に女性に、選択の余地なく「子を産み育て母となる」ことを強いており、それが一定の出生率の底上げを担っていた、という見方をしても、あながち大外れではないように思えます。
程度の差こそあれ、少子化の流れというのは、多くの先進国に共通のものです。それはある意味、社会の熟成とともに避けては通れない道なのではないでしょうか。ほんとうに出生率の数字だけを上げようと思うならある意味簡単で、女性の就職差別を露骨に行い、まともな性教育を実施せず、ついでに避妊具の利用も規制すればよろしい。しかしそれが先進国家のあるべき姿でしょうか?
そして、過去の社会に比べて現代が少しでも人権が尊重されるものとなっているのであるならば、少子化はもはや(その進展のスピードを緩めることは不可能でないにせよ)不可避のものとなっており、年齢別人口構成がさほど変化しないことを前提にしていた各種の社会保障制度(主に年金制度)は、当初の制度設計そのものが間違っていたこと、前提条件を見誤っていたことを認めざるをえないのです。今般、早急に進められるべきは、少子高齢化を前提とした上でのセーフティーネットの張り直しなのであり、前提条件そのものに変更を加えることではないのです。
さて、それでも「少子化対策」という厄介な問題を突きつけられ、それについて何ごとかを語ることを求められた厚労相が、過日のような発言をしたことを、果たして厚労相個人の資質の問題として切って捨てるべきなのでしょうか?それとも、今回の騒動をいい契機と捉えて、少子化問題が抱えるねじれの根の深さに思いをいたすべきなのでしょうか?と意地悪な問いを投げかけて今日は終わることにします。いえ、決して現在国民年金法がらみの仕事で四苦八苦していることの腹いせでは(ry
※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。
しかしこんな時世だからこそ、感情に任せてマスコミの煽動に乗っかってキレてるばっかりじゃなく、少し冷静になって、物事を反対側から観察してみることも大事なのではないかと思います。果たして世間様の言うように、厚労相ただ一人の資質の問題なのか。問題の根は実はもっと深いところにあるのではないか。
例の「産む機械」発言にせよ、直近の「健全」発言にせよ、口にしている本人に悪気はないのだし(だからなお悪い、という批判ももっともですが、まあそれは置いておいて)、世間一般のオッサンとして非常にありふれた意見(それでは務まらないのが大臣だ、という批判も(以下略))であるとも思うのです。
実際のところ「少子化対策」というタームそれ自体が、根本的な問題として、今般の大臣発言に象徴されるような矛盾を内包しているのではないか、と思います。もっと言ってしまえば、問題を「少子化対策」という感覚で捉えてしまったその時点で、必然的に、今般の「産む機械」的発想に早晩行き着かざるをえないのではないでしょうか。
そもそも「少子化」を問題と捉えてこれに「対策」を行おうという発想は、現在の出生率が理想より低いということ、これを上昇させることが必要だということが暗黙の前提になっています。現在の出生率と比較対象になるものは、当然過去の出生率しかありません。過去の出生率と比較して現在の出生率は低下傾向が止まらず、このまま進めば社会を構成する年齢構造がどんどん高齢にシフトし、少ない生産人口で、多数の生産力のない高齢者を支えなければならなくなる、という論理です。
しかしこれは、そもそも、根本的に逆なのではないでしょうか。「少子化が進む」→「高齢化社会になる」→「少ない生産人口で多数の高齢者を支える」→「破綻する」のではなく、「人口増を前提に社会制度設計をした」→「目論見が外れた」→「破綻する」→「少子化対策が必要」というのが実情なのではないでしょうか。端的に言えば、社会制度設計が根本的に間違っていたのに、そのツケを少子化対策に回しているのです。
さらに突っ込んで言ってしまえば、そもそも、過去の高い出生率というものは、女性の人権を犠牲にした上に成り立ってきた部分を否定できないと思います。子を産み、育てるというのは、女性の身体に負担をかけることをどうしても避けて通れないわけで、これは例えば、一般の事務職員として働き、成果を積み重ね、出世しようという価値を追及しようとしたときには、キャリアを途中で一旦休止せざるをえない点で、どうしても妨げになります。女性の社会進出に必要な契機が充分に与えられていなかったことが、結果的に女性に、選択の余地なく「子を産み育て母となる」ことを強いており、それが一定の出生率の底上げを担っていた、という見方をしても、あながち大外れではないように思えます。
程度の差こそあれ、少子化の流れというのは、多くの先進国に共通のものです。それはある意味、社会の熟成とともに避けては通れない道なのではないでしょうか。ほんとうに出生率の数字だけを上げようと思うならある意味簡単で、女性の就職差別を露骨に行い、まともな性教育を実施せず、ついでに避妊具の利用も規制すればよろしい。しかしそれが先進国家のあるべき姿でしょうか?
そして、過去の社会に比べて現代が少しでも人権が尊重されるものとなっているのであるならば、少子化はもはや(その進展のスピードを緩めることは不可能でないにせよ)不可避のものとなっており、年齢別人口構成がさほど変化しないことを前提にしていた各種の社会保障制度(主に年金制度)は、当初の制度設計そのものが間違っていたこと、前提条件を見誤っていたことを認めざるをえないのです。今般、早急に進められるべきは、少子高齢化を前提とした上でのセーフティーネットの張り直しなのであり、前提条件そのものに変更を加えることではないのです。
さて、それでも「少子化対策」という厄介な問題を突きつけられ、それについて何ごとかを語ることを求められた厚労相が、過日のような発言をしたことを、果たして厚労相個人の資質の問題として切って捨てるべきなのでしょうか?それとも、今回の騒動をいい契機と捉えて、少子化問題が抱えるねじれの根の深さに思いをいたすべきなのでしょうか?と意地悪な問いを投げかけて今日は終わることにします。いえ、決して現在国民年金法がらみの仕事で四苦八苦していることの腹いせでは(ry
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