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バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

新海三社神社

2007年08月08日 | 雑記

  新海三社神社は佐久地域を開拓したとされる諏訪大社の主神の弟を祭り、佐久地方の一宮として、古くから信仰されてきましたが、長い歴史の中で、特に源頼朝、武田信玄の庇護を受け今日に至っています。ところで、こちらの神社は何故か敷地内に三重塔がそびえています。その場所は神殿(東本社)の真後ろと、配置もおかしく、初めてこの塔を見たときの違和感はそこにあったのだと思いました。通常塔は仏舎利を納めるところで、お寺にしかないものです。そこでこの三重塔の歴史を調べると、最初の建立は849年と大変古く、現在の塔の建立は1515年、塔の前にある東本社はその後、武田信玄の寄進により建てられたのだそうです。かつてこの新海三社神社には神宮寺という寺が隣接していましたが、明治政府の廃仏毀釈政策により300m下に移されますが、この塔は神社の施設であるという主張が通り、難を逃れたそうです。神宮寺という名称の寺院は全国にいくつか残されていますが、いずれも日本古来の神々を祭った神社が先に出来き、あとから入ってきた仏教を取り込んだ、神仏習合思想による寺院です。この神宮寺は現在は上宮寺と名前を変え、真言宗智山派の寺院となっていますが、現存する新海三社神社の塔の様式が禅宗様式であることから、建立当時は禅宗の寺院であったと推察されます。1515年の頃、佐久地方で最大の勢力は大井氏だったのですが、その後1554年には大井氏は武田信玄により滅ぼされます。神仏習合思想による寺院の特徴は、もっぱら請願成就を祈祷するところとしての役割が大きく、檀家を持たないことが普通です。有名なものに八幡大菩薩という、神と仏の習合がありますが、八幡社(八幡神社)が頼朝の命により、全国に急展開して行き、どのくらいの数があるのか調べた方がおり、分布を見て見ますと、現在のセブン・イレブンやローソンのコンビニの数にほぼ匹敵する数で、武家のみならず、庶民の心のよりどころとして崇拝されていたことが分かります。また上田市にある生島足島神社に今も残る、夥しい数の武田信玄の戦勝を祈願した祈請文を見ると、如何に神が身近にあり、畏れ敬っていたかということが、分かります。その数は現在の常識からすると異常とも思えるほどの量で見方によれば、武田信玄は実は気の弱い武将だったとする歴史家もいますが、決してそれは異常ではなく、当時は当たり前の事だったのだと思います。長野県に残されている三重塔で最も古く美しい塔が上田市と隣接した青木村の大宝寺に残されています。その比類なき建築美はかつて東山道を旅する人が振りかって見たところから、別名「見返りの塔」と呼ばれていますが、現存する寺院事体はそれほど大きなものではありません。しかしながら、江戸時代の末には末寺を20数寺持つ、大寺院であったそうですが、明治の廃仏毀釈により、廃寺になったり、神社となったりして現在残っているものはほとんどありません。日本人が寺や神社を敬わなくなったのは、マルクス思想と、近代西洋科学により、霊的なものがいつか科学的なるものにとって変わる日が来ると信じられたことによりますが、日本においては、戦前まではどこの村々でも神や仏への信仰というものが、日常的に行われていました。末法思想や世紀末への警鐘、不安というのは、決して世界が滅びるということではなく、神の教えが及ばなくなるという意味のことで、予言は当たっていたのでした。

 

新海三社神社 三重塔

正殿

 

 

 

コメント
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昔と変わらぬ

2007年08月08日 | 雑記
 長野県佐久市(旧臼田町内)にある新海三社神社にある三重の塔です。この塔の由来は後で述べることとして、この写真の構図、自分で撮りながら、??どこかで見たようなと思っていましたが、考えてみると、中学の頃、美術の授業で作った版画の絵柄そっくりです(笑)今も昔も同じ構図で進歩がありません。(版画の題材の塔は上田市にある塔ですが)
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