5月1日 八尾 雨は降っていないもののもの強風。時折雲間から臨む立山や周辺の新緑が美しい。調曳は中止。西町の山が曳山会館から下ってくる。明日香に寄り、桐谷釣具店で1号のハリスとキジを購入。町民広場前の井田川は上流の合流まで(サクラマスが遡上してくるのか)禁漁となっているとのこと。久婦須川、野積川ともに濁流も野積川の方がやや濁りは少ない。風が強いため釣りは中止し富山のホテル向かう。寿司屋に入りホテルへ。そのまま朝まで寝てしまう。当然夜の曳山囃子は見逃してしまう。
5月2日 晴れるが(後で黄砂と知る)黄土色の霧がかり視界が利かず。ホテルを出て富山大学医学部・薬学部の校舎を見に行く。丘の上にいくつもある建物は壮観でさながら城を思わせる雰囲気であるが、建物古い。辺りは静かな田園と住宅地である。その後八尾へ。今日の予定はと聞かれ、五箇山と福野の夜高祭りへと伝え、店を出る。八尾からの五箇山へは直行ルートはあるが、途中舗装はされているものの狭隘で険悪な道で、軽自動車でないと通りにくいため、富山西ICより高速道路にて五箇山ICまで直行。途中の標識からの距離などを見る限り、富山から五箇山までと富山から金沢までの距離はほぼ同じと知る。
上梨にある五箇山総合観光案内所に寄り、昨年のこきりこ祭りの写真を置いて行く。案内所には3人(美人2名とさわやかな青年男性)の方が親切に応対してくださり、お土産に五箇山民謡のCDと五箇山民話の本(表紙を開けるとこきりこのメロディーが流れる)をいただく。ありがとうございました。その後五箇山トンネルを抜け、城端へ。途中昨年来た時にはなかった大きな道路標識2つあり今度は迷わず行くことができました。城端から砺波平野にかけては各家の周りに杉の木を巡らし、田の中に独立している散居村集落が見られるが、強風で木が倒れることはないのだろうか。城端は小京都の町並みがあるとのこと。また大規模に行われる城端祭り、曳山祭りもありかつては大変栄えたところであったらしく、石造りの壮麗な寺も見かけるが、先を急ぐので後ろ髪引かれながらそもまま福野まで向かう。夜高祭りに関しては事前知識ゼロなのでとりあえず、駅前の市民駐車場(無料)へ車を置き、歩いてみることにした。山車がある通りを行くと、すぐに案内所がありそこで地図と概要を教えてもらう。山車が出る各町をふた周りほどし、駅の駐車場では交通規制で出られなくなるかもしれないと思い、教えていただいた別の場所に車を移動し、また町並みを見に行く。福野が合併で今は南砺市となっているがかつては福野町として独立した行政区画であった。1650年頃、町立てが行われたが、直ぐに大火に遭い、町並みを消失。それをきっかけに伊勢神宮の神霊を分霊した福野神明神社を創建。伊勢から御霊をお運びする道中、倶利伽羅峠で夜になり、地元の方々が行灯を手に手にお迎えしたことが夜高祭の起源だそうで、富山県各地にある夜高祭の中では一番歴史が古いとのこと。明治初期に日本の東北から北海道を旅し詳細な記録を残した英国人女性のイザベラバードの日本奥地紀行に青森県の黒石市での幻想的な体験が書かれているが、それとほぼ同じような光景が明治時代までは見られたのではないのか。外灯や電気が行き渡ってからは、明かりが町並みにこぼれており当時の状況は再現できないものの、鮮やかな万灯は是非見たいと思っていた。午後4時30分頃、町の中心と思われる大きな交差点の一角で各町内の代表者が緊張した面持ちで四角形に整列している。裁許と書かれたの法被を着た方(祭りの総責任者)が祭りの諸注意を述べていた。「何々町の皆さんご質問はございますでしょうか」とすべての言葉が敬語使いで、厳粛な神事であることの証明である。夜になり万灯が曳かれると各地から見物客が集まって、賑わいがはじまる。最高潮に達するのは、深夜引き合いと呼ばれる山車同士がすれ違い様に相手の行燈を手や足で壊しあうケンカで、狭い通りは身動きできないほどの人で埋まる。祭りの最後にはしゃんしゃんの儀と呼ばれる長拍子を打ち合わせる儀式で終了ということであるが、これは例年深夜2時頃ということなので、それを見ずに福野を後にする。
5月2日 晴れるが(後で黄砂と知る)黄土色の霧がかり視界が利かず。ホテルを出て富山大学医学部・薬学部の校舎を見に行く。丘の上にいくつもある建物は壮観でさながら城を思わせる雰囲気であるが、建物古い。辺りは静かな田園と住宅地である。その後八尾へ。今日の予定はと聞かれ、五箇山と福野の夜高祭りへと伝え、店を出る。八尾からの五箇山へは直行ルートはあるが、途中舗装はされているものの狭隘で険悪な道で、軽自動車でないと通りにくいため、富山西ICより高速道路にて五箇山ICまで直行。途中の標識からの距離などを見る限り、富山から五箇山までと富山から金沢までの距離はほぼ同じと知る。
上梨にある五箇山総合観光案内所に寄り、昨年のこきりこ祭りの写真を置いて行く。案内所には3人(美人2名とさわやかな青年男性)の方が親切に応対してくださり、お土産に五箇山民謡のCDと五箇山民話の本(表紙を開けるとこきりこのメロディーが流れる)をいただく。ありがとうございました。その後五箇山トンネルを抜け、城端へ。途中昨年来た時にはなかった大きな道路標識2つあり今度は迷わず行くことができました。城端から砺波平野にかけては各家の周りに杉の木を巡らし、田の中に独立している散居村集落が見られるが、強風で木が倒れることはないのだろうか。城端は小京都の町並みがあるとのこと。また大規模に行われる城端祭り、曳山祭りもありかつては大変栄えたところであったらしく、石造りの壮麗な寺も見かけるが、先を急ぐので後ろ髪引かれながらそもまま福野まで向かう。夜高祭りに関しては事前知識ゼロなのでとりあえず、駅前の市民駐車場(無料)へ車を置き、歩いてみることにした。山車がある通りを行くと、すぐに案内所がありそこで地図と概要を教えてもらう。山車が出る各町をふた周りほどし、駅の駐車場では交通規制で出られなくなるかもしれないと思い、教えていただいた別の場所に車を移動し、また町並みを見に行く。福野が合併で今は南砺市となっているがかつては福野町として独立した行政区画であった。1650年頃、町立てが行われたが、直ぐに大火に遭い、町並みを消失。それをきっかけに伊勢神宮の神霊を分霊した福野神明神社を創建。伊勢から御霊をお運びする道中、倶利伽羅峠で夜になり、地元の方々が行灯を手に手にお迎えしたことが夜高祭の起源だそうで、富山県各地にある夜高祭の中では一番歴史が古いとのこと。明治初期に日本の東北から北海道を旅し詳細な記録を残した英国人女性のイザベラバードの日本奥地紀行に青森県の黒石市での幻想的な体験が書かれているが、それとほぼ同じような光景が明治時代までは見られたのではないのか。外灯や電気が行き渡ってからは、明かりが町並みにこぼれており当時の状況は再現できないものの、鮮やかな万灯は是非見たいと思っていた。午後4時30分頃、町の中心と思われる大きな交差点の一角で各町内の代表者が緊張した面持ちで四角形に整列している。裁許と書かれたの法被を着た方(祭りの総責任者)が祭りの諸注意を述べていた。「何々町の皆さんご質問はございますでしょうか」とすべての言葉が敬語使いで、厳粛な神事であることの証明である。夜になり万灯が曳かれると各地から見物客が集まって、賑わいがはじまる。最高潮に達するのは、深夜引き合いと呼ばれる山車同士がすれ違い様に相手の行燈を手や足で壊しあうケンカで、狭い通りは身動きできないほどの人で埋まる。祭りの最後にはしゃんしゃんの儀と呼ばれる長拍子を打ち合わせる儀式で終了ということであるが、これは例年深夜2時頃ということなので、それを見ずに福野を後にする。