涼風野外文学堂

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オバマは日本には(日本にも)出現しない。

2009年01月26日 | 政治哲学・現代思想
 太平洋の向こう、アメリカ合衆国では、第44代大統領バラク・オバマが就任式を行い、アメリカのみならず全世界の注目を集めました。これほどまでに、全世界から期待され、待望されて登壇した大統領というのも、近年珍しいのではないでしょうか。
 われらが日本もご多分に漏れず、(他に大きなニュースがなかったこともあって)ちょっとしたオバマ・フィーバーの様相を呈していました。国営放送のみならず民法各局でも、該当インタビューに応じる市民が「日本にもオバマさんのような人が出てきてほしい」と熱っぽく語る姿が報道されたものです。

 そんな過熱気味の報道を尻目に「うん、それ無理」と冷静に呟いたのは、私一人ではなかったことと思います。

 ところで、何故日本にはオバマのような政治家が出現しないのか、というこのインスピレーションを、どうにか筋道立てて言語化しようと考えているうちに、問題の立て方が間違っていて、何故アメリカにはオバマのような政治家が出現する土壌があるのか、ということを考えた方が早道であることに、ようやく気づきました。新聞にオバマの就任演説全文も掲載されたことですし、ここでひとつ、オバマを通じて見るアメリカ、という話題を。

 オバマがこれほどまでに全世界の注目を集め、期待を背負わざるをえないのは、もちろんアメリカの置かれている現在の苦境と、それにも関わらずアメリカこそが世界に最も大きな影響を及ぼすアクターであるという揺るぎない事実に基づくものですが、オバマ個人が衆目を集める契機となった部分に着目すると、「出自」と「演説」であることを認めざるをえないでしょう。
 出自の点については、アフリカにルーツを持ち、幼少時代をインドネシアで過ごした等の多層的な絡まりが、アメリカの現状を投影しているようであり、まさに「融和の象徴」としてうってつけであったことが挙げられます。
 他方、演説においては、「change」の語がオバマのキーワードとして定着したように、停滞し、行き詰まった現状を打破する強い言葉の力を、民衆が感じ取ったと言えるのでしょう。
 これらを重ね合わせたときに、「ユニラテラリズムとさんざん他国から批判された上に、アフガニスタンもイラクも北朝鮮も思うように状況は好転せず、そのうえ結局国内経済は崩壊し、銀行も証券会社もビッグ・スリーでさえ窮地に陥るといった形で、ずたずたに引き裂かれたアメリカのプライド」を前提に、それを再生する象徴としてのオバマ、という読み方をしても、あながち的外れではないと思います。
 アメリカは、変わらなければならない。このまま失意の底に沈むわけにはいかない。融和を遂げ、変革し、アメリカは再生する。そのための象徴、僕らのバラク・オバマ!そんなアメリカ人にとっての「希望のシナリオ」が、透けて見えるような気がします。

 このようなシナリオ=思考法を可能にするのは、ひとえに、アメリカという国家の特殊性に由来するものであって、他の国が真似できるものではない。だから、バラクのような人材を国家のトップに持ち上げるエネルギーを、他の国は(もちろん日本も)持ち得ない、というのが、私の分析結果です。

 就任演説の冒頭近くで、オバマは非常に印象的なことを言っています。

Forty-four Americans have now taken the presidental oath. The words have been spoken during rising tides of prosperity and the still waters of peace. Yet, every so often, the oath is taken amidst gathering clouds and raging storms. At these moments, America has carried on not simply because of the skill or vision of those in high office, but because we, the people, have remained faithful to the ideals of our forebears and true to our founding documents.
So it has been; so it must be with this generation of Americans.

(今や、44人のアメリカ人が、大統領の宣誓を行った。これらの誓いの言葉は、繁栄の上げ潮の中で、あるいは平和の水面の上で口にされたこともあった。しかしながら大概において、宣誓は、雲が集まり、嵐が荒れ狂う中で行われたのだ。このような場面を、アメリカが乗り越えてこられたのは、単に高い地位にいた人々の技量やビジョンのためだけではない。われわれ人民が、われわれの先祖の理想に忠実であり続け、また、われわれの建国の文書に誠実であり続けたからなのだ。
 これまでは、そうだった。この世代のアメリカ人も、そうでなければならない。)


 このような感覚は、おそらく日本人には、ぴんとこないのではないでしょうか。
 われわれが安易に「日本にもオバマさんのような人が出てきて欲しい」などと口走るときに、抜け落ちているのが、このような「建国の理念」を「共有」している感覚だと思うのです。

