涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

彼らを「ホームレス」と呼ぶことの問題について。

2006年07月29日 | 政治哲学・現代思想
 ここ数年の「現代思想」は、なんかレベルが落ちたような気がして(要するに書き手が私の好みと合わないだけなのですが)あまり注意して見ていなかったのですが、今回(8月号)は、私の趣味がどうこうというよりは、仕事上読んでおくべき気がして、珍しく購入してしまったのでした。そんなわけで今日は「現代思想」8月号「特集――ホームレス」に触発されて若干思うところを。

 今号の現代思想には、現場の人々――実際に野宿生活をしている人や、支援活動をしている人などの意見を数多く掲載しているのですが、そうなると、どうしても、現場視点からの声になってしまう。出される意見が対症療法的になってしまうし、大所高所から語ることは難しい。
 もちろん、大所高所からの意見だけを並べられて、現場の実感が届かないというのも問題なのですが、他方で、現場の意見であるがゆえに全体像が掴めないという問題もあると思います。双方が双方の意見の間を行ったり来たりすることが最良なのですが、いわゆるホームレスの問題系については、そうした相互交流もどうも困難な状況に置かれているように思います。
 問題を複雑にしている最大の原因は、この「ホームレス」というネーミングそれ自体にあるのではないか、と思います。いわゆる「ニート」についても同じことですが、「ホームレス」というのは、「路上生活・野宿生活をしている」というひとつの「状態」を指す語であって、そのような「ホームレス状態」に陥った「原因」について言及することはない。そうであるがゆえに、いわゆる「ホームレス」と呼ばれる人々がそれぞれ抱えている個別の問題を隠蔽してしまう危険があるのではないでしょうか。
 さらに言えば、「ホームレス」と名付けられることによって、「ホームレス問題」の主たる部分は、「定住する(合法的な)居住地を持たないこと」であると理解されてしまう。そのため、「ホームレス問題への対策」が「当面居住する場所を与え、職を斡旋すること」になってしまう。あるいは「シェルターに放り込んで生活保護与えて終わり」になってしまう。場合によっては民間のシェルター施設が、「取りっぱぐれのない賃借人」としていわゆるホームレスの人々を囲い込み、その生活保護費をほとんど根こそぎ巻き上げ、それで行政も地域住民も「街からホームレスがいなくなった」ということで問題の一応の解決にしてしまう。
 本来、ホームレス問題とは単一の問題ではなく、多種多様の問題であり、解決の手法も多岐にわたるべきなのではないでしょうか。支援センターからハローワークに通わせることで解決する事例もあるでしょうし、それでは解決しない事例もあるでしょう。解決しない事例については、別の方法を考えるべきなのです。例えばアルコールやパチンコへの依存症を有していたら、まずそれを治療しないことには自立も何もあったもんじゃないですよね。職業訓練が効果を発揮する場合もあるでしょうし、単に「生きがい」を見つければ済んでしまう場合もあるかもしれない。案外、ボランティア活動とかをやらせると大成功するタイプもいたりして。
 本来、こうしたデリケートな問題に、単一の名前をつけてカテゴライズするような、ある種の暴力に、抗していくべき立場にある「現代思想」あたりが、表紙にでかでかと「ホームレス」と書いてしまうというのは、少しばかりデリカシーを欠いているのではないかな、と思います。

 いわゆるホームレス問題にはもう一つ看過できない問題がありまして、この「現代思想」に収録されているような「現場の人々」の声にも、「自己決定」という用語が繰り返し(肯定的な用法で)出てくること。これは危険だと思います。「自己決定」という語は往々にして「自己責任」とワンセットになっているので、いわゆる「ホームレス」の立場から「自己決定」を声高に主張することは、「お前が路上生活をしているのは、お前に労働する意欲がない/努力が足りないからだ」という「自己責任論」に力を与えてしまうことがあります。
 福祉と「自己決定」とは本来相容れないことを、行政サイドも受給者/支援者サイドも意識すべきなのではないでしょうか。いわゆるホームレスにしても、障碍者にしても「自立支援」の用語のもとに、自己責任の名のもとに、福祉の制限がどれだけ課せられてきたことか。
 戦時下のイラクにいた若者たちを不当に論難した者たちの論拠が「自己責任」であったことを思い出してみてもいいと思います。「自己責任」の語を、自ら責任を取る側の人間が用いることは、まずないと考えていいでしょう。自己責任とは責任を逃れる側の論理なのです。
 その点から考えると、いわゆる「ホームレス」やその支援者たちが「自立」や「自己決定」をやたらに主張することは、却って「福祉切り捨て」により実質的に排除される帰結を招きかねないと思います。何がゆずれない部分なのか、どのようなサーヴィスを受給される必要があるのか、戦略的な選択を必要とする段階にきているのではないでしょうか。

※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
 「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。

最新の画像もっと見る