感想

バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

村松真理「ピクニック」

2007年08月23日 | 雑記
 小林秀雄の「無常ということ」が「文学界」に掲載され早65年の歳月が流れています。当時の文体は今も色あせず、読み手に深い余韻を残す作品ですが、「文学界」は現在も文芸春秋社より刊行されています。発売中の2007年9月号に新人の村松真理さん(以下敬称略)の「ピクニック」という題名の小説が掲載されています。彼女は一昨年、三田文学新人賞を受賞された才媛ですが、今回偶然、同誌を鎌倉で入手し、帰りの新幹線内で読んでみました。肉体の表面をなぞるような感覚を表現した文章は、これまでに見たことがない新しい印象で一字一字こちらもなぞるように読み進むことができる不思議な表現力を持った小説になっています。三田文学賞の受賞あいさつの中で、彼女は「人に読んでもらいたいので、小説を書き続けている」と述べていますが、そこには今は無き「私小説」の亡霊が語り手を変えて夏の入道雲の合間の扉を開けてこの世界に舞戻ってきた感覚がしました。

 抗し難い自己告白の魔力をひっさげてルソーが「告白」を著して以来、宗教上、政治上の理由で従来自己を公にすることは禁じられていた世界が急速に変容して行きます。それは文学のみならず、音楽、絵画など芸術のあらゆる分野に広がって行きましたが、自然の模倣から始まった西洋文明にとってそれは陥りやすい罠でもありました。自己告白は自己主張を生み、その先にあったのは退廃・空虚な世界観であるとは当時からゲーテがベェートーベンの第5交響曲から聞き分けていたという主旨を、小林は「モーツゥアルト」の中で述べています。小林自身は、「私小説」とは「Xへの手紙」にて早くも決別しましたが、その後は批評という形で自己を語るスタイルに変容して行きます。小林は私小説で、告白を止めたのではく、さらに巨大な歴史の中に自己を置き、己の視点で他者をも自己の中に存在するものとして扱い、歴史を、対象をあたかも「思い出すように」扱う姿勢で自己表現をして行きました。

 学生の頃「一ツの脳髄」「女とポンキン」などの小林の初期創作を好んで読んだ時期があり、小説と自意識の扱いというものについて考えたのですが、年々その気持ちは薄れています。一方「私小説」は単に分類上、「純文学」として名前を変えて細々と生き残ってはいますが、私は小林以降の作品は全く読まなくなってしまいました。
 
 タブー視されていた自己告白は自己主張の陥穽に落ち、ついには自己満足の世界の内で完結してしまっている現在、村松真理の「ピクニック」は新たなる動機を持って台頭してきている、そんな予感を持たせてくれる作品に仕上がっています。この文を書くにあたり再度読み直してみましたが、ストーリーを辿ることよりも、今回はより注意してその細頸なニュアンスを読み取ろうとしましたが、文章が持つ力と感覚は更に大きく響いてきました。

 八尾では前夜祭がはじまり、風の盆が秒読みとなっています。
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横浜港国際客船ターミナル

2007年08月23日 | 雑記




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