 このような「アメリカ人固有の感覚」を読み解く参考書としては、やはりアーレントの『革命について』をおいて他にないと思います。
 アーレントの分析によれば、アメリカ独立革命こそが(たとえ部分的であれ)成功した世界で唯一の革命であり、フランス革命やロシア革命その他の革命は(自由の創設、という点で革命を評価する限り)革命の失敗作に過ぎない、ということになります。もう少し説明を加えれば、フランスその他の革命は、その当初には自由の設立を目論んでいたかもしれないが、結局社会問題(必然性=貧窮)に回収され、単なる解放のための闘いに変節して終わった。ところが、アメリカ独立革命だけは、社会問題から切り離され、絶対王政から切り離されていたことから、憲法=構成体の設立を通じて、曲がりなりにも自由の設立を成し遂げたのだ、と。
 同書から印象的な部分を引用してみます。

The singular good fortune of the American Revolution is undeniable. It occurred in a country which knew nothing of the predicament of mass poverty and among a people who had a widespread experience with self-government; to be sure, not the least of these blessings was that the Revolution grew out of a conflict with a 'limited monarchy'. In the government of king and Parliament from which the colonies broke away, there was no potestas legibus soluta, no absolute power absolved from laws. Hence, the framers of American constitutions, although they knew they had to establish a new source of law and to devise a new system of power, were never even tempted to derive law and power from the same origin. The seat of power to them was the people, but the source of law was to become the Constitution, a written document, an endurable objective thing, which, to be sure, one could approach from many different interpretations, which one could change and amend in accordance with circumstances, but which nevertheless was never a subjective state of mind, like the will.

(アメリカ革命における類まれな幸運の存在は、否定できない。この革命は、大衆的貧困の状態をまったく知らない国で起こったばかりか、広範な自治の経験を持つ人々の間で起こったのである。確かに、この革命が「制限君主制」との対立から生起したということは、少なからず恵まれていたことであった。植民地が袂を分かったところの、王と議会による統治には、法から解放された絶対権力potestas legibus solutaは存在しなかった。したがって、アメリカの構成体(=憲法)を組み立てた人々は、新たな法源を創設し、新たな権力のシステムを捻出しなければならないことは知っていたけれど、法と権力とを同一の起源から引き出そうという誘惑には決して与しなかったのである。権力の所在地は人民であったが、法の源は、書かれたるところのもの、耐久性のある客観的なモノであり、確かに、多くの異なった解釈によるアプローチが可能であり、事情に従って変更や修正をも受け入れるものであるが、しかし「意志」のような心の主観的状態では決してありえない、「憲法」であった。)


 アメリカの建国の理念=物語の基底には、カリスマ的な人格でも、超越的な神でもなく、「耐久性のある客観的な」憲法があるのです。だからこそ、時代を超え、世代が入れ替わっても、この国の「建国の理念」は失われることなく、共有される。このことこそが、「アメリカ的物語」が強固に揺らぐことのない力の根源であり、オバマを「われわれの代表者」として送り出す、人民のエネルギーなのでしょう。
 そしてこれは世界で唯一「成功した革命の歴史」を持つアメリカにのみ可能な出来事であって、その最終的な結果の部分だけを拾って「日本にもオバマのような政治家を」と口走ることは、まったくこの国の歴史を見ていない、無責任な英雄待望論に他ならない、と言ってしまっても、言い過ぎではないのではないでしょうか。

 さて、以上のような観点から「日本国憲法」ってどうヨ?という問いの立て方をするのも、なかなか面白そうな気がしますが、さすがに長くなりすぎたのでまた次の機会に。この国の憲法はこれはこれでまた「アメリカ的価値観を丸呑みして自分のものにしてしまった」という日本人のユニークさの顕れと見ることができ、興味深いのですよ。言うなれば「アメリカ産の牛肉を醤油で味付けした」ような憲法といった感じ。

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※ 本エントリ中、オバマ大統領の就任演説については朝日新聞1月24日付け朝刊から、アーレント『革命について』についてはペンギンブックス版から、それぞれ引用しています。
 対訳はブログ管理者によりますが、朝日新聞の対訳及びちくま学芸文庫版の志水速雄による訳を大いに参考にしつつ、より原文に忠実な訳を心がけた結果です。無論、誤訳や不適切な言い回し等の責任は、すべて涼風に帰属します。


※ 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。ってほんとに遅れすぎ